鵜呑みにしてはいけない 牧野信一の『爪』をどう読むか③
家の前の庭にテントを立ててその中で犬を撫でる様子を通行人に見せびらかしていたおじさんがいた。歩行者の前を自転車でわざとゆっくり蛇行運転してあおっているお爺さんがいた。人間というものはみんなどこかおかしい。「彼」もおかしい。
牧野信一は信用ならない作家である。
牧野は『あやふやなこと』では
こう語っていた。しかし「処女作の新春」では、
こう書いているのである。どうも季節がはっきりしない。『闘戦勝仏』の終いには(七年八月作)と書かれている。
大正八年の春書いたものが同年の「十三人」の十二月号に載ったというのも怪しくて、牧野はこうも書いているのである。
学生の頃書いたのか、卒業してから書いたのか、書いたのは春なのか冬なのかまるで解らない。
これくらい信用ならないので、「――狂人になるんぢやないかしら!」と言って狂人のふりをして道子を驚かせようとしている「彼」がついさっきまで本当に少しおかしかったことに急に無自覚になり、本当におかしくなったのではないかと疑わせていることにも作者の無作為があると決めつけるわけにはいかない。本当におかしい人というのは、自分で病院に行くそうである。しかし実は頭のおかしい多くの人達は、自分の頭がおかしいことには気が付かないで、他人を咎めてはいないだろうか。例えばあなた、そうあなた自身はどうか。
物事が理解できないと馬鹿と言われる。
これはまあいけないことだが仕方がない。より具体的に言えば、うんこはトイレでする。これが出来ないと頭がおかしい。
では一つ冷静になって、あなた自身は物事が正しく理解できていると言えるだろうか?
言える?
なるほど。
(勿論老害の自覚のあるなしのように個人差はあるだろう。)
どういうわけか「彼」は「彼は嬉しかつた。うまく効があつたらしい、どうだ敵ふまい」と狂人に見られることが嬉しいらしい。それでシユウクリームがもらえるわけでもなかろうに、妹をやっつけたつもりで喜んでいる。そこが既に真面ではない。
多分渋谷のスクランブル交差点でかまいたちにあったことがある。お気に入りの緑のジャケットがざっくり切られていた。かまいたちというのは恐らくカッターナイフを隠し持っていた若者だったんじゃないかと思う。意味なくそんなことをする人は大昔からいたのだろう。
しかし人はこうして見たことのない生き物を描いてしまう。
実は狂人というものもそうした錯覚の一つで、人はもともとおかしいので、時々ありもしないものをあると思い込み、狂人を捏造してしまっているのではなかろうか。別の世界なんてものは本当にあるのだろうか。夢や空想というものはあるとして、少なくとも私はそういう神秘体験と呼びうるようなものとは一度として出会っていないような気がしなくなくもないかもしれない。
あっただろうか。
思い出せない。
無論子供のころ子犬のようにハイテンションで走り回ったことがないとは言えない。トーパミンが出過ぎて、くるくる回り続ける子犬は人間で言えば狂人だろう。歩行者の前を自転車でわざとゆっくり蛇行運転してあおっているお爺さんがかろうじて狂人にならないでいられるのは、そこに回転がないからではないかと今気が付いた。回転を始めたら狂人だろう。
発振、循環参照が脳内で起これば狂人だろう。そうなると恐らく自然言語は発せられなくなるはずだ。
そういう意味ではこの大正七年だか八年だか解らない春なのか冬なのか解らない時期の牧野信一自体は極めて信用ならないが決して狂人ではない
人間の言葉を巧みに使ひ得る間は狂人ではない。それは確かにその通りであろう。しかしなんだろう。「僕だつて気狂ひになることは真平だからね」と言いながら「彼」は自身にその気があることが誇らしいような、自慢したいような、なんなら妹よりは高級な人間であるかのような妙な自負というものが見えるような気がするのである。そもそも「彼」は「狂う」という凡そどうでもいい、前向きではない話を淡々と続けている。妹は別にそんな話が聞きたかったわけでも無かろう。固執しすぎだ。それは漱石の「神経衰弱善人説」とも少しニュアンスが違う。
どうも本音でないところがある。本来ならそこには悲痛で深刻な不安があるべきなのだ。そんなものが見えない。「酔興にわざとこうして居るわけじやない」というのは妹に対する嘘で嚇かしだとして、そうして際どいこと、いつ本当になるとも限らないものの兆候があったことさえ忘れて、酔興にわざとこうして居る「彼」の悪ふざけをことさら意味ありげに書いている牧野信一自身が、どこか得意げに見えるのだ。
寒い晩に冷や汗をかき、「よく歩いてゐる人が真空域に触れて突然筋肉の裂傷を見る場合があるじやないか」と滅多にないことを「よく」と言い張ってみる。一見すると佯狂なのだ。
それは学生らしい見栄なのか。
それはまだ誰にも解らない。何故ならここまでしか読んでいないからだ。
[余談]
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