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見えていない観察者 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む26

  認識者たりつづけようとする平野啓一郎は「47 本多の「認識論」の逡巡」において、次のように述べている。こう書いてから五分ほど、私は何處を引用したらいいか迷っている。

 本多が考えるに、恋とは、「他人の上に幻をえがきだすことのできる人間の特権」であり、それは、清顕のように、「外面の官能的な魅力と、内面の未整理と無知、認識能力の不足が相俟って」初めて可能となる。その対極にある本多は、自らの生への「参与の不可能」の故に、恋は不可能である、と改めて自覚する。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 本多は「外面の官能的な魅力」と余計な、ルッキズム的な言説を混ぜてしまう。しかし「自らの生への「参与の不可能」の故に、恋は不可能である」とロジックがねじれる。「外面の官能的な魅力」はなくとも恋は可能だ。

 悟空でも恋はできる。

 この悟空の美しい王に対する感情は恋と呼んで差し支えないものであろう。悟空の要旨は醜い。つまりここで言われている「参与」だの「不可能」だのと言われていることは、「有体に言えば、彼は失恋を怖れていたのであり」ということの繰り返しに過ぎないことになるまいか。

 してみるとここで本多にこそ「内面の未整理と無知、認識能力の不足」が指摘されるべきではなかろうか。本多とジン・ジャンの年齢差は四十歳。三島由紀夫が本多を観察者に留め置き、ジン・ジャンの側から本多を観察させないのは、ジン・ジャンを視姦する老人の悍ましさ、勝手に不可能だの参与だのと言ってみて、まるで常識というものがない爺さんの馬鹿さ加減を揶揄うためではなかっただろうか。

 いつだったか七十過ぎの爺さんが二十代のコンビニ店員の女性に恋をして何かの事件になったというニュースがあった。これは悲惨というより、兎に角悍ましいという感じがしてしまう話だ。

 十八歳の娘が五十八歳の爺さんに恋をすることはない。もしそこに一パーセントでも可能性があるなどと考えている人がいたとしたら、「内面の未整理と無知、認識能力の不足」などというレベルではなく異常者である。つまり十八歳の娘に五十八歳の爺さんが片恋をすること自体は可能であろうが、そこに参与だの不可能だのという言葉を当てはめ、失恋とまで言ってみたとしたらやはり、ごく平たい意味で病院に行った方がいい。

 これまで私が平野啓一郎の『三島由紀夫論』に感じていた苛立ちはその多くが欺瞞に関するものではあったが、ところどころでは現在から過去を照射するようなポリティカルコレクトネス的なお行儀のよい、しかし当人にとっては予測不可能な未来からの批判であるところのマウントにも引っかかってはいた。現時点では平野の言い分は正しい。しかしゲイを「おかま」と呼んでいた時代がああったことは事実で、ポリティカルコレクトネスなどとというものは一年後どう変化しているか解らないものだ。
 そう思えばこそ不意に、本多の変態性を無視して「その対極にある本多は」として「内面の未整理と無知、認識能力の不足」の極みが本多であることをあべこべにしている、その真意が解らなくなる。

 この「47 本多の「認識論」の逡巡」の章は「夢」の話から始まる。

 一二巻では「夢」生まれ変わりの予告装置だったと。

 なるほど。そこはまあわかる。

 三巻ではジン・ジャンに代わって本多が「夢」で孔雀明王に化身する夢を見ると。

 ここまでは解る。次が解らない。

 本多は孔雀明王に化身したジン・ジャン小水を浴びる喜びから夢を一つの「現実」として価値化しようとする。

 はい、変態。

 本多は確かにそのことで「疑いようのない幸福感」を得るのだが、それが疑いえないのなら立派な変態である。

 十八歳の娘が五十八歳の爺さんに恋をすることはない。しかし本多とジン・ジャンが同い年であれ、小便を浴びせられて「疑いようのない幸福感」を得る相手となると、これはまたかなり厳しいことになる。現実的には四十歳の年齢差に覗き癖としょんべん好きの変態性が加味されているのだから、ここから先の本多のジン・ジャンに対する行動は「不合理なものを信じて幻滅する」などという理屈には収まらないものなのではなかろうか。

 しょんべんかけられて喜ぶ変態が観察者ってなんか嫌じゃないですか。

 しょんべんかけられて喜ぶ変態が面接官。しょんべんかけられて喜ぶ変態が審査委員。しょんべんかけられて喜ぶ変態が警察官。しょんべんかけられて喜ぶ変態が裁判官。しょんべんかけられて喜ぶ変態が判事。しょんべんかけられて喜ぶ変態が弁護士。ああ、これはそのままか。

 ここに確かに三島は認識論的な議論を交えてはいるが、そこに真面目に付き合いすぎて、本多が観察者に固定されている意味を見ないのはいかがなものであろうか。

 平野は本多による「現実と非現実の等質化」を言い当てる。そこはその通り、簡単に言えばそれは夢で十分という現実的な妥協である。

 この当たり前のような爺さんの妥協を平野はあくまでも三島に付き合って「47 本多の「認識論」の逡巡」と呼んでみる。

 ポイントは明らかに「内面の未整理と無知、認識能力の不足」の極みである本多爺さんの「見えていなさ」に気がつかないで、話としては結果丸く収まっていることである。

 正直なんだこりゃ? と思ってしまう。

 結局平野は三島が読者だけには見せていた十八歳の娘に五十八歳の変態爺さんが恋をすること自体の悍ましさというものに全く目を向けなかった。

 この視点の欠如は論以前に読みとして致命的だ。このことは女性読者ならかなりの確率で素直に賛同いただけるところではなかろうか。気持ち悪い爺さんがなんか訳の分からない理屈で夢と現実の区別がつかなくなって、ジン・ジャンを勲の生まれ変わりだと信じ込んでいる。

 しかしその、もともとの松枝清顕だって何者でもないわけだし、勲が松枝清顕から何か特別な資質を受け継いだわけでもない。「生れ変り」の真実というのは全部変態爺さんの唯識という幻想の中に閉じ込められていて、そこから現実に出て来て何か便利になるとか役に立つということがない。

 しょんべんだって実際にジン・ジャンがしたわけでもなく爺さんの夢の中の出来事なのだ。

 ここはごく普通に物凄い屁理屈やなあと読めるところではなかろうか。「内面の未整理と無知、認識能力の不足」ってよう言うなという話である。夢でしょんべんかけられて幸福になるのが認識能力? 頭おかしいだけやで。

 ここは三島が頽廃を書いているわけだから、ご立派になってはおかしいわけですよ。「いやあ素晴らしい。夢でしょんべんですか。素晴らしい唯識ですね」と感心したら馬鹿である。そう読ませるように書いてあるのは事実だけど。

[余談]

 蓮田氏の説へのお話、面白く拝見いたしました。しかし結局私は詩人の魂を信じます。すなはち蓮田氏よりも佐藤春夫氏を。蓮田氏は日本文学を思想といふ立場で考へることを極力さけてゐられるにしても評論などになると、やはり常識が出てこられるのでせう。尤も「日本の伝統」について蓮田氏が語られたのをきゝましたが常に「先に立てる」といふことをいはれる。その「立てるもの」に神をみることにより、極端にいへば、例の路傍の石ころも、一匹の鼠も、「仏」といふ名の赤児も皆仏になるやうに、荷風が江戸文学を、佐藤氏が漱石等を常に「前に立ててゐる」ことに、詩人の血脈を信じつゝ大きな意味をおいてゐられるやうです。かういふ議論からすれば、とにかく今の文壇には、「前に立てるもの」をもたぬといふ点で、徒らに万葉に走つたりする浮薄さの点で、つまらぬ人々もたくさんゐるのではありますまいか。

(昭和十八年、五月二十二日、東健あての書簡/『三島由紀夫 十代書簡集』/新潮社/1999年/p.162)

 平野啓一郎の徹底して戦前の三島を見ないというスタンスは、例えばこうした蓮田善明との関係性を確認するといった要素においても大きな瑕疵となっているように思われる。
 また例えば三島由紀夫は詩人であったというところから見れば、本多の悍ましさなど論を待たないのではないか。

 しかし一方で悍ましいと言われようが人間の性欲というものがおおよそ生殖能力というものを失ってさえ不合理に存続し続けることがあるというのも度し難い現実ではある。

 そして観察者というものは自分を見ない。つまり普通は悍ましさなど意識はしない。
 本多のジン・ジャンに対する悍ましい恋は、非常に観念的な唯識論で武装されながら、ありきたりな老いの醜さ、惨めさを包み隠しているようにも思える。
 そもそも松枝清顕が決して特別な人間でもなかったのだから、『豊饒の海』が『金閣寺』のような凡庸さの話だと見ることもできようか。

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