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グワーンと鐘が鳴る 牧野信一の『凸面鏡』をどう読むか②

 嚏をし、笑ひ、生殖器をぶらぶらさせてゐる人間、……これらが一つの例外もなしにさういふ人間であるならば、彼が畏れる神秘はどこにもない筈だつた。

(三島由紀夫『奔馬』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 三島由紀夫はそんなことを書いてみる。生殖は人間の生々しい一面であり、生物の本質だからだ。ならば牧野信一が只管恋に囚われているのも当然と言えば当然のことなのかもしれない。

「妾はね、随分痛ましい恋のヒロインなのよ。事情といふ、妾達にとつてはどうでも関はないものゝために、心から愛し合つてゐる二人が別々の世界に離されてしまつたの。
 それが運命なのだ、とは知つてゐても……ね、妾にはどうしてもあきらめ切れない……で妾は勿論死むだつもりでお嫁に行く……ね、解つたでせう、ね、純ちやん、解つたでせう、妾の心が。同情して下さいね。」道子が、買物に行くのだから一処に行つて呉れ、と、彼と二人して銀座へ出掛けた道々に、その長い物語を(道子の睫毛には涙がまばらに溜つたりした。)――と、結むだ時、
「そこゐらで、グワーンと鐘が鳴る場面だよ。チエツ! くだらねえ。」彼は冷かに(が、道子へは愛嬌であると見らるゝ程度で)答へると後から後から自分でさへ感心する程巧妙な軽い(それも勿論道子への軽いと響かせる程度の技巧が加つてゐる)皮肉や洒落が出て、決して予期しては居なかつたが、まんまと終ひに道子を噴き出させて仕舞つた。

(牧野信一『凸面鏡』)

 これは一年前の別れ話の回顧だろうか。『ランプの明滅』の「秀ちゃん」は照子から茶目さんといわれていた。どうもこの「純ちゃん」も茶目である。

 鐘はチャペルのウエディングベルではなく、普通の寺の鐘だろう。ショックを鐘で表現したこの場面は、かなり先駆的なものではあるまいか。確かに女にふられて鐘が鳴れば面白い。(そういえば神社に鐘がないのは何故だろう。鈴はあるのに。おみくじは両方あるのに。)

――あんな事を云つてゐやがる癖に、と彼は、道子が、普段のにはこれがいゝだらう、あれがいゝだらうなどゝ、財布を一つ買ふのにも実用と虚栄とを目安にした問をうるさく掛けるので、……道子の一挙動までに悉く憤懣を感じた。先程の恋物語に、同情して、運命の敵し難さを共々に咒つてやつて、涙を流しかけてゐた道子を、何故もつと泣せずに――然も悲しい努力をまで感じながら、笑はせてなど仕舞つたのだらう、と彼は悔いたりした程、道子が買物となると嬉しさうにはしやいでゐるのを見ると――「道子の恋人なる人は馬鹿を見たゞらうな、可愛想に。」といふ気がした。同時に、此間道子の机の抽出しから男へ宛てた手紙の反古を発見した時、嫉妬の余り鼻をかむで仕舞つた自分を、彼は思ひ出した。

(牧野信一『凸面鏡』)

 いや、ショックの鐘ではなかった。

 そもそもの設定が解らなくなってきたぞ。

 あの鐘は何の鐘だ?

 それに何で同居している?

 確かに道子は『爪』では妹だった。まさか、この道子も妹なのか?

 それにしても道子の状況が良く解らないぞ。好きでもない相手との結婚が決まった、それで恋人とは別れなくてはならないと。

 その別れる恋人は「純ちゃん」ではない。

 その恋人の立場に立って考えてみると、「妾は勿論死むだつもりでお嫁に行く」と言いながら「道子が買物となると嬉しさうにはしやいでゐる」のを見ると、なに現金なものだ、「道子の恋人なる人は馬鹿を見たゞらうな、可愛想に。」と思う気持ちはわからないでもない。

 手紙を盗み読み、これはよくない。

 それにしても「純ちゃん」の立ち位置は?

 一月も前に嫁入仕度はすつかり出来て仕舞つてゐるのに、それでも未だ毎日のやうに、母達がチヤホヤするのでイヽ気になつてゐるのだらうが、「出掛けて見なけりや細いものは見附らないから。」と、母が「嫁いつてから恥をかいちやならないから――精々散歩するつもりで、落着いて、一つゞつでもいゝからね、日に。」とかなどゝ云つては、婚礼の為にのみ生きてゐるやうな素振ばかりなので、「死ぬつもりで嫁ゆく……がきいてあきれる。」、と彼は思つた。

(牧野信一『凸面鏡』)

 母がって……。

 ということはやはり道子は『爪』の道子と同じで、妹?

 そう何回も妹に惚れている話を書く?

 そもそも妹に惚れる?

 どうも普通に妹を兄として可愛がる、可愛いというのとはどうも違う。二回も書くと冗談とは思えない。牧野信一には妹はいない。しかし主人公に近親愛を与えてみる。与えるというよりもう少し、制御不能なところから出てきている感じもある。少々気持ちが悪い。いつから植え付けられた感情なのかはわからないが、近親愛へのタブー意識が、そう強烈ではないけれど、確実な嫌悪感となって出てくる。

「よせツ、戯談じやねえ、気味の悪るい。」

(牧野信一『凸面鏡』)

 これはそのふりだったのか。確かに気味が悪い。手紙を盗み読むのにとどまらずそれで鼻をかんでしまうのだから、大胆と言うか、花粉症と言うか、油断のならない感じがする。これまでは何とか踏みとどまってはいたが、何か行動に移しそうな、投げやりな感じがする。

 なにしろ「純ちゃん」は夜に顔を剃るような男なのだ。

 勿体をつけるためにあんな長たらしい物語などしやがつたんだな、(活動写真でやれ手を握られたとか、嫌らしい男がひとの顔をジロジロ眺めてそりや気味が悪かつたのよなどゝ貞操にかこつけて無貞操な自惚れをよく云ふやうな道子だから。)といふ気がした時(獲物をした探偵のやうな、と彼は思つた。)浅ましい寂しさを感じた。

(牧野信一『凸面鏡』)

 この「あんな長たらしい物語」とは『豊饒の海』のことではないのだな。「活動写真でやれ手を握られたとか、嫌らしい男がひとの顔をジロジロ眺めてそりや気味が悪かつたのよなど」という物語というよりは、脈略のないエピソードだ。

 よくよく考えてみれば平野啓一郎ほどの天才作家が『豊饒の海』を読みながら「これは何の話だ?」と考えない方がおかしいのだが、清顕が飯沼を懐柔したようで、実は結果的には蓼科の策略にはまったようなもので、折角手に入れたはずの家来は家を追い出されることになるというような、いわばままならなさと、結局はみねに惚れてみねを手に入れる飯沼の「ままなる」感じの交錯というものが見えていないのだから、道子が物語とエピソードを取り違えるもの無理はない。

 それに本多に対して清顕が「又会ふぜ」と言ったということは……。これはあっちに書こう。

 兎に角「獲物をした探偵のやうな」という比喩はどうなのだろうか。


新撰実業読本教授資料 : 校訂 巻1

 まあ、そう言わなくもないのだが、

 勿体をつけるためにあんな長たらしい物語などしやがつたんだな、といふ気がした時(獲物をした探偵のやうな、と彼は思つた。)浅ましい寂しさを感じた。

 こう整理した時、道子は探偵で、「純ちゃん」が獲物ということになるのか。要するに道子は「純ちゃん」の隠しているところを平野啓一郎より正確につかみ出したということなのか?

 で「浅ましい寂しさ」とは?

 卑劣、惨めが言い当てられ、ことさら大げさにもてた自慢が重ねられることで、到達不可能な〈絶対者〉との距離感を突き付けられた?

 なんだそれ?

 浅ましい、と思つただけに彼は妙に恥しさを感じたから、裏切者がその罪を覆はむが為の嘘偽と、「愚人に説教する道徳家」のやうなたかびしやな気持で、資生堂の前に来た時、五六歩遅れて来る道子を振り反つて、
「寄るんだらう?」と云つた。道子は笑ひながら否と眼を振つた。

(牧野信一『凸面鏡』)


東京銀座商店建築写真集 : 評入

 妹に惚れていることがばれて恥ずかしいから「裏切者がその罪を覆はむが為の嘘偽」、まさかそんなことはあるまいと飽くまで妹に無関心なではあるけれど兄らしい振る舞いを貫くから「たかびしやな気持で」なのか。

 こりゃ難しい。三島由紀夫並みの屁理屈を振り回してくる。まさかこれは少女向けでもあるまい?こんなものが試験に出てきたらみな唸るぞ。何とかギリギリ成立しているけれど、崩壊の寸前だ。一読で解るものじゃない。狙いは何なんだ。

 で、眼を振る?

 目を振り向けるとか目を振り上げるとは言うけれど、眼を振る?

 まあ振るんだろう。これで道子の目が涙で化粧が落ちていて大きければ大したものだ。


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