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鵜呑みにしてはいけない 牧野信一の『爪』をどう読むか③

 家の前の庭にテントを立ててその中で犬を撫でる様子を通行人に見せびらかしていたおじさんがいた。歩行者の前を自転車でわざとゆっくり蛇行運転してあおっているお爺さんがいた。人間というものはみんなどこかおかしい。「彼」もおかしい。

 彼は道子の顔を見るのも嫌になつた。彼は静に眼を閉ぢた。頭はすつかり醒めてゐた。
 その時彼は今眼を閉ぢたことに遇然な機会を見出した。それは、道子を偽つて彼女に不安を与へてやらうと思つたのだつた。
 そこで彼は悩む者のするやうに両手で確り頭を圧えた。
「頭が割れさうだ。」――暫らく沈黙を保つた後に、――重々しい、そして発言に遇然のやうな調子を加へて、
「――狂人になるんぢやないかしら!」と低く呟いた。
「くだらない。」道子の例の憎むべき冷笑の声が彼の耳に聞えた。喰べてる舌の音もしてゐる。
 彼は決して道子に云ふやうな態度を示さずに「僕は独言を吐いたのだ。――狂人といふものには、こういふ静な瞬間にふいとなるやうに思はれる。」と云つた。
「ぢや、もう狂ひになつてるかも知れないわ。」道子は相かはらず冷かな調子を保つてゐたが、稍彼の独白に動かされたらしかつた。
 彼はぴつかり眼を開いた。道子の顔色には明かに不安の色が読まれた。――彼は嬉しかつた。うまく効があつたらしい、どうだ敵ふまい、と密に云つた。こゝで、うんと道子を踏み滲つてやらなければ、時はない、と思つた。

(牧野信一『爪』)

 牧野信一は信用ならない作家である。

 牧野は『あやふやなこと』では

牧野。処女作は、学生時分――早稲田に居る間――に、二つ書いた。どつちが先だか忘れて了つたが、「爪」と云ふのと、「闘戦勝仏」と云ふのとである。「爪」を書いたのは慥か冬だつた。そして「闘戦勝仏」の方は夏だつた。兎も角、どつちが先だか判然しないが、非常な怠け者で、この二つしか書かなかつた。

 こう語っていた。しかし「処女作の新春」では、

 大正八年書いた「爪」といふのが処女作であり同年の十二月号に「十三人」といふ同人雑誌に載り、それが偶然にも島崎先生より讃辞を頂いたことに就いては先生も或る文章の中に誌したので省略するが、それが十二月のことであり、日本橋の或る商店に寄食してゐた折から、私は暮から春の休みへかけて、秘かに原稿紙などを鞄に入れてひとりで熱海へ赴いたことを憶ひ出す。

牧野信一「処女作の新春」

 こう書いているのである。どうも季節がはっきりしない。『闘戦勝仏』の終いには(七年八月作)と書かれている。

 大正八年の春書いたものが同年の「十三人」の十二月号に載ったというのも怪しくて、牧野はこうも書いているのである。

 で私は又、日本橋へ戻つて叔父の知合ひの毛織物輸入商のオフイスに寄宿して余念もなくタイプライターなどを叩いてゐるうちに「十三人」の第二号に、学生時代に書いたもののうちから鈴木に選ばれた「爪」といふ小篇が載つたのを偶然にも未知の島崎藤村先生に御手紙で讃められ「新小説」の新進作家号に紹介された。

(牧野信一『文学的自叙伝』)

 学生の頃書いたのか、卒業してから書いたのか、書いたのは春なのか冬なのかまるで解らない。

 これくらい信用ならないので、「――狂人になるんぢやないかしら!」と言って狂人のふりをして道子を驚かせようとしている「彼」がついさっきまで本当に少しおかしかったことに急に無自覚になり、本当におかしくなったのではないかと疑わせていることにも作者の無作為があると決めつけるわけにはいかない。本当におかしい人というのは、自分で病院に行くそうである。しかし実は頭のおかしい多くの人達は、自分の頭がおかしいことには気が付かないで、他人を咎めてはいないだろうか。例えばあなた、そうあなた自身はどうか。

 物事が理解できないと馬鹿と言われる。

 これはまあいけないことだが仕方がない。より具体的に言えば、うんこはトイレでする。これが出来ないと頭がおかしい。

 では一つ冷静になって、あなた自身は物事が正しく理解できていると言えるだろうか?

 言える?

 なるほど。


(勿論老害の自覚のあるなしのように個人差はあるだろう。)

  どういうわけか「彼」は「彼は嬉しかつた。うまく効があつたらしい、どうだ敵ふまい」と狂人に見られることが嬉しいらしい。それでシユウクリームがもらえるわけでもなかろうに、妹をやっつけたつもりで喜んでいる。そこが既に真面ではない。

「僕はね此間Kさんから直接きいたんだがね、その時Kさんは自分が気が狂つた時の気持を僕に話したんだ、――狂人になる時の瞬間といふものはね、つまり真人間から狂人に入る最初の一分さ、それは全く偶然なものだつてね。Kさんはある静な朝目を開いた時、ふと「おや俺は気が狂ふんだな。」と思つたのだつて、と殆ど同時にもう駄目になつて居たのだつてさ。急激な周囲の刺激に突き当つて血が騰つたわけでもなく――たゞある一種の空気と自分の精神とが触れ合つた一瞬間に、別の世界を見せられたのだ。よく歩いてゐる人が真空域に触れて突然筋肉の裂傷を見る場合があるじやないか、――何とか云つたね。」
「カマイタチとか云ふわ。」
「それそれ、――丁度それと同じ様なものさ、精神といふものがある神秘な空気に触れゝば、人間の精神だもの敵ふわけがない、立所に裂傷を負はされてしまふさ。当然在り得べき事だ――。

(牧野信一『爪』)

 多分渋谷のスクランブル交差点でかまいたちにあったことがある。お気に入りの緑のジャケットがざっくり切られていた。かまいたちというのは恐らくカッターナイフを隠し持っていた若者だったんじゃないかと思う。意味なくそんなことをする人は大昔からいたのだろう。

奇獣考カマイタチ 畑銀凛写

 しかし人はこうして見たことのない生き物を描いてしまう。

百鬼夜行 3巻拾遺3巻 [1]

 実は狂人というものもそうした錯覚の一つで、人はもともとおかしいので、時々ありもしないものをあると思い込み、狂人を捏造してしまっているのではなかろうか。別の世界なんてものは本当にあるのだろうか。夢や空想というものはあるとして、少なくとも私はそういう神秘体験と呼びうるようなものとは一度として出会っていないような気がしなくなくもないかもしれない。

 あっただろうか。

 思い出せない。

 無論子供のころ子犬のようにハイテンションで走り回ったことがないとは言えない。トーパミンが出過ぎて、くるくる回り続ける子犬は人間で言えば狂人だろう。歩行者の前を自転車でわざとゆっくり蛇行運転してあおっているお爺さんがかろうじて狂人にならないでいられるのは、そこに回転がないからではないかと今気が付いた。回転を始めたら狂人だろう。

 発振、循環参照が脳内で起これば狂人だろう。そうなると恐らく自然言語は発せられなくなるはずだ。

 そういう意味ではこの大正七年だか八年だか解らない春なのか冬なのか解らない時期の牧野信一自体は極めて信用ならないが決して狂人ではない

 道ちやんも今云つた通り僕の此頃の挙動は変に見えやうが、何も僕は酔興にわざとこうして居るわけじやない、僕の目の前には異様な幻が雪のやうに踊つてゐるのだ。Kさんもその二三日前には僕の通りだつたつて。これでもう一歩先の或るものが僕に見へた時は、もう今の僕……人間の言葉を巧みに使ひ得る僕ではなくなつてしまふのだ。僕はKさんの経験を聞き又自分も同感し得、ある解釈が附けば附く程、今こうして坐つて居ること、刻々と時が刻まれてゆくことが怖ろしいのだ。僕だつて気狂ひになることは真平だからね。」彼は仰山らしく身震した。

(牧野信一『爪』)

 人間の言葉を巧みに使ひ得る間は狂人ではない。それは確かにその通りであろう。しかしなんだろう。「僕だつて気狂ひになることは真平だからね」と言いながら「彼」は自身にその気があることが誇らしいような、自慢したいような、なんなら妹よりは高級な人間であるかのような妙な自負というものが見えるような気がするのである。そもそも「彼」は「狂う」という凡そどうでもいい、前向きではない話を淡々と続けている。妹は別にそんな話が聞きたかったわけでも無かろう。固執しすぎだ。それは漱石の「神経衰弱善人説」とも少しニュアンスが違う。

 どうも本音でないところがある。本来ならそこには悲痛で深刻な不安があるべきなのだ。そんなものが見えない。「酔興にわざとこうして居るわけじやない」というのは妹に対する嘘で嚇かしだとして、そうして際どいこと、いつ本当になるとも限らないものの兆候があったことさえ忘れて、酔興にわざとこうして居る「彼」の悪ふざけをことさら意味ありげに書いている牧野信一自身が、どこか得意げに見えるのだ。

 寒い晩に冷や汗をかき、「よく歩いてゐる人が真空域に触れて突然筋肉の裂傷を見る場合があるじやないか」と滅多にないことを「よく」と言い張ってみる。一見すると佯狂なのだ。

 それは学生らしい見栄なのか。

 それはまだ誰にも解らない。何故ならここまでしか読んでいないからだ。

[余談]


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