グワーンと鐘が鳴る 牧野信一の『凸面鏡』をどう読むか②
三島由紀夫はそんなことを書いてみる。生殖は人間の生々しい一面であり、生物の本質だからだ。ならば牧野信一が只管恋に囚われているのも当然と言えば当然のことなのかもしれない。
これは一年前の別れ話の回顧だろうか。『ランプの明滅』の「秀ちゃん」は照子から茶目さんといわれていた。どうもこの「純ちゃん」も茶目である。
鐘はチャペルのウエディングベルではなく、普通の寺の鐘だろう。ショックを鐘で表現したこの場面は、かなり先駆的なものではあるまいか。確かに女にふられて鐘が鳴れば面白い。(そういえば神社に鐘がないのは何故だろう。鈴はあるのに。おみくじは両方あるのに。)
いや、ショックの鐘ではなかった。
そもそもの設定が解らなくなってきたぞ。
あの鐘は何の鐘だ?
それに何で同居している?
確かに道子は『爪』では妹だった。まさか、この道子も妹なのか?
それにしても道子の状況が良く解らないぞ。好きでもない相手との結婚が決まった、それで恋人とは別れなくてはならないと。
その別れる恋人は「純ちゃん」ではない。
その恋人の立場に立って考えてみると、「妾は勿論死むだつもりでお嫁に行く」と言いながら「道子が買物となると嬉しさうにはしやいでゐる」のを見ると、なに現金なものだ、「道子の恋人なる人は馬鹿を見たゞらうな、可愛想に。」と思う気持ちはわからないでもない。
手紙を盗み読み、これはよくない。
それにしても「純ちゃん」の立ち位置は?
母がって……。
ということはやはり道子は『爪』の道子と同じで、妹?
そう何回も妹に惚れている話を書く?
そもそも妹に惚れる?
どうも普通に妹を兄として可愛がる、可愛いというのとはどうも違う。二回も書くと冗談とは思えない。牧野信一には妹はいない。しかし主人公に近親愛を与えてみる。与えるというよりもう少し、制御不能なところから出てきている感じもある。少々気持ちが悪い。いつから植え付けられた感情なのかはわからないが、近親愛へのタブー意識が、そう強烈ではないけれど、確実な嫌悪感となって出てくる。
これはそのふりだったのか。確かに気味が悪い。手紙を盗み読むのにとどまらずそれで鼻をかんでしまうのだから、大胆と言うか、花粉症と言うか、油断のならない感じがする。これまでは何とか踏みとどまってはいたが、何か行動に移しそうな、投げやりな感じがする。
なにしろ「純ちゃん」は夜に顔を剃るような男なのだ。
この「あんな長たらしい物語」とは『豊饒の海』のことではないのだな。「活動写真でやれ手を握られたとか、嫌らしい男がひとの顔をジロジロ眺めてそりや気味が悪かつたのよなど」という物語というよりは、脈略のないエピソードだ。
よくよく考えてみれば平野啓一郎ほどの天才作家が『豊饒の海』を読みながら「これは何の話だ?」と考えない方がおかしいのだが、清顕が飯沼を懐柔したようで、実は結果的には蓼科の策略にはまったようなもので、折角手に入れたはずの家来は家を追い出されることになるというような、いわばままならなさと、結局はみねに惚れてみねを手に入れる飯沼の「ままなる」感じの交錯というものが見えていないのだから、道子が物語とエピソードを取り違えるもの無理はない。
それに本多に対して清顕が「又会ふぜ」と言ったということは……。これはあっちに書こう。
兎に角「獲物をした探偵のやうな」という比喩はどうなのだろうか。
まあ、そう言わなくもないのだが、
こう整理した時、道子は探偵で、「純ちゃん」が獲物ということになるのか。要するに道子は「純ちゃん」の隠しているところを平野啓一郎より正確につかみ出したということなのか?
で「浅ましい寂しさ」とは?
卑劣、惨めが言い当てられ、ことさら大げさにもてた自慢が重ねられることで、到達不可能な〈絶対者〉との距離感を突き付けられた?
なんだそれ?
妹に惚れていることがばれて恥ずかしいから「裏切者がその罪を覆はむが為の嘘偽」、まさかそんなことはあるまいと飽くまで妹に無関心なではあるけれど兄らしい振る舞いを貫くから「たかびしやな気持で」なのか。
こりゃ難しい。三島由紀夫並みの屁理屈を振り回してくる。まさかこれは少女向けでもあるまい?こんなものが試験に出てきたらみな唸るぞ。何とかギリギリ成立しているけれど、崩壊の寸前だ。一読で解るものじゃない。狙いは何なんだ。
で、眼を振る?
目を振り向けるとか目を振り上げるとは言うけれど、眼を振る?
まあ振るんだろう。これで道子の目が涙で化粧が落ちていて大きければ大したものだ。
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