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ワタナベノボルの起源 芥川龍之介の『戯作三昧』をどう読むか⑫

 しかし芥川は谷崎潤一郎ほどハードルを上げているわけではない。『水滸伝』を読みましたかと牽制するのは、今でいえば浅田次郎や村上春樹を読みましたかという程度のことだ。

 村上春樹や浅田次郎が読めませんという人はそう多くはなかろう。しかし書かれている全てのことが理解できているわけでも無かろう。ただし芥川はそんなに細かいことを云っているわけではない。大筋が掴めていれば誰でもが気が付くおかしなことを書いて、そもそも読書というものに向いていない人を置いてけぼりにしたかっただけだ。

 それでも現代では例えば馬琴という人が実在したとは知らず、audibleで『戯作三昧』を聞き飛ばして、「つまらなかった。星一つ」と書き込んでしまう人も実際にいるのだろう。私は毎日SosekiNatsumeのポストを読んでいるので、夏目漱石というゲームのキャラクターが実在した作家だと知って驚くというポストを毎月のように見かける。そういう人は実在する。問題はそこからどれくらい距離が取れるかどうかではなかろうか。

 読み飛ばしておいて「つまらなかった。星一つ」も駄目だが、読み飛ばしておいて「芥川論」なんか書いても駄目だろう。要するにタイムスリップがどういう意味を持つのかと考える以前にタイムスリップに気が付いていなければアウトだ。そういう人には基本的な国語力がないので一日も早く私の本を読んでやり直した方がいい。そういう人はアーモンドチョコの外側だけをしゃぶってアーモンドを吐き出しているようなものだからだ。さんまの塩焼きの片側だけ食べて捨てているようなものだ。裏返すという簡単な技術を獲得すれば残りの片側も食べることができる。

 この点に於て、思想的に臆病だつた馬琴は、黙然として煙草をふかしながら、強ひて思量を、留守にしてゐる家族の方へ押し流さうとした。が、彼の前には水滸伝がある。不安はそれを中心にして、容易に念頭を離れない。そこへ折よく久しぶりで、崋山渡辺登が尋ねて来た。袴羽織に紫の風呂敷包を小脇にしてゐる所では、これは大方借りてゐた書物でも返しに来たのであらう。
 馬琴は喜んで、この親友をわざわざ玄関まで、迎へに出た。

(芥川龍之介『戯作三昧』)

 やってくれる。

 ワタナベノボル、それは村上春樹の小説にたびたび登場する人物の名前だ。『パン屋再襲撃』『ファミリー・アフェア』……。それは単に『村上朝日堂』などのエッセイでイラストを担当していた安西水丸の本名(渡辺昇)なのだが、芥川龍之介はそれを知ってか知らずしてか、渡辺崋山、渡辺登として持ってきた。

 崋山は渡辺登(ワタナベノボリ)なのに、わざわざ「ワタナベノボル」にしている。これは村上春樹を意識していないとは……。

 してない?

 してないの?

 逆もない?

 ああそうですか。

 しかしいろいろやっている。

 まず「馬琴は喜んで、この親友をわざわざ玄関まで、迎へに出た」とある。この「親友」というところ、引っかかった人、ちょっと挙手してみてください。

 どのくらいいるのかな?

 いない?

 ああそうですか。

 実は息子の宗伯(琴嶺)の友人であったと言う説もなくはないんですよ。

 馬琴は1767年生まれ。
 渡辺崋山は1793年生まれ。26歳差がある。
 宗伯は、1797年生まれ。四歳差である。

 こうした崋山の写実性へのこだわりを示す逸話がある。1835年(天保6年)、画家友達であった滝沢琴嶺(興継)が没し、崋山は葬儀の場で琴嶺の父・曲亭馬琴にその肖像画の作成を依頼された。当時、肖像画は当人の没後に描かれることが多く、画家はしばしば実際に実物を見ることなく、やむを得ず死者を思い出しながら描くことがしばしばあり、崋山の琴嶺像執筆もそうなる予定だった。ところが崋山はそれを受け入れず、棺桶のふたを開けて琴嶺を覗き込んで素描し、さらに顔に直接触れたという。これらは当時の価値観や風習から大きく外れた行動であった。

ウィキペディア「渡辺崋山」より


滝沢馬琴 塚越芳太郎 著民友社 1903年

 一説には琴嶺は医者である。また路は「路霜」であり「土岐氏みち子」である。そして馬琴は一男三女で、ほかに長女「さき女」の婿は養子としており、その興利(浄善)の後夫に明薫(正次)がいて……とややこしいが、とりあえず、渡辺崋山は馬琴の親友か否か、というところに絞って考えると、どうも違う。

曲亭馬琴年譜

 馬琴は天保七年八月十四日七十歳の時、資金繰りに窮して、両国万八楼で蔵書五千巻他書画の販売会を開いている。そこには渡辺崋山、柳亭種彦、為永春水らが集まってきているが、特に「交際」の記録はない。

 しかしややこしい記録がある。

是を當年の識者高野長英渡邊華山の獄ありたる歳なりとす。華山はか尊敬せる友の一人也。


滝沢馬琴 塚越芳太郎 著民友社 1903年

 この「彼」が「高野長英」とすれば何の問題もないが、しかしなんでわざわざここに「渡邊華山の獄ありたる歳なり」と持ってきたのかと考えると「馬琴」と詠んで読めなくもないのだ。


弔花小品 第4輯 斎藤弔花 著博文堂 1924年

 こうして堂々と「馬琴と崋山は親しい仲である」としている本もある。


美術倶楽部目録 〔第15冊 東京ノ部〕


美術倶楽部目録 〔第15冊 東京ノ部〕


竹田と華山 兼松蘆門 (亀吉郎) 著東陽堂支店 1906年

 正確なところは不明ながら、

・息子宗伯と崋山が金子金陵の弟子であることから交際があった
・息子の死後肖像画を崋山に書かせている
・いつのころからかは不明ながら本の貸し借りをする関係性になっていた

 ……ざっくりこう考えても良いだろうか。しかし二十六歳差である。これはきわどいところを突いて来るなという設定である。

 天保二年が1831年。つまり崋山は三十八歳、馬琴六十四歳と仮定してみよう。

「今日は拝借した書物を御返却旁、御目にかけたいものがあつて、参上しました。」
 崋山は書斎に通ると、果してかう云つた。見れば風呂敷包みの外にも紙に巻いた絵絹らしいものを持つてゐる。
「御暇なら一つ御覧を願ひませうかな。」
「おお、早速、拝見しませう。」
 崋山は或興奮に似た感情を隠すやうに、稍わざとらしく微笑しながら、紙の中の絵絹を披いて見せた。絵は蕭索とした裸の樹を、遠近と疎に描いて、その中に掌を拊つて談笑する二人の男を立たせてゐる。林間に散つてゐる黄葉と、林梢に群がつてゐる乱鴉と、――画面のどこを眺めても、うそ寒い秋の気が動いてゐない所はない。
 馬琴の眼は、この淡彩の寒山拾得に落ちると、次第にやさしい潤ひを帯びて輝き出した。
「何時もながら、結構な御出来ですな。私は王摩詰を思ひ出します。食随-鳴磬-巣烏下、行踏-空林-落葉声と云ふ所でせう。」

(芥川龍之介『戯作三昧』)

 曲亭馬琴はワタナベノボルに対して「拝見しませう」「結構な御出来ですな」と敬語である。完全に同輩か、なんなら年長者に対するかのような口ぶりである。
 長幼の序というものを考えると、むしろ落ち着かない感じがする。なんというか、これくらいの年齢差で崋山の「御暇なら一つ御覧を願ひませうかな」これはいけない。「ぜひご覧ください」くらいに遜らなくてはむしろ不自然なのである。
 ようするに「悌」が出来ていない。

 年長者が若いものと対等に接するのは悪いことではない。何もそう威張り散らかす必要はない。しかしまさに儒教的精神の権現のような「八犬伝」とこの崋山との会話は微妙に平仄が合わないのである。例えば横柄にならない程度に少しは年長者ぶってあげた方が、下のものからは楽な場合というものもある。

 ここをそのまま読むと、他人事ながら、不遜だと言われてきた馬琴が大人しく、ワタナベノボルが不遜に感じられてしまう。

 しかしここで書かれているのは相手が中学生かどうかではなく、年齢は関係はなく、同じレベルの風雅を共有できることこそが肝心であるということなのであろう。
 要する『水滸伝』を読んだからと言って、それだけで読者の資格があるわけではないし、それくらいのレベルで絡んでこないでほしいと。南画なら南画でもいいし、別のジャンルでももちろんいいのだけれど、それなりのものを極めてから初めて士人の交わりができるのだと言いたいのであろう。

 王維の詩の含みは「寒山拾得は釈迦そっくり」というところであろうか。王維の詩を彷彿とさせる絵が描けるくらいになれば、馬琴にも敬語を使わせるか。と納得したところで今日はこれまで。

[附記]

 ここで寒山拾得が持ち出されて、タイムスリップがいよいよ意図のある仕掛けに見えてきた。

 芥川の『寒山拾得』は時空を超越した話だ。そしてよくよく考えると大正六年に天保二年の馬琴を出現させる小説の作法、そしてそれを令和五年に読むことが既に時空を超えた営みだ。私が『戯作三昧』を読んでいる瞬間には芥川は実在している。

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