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そっちの対は見えるのに 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む25

 平野啓一郎は「46 月光姫(ジン・ジャン)」においてようやく、

 作者は、第一部で、タイ王室と日本の皇室とをそれとなく対比しているが、その効果は「宮家の許嫁を犯す」ことに情熱を注いだ清顕のパロディとして、タイ王室の「お姫様」に欲望を欠いたまま欲望せねばならない本多の苦しさと重なるものである。更に、その「距離」に注目するならば、清顕と聡子との関係だけでなく、槙子と逮捕後の勲との関係もまた、踏まえねばなるまい。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 こんなことを書いてみる。

 しかし天皇とタイの王様を比較することは絶対に避けている。

 先に書いたようにシャムの王子が日本では普通に扱われるのだから、イギリスでも皇太子は同じように扱われただろうという自然な連想には進まない。どうやら最後まで踏ん張るつもりらしい。

 解るよ。

 三島由紀夫は〈天皇〉を絶対者とみていたから、だよね。

 しかしそれは本当なのかね。

 そもそも絶対者がいないから創り出そうとしていたんだよね。

藤原氏の昔から、最も天皇を冒涜する者が最も天皇を崇拝していた。彼等は真に骨の髄から盲目的に崇拝し、同時に天皇をもてあそび、我が身の便利の道具とし、冒涜の限りをつくしていた。現代に至るまで、そして、現在も尚、代議士諸公は天皇の尊厳を云々し、国民は又、概ねそれを支持している。

(『続堕落論』/坂口安吾)

 三島由紀夫がそもそも何をしたかったのかということがよく解っていない。カリスマ編集者松岡正剛は、「天皇を担ごうとする勢力に蓋がしたかったのではないか」と捉えている。松岡正剛はまた優れた読み手として知られている。などと私が今更言うまでもなかろう。松岡は誰でもが容易くアクセスできる形で、自分の読みというものを徹底的に開示し続けてきた。私は今のところこの松岡正剛の読みを積極的には否定しない。

 つまり「天皇を担ごうとする勢力に蓋がしたかったのではないか」という要素もあったのであろうと考えている。日本のために死ねというものは生首にならないということであれば、誰も日本のために死ねと言うものはいなくなるはずだからである。

 しかし現実というのは恐ろしいもので憂国忌には檄文を叫び、「海行かば」が大合唱されるという奇態が繰り返されてきた。無論「天皇を担ごうとする勢力に蓋がしたかったのではないか」という松岡正剛の見立てが三島の行動を過不足なく覆えるわけではない。森田必勝は紛れもなく天皇を担ごうとする勢力であり、これに蓋をすることが目的なら三島は森田を騙したことになる。森田にとってこんな陰惨な死はなかろう。これは贋物に殺される死であり、森田には屈辱以外の何ものでもない。

 ジン・ジャンに対するレイプ未遂事件に関しても平野は「陰惨」と片付けて、ロジックで勃起する様子を見せない。ジン・ジャンは世継ぎではないが、もしもジン・ジャンと宮様がシンメトリーなら、宮様こそが犯されかけ、そしてその犯される様を観察されたとしてもおかしくないという理屈にはなる。

 宮様は犯されながら「歌を詠むつもりで、身体を以って、憐れを体現してごらんなさい」と命じられ、あへあへあへぁへと咽び泣いたかもしれないのだ。三島由紀夫の「苦痛」を確信していた平野であれば、「尻穴確定」と言われた時の坂本選手のガールフレンドの「痛いからヤダ」という言葉の意味が解っていることだろう。その平野はまた本多とその妻梨枝とのセックスにネクロフィリアを見出す。

 しかし平野はそこから死体となり、生首となり純然たる見られる対象となることの恍惚に言及しない。

 平野は間もなく生首になる三島由紀夫について書きながら、まだ観察する側、本多側に留まるつもりなのだ。

 ならなぜネクロフィリア?

 こう問わない。

 なぜネクロフィリア?

 これは鴨長明が勃起していたかという話にはつながらない。勃起など所詮おちんちんが大きくなることに過ぎない。そういうことではないのだ。

 死体としたい。

 そんな欲望が本多にある理由はまた平野啓一郎にスルーされている。平野は回転ずしに行っても注文ばかりして、流れている皿は全部スルーするのではなかろうか。

 三島由紀夫が徹底してみられることを意識し続けた人であり、本多の真逆にいたことを徹底的に無視する。

 それでは純然たる見られる対象である生首には辿り着けまい。



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