この宇宙こそが問題だ 牧野信一の『爪』をどう読むか②
昨日は「彼」が三日も本を読まないことがおかしいと書いた。よく考えると煙草と珈琲については書いていて、何も食べていないし排泄すらしていないかのようでもある。そんなこともあるまい。どうも「彼」は正直ではない。
部屋はどこかの安下宿ではなく実家のようだ。全然気が付かなかった。まるで一人暮らしのように騙されていた。しかも部屋は障子で仕切られた二階の和室だった。
確かに牧野は「密閉した室」と書いていた。障子ではたいして密閉もされまい。明りも漏れるはずだ。煙も漏れるだろう。
どうもこの話のテーマは「病気」らしい。それを「頭が痛いといふより他に病気と自称する自分の容体を発表する術はなかつた」と書いてみる。どうも「彼」が精神を病んでいるらしいことまでは解る。躁気味の統合失調症? そんなことを思ってみる。妄想はなく、鬱でもなさそうだ。考えがまとまらない感じはある。しかし考えがまとまらないと小説は書けない……ということもないか。
確かに『闘戦勝仏』は性格というものがまとまらない、ふらふらした話だった。しかしところどころに巧妙な仕掛けが設けられていた。そんなものをすべてたまたまでは片づけられない。
一本の指先とは右か左か。
食欲の減退はあったのではないか。
お洒落とはいえ風呂上りに化粧する道子もどこかおかしいのではないか。
野村Webローンで借りて年利1.5パーセントより高い利率で運用すれば丸儲けじゃないの。
と考えてみた。野村Webローンは関係ないな。
とりあえず牧野信一が精神の病気を頭の病気のように捉えようとしているところまでは解った。しかもこの書きようにはさしたる深刻さも悲観もない。
そもそも「彼」にとって当座の問題は病気そのものであることよりも、病人らしくみられないことらしい。さらにありのままの症状を告げることははばかられるらしい。読者には全部ばらしているのに?
そして少しはお道化ている? 駆け引きに失敗して困っている?
やはり道子は変だ。風呂上りに化粧して兄の部屋にやってきてシユウクリームを食べる。シユウクリームを食べるとして、わざわざ煙草臭い兄の部屋で食べる必要はなかろう。それでいて自分がおかしいという自覚がない。こちらの方がむしろ本物なのでは。そう思えてくる。
仮に兄の仮病を疑っていようと、ここは握り飯でも運んでくるべきなのではないか。
そして「母さん」は「あんなだから」というのも気になる。それこそ心配なら自分で様子を見に来るなりする筈ではなかろうか。それを何もしないのは何か怪しい。
そして読者もあやしい。「おかしいわ。妾可笑しくて」と書かれてあるのに気が付かないでいる。注意散漫である。注意欠陥・多動性障害の疑いがある。そもそもこれまで牧野信一作品を読んでこなかったなんてどうかしている。
結局この宇宙で真面なのは私一人ということではないか。
しかし治るということはあくまで自分の中だけの問題らしい。なんというか、昔の接触不良のテレビのように、叩いたら治るという具合で、「顳顬を一本の指先で突いて見せた」ことが幸いしたのか「普段の通りな戯談味のある口調」が功を奏したか、兎にも角にも「彼」本人は「治った」とは言うものの、道子から見れば何の変化も感じ取れまい。
いや、この状態を「治った」と言って良いものであろうか?
どうも「彼」の妹に対する執着は真面でもない。兄を兄とも思わない冷たい妹などごく当たり前の存在であろうに、「追従し」憎むという精神構造が良く解らない。そして何よりも「顔を見るのも嫌になつた」から目を閉じるのがおかしい。自然な動作は余所を向くことだ。目を閉じるのは自然な動作ではない。
この「彼」が本当に治ったのか、そして本当におかしいのは道子の方なのか、それはまだ誰にも解らない。何故ならここまでしか読んでいないからだ。
[余談]
牧野信一には弟英二がいた。そういえば長男らしい名前だ。
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