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中島敦の『山月記』をどう読むか① 論理国語って何だろう? 

 高校の国語教科書に収載されている夏目漱石の『こころ』、そして芥川龍之介の『羅生門』が、かなり厄介な作品であり、国語教育においては根本的に間違った解釈が押し付けられているという問題については既に何度か論じてきた。

 しかしもう一つ、厄介な作品について書くのを忘れていた。漢字博士ーず一号二号の一号、中島敦の『山月記』についてである。

 この『山月記』どうも長らく国語教科書に収載されていて、新教科「論理国語」の教科書にも採用されたらしい。この『山月記』は作中に主人公の思いを吐露する七言律詩が挟み込まれているほか、漢字博士ーず一号たる面目躍如というべきか、普段見馴れない漢字の用法などがぎゅっと詰め込まれていて、さらっと読んで解るという話ではない。

 筋はあちこちのサイトでまとめられている通り、そう複雑でもなく、七言律詩を読み下せば、解ることは解る。

李徴が退官、詩作にふける。
・生活が苦しくなって焦る。
・貧窮に堪えられず妻子のために地方官吏になる。
・己の詩業に半ば絶望してもいる。
・昔の同僚は出世していて、昔は歯牙にもかけなかった鈍物の命令を聞かなくてはならないのでストレスに感じていたところ、主張先の汝水のほとりで発狂する。
李徴は虎になり、兎を食べる。
・しかし一日に数時間は人間の心に還り、複雑な思考にも堪え得る。
李徴は昔の友人を襲いかけなんとか踏みとどまる。
李徴は友人に、詩三十篇を書きとらせた。
・友人袁はその詩が素質があるものの何か欠けていると感じた。
李徴は自分が自尊心の猛獣であったと告白する。

 この作品から一言「教訓」を引き出すとすれば簡単だ。「人間、謙虚さが大事」この一語に尽きる。「論理国語」というリタラリィな定義からしてみれば「人間、謙虚さが大事」の一言で全てが片付くだろう。仕事においても、詩作においても、謙虚にことに挑めば、ストレスもなく、発狂することも、挫折をすることもなかったのではないか。その程度の話に思えなくもない。
 しかし「文学国語」としては、こんな解釈は間違っている。
 まず「下吏となって長く膝を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺そうとしたのである。」という部分をどう読むかである。謙虚に俗悪な大官に下吏として使えることが正解ではなかろう。それはすりつぶされるだけのサラリーマン生活を押し付ける洗脳以上のものだ。そもそも大官は俗なだけではなく「悪」なのだ。分数の計算もできないのだ。デジタルが何なのかも分かっていない。職務分析も要員算定も勤務評定も出来ないポンコツ経営者だ。そんな惡に対して謙虚になる事が、人間として正しいふるまいなのだろうか?

 またそもそも「詩で食えるのか?」という問題がある。

 そもそも食うことと詩作とは全く別の問題として切り離して考えるべきではなかろうか。まいばすけっとでは三食入りの焼きそばが88円で売られている。これを三割引きシールを待って購入すると67円、一食分は22円になる。それくらいの金額でもキンドル本で稼ごうと思うと大変なのだ。
 たとえば、この本、

 これが一冊売れると175円が手に入る。二冊売れると350円。では売れるかというと、まあ、売れない。むしろアカデミー賞か何かの関係で、

 こんなのが売れたりして。まあ、購入するのは勝手だけど、きちんと読んで評価してもらいたいな。読む練習はこのnoteでやってもらえばいい。こんなタイミングでこの本を買うやつはどうせろくでもないミーハーで、ホットケーキにコーラをかけて食うような人間だから、とても私の文章が読めるとは思えないので、買ってもらっても全然ありがたくないなあ。
 どうでもいい話だが、そもそも詩作に身を投じ、百年後に作品を残そうとすれば、食うことは別に考えるべきであり、文名が上がらないから食えないなんて言う理屈はそもそもおかしいのだ。何しろ夏目漱石作品でさえ誰一人理解できていないのだから、実力だけで名前が残ることもない。
 詩を書くことは、世捨て人になるのと同じことだ。
 さらに言うと発狂して虎になるというのは贅沢すぎる。虎は生態系の頂点……たいていの大型の猫はそのエリアで生態系の頂点で捕食されることがあまりない。要するにエリートである。落ちこぼれて虎ってどうなんだろう。それこそそこに捨てがたき自尊心が滲み出ていて、却って格好悪くないだろうか。あるいは、恰好つけすぎていて、同情する気にもなれないし、共感も出来ない。
 じゃあお前に食われる兎は何なんだ、と考えざるを得ない。もっと才能のない奴か。自尊心もなく、控えめで、臆病で、ぴょんぴょん跳ねるだけの人間が兎なのか?
 
 あるいはここには全く別の角度から教訓が仕込まれているという見方も可能かも知れない。
 それはつまり「妻子を持てば好き勝手はできないよ」というものだ。つまり好き勝手をやりたければ、妻子なんか持たないで、餓死するまでやりたいことを貫けばいいのだと。絵を描く象は見たことがあるが、詩を書くことが出来るのは人間だけだ。その人間に生まれて、上手い食い物を食べることに生きがいを感じて終わるのか、それとも何かを残すのか、独身者にはその選択権があるのだ。

 いやしかし、『山月記』の核心部分は獰猛で臆病な自尊心との向き合い方という点に尽きるだろう。進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしない。珠を磨かない。そんな自尊心の化け物になってはいけないと中島敦は云いたいのだろう。覚悟を決めて退官したなら、どんなに自尊心が傷つけられようが、認めがたき自分の非才を突きつけられようが、刻苦して珠を磨くしかないのではないかと。

 だがこんな尖がった芸術至上主義みたいな話を、普通の高校生に読ませて何をどうしようというのか。むしろ多くの学生さんは「自棄を起こして退官するとみじめになる」というトラウマ的教訓として『山月記』を読むことになるのではなかろうか。おそらく授業では中島敦のプロフィールも紹介されるだろう。

 中島敦が評価されるのは没後、生前は芥川賞も落選している。文学史を眺めるとこうした作家はけして少なくはない。パトロンなしで、高貴な文学が続けられることは考えにくい。稼ごうとすれば俗に堕ち大衆に媚びねばならない。あくまで自分を貫き、1942年に没した中島敦が、今でも自作が国語の教科書に収載されているということを想像できたかというと、さすがにそれは難しいのではないかと思う。ましてや『文豪ストレイドッグス』のキャラクターの一人として担がれようとは…。もしイタコで中島敦を降ろしたら、「文豪とは露伴、鴎外、谷崎までですよ。私や中原中也、太宰は文豪ではない。ましてや立原道造を文豪と呼んでしまっては、むしろ立原道造の価値が下がる」と説教されるのではなかろうか。

 とにかく『山月記』は短いけれど、かなり尖った作品であり、解釈が難しい。その作者のプロフィールごと生徒に示せば、やはり「書く」というふるまいの残酷さのみが印象付けられるのではあるまいか。この「書く」を「起業」に読み替えて、張り切る生徒が現れれば、それはそれで凄いけれど、どうもそうはならないような気がする。
 高校生の為には、私の作品を使うのがいいのではないかしら。


「その後李徴がどうなったかを知る者は、誰もなかった。」→「一匹の猛虎が叢の中から躍り出た。」→「元の叢に隠れた。叢の中から人間の声で「あぶないところだった」と繰返し呟くのが聞えた。」→「李徴の声は叢の中から朗々と響いた。」→「忽ち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。」ロジック的に叢にいた李徴が虎であるとは言い切れない。虎が喋るのは誰も見ていない。


【余談】

 永井荷風の『断腸亭日記』昭和三年七月十一日には、

 金港堂書店の者来り同店編纂の教科書とやらに予が文を採録したればとて、予が寫眞及筆蹟原藁等を需む、是等も右教科書に掲ぐべき由なり、例の如く不在なりとて會はず、金港堂は毎年右様の事を申來れるなり、迷惑なること甚し、壮年の比興に乗じて書きたるものを二三十年過ぎたる今日となりて教科書に載せらるゝさへ甚心地よからぬ事なるに、毎年寫眞筆蹟など徴發せらるゝは煩累に堪えず。

 …とある。そんなことを書いて居るから七月十四日、山形ホテル食堂で果物を煮た皿に蠅あるを知らず、一口食して後心づきたれど既に如何ともすること能はず、なんてことになるんじゃないか、断腸亭。教科書には載っておいた方が何かと有利だぞ、断腸亭。










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