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決心はあったのか 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む39

  平野啓一郎の『三島由紀夫論』の主要参考文献には『春の雪』三十五章で本多が取り上げる北輝次郎著『国体論及び純正社会主義』は挙げられていない。

 今日三井岩崎を望む者あらば其の不可能なる日本皇帝たらんことを企だつるが如く、不敬漢とは呼ばれさるべきも發狂者と見らるべきは論なし。自由競爭とは競爭すべき機會の自由なる獲得を前提としての立言なり。

只、彼等下層階級の男女が上層の美なる者を見るも戀の苦痛なきは、一介の工夫が三井岩崎たらんと欲するの苦痛なきが如く誠に絕望の爲めなり。

-『國体論』の如く乱臣賊子とは義時と尊氏とのみにして天皇の軍を敗りたる數十萬人は天皇の忠臣義士なりと云ムことの笑ふべきと同樣に、日露戰爭は三井岩崎と乃木東郷との爲めに戰はれて四千五百萬人は餘儀なく開戰論を唱へ突擊隊となり決死隊となりしと云ふことは依然たる國体論式の論理なりと。

国体論及び純正社会主義

 『春の雪』を論じるならば、この本にはこうした当時の三井岩崎に対する意識というものが現れるほか、繰り返し天皇の問題が論じられていることを確認すべきであったのではなかろうか。この本を読むということは少なくとも社会主義的天皇というものを本多が知っていたということであり、当時の人間の中でもとりわけ尖った天皇観を見ていたという設定になる。


仏教学概論

 本多はこうして実益にかなうとも思えない本を読む。小説でも書くなら材料にもなるだろうが、普通の人には関係ない本だ。しかし本多はシャムの王子と交わした転生議論のために「仏教学概論」を読む。

 北輝次郎著『国体論及び純正社会主義』は発禁本を書生が貸してくれたものであった。この本のどこに発禁となる理由があるかと言えば、「日本國民は万世一系の一語に頭蓋骨を毆打されて悉く白痴となる」とごく当たり前のことが当たり前に書かれていたからであろう。この立場は例の「春日宮」なるもので指示したところと一致する。そして三島由紀夫自身がわざわざこの発禁本を読み、その天皇観に大きく影響を受けたことは間違いないところであろう。    

 しかし平野啓一郎はそこには触れない。三島由紀夫が天皇崇拝者であったとする自説が崩れてしまうからである。また『春の雪』を複雑な話にしてしまうからである。北輝次郎、後の北一輝は完全に無視された。本来は無視できる名前ではないのに。

 三十五章は鎌倉の海での若者たちの幸福な日々の話から一転、月光姫の死の報告、王子らの帰国という流れになる。王子たちの乗った船に「ユニオン・ジャック」がはためていたことに首を傾げ、シャムの歴史を確認すると、かの国も日本同様植民地化を免れるためにぎりぎりの駆け引きを続けてきた国なのだということがよくわかる。「ユニオン・ジャック」に気が付かないと何も見えてこない。

 そしてここまでにシャムの王子が英国製の煙草を配ったりするほか、「英国」というものがあちらこちらに顔を出していたことが急に思い出される。なるほど英国製の皇室を揶揄した深沢七郎の影響が如実にみられるところだ。しかし平野啓一郎はそこにも触れない。しかしプロの作家が、しかも平野啓一郎という偉大な作家が「ユニオン・ジャック」に気が付かないなどということがあり得るだろうか?

 ——秋が来て、学校がはじまると、清顕と聡子の逢瀬はいよいよ限られ、夕まぐれに一目を忍んで散歩するにも、蓼科が前後をよく確かめてついて歩いた。

(三島由紀夫『春の雪』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 三十六章はこう始まる。「前後」は無理だろう。まあ三島由紀夫くらい偉大な作家でもこういうことはよくある。

「君はのちのちすべてを忘れる決心がついてゐるんだね」

(三島由紀夫『春の雪』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 しかし再読すればここは見落とさないだろう。残念なことに『豊饒の海』は読み終えるとしばらく読み返せないぐったりする作品なので、私も『豊饒の海』を読んだ後はしばらく三島作品は読めない。三島作品だけではなく、小説そのものからも少し離れ、別のジャンルの本を読んだりする。勿論初見では気が付くまい。しかし三島由紀夫論を書き、『豊饒の海』を論ずるならこのふりを無視してはいけない。

「ええ。どういふ形でか、それはまだわかりませんけど。私たちの歩いてゐる道は、道ではなくて桟橋ですから、どこかでそれが終つて、海が始まるのは仕方ありませんわ」

(三島由紀夫『春の雪』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 その海が月の裏のからからに乾いた海、豊饒と呼んでみた大嘘の海であることは確かであろう。

 こんな私的領域の会話の後には聯隊御用の楽器屋がラッパの試し吹きをする。繰り返しによる印象操作である。

 三十七章で聡子は花嫁修業のために麻雀を覚えさせられる。現在の上皇陛下に麻雀の趣味があることは広く知られているがこれは皇室の伝統というわけでもなく、たまたま洞院宮家の妃殿下に長唄と麻雀の趣味があったからという設定のようだ。

水谷禽譜 [6]

 平野啓一郎はここも掘らない。調べてみると麻雀とは明治以前は殆どそのまま本当の雀のことなのだ。

水谷禽譜 [6]

 蓼科は綾倉家に松枝後者の密偵ともなりうる柳橋の待合の女将と老婢が麻雀教育のために遣わされることを建前上「品位を傷つける」として嫌った。

詩経産物解 2巻

 しかし松枝侯爵自身がこう受け止めている。

 もともと侯爵は、自分が英国風に撞球に凝つてゐるのに、却つて宮家がさういふ卑俗な遊戯を遊ばすのを不本意に思つてゐた。

(三島由紀夫『春の雪』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 宮家は「雅び」の伝承者ではなく、「雅び」は羽林家に二十七代連なる綾倉家に残されている。洞院宮家など何代か遡ると怪しいもので、明治以降の宮家なのではないかと思わせるところだ。

 元々春日宮天皇というかなり無理のある天皇にアクロバティックに連なる家系なので、宮家の雅びなど知れているという指摘でもあろう。この点はあくまでも天皇を日本の雅びの伝統として定義したい平野啓一郎の『三島由紀夫論』の恣意性が目をつぶらせたのではないかと考えざるを得ない。

 やがて聡子は妊娠の兆候を見せる。この時蓼科はその秘密を独り占めし、こう喜ぶ。

 これで聡子は蓼科のものになったのだ!

(三島由紀夫『春の雪』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 このマウントの取り合い、あるいは上下の関係性の逆転というモチーフはこの『豊饒の海』の中で何度となく繰り返されるものである。打ちひしがれた清顕を眺め下す飯沼は、失明した透に対する本多の慕わしさのような形で何度も反復されていく。この「ひっくり返る感じ」というのが三島は好きなのである。

 聡子を散歩に連れ出した蓼科はこんな提案をする。

「子(やや)さんを始末遊ばすのでございますよ、一刻も早く」

(三島由紀夫『春の雪』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 これに対する聡子の返事がいい。

「何を言ふの、懲役に行かなければならなくてよ」

(三島由紀夫『春の雪』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 自分の保身しか考えていない。やがて生まれてくる愛する人の子供のことよりも自分が受けるであろう罰のことを考えている。まるで清顕には子供は必要ないという三島由紀夫の指示をあらかじめ言い含められていたかのようである。と思えば、牢屋に入りたいと言い出す。

「女の囚人はどんな着物を着るのでせうか。さうなつても清様が好いて下さるかどうか知りたいの」

(三島由紀夫『春の雪』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 勿論子供を堕すことは承知してのことである。
 三島論としてはなかなか拾い難いところではあるが、この子供への愛情のなさはまたなかなか面白い書き方ではなかろうか。
 三島はこんな聡子の態度でも読者を嚇かす気が満々だったわけである。子供を平気で堕胎して牢屋に入る女……。聡子はここで 

「あれですよ。坊ちゃん、あれが人を殺した女とも思へませんね。人は見かけによらぬものといふが、全くですな」

(三島由紀夫『春の雪』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 と言われていた小太りの仲居より、である。

 こういうシンメトリーがあることも平野啓一郎はまだ全然気がついてゐないのである。

 で、いつ気がつくの?

[余談]

 ここはいきなり三島由紀夫に引き付けて考えてみると面白い場面である。三島事件の一番の不思議さは、三島由紀夫が大活躍して、見事生首になってしまったことである。三島は真剣、相手は木刀と言いながら、相手は自衛隊の猛者である。ぼこぼこにされてしおらしく警察に連行される確率の方がむしろ高かったのではないか。

 つまりそういう「みっともないこと」にならないようにするための切り札のようなものが見つからないのだ。

 三島は東大全共闘との討論に参加する際も楯の会会員数名を潜り込ませ、いざという時にはみっともないことにならないようにと密かに鉄扇を忍ばせていたという。ところが三島事件の際にはそうした用心が何もない。

 では三島はぼこぼこにされてしおらしく警察に連行される可能性についてどう考えていたのだろうか。そんなみっともないことになればまさに切腹ものなのだけど。


17 321國純正社會主義體論及び北輝次郎著北輝力即寄贈
〓言現代に最も待望せられつゝあるものは精細なる分科的研究に非らず、材料の羅列事實の豊富に非らず、誠に渾べてに渉る統一的頭腦なり固より微少なる著者の斯ることの任務に堪ふるものに非らざるは論なしと雖も、潜越の努力は、凡ての社會的諸科學、即ち經濟學、倫理學、社會學、歷史學、法理學、政治學、及び生物、學、哲學等の統一的知識の上に社會民主々義を樹立せんとしたると
なり。著者は古代中世の偏局的社會主義と革命前後の偏局的個人主義との相對立し來れる思想なることを認むと雖も、其等の進化を承けて今日に到達したる社會民主々義が、國家主義の要求を無視するものに非らざると共に亦自由主義の理想と背馳すといふが如く考へらるべきものにあらずと信ず。故に、本書は首尾を一貫して國家の存在を否む今の社會黨諸氏の盲動を排すると共に、彼等の如く個人主義の學者及び學說を的に鋒を磨くが如き惑乱を爲さヾりき即ち本書の力を用ひたる所は所謂講壇社會主義といひ國家社會主義と稱せらる〓鵺的思想の驅逐なり。第一編『社會主義の經濟的正義』に於て個人主義の舊派經濟學に就きて語る所少なくして金井田嶋諸氏の打擊に多くを盡くしたる如き、第二編『社會主義の倫理的理想』に於て個人主義の刑法學を輕々に駁して樋口氏等の犯罪論を論破するに努めたる如き是れなり。社會の部分を成す個人が其の權威を認識さるゝなくしては社會民主々義なるものなし。殊に歐米の如く、人人主義の理論と革命とを經由せさる日本の如きは、必ず先づ社會民主々義の前提として個人主義の充分なる發展を要す第三編『生物進化論と社會哲學』は社會哲學を生物進化論の見地より考察したるものなり。即ち正確に名くるならば『生物進化論の一節としての社會進化論」と云ふべし。而しながら今日の生物進化論はダー井ン以後其の
局部的研究に於ては著しく發達したるに係らず全体に渉りて尙混沌たり。即ち『組織』と『結論』となし。〓にに書は其の主たる所が社會哲學の攻究に在るに係らず、單に生物進化の事實の發見として繼承せられつゝあるものに整然たる組織を建てゝ凡ての社會的諸科學の基礎となし、更に目的論の哲學系統と結び附けて推論を人類の今後に及ぼし以て思辨的るがらも生物進化論の結論を綴りたるものゝ始めなる點に於て、著者は無限の歡喜を有することを陰蔽する能はず。固より人類今後の進化につきては今日の科學は充分なる推論の材料を與へず且つ斯るものゝ當然として著者其人の傾向に支配さる〓所の多かるべきは論なしと雖も、是れ愼重なる歐米思想家の未た試むるに至らざる所、後進國學者の事業として最も大膽なる冒險なり。而して著者は社會民主々義の實現が則ち其の理想〓に進むべき第一步たるべき宗〓的信念として是れを社會民主々義の宗〓と名け、社會主義と基督〓との調和衝突を論爭しつゝある歐米社會主義者と全く異なれる別天地の戶を叩きたり。由來基督〓の歐米に於て思想界の上に專權を振ふこと今尙羅馬法王の如くなるは恰も日本に於て國体論と云ふものゝ存するが如し。日本の社會主義者に取りては「社會主義は國体に抵觸するや否や』の問題にて已に重荷なり更に『社會主義は基督〓と抵觸するや否や』といふ歐米の國体論を直譯まよりて輸入しつゝある社會主義者の或者の如きは解すべからさ
るも甚たし。而しながら本論は固より宗〓論まも非らず又生物進化論其者の說述が主題ま非らざるは論なく、人類社會といふ一生物種屬の進化的說明なり。著者は、憐むべきベンヂヤミン、キツドの『社會進化論』が人類社會を進化論まよりて說明せるダー井ン以後の大著なりとして驚歎されたる如き今日、この編を成したるまつきて聊かの自負を有す。第四編『所謂國体論の復古的革命主義』は則ち日本の基督〓まつきて高等批評を加へたるものなり。即ち、社會主義は國体は抵觸するや否やの論爭まあらずして我が日本の國家其者の科學的攻究なり。歐米の國体論がダー井ン及び其の後繼者の生物進化論まよりて長き努力の後よ智識分子より掃蕩せられたる如く、日本の基督〓も亦冷靜なる科學的研究者の社會進化論まよりて速かま其の呼吸を斷たざるべからず。この編は著者の最も心血を傾注したる所なり。著者は今の凡べての君主々權論者と國家主權論者との法理學を悉く斥け、現今の國体と政体とを國家學及び憲法の解釋まよりて明らかまし更ま歷史學の上より進化的〓說明を與へたり。著者は潜かま信ず、若し本書まして史上一片の空名ま終るなきを得るとせは、そは則ち古今凡べての歷史家を擧りて不動不易の定論とせる所を全然逆倒し、書中自ら天動說ま對する地動說といへる如く歷史解釋の上ま於ける一個の革命たることま在りとこの編は獨立の憲法論として存在すると共ま、
更ま始めて書かれたる歷史哲學の日本史として社會主義と係はりなく見られ得べし。第五編『社會主義の啓蒙運動』は善惡の批判の全く進化的過程のものなることを論じ第二編『社會主義の倫理的理想』ま於て說きたる階級的良心の說明と相待て階級鬪爭の心的說明をなしたり。而して更ま國家競爭よ論及し帝國主義が亦世界主義の前提なることを論じたり。權威なき個人の礎石を以て築かれたる社會は奴隷の集合まして社會民主々義よ非らざる如く、社會主義の世界聯邦論は聯合すべき國家の倫理的獨立を單位としてのことなり。百川の海よ注ぐが如く社會民主々義は凡ての進化を繼承して始めで可能なり。個人主義の進化を承けずして社會主義なく、帝國主義の進化を承けずして世界主義なく私有財產制度の進化を承けずして共產社會なし。故ま社會民主々義は今の世の其等を敵とせずして凡てを包容し凡ての進化の到達點の上ま建てらる彼の、、社會主義の理想は可なりと雖も果して實行せられ得るやといふが如き疑惑は、今日の社會民主々義を以て人爲的考案のものと解して歷史的進行の必然なる到達と考へざるが故なり本書が終始を通じて社會主義を歷史的進行ま伴ひて說き又多く日本歷史の上ま其の理論と事實とを求めて論じ、殊まこの編ま於て儒〓の理想的國家論を解說したるが如さこの故なりとす。凡ての社會的諸科學は社會的現象の限られたる方面の九
分料的研究なるを以て、單よ經濟學若しくは倫理學の如き局部の者を以て社會主義の論述ま足れりとすべからず。殊ま本書は煩煩なる多くの章節項目の如き規矩を設けず、議論の貫徹と說明の詳細を主として放縱よ筆を奔らしたるが故ま一の問題まつきても全部を通讀したる後ならずしては完き判定を下し得ざるもの多し。固より一千頁ま渉る大冊を捧げて斯る要求を敢てする著者の罪は深く謝する所なりと雖も、全世界の前よ提出せられたる大問題の攻究として多少の勞力は避けざるべきなり著者は辨護を天職とする所謂學者等よあらず、又萬事を否認するとを以て任務とする革命家と云ふものは非らず。只、學理の導きよ從ひて維持すべきは維持すべきを說き棄却すべきは棄却すべきを論ずるま止まる學者の論議は法律の禁止以外ま自由なり。故ま、著者は本書の議論が政府の利益に用ひられて社會黨の迫害よ口實を提供するよ至るとも、若しくは又社會黨其れ自身の不利と惡感とを挑發するよ至るとも少しも係はりなし。例へば、萬國社會黨大會の决議よ反じて日露戰爭を是認せる如き、全日本國民の輿論よ抗して國體論を否認せる如きその例なり。政府の權力と雖も一派の學說を强制する能はず。社會黨の大勢力と雖も多數决を挿で思想の自由を輕視する能はず。一學究の著者よ取りては政府の權力と云ひ社會黨の勢力と云ひ學理攻究の材料たる以外ま用なし。故ま、著者の社會主義は固より『マークスの社會主義」
と云ふものまあらず、又その民主々義は固より『ルーソ-の民主々義』と稱するものまあらず。著者は當然ま著者自身の社會民主々義を有す。著者は個人としては彼等より平〓凡なるは論なしと雖も、社會の進化として見るときま於ては彼等よりも五十歲百歲を長けたる白髯禿頭の祖父曾祖父なり。〓新しき主張を建つるまは當然の路として舊思想ま對して排除的態度を執らざるべからず。破邪は顯正1先つ。故ま本書は專ら打擊的折伏的口吻を以て今の所謂學者階級ま對する征服を以て目的とす。著者は絕大なる强力の壓迫の下は苦鬪しつゝある日本現時の社會黨に向つて最も多くの同情を傾倒しつゝあるものなり。而しながら其の故を以て彼等の議論に敬意を有するや否やは自ら別問題なり。彼等の多くは單ま感情と獨斷とまよりて行動し、其の言ふ所も純然たる直譯の者にして特に根本思想は佛國革命時代の個人主義なり。即ち彼等は社會主義者と云はんよりも社會問題を喚起したる先鋒として充分に効果を認識識らるべし。著者は社會民主々義の忠僕たらんが爲めに同情と背馳するの議論を餘儀なくされたるを遺憾とす。本書征服の目的なり。と云ふ學者階級に至りては只以て可憐なりと云ふの外なし。率直の美德を極度に發揮して告白すれは、餘りに雞を割くが如くにして徒らに議論の筆を汚辱するに過ぎざるの感ありと雖も、それ〓〓の學
說の代表者として大學の講擅に據り智識階級に勢力を有すと云ふことのみの理由まよりて指定したるもの多し。言責は固より負ふ。而しながら今の日本の大學〓授輩より一言の辨解たも來るが如き餘地を殘し置くことあらば是れ著者が義務の怠慢まして辨解其事が本書の不面目なり。故ま著者は或る學者-例へば丘氏の如き-よ對しは固より充分なる尊敬を以てしたりと雖も、大體ま於てー-特に穗積氏の如きに對しては-甚しき侮弄を極めたる虐殺を敢行したり斯くの如きは學術の戰塲よヂユ子ーヴ條約なしと云ふが爲めよあらずして、今の學者等が長き間勝ち誇れる驕傲と陰忍卑劣とが招きたる復讐とす。文章は平易の說明を旨としたり。而しながら寬恕を請はざるべからざるは、開放せられたる天地ま論議しつゝある學者等の想像し得ざるべき筆端の抅束なり。爲めま學者階級との對抗ま當て土俵の七八分までを讓與し、時は力を極めて搏たんとしたる腕も誠よ後へより臂を制せらるゝを常とす。加ふるま今の大學〓授輩の或者の如きは口よ大學の神聖を唱へながら、權力者の椅子に縫り哀泣して掩護を求むるに至つては如何ともすべからざるなり權力者にしてこの醜態を叱斥せざる間は决して思想の獨立なし。社會民主々義を讒誣し、國體論の妄想を傅播しつゝある日本の代表的學者なりとして指名したるは左の諸氏なり故に本書は社會民主々義の論究以外、一は日本現代
の思潮評論として見らるべし。金井延氏『社會經濟學』田嶋錦次氏『最新經濟論』樋口勘次郞氏『國家社會主義新〓育學」及び『國家社會主義〓育學本論』丘淺次郞氏『進化論講話』有賀長雄氏『國法學』穗積八束氏『憲法大意』及び帝國大學講義筆記井上密氏京都法政學校憲法講義錄一木喜德郞氏帝國大學講義筆記美濃部達吉氏早稻田大學講義筆記井上哲次郞氏諸著山路愛山氏及び國家社會黨諸氏阿邊磯雄氏及び社會黨諸氏日露戦爭の翌年春著者
第壹編社會主義の經濟的正義第章三〇所謂社會の秩序と國家の安寧幸福-政府の迫害と學者の讒經-貧困の原因-機械の發明-機械工業の結果にあらヤ經濟的貴族國- -經濟的勢力と政治的勢力-人格なヤき經濟物-奴隷制度-個人主義の舊派經濟學-個人主義の發展と歷史の進化-個人主義經濟學の革命的任務-スミス當時の貴族國經濟組織-經濟界の民約論-個人主義の叛逆者-階級に阻害されたる自由競爭-機械と云ふ封建城廓-自由競爭の二分類-機械中心問題の社會的諸科學-個人主義は革命に至る-個人主義の論理的歸結- -官許無政府黨員-所謂社會主義者に混ぜる個人主義者
第二章三一········六八經濟的貴族國の歷史的考察-個人的勞働時代の勤條貯蓄- -マークスの價格論の誤謬-『大日本史』と『資本論』-資本は掠奪の畜積なり-經濟的土豪-資本家發達の歷史-日本の土地兼併は資本の侵客なり-工業革命の日本-賃銀奴隷間の餓鬼道的競爭-經濟的群雄の天龜天正-恐惶- -企業家の所謂「自已の責任』-恐惶を負擔するものは全社會なり-經濟的九龜大正は「ツラストの經濟的封建制度に至る-ツラストの物價低落は經濟的兵火なきが故に事實なり-〓ーツラストの誅求苛歛は封建なるが故に亦事實なり-封建時代の百姓一揆とツラストに對する同盟能工-賣買關係の私法にあらず公法の統治關係となる-經濟的封建制度は經濟史の完結結あらず-革命の發火點は權利思想の變遷にあ三一········六八り-社會主義は權利論によりて立つ-個人主義の掠奪せる所有權神聖の金冠-權利思想の變遷-脫力は所有權を確定すと云へる占有說の古代思想-占有の國王貴族を顛覆せる勞働說-社會主義は社會の所有權神聖を主張す-資本家の機械占有と往年の奴隷占有-機械は死せる祖先の靈魂が子孫の慈愛のために勞働す-リカドーの不備の點と地代則の說明-地代は人口增加の結果なり-都會地の地代は社會文明の賜なり-無數の土地所有權辨護論-薄弱なる加工說-個人主義時代の獨斷的權利論-個人主義の權利の理想は形式に於て似たるも社會主義と混同すべからず- -個人主義の法理學は亦其の經濟學の如く現社會の辨護にあらず-權利とは社會生存の目的に適合する社會關係の規定なり-社會の利益即ち權利にして正義なり
第三章六九·······一五六社會の權利即ち社會の利益-經濟的戰國の軍隊的勞働組織と經濟的公民國家の其れ-今日の公民國家の軍隊と社會主義の勞働軍-經濟史の大々的革命-社會主義に對する無數の非難を先づ現社會に提出せよ-人類の歷史は經濟的貴族國に止まるか-社會主義の國旗を濫用せる國際法違反の國家社會主義或は講擅社會主義-『社會經濟學』と『最新經濟論』-國家社會主義は學界に於ける社會主義當面の敵なり-金井博士の社會主義評-氏は社會主義を解して掠奪階級の地位を轉換する者とす-氏は資本と資本家とを混同す-氏は資本の說明と權利論につきて無學なり-田嶋博士と金I井博士の人性の解釋よりする非難-人性の解釋に於て新舊經濟學の五十步百步-舊派經濟學と共に新派は公共心を解せず--社會主義時代の公共心による經濟的活動-有機的活動の生理的要求-有機的休息と今日の懶惰-將來の快樂又は精神的快樂の動機なし-勞働は今日神聖に非らず- -神聖の意義-勞働を忌避するは自由民たらんとの權利思想なり-國家社會主義は勞働を忌避せしむ-今日の貨幣は人生其者の價格を代表す-貨幣の媒介なき地位と名名とに對する利已心の經濟的活動-万人平等の分配は權力濫用の經濟的懸隔なからしむると共に個性發展の障害なからしめんが爲めなり-田島博士の獨斷的不平等論-社會主義は個性の不平等を認め分配は不平等となる-金井博士は平等に分配さるゝ購買力と云ふことを享樂及び慾望の絕對的平等と誤まる-獨斷的平等論と獨斷的不平等論-不平等の正義なりし時代と平等の正義なるべき時代-田島博士の不平等論は自殺論法なり-平等觀發展と歷史の意義-獨斷的
平等論の逆進的批判と獨斷的不平等論の粘着的辨護-元來よりの平等に非らず又元來よりの不平等に非らず-社會主義の自由平等論の眞意義--『社會問題解釋法』と憐むべき一記者-田島博士の經濟的貴族國の辨護論-氏は君主國を却て共和國と云ふ-賃銀基金說の誤謬とラサールの賃銀の鐵則〓-勞働者は生產物の分配を豫じめ受くると云ふ新派の驚くべき空論-氏は企業的才能と利益の主體たる企業家とを同一視す-氏の外國貿易よりする非難-氏の所謂强大なる專制國-君主の目的と利益との爲めに國家が手段として存する專制國に比すべき今日の資本家制度-田島博士の所謂微弱なる共和國、金井博士の所謂生產の减退-社會主義と偏局的社會主義-今日の所謂官吏と社會主義時代の監督者-獨乙に於て社會民主義と云ふ理由-官吏專制の生產は國家社會主義其者なり-生產を減退すと云ふ非難の起る理由-社會主義は分配論に重きを置かず-今日の分配的限光と共產時代-個人的分配の理論的不能-分配は生產に伴ふ-圓滿なる理想としての共產主義-〓貧の平分にあらず上層を引き下ぐるに非らず-社會主義は大生產によりてのみ實現さる-ツラストの資本家問のみの合同を更に全社會の合同となす-ツラストの浪費なき大ツラスト-生產權が個人の財產權たる今日と賣官制度-小企業家と小資本家の尙存在し得べしと云ふ事實とツラストが社會主義に至ると云ふ事實とは別問題なり-鶴的社會主義と純正社會主義第貳編社會主義の倫理的理想第四章一五七········二一七社會主義の倫理的理想章一五七········二一七一五七········二一七
個人主義の犯罪觀-先天的犯罪者の多くも祖先の社會的境遇の遺傳なり-生活の欲望と下層階級の犯罪-犯罪者の多くは家庭に於ける道德家たらんが爲めなり-シルカツタの獄に繋がれたる貧民階級-緊急狀態權と個人主義の刑法學の矛盾-高尙なる生活の慾望と上層階級の犯罪-高尙と云ふ文字の內容は今日黃金を以て充塞せらる-講壇社會主義の犯罪觀- -樋口勘次郞氏の犯罪不滅論-犯罪は病的現象に非らず-社會良心-進步の先驅者と犯罪者-生體の根本的組織の革命と其れに伴ふ必然的現象たる犯罪の消滅--デユルクハイムの承認せる宗〓的犯罪の消滅と社會主義による經濟的原因に基く犯罪の消滅-普通良心の銳敏と刑罰の輕減-社會良心の進化-社會主義は餘りに多くを將來に期待する空想なりと云ふ先入思想-重力落下の原則と社會進化-宗〓に關する犯罪の時代と社會良心の進化- -强者の意志に反する犯罪の時代と普通良心の進化-生體の根本的組織の革命と犯罪の質の變化--犯罪の質と數-偏局的社會主義時代の社會良心と社會主義時代の社會良心- -樋口氏は報復主義の刑法論を取る-社會良心の進化と死刑-法律の時代と道德の時代-個性の變異を尊重する社會良心は變異の個性を犯罪視する者に非らず-今日の多くの犯罪は各階級の各異なれる階級的良心と國家社會の利益を理想とする良心との衝突なり-良心の內容の社會的作成- -國家の法律は階級的行爲を律するを得べきも社會の道德は階級的良心を責むる能はず-獨乙皇帝の階級國家時代の良心-經濟的貴族階級の良心-裸體に生れたる良心と階級的衣服-貧民階級の良心作成の〓狀態-一國家一社會內に地方的時代的良心を混在せしむ-社會主義と階級的良心を掃蕩の爲めに革命主義となる-階級的良心と階級闘爭-
「人は只社會によりてのみ人となる』-倫理的生物と倫理的境遇-狼に養はれて獸類に退化せる小兒の事例-獸類の如く退化する變化性は神の如く進化する變化性なり-遺傳と境遇-摸倣性の說明-現代の人は凡て狼の手に養はれつゝあり-空腹即ち犯罪飽腹即ち犯罪と云ふ意味-社會主義と個人の責任-思想の獨立信仰の自由あるは其の獨立信仰を認むる社會良心あるを以てなり-社會主義の自由論の眞意義-純正社會主義は個人主義の進化を繼承す-私有財產制と個人主義-社會主義は亦私有財產制の進化を繼承す-經濟上の獨立と政治上及び道德上の獨立-私有財產制度の高貴なる意義と民主々義-經濟的貴族國の現代として政治の自由なく道德の獨立なし-現社會に個人の自由なきは其の根底たる個人の私有財產なくなれるを以てなり-社會主義時代には個人は他の如何なる個人にも屬せずして社會に屬す-忠君と愛國-個人は社會に對する經濟的從屬關係より社會の幸福進化に努力すべき政治的道德的義務を意〓識するに至る-賣買廢止は亦この理由による-献身的道德の武士道と素町人の利巳的道德との差は經濟的關係に於て責任を有すると有せざるとによる-國家社會に對する經濟的從屬關係より國家社會に對する献身的道德を生ず-個人社會と社會主義とを混同しつゝある奇觀第參編生物進化論と社會哲學第五二一八········二八八生物進化論者と社會主義者との背馳-社會主義は生存競爭說の外に立つ能はずー-組織の皆無なる生物進化論-代表的學者として丘博士の『進化論講話』-其の社會主義評-今
の生物進化論者は人類の生物界に於ける地位を獸類の階級に置く-滅亡すべき經過的生物『類神人』-生物進化論者は進化の跡を見て更に進化し行く後を見ず-獸類〓の〓信-優者適者强者の內容は生物種屬の階級に從ひて異なる-人類の優者と獸類の其れとを同一現す-生物進化論者は生存競爭の單位を定むるに個人主義を以てす-顯微鏡以前の個體の觀念-ヘツケルの個體の定義-個體の階級〓社會有機體說-へツケルの生物學者大會の演說の奇怪し個人と社會とは同一異名の者なり-個人的利巳心と社會的利巳心- -社會的利巳心による社會單位の生存競爭-人類に於で特に社會性の重ぜらるヽ理由-クロポトキンの相互扶助による生存競爭-生物進化論は古來の漠然たる道徳的意識に科學的根據を與へたり-偏局的個人主義を〓覆せる生物學- -高等生物の生存競爭は社會單位の相互扶助なり-生物進化論の哲學史上の革命と社會に於ける社會主義の革命-單位たる個體の社會は生物種屬の進化するに從ひて高まる- 5丘博士は進化論と背馳する循環論の思想を有す-國家競爭人種競爭は歷史の進化に從ひて其の單位を大にし行く-丘博士の帝國主義論は競爭の内容の進化し行くことを解せざるより起る-丘博士は帝國主義の空想を以て却て社會主義の者となす-帝國主義の歷史上の効果--同化作用と分化作用-社會主義は國家を認識し國家競爭を認識す-階級闘爭と國家競爭-聯邦議會にて決する國家競爭-丘博士の論理の蕪雜-天地創造說の思想を以て人種競爭論を不靈殘忍ならしむ-吾人の文明人に作らるゝ所以-肉體的遺傳と社會的遺傳-肉體的遺傳其者も種屬的智識を繼承する本能なり-下等人種の滅亡は社會進化の當然なり-人種競爭の內容の進化-社會主義は個人と人種の劣敗者の上に建6
てらる-正義の進化と驅逐殺戮による人種競爭論の困難- -死刑陶汰の刑法論よりする驚くべき推論-一の分子若しくは分子の集合が他の分子を殺戮する權ありとせる偏局的社會主義時代の普通良心--道德的陶汰の生存競爭と社會的群集の生物-原人時代は平和に菜食して漁獵遊牧にあらず-今日の野蠻人を以て文明人の原始に推及すべからず-漁獵遊牧の時代に入りて部落單位の生存競爭をなし意識的道德時代となる-社會單位の生存競爭時代と死刑陶汰-朕即ち國家の意義-同化作用による社會單位の擴大と分化的發展の個人主義時代-希獵羅馬の末年及び羅馬法王の下にて個人主義の興起したる事實-個人單位の生存競爭は遙かに後代の歷史過程なり--社會民主々義-社會主義は個人の分化的發展の爲めに個人主義を繼承す-國家主義と個人主義とは共に現社會の經濟的貴族國に對して革命に出てざるべからず-個人の國家に對する犯罪と國家の世界に對する犯罪-個人の自由と國家の獨立の意義-國家の理想的獨立は世界聯邦によりて得られ個人の完全なる自由は萬國平和によりて得らる-偏局的社會主義の國家競爭の爲めに個人の自由が蹂躙せられたる事例-人類の歷史に入すイよ〓生存競爭の內容の進化-强力の優勝者たりし中世-勞働を優し勝者とせる個人主義の理想-糞泥の上に產み落されたる優勝者-奴隷の境遇に適する奴隷の優勝者第六章二八九········三二八社會主義の世に於て固より生存競爭あり--個人單位の生存競爭即ち雌雄競爭-個體の延長-靈肉の不死不滅-食物競爭と雌雄競爭との生物學に於ける地位-食物競爭による進化と雌雄競爭による進化-天地一切の美は雌雄競爭に
よる進化なり-詩人の直覺と吾人の科學的研究-生物進化論に對する組織組み替への要求-萬有進化の大權を社會全分子の手に屬せしむ-生存競爭の劣敗者たる失慈者-食物〓爭は雌雄競爭に先だつ-現實と理想-下等生物にては食物競爭の優勝者が同時に雌雄競爭の優勝者たる者多し-人類に於て食物競爭の優勝者が雌雄競爭の優勝者たる過去及び現在-臀下の權利と男色奴隷-横極的賣〓の男子階級-女子を購買するの權利と男子を購賣するの自由-男女同權論は私有財產制と共に實現せられたり-貧富同權論と云ふのみー-『福神』が結びの神となれり-雌雄競爭によりて理想を實現すと云ふ理由-雌雄同數ならざる下等動物の雌雄競爭と同數なる人類の進化-家庭單位の食物競爭と理想の實現に非らずして單に現實の繼承に止まる-社會の進化と戀愛の理想の進化-現今の戀愛の理想-理想の爲めに現實を機牲とする下等生物-懇愛の理想の進化と自由戀愛論-舊思想の壓迫を排除すとの意味に於てする自由戀愛論戀愛の自由は先天的に非らず-社會主義の自由戀愛論は革命の爲めに唱へらる-詩人の直覺せる饒と戀の二大鐵槌-戀の要求の最も充たされざる蟻蜂の社會-全分子戀愛を要求する人類は全分子理想を有する故なり-戀愛と平等主義悲慘なる家庭論-金井博士の家庭論よりする社會主義の非難-私有財產制度は民主々義を確立し女子を開放せり-一般階級には再び私有財產なくなれり-自由戀愛論と女權問題とは無關係なり-個人主義時代の男女同權論の誤謬を繼承する所謂社會主義者-分化的進化をなせる個人としての男子と女子とは同等にあらず-自由戀愛論とは、社會の全分子たる男女の理想とする所を自由に實現にして社會を進化せしめんとする戀愛方面に於ける自由平等
論なり-經濟上の獨立による戀愛の自由--女學生の堕落とは女子の經濟的獨立による貞順の奴隷的義務の拒絕なり七章三二九········二八八戀愛の自由なると共に人口過多に至ると云ふマルサス論は社會單位の生存競爭たる食物競爭によりて說明さるべし-〓ルサス論を現在の狀態と社會の將來との二樣に解す-個人主義の人口論を以て上層階級より解する者と下層階級より解する者-マルサス論は個人主義の立脚地よりするも價値なし-算術求數と幾何求數と云ふ獨斷より統計の取扱ひを誤まる-人口も食物も算術求數に增加する者に非らず又幾何求數に增加するものに非らず-マルサスは時勢の致す所の外に價値なき凡物なり-マルサス論を以て社會進化論に對抗する金井博士の醜態-今の學者階級は社會進化論を解す第る頭腦を有せず-マルサス論とは「人口』對『食物』の問題なりー-經濟學の範圍內にて『食物』を論ず-食物の種類の進化と食物の生產方法の進化-食物の種類は漁獵時代牧畜時代農業時代と社會の進化するに從ひて進化せり-食物の生產方法の進化-人智を以て食物たるべき生物種屬を繁殖せしむと云ふ意味の生產方法の進化-生物種屬を人類の口にまで持ち來る間に於て更に人智を加ふる經濟的活動の意味に於ける生產方法の進化-一切の生產は原始的生產より工業的生產に進む-煮燒の僅少なる工業的生產行爲-原始的生產より工業的生產に進化せる住居及び衣服-蒸氣と電氣とを有する胃腸の工業的消化時代-科學の一元論と化學的調合の食物時代-マルサスの獨斷論よりも科學者の實驗に從はん-「人口」を生物學によりて說く-ダー井ンの大過失はマルサスの人口論を凡ての生物種屬に擴充して生存競爭說を立て
たるに在り-ハツクスレーは食物競爭が種屬對種屬のものなる〓とを正當に解せり-ハツクスレーの不備の點-食物競爭は凡ての生物種屬を通じて同種屬間の個々對個々の者にあらず-生存競爭の優者適者强者の意義-今の生物進化論は生存競爭の對敵と結果とを混同す-社會主義時代に於ける社會單位の生存競爭とは種屬單位の最も廣き意味に於ける大個體の生存競爭なり-ダー并ンの偉大は生物種屬は其の種屬の生存進化の爲に必要なるだけの子を產むと云ふ生物學よりの歸納に在り-目的論の哲學系統は生物進化論によりて科學的に決定せられたり-凡ての生物種屬は生存進化の目的の爲に必要の形を執る如く必要の子を產む-社會主義は凡て生物學の基礎に立つ-ダー并ンの二大功績-人口論は人類種屬を包含せる生物學の斷案によりて解せらる~ -種屬の生存進化に困難なる下等生物は最も多く子を產み困難の减少と共に高等生物は產子の數を减少す-今日マルサス論は社會進化論に延長せられたる如し--今の生物學者も或る程度迄ダー井ンを解す-ダー井ンの目的論を執りてマルサス論を社會進化論の否定に用ふる滑稽なる矛盾-今日の人口過多は生存競爭の劣敗者あるが故に必要なる天則なり-人口過多は貧民階級其れ自身の爲めにも必要なり-生殖慾と歷史の進化-貧困の劣敗者去ると共に下等生物の方法にて種屬を維持する必要去る-戰爭の劣敗者が亦下層階級より出づるが爲めの人口過多-社會の必要に應じて人口の增減する歷史上の事實-日本今日の人口增加は貧困と戰爭との繼續の爲めなり-人口の捌口を滿韓に求めたるに非らず-戰爭を理想とする國家なるが故に人口は其の必要の爲めに增加す-社會主義が思想其者の革命を要する理由- -皮想を解釋せるに過ぎざる主戰論者と非戰論者-上層階
級より個人主義を以て貧民の生殖慾に道德的責任を負擔せしむる能はざる如く下層階級より個人主義を以て上層階級の貪慾非道に基く貧困なりとして道徳的責任を問ふ能はず-今の社會主義者と名くる者に個人主義者多し--下層階級は上層階級の犠牲たらんが爲めに人口過多なり-社會と云ふ大個體の今日の進化の程度は下等生物の如く個體の一部を缺損して生存する犧牲の方法なり-下層階級の人口過多は政治的單位の個體及び經濟的單位の個體の缺損すべき部分として補缺の爲めなり-人口過多なければ人類は巳に消滅したるべし-人口過多の恐怖さるべきは過多の子を犠牲とするに堪へざるに至れる愛の進化なり-機牲として多くの子を產みつゝありしことを知らざりし奴隷農奴の時代-社會の進化は同類意識の深く廣くなることに在り-人口論の解釋が近代に至りて要求さるゝに至りし理由-同類意識の進化と佛蘭西革命-天則の挑發する下層階級の生殖慾-革命は愛の滿足を求めて起る-上層階級は人口過多の聲を革命の意味に恐怖せよ-社會主義の世に於て人口增加は恐怖の意味にあらず-社會主義時代に人口增加に苦しむと云ふは恰も個體を缺損して生存する生物を見て人類の手足が幾何求數に增加したりと云ふと等し-日本の學者は通辯なるが故に責任の負擔者に非らず-ダー井ンに混ぜる個人主義と社會主義-人類の進化は其の過大の繁殖力によりて相競爭する故なりと云ふ彼の過失を繼承せるキツドの『社會進化論』-ヰツドの理論ならば人類は滅亡して蠅と蝶虫の文明國時代なるべし-キツドは兒童なり-丘博士の『進化論講話』はマルサス論の擴充に過ぎずして理論なし-社會主義時代に生存競爭ありとの斷案
第八章三八九········四七三今日まで生物進化論に結論なし-進化の意識は宇宙絶對の意識なり-社會主義の世に於て人口は出產と死亡と平率を保つと云ふ推論-猛獸に對する生存競爭をなせし原人と黴菌屬に對して生存競爭をなしつゝある現代-人口は更に增加すべしとの推論-人口增加は今日と雖も歡喜すべき天則なり-凡ての生物種屬は生存の目的の爲めの產子以上に進化の理想の爲めの多產あり-人口增加は二樣の意義を有す-生死平均との推論は一面の解釋に過ぎず-生物學より見たる君主國貴族國民主國の三時代-法律の進化を解せざる所謂社會主義者-恐怖の意味に非らざる人口增加-上層階級の多產が懽喜なる如く今の下層が凡て上層に進化せる社會主義時代の人口增加-人口增加は雌雄競爭をなさんが爲めに多くの卓越せる個性を要するゆゑなり-一元のアダム、イヴの雌雄競爭なき時代より十億に增加せる現代の進化-今日の失戀者を以て社會主義時代を想像すべからず-大體の事實として上層は全社會の理想なり-片思をも絕望せる失戀者の下層階級-階級內の戀愛競爭の現代と全人類の大を看客とする釋尊とマリアとの戀-階級的善と階級的眞-『氏』の階級的定型の遺傳と『育ち』の階級的定型-階級によりて作らるゝ容貌即ち階級的美-何が故に戀の理想たる上層を要求する能はざるかと云ふ積極的自覺-雌雄競爭による眞善美の進化、天才の世界-個人主義の高貴なる理想と萬有進化の大權-若き男女の握れる手と手は羅馬法王の絕對無限權を有すべし-社會主義と個人主義との理想の合致-講壇社會主義には何の理想なし-社會主義は個人主義と異なりて社會の進化を終局の理想とす-卑近なる科學者
の態度を以て最も近き社會の將來を想像せしめよ-社會主義時代に於ける社會進化の速力-『類神人』の遺傳の累積は本能を異にするに至り從て別種の生物種屬『神類』として分類せらるべし-『善』の本能化は一世紀間にて來る-個人主義の倫2.理學は社會性の滿足の爲めなる道德を解せず-意志自由論と意志必致論とは合致すべし-今日に於て犯罪者若しくは消極的善人のみなる理由-現社會は法律の上においても道德の上においても社會主義を理想としつゝあり--道德法律の理想と現實の道德法律-偏局的個人主義の歐米と偏局的社會主義の日本-中世的蠻風の社會性と私有財產制の日本-社會主義の世は無道德の世界と云ふべし-今日の本能を固定的なりと考ふるは天地創造說の思想なり-人爲陶汰による本能の急速なる變化-今日の利已心の强盛なる本能は私有財產制度に入りしよりのことなり-豚が二三代にて野猪に返へる如く二三代にて堯舜時代の蕾を爛熳たらしむべし-『眞』の進化-人類はカンガルーと等しき有袋動物なり-體外の袋に在るカンガルーの九ヶ月が生殖作用の一部なる如く社會の袋に〓育さるべき二十才までは生殖作用の一部なり-獨斷的不平等論の最後の呼吸--生殖作用とは種屬的經驗智識を肉體的に遺傳する〓育にして〓育作用とは社會的に遺傳する生殖なり-社會主義を下層的平等と解する『平民主義』の惡しき命名-個人の絕對的自由は、先づ社會の一分子に實現せられて君主國となる-其實現の少數階級に擴張せる貴族國時代-タルドの摸倣による平等-戰國時代とは個人の權威の衝突なり-革命以後の日本の法律は社會民主々義なり-今の世に平民なし-衆愚主義に非らず全社會の天才主義なり-社會主義は先づ天才の發展すべき自由の沃土たる點に於て天才主義なり-社會主義は更に天才を
培養する所の豐富なる肥料を有することに於て益々天才主義なり-天才と社會との關係-天才の定義-自由の沃土なき時代の天才-豊富の肥料なき時代の天才-社會精神とは過去の個性の精神なりと云ふ點に於て社會主義と個人主義の合致-人類は腦膸及び神經々統を進化せしめて本能を異にするに至る-『美』の進化-凡ての眞善美は進化的なり-圓滿なる美の理想たる天人天女の容貌は二三代にして實現さる-人類は排泄作用を去るを得べし-凡ての生物種屬は其目的理想の爲に凡ての器官を進化せしめ退化せしむードー人類の器官の進化せる部分と退化せる部分-人類の今日迄の消化器の退化と其理由-食物の進化に併行する消化器の退化は工業的食物時代に入りて愈〓退化し化學的調合に至て全く排泄作用を去る-戀人の脫糞獨乙皇帝の放屁-問題は何が故に脫糞放屁を恥辱と感ずるかの理由の根本に存す-更更其其を感する〓と小兒よりも大人に野蠻人よりも文明人に甚しきかといふ感情の進化が問題なり-目的論の哲學と生物進化論は凡ての說明なり-凡べて眞善美に係はる恥辱の感情は理想に對照されたる現實の不滿なり-排泄作用を恥づるに至れるは大なる進化なり-理想の低級なる下等動物と其排泄物-理想の進化と排泄作用に對する感情の進化-社會進化の原則によりて獨乙皇帝は故屁を塗り附ける理由あり-進化とは理想實現の聯續なり-物質文明を讃美せん-人類は交接作用をも廢止すべし-戀愛と肉慾とを分離せんとする要求は人類の進化的生物たるより發する理想なり-一元論の化學-凡べての生物は兩性抱擁の生殖方法に限らず--人類は魚類の如き方法にいたる能は#ざるか-助骨の一片と實驗室中の小さき生物-油虫の單性生殖と男性なくして英雄を產める歷史上の事實-兩性生
殖も進化の一過程なり-生物進化論は大釋尊の哲學宗〓に歸着せり-生殖作用が理想實現の方法たる點において獨身の聖者は大なる生殖をなせり-社會とは空間なき密着の大個體なり-小体個腹中の〓育と大個體腹中の生殖--我我絕對の愛の世-人類の滅亡は胸轟くべきの歡喜なり-個主人義の哲學宗〓は棄却さるべし-天國は人類の滅亡せる『神類』の地球なり-科學的宗〓-無我絕對の愛を說くは『神類』に致らざる人類に向つては癲狂なる〓と恰も類人猿の如く蛆虫類の如くなれと云ふと同一なり-社會民主々義の哲學宗〓は社會單位の食物競爭と個人單位の雌雄競爭を社會民主々義の名に於て主張する生存進化の科學なり-基督〓は一夫一婦論を要求して絕對の愛に非らず又佛〓は他生物の小我を承認するを以て無我の愛に非らず-基督釋尊は吾人と等しく人類社會の一分子として『神類』を理想としたるのみ-社會番民主々義の天國に至るべき途は階級鬪爭にあり個性發展に在り伏能啓發にあり自由戀愛にあり科學に在り-吾人社會民主々義者は『人類』と『神類』とを繫ぐ鐵橋工事に服しつゝある一工夫なり-發狂漢は鐵橋工事を解せず-以上の歸結、今の生物進化論は凡て悉くその力を極めて排擊したる天地創造說を先入思想として生物進化の事實を解釋しつゝあり-宇宙〓目的論の哲學と生物進化論の科學とは茲に始めて合致し相互に歸納となり續繹となりて科學的宗〓となる-『類神人』の語は生物進化論の結論なり第四編所謂國體論の復古的革命主義
第九章四七四········五七二社會主義と「國體論」と云ふ羅馬法王-社會主義の唯物的方面よりも良心の獨立の急務-國體論中の『天皇』は迷信の揑造による土偶にして天皇に非らず-國體其者日本歷史其者の爲めに復古的革命主義を打破す-現今の國體を論ず-社會主義の法理學は國家主義なり-君主々義或は民主々義の主權在論と個人主義の誤謬-今日に於て個人主義を唱ふるは前提の契約說を捨てゝ結論の主權論を爭ふことゝなる-契約說の意義ありし階級國家時代-天皇と國民とは權利義務の契約的對立に非らず-中世の階級國家と近代の公民國家政權と統治權-國家主權の法理-國體の進化的分類s -君主が國家を所有せる家長國と君主が國家に包含されたる公民國家-法律學の動學的〓究-今の學者が國體及び政體の分類に無益なる論爭】をなすは進化的〓究なきが故なり-穂積八束氏と有賀長雄氏-『國法學』は歷史的〓究にあらずして逆進なりー有賀博士は治らすの文字の形態發音によりて今日の統治關係を太古に逆進す-文字なき一千年間は天皇と呼ばれず-古代の權利と今日の天皇の權限~國家は地理的よりも寧ろ時代的に異なる-天皇の文字の內容の地理的時代的相異-法律學は文字の內容を決定するを以て重大なる任務とす-歷史によりて憲法を論ずと云ふ穗積博士と有賀博士の潜越-我が國體に於てと云ふ循環論法-日本國民は方世一系の一語に頭蓋骨を毆打されて悉く白痴となる-徹頭より徹尾までを矛盾せる白痴の穂積博士-君主々權論を取るならばザイデルの如く國家を中世の土地人民の二要素の客體とせよー凡ての君主々權論者の國家觀は近代の主權體たるを表はす國家主權論者の者なり-君主々權〃
論者は國家觀を中世の者に改むるか憲法第一條の大日本帝國を國家に非らざる國土人民のみと添削するか-積穂博士の恣なる文字の混用-皇位或は天皇を國家なりと命名することの結果-穗積博士は主觀的に見たる國家を移して客觀的に見たる天皇と等しと云ふ惑亂なり-穗積博士は皇位說を捨てゝ天皇の一身に統治權ありと云ふ-生命の延長と云ふ氏の遁路を生命の蕃殖と云ふことを以て追究せよ-天照太神より延長せる統治權とは天照太神より蕃殖せる統治權と云ふことを是認して民主々義に至る-穗積博士の議論は万世一系の國體に限らず--憲法の文字と學理攻究の自由-『國の元首』の文字に對する凡ての憲法學者の態度-比喩的國家有機體說は維持すべからざる比喩の玩弄なり-國の元首とは比喩的國家有機體說の痕跡にして國家學說の性質を有す- -天皇は國の元首に非ず-天皇は統治權を總纜する者に非らず-今の國家主權論者の政體二大分類を絕對に否認すー-機關の意義--天皇と議會とは立法機關の要素なり-最高の立法を爲す憲法改正の最高機關、-憲憲君主政體とは平等の多數と一人の特權者とを以て統治者たる民主的政體なり紛々たる國家生權論者の無意義なる論辨-美濃部博士の議論の不貫徹し憲法解釋に於て智識の基礎を國家學に求めざるよりの誤謬-美濃部博士の基礎なき國家觀-統治權總競の文字は學理の性質を有する者に非らず學者は矛盾せる條文につきて取捨の自由を有すと云ふのみ-公民國家につきて政體三大分類の主張-一木博士は政體の差別よりなしと云ひ美濃部博士は國体の差別よりなしと云ふ-國體及政體の歷史的分類-國家主權論者の國體と政體とを混同するを排す-吾人は國家人格實在論の上に國家主權論を唱ふ-法律の進化とは實在の人格が法上の人格を認識さるゝ〓とに在
り-國家が實在の人格にして法上に認識せられざりし家長國時代~-馬馬時代の個體の觀念と當時の人格の思想-君主主權診者と國家主權論者との臆說の暗闘-國民の信念に於ける國家主權論の表白-今日の國家は實在の人格が法上の人格に認識されたる者なり-『君の爲に』と云ふ君生々權の時代と『國家の爲に』と云ふ國家主權の時代-今日の國家有機體說と比喩的國家有體說-國家意識は一人にのみ有せらるゝ者に非らず--主主の威力に非らず團結的强力と自已の〓きたる觀念なり-君主の基礎-井上博士と穂積博士は前提と結論とを〓倒す-國家意識と政權の覺醒-原始的共和平等の時代と君主制の原始-アリストーツルの國家三分類を進化的に見よ-日本史に於ける君主國貴族國民主國の三時代-井上博士は君主々權論を主權體の更新と云ふことを以て說明す-今の凡ての學者は個人主義の法理學を先入思想とす-更新する國家の分子は主權體にあらずして主權體たる國家の利益の爲めに純治者となる要素なり-『社會民主々義』と云ふは社會が主權の本體にして民主的政體を以て之を行使するを意味す-日本今日の國體と政體とは社會民主ノ々義なり-社會主義は國家主權の國體の擁護者なり-政體今後の進化は國家の目的と利益とによる-國家機關の改廢作成に於ける國家主權の完全なる自由-社會主義の法理學は國家主義なりと云ふ理由-法理學を離れて事實論としては政權者の意志が國家の意志なり-社會主義と强者の意志第+章五七三·········六一三+章五七三·········六一三所謂國體論は法理論以前に在り-家長國なりと云はしむる神道的迷信の墮力-天皇を主權者と云はしむる頗倒の歴史
解釋-信仰の自由は君主との契約に非らず-天皇の信仰と國民の信仰とは無關係なり-日本帝國は宗〓〓體に非らず-穂積博士の信仰論と君臣一家論-氏は神道の信仰と共に神話の科學的〓究を爲す-社會の原始及び公法の淵源家長制度と家長權は社會の原始に非らず又永遠のものに非らず-氏は進化論を否定す-神道のアダム、イヴによりて基督〓的世界主義を取るか猶太〓的排外〓を取るか-氏の天照太神を天祖と云ふことは神道を毀傷するものなり-故黑川博士の進化論評-神道の勢力の皆無-氏は天皇を空虛の上に置きて覆べす-君臣一家論による二樣の革命論-君臣一家論と發狂視-穂積家は皇家の末家に非らず-家長制度は敢て日本に限らず-穗積博士自身は神道を信仰せず-多神〓の哲學と祖先〓の宗〓-氏は生殖器を禮拜するか神道を捨つるか-沙汰の限りの忠孝一致論--忠孝一致論を破壞する者は君臣一家論なり-天皇と國民は親籍の平等關係に非らず-內地雜居による一家論の困難-歷史上より君臣一家に非らず-國體論の破壞者は現天皇陛下なり-日本人種研究論と國體論者-親戚關係の平等なる今日に於て天皇を家長と云ふ〓との自殺論法第十一章六一四·········六七〇日本に於て系統主義、と忠孝主義の特に發展したる理由-系統主義と忠孝主義との頗倒せられたる歷史解釋-政治史- -順逆論と天動說-〓育勅語の歷史解釋と吾人の獨立-天皇の鐵柵內に浸入する者-日本には未だ歷史哲學なしー-政治史と倫理史-皇室初代の政治的道德的地位-神武の結婚緩靖の即位-純然たる原始的生活-數の觀念の不明確なる時代と神武紀元の計算-記錄すべき文字なかりし
一千年間は政治史より削除すべし-コロンプス時代の羅馬法王の世界所有權と皇室初代の日本所有權--逆進的批判に入るべき地方と全國獨立の部落-各族長の私有民と皇族の長との無關係-國體論より除外すべき一千年間と當時の天皇の意義--後後歷史的記錄の編纂さるゝ迄の四百年間は依然たる原始的生活の繼承なり-政治史の開卷第一章よりの亂臣賊子-逆進的批判の歷史-例外は皇室の忠臣義士にして國民の大多數は亂臣賊子なり-皇室は最初の强者なりき-蘇我氏の亂臣賊子-大化革命後の八九十年間-家長國に於ける財產權としての統治權-祖父の愛孫と後見人の權利-太政大臣の不可侵權-壺切の劔と皇位繼承權の表白-天皇對內閣全員のストライキ-血液による皇位の侵犯-山僧の活動と平〓盛-中世史即ち日本歷史の全部なるを例外とは何ぞ-平氏、源氏、北條氏-北條氏の三帝放逐と國民の共犯-吉野山の殘兵よりも多き高時の殉死者-敗れたる忠臣よりも勝てる足利氏はより多くの亂臣賊子を有す-師直の天皇不用の放言と政黨內閣論者-戰國時代の皇室の悲慘の事例-秀吉と權利思想の表白-德川氏の對皇室策-抱腹すべき德川責任內閣論-有賀博士は委任の文字を逆進せしめて論ず-不斷の幽閉と不斷の强迫讓位ノ-義時の自家防衛と德川氏の積極的迫害-王覇の辨の主權論と白石の幕府主權の計〓-天皇の榮譽權の蹂〓- -勤王論の言論迫害と志士の窮追-日本歷史は亂臣賊子の聯絡して編纂したる者なり第十二章六七一········七二〇政治史と倫理史の根本的說明たる歷史哲學-系統主義及び忠孝主義と凡ての民族の上古及び中世史-皇室の傍より見六七一········七二〇
て亂臣臣子たりしことは其の對抗者より見ば忠臣義士なり- -亂臣賊子が一人にて働けると思ふや-民族の歷史と歷史〓の符合-凡ての民族の忠孝主義と系統主義-原始的共和平等の時代-忠孝主義は人類原始の道德に非らず-系統を辿りて發展する社會意識-家長制度と祖先〓-忠孝一致論の本來の意義-神武天皇の所謂大孝-國體論者は神道の異端にして古典の叛逆者なり-遠き家長の代辨者としての天皇-全國各部落の獨立-歴史的生活以後の系統主義と忠孝主義-近親の家長の爲に遠き本家たる皇室を打撃す-一族一家を單位とせる生存競爭-系統主義と各家長の平等觀-大化革命のユトピアなりし理由-藤原氏の亂臣賊子も亦家族々黨の忠孝主義の故なり-中世史の系統主義の特殊の說明-道德の本質-他律的道德時代と自律的道德時代-摸做的道德時代の中世史と系統崇拜-系統崇拜と亂臣賊子の首領--亂臣賊子の首領は系統によりて天皇との平等觀を作り、系統的誇榮によりて系統崇拜の國民に奉戴せられたり-系統主義は貴族階級をして天皇に對する平等主義とならしむ-中世史の忠孝主義の特殊の說明-道德の形態と社會の經濟的境遇-政治史及び倫理史の根底として經濟狀態の時代的考察-忠とは經濟物としての所分に服從すべき奴隷の道德的義務なり-歐州の奴隷制度と日本の其れ-忠の極度の履行たる殉死の他律的時代-奴隷制度の繼續と自律的時代の殉死-武士道は奴隷の道德を自律的形式に於て行ふ-貴族階級の土地を占有せる階級國家時代と土百性及び武士の經濟的從屬關係より生ぜる奴隷的服從-ー貴族階級の經濟的獨立による政治的獨立--武士道の理論-武士道は皇室を迫害せる者なり-井上博士は土人の會長なり-所謂例外の忠臣義士なる者につきて更に一段の考
察--歴史の始より數へよ-新田氏と楠氏-日本民族は各自の主君に忠なりし傍發の結果として皇室の忠臣となり亂賊となる-水戶齎昭の所謂『眼前の君父』-正成の殉死者と高時の殉死者-貴族階級を組織せる無數の眼前の君父と其の下に衛星の如く從ふ亂臣賊子-皇室の忠臣義士は其れに經濟的從屬關係を有する公卿のみ-系統主義と忠孝主義とが皇室を打擊迫害したりとの斷案七二一········二二第十三章然らば如何にして万世一系なりや-万世一系の傳はれる理由は憲法學者に最も必要なり-『天皇』と云ふ文字の內容の進化〓-『天皇』の內客の進化なき第一期たる原始的生活的時代は一族一宗家の家長として祖先を祭るときの祭主と云ふ意義な原始的時代の皇室は神道によりて奉戴せられたり-七二一········二二國體論の革命が可能のとき-大化革命以前の社會の混亂と天皇の基礎の崩壊- -皇族對蘇我族の宗〓鬪爭-『天皇』の意義の第二期の進化は全人民全國土の所有者と云ふことなり- -孝鎌天皇は財產權の自由なる行使にして溺愛にあらずー-君臣一家論が大逆無道なる道鏡の論理なる所以-系統主義は皇室を打擊迫害すると共にまた皇室を維持したる所以なり-神道の勢力は凡ての民族の其れのごとく國家起原論としイ近き以前までの勢力なりき-神道の國家起原論によりて維持されたる皇室-藤原氏の亂臣賊子は系統主義の爲めにして其の皇位を奪はざりしも系統主義の爲めなり-系統主義は自巳以下の階級に向つては誇榮たると共に自巳以上の系統の者に對しては憚を生ず-中世史の『天皇』は其の所有の土地人民の上に家長君主たりしと共に全國の家長君主等の上に『神道の羅馬法王』として立てり-將軍とは『鎌倉の神聖皇帝』な
り-歐州の中世史と日本の中世史-神道の信仰が勢力ありし間は神道の羅馬法王は鎌倉の神聖皇帝を支配したりき- -中世史の『天皇』の內客を古代の其れと等しと解しては秀吉の宣言は天皇の否認たらざるべがらず-神道の勢力の衰退と其の墮力-將軍の天皇たらざりしは神聖皇帝の羅馬法王たらざりしと同じく別天地の存在なるを以てなり... 1皇室の復古的希望に伴はざる强力-全日本の統治者たらんとの天皇の要求を國民は常に强力に訴へて拒絕しつゝありき-幽閉の安全によりて系統は斷絕するものに非らず-絕望の爲めに繼續したる万世一系は亂臣賊子が永續不斷なりし〓との表白なり-優溫閑雅なる詩人として政權爭奪の外に在りしを以てなり-佛蘭西國民よりも天皇を迫害したり-殺人狂に非らざれば如何なる强盜と雖も財布を奪ひたる後、若しくは充分に膨らして持てる其子孫は遠き以前に失へる所に向つて刄を加へず-强盗の手より强盜の手に轉々せる財布-將軍の悲壯なる末路に反して万世一系の血痕なき理由-亂臣賊子は纂奪者たる必要なかりしなり-幕末の國體論者は亂臣賊子の掠奪者を〓覆せんための努力なるに今の國體論者は掠奪者を辯護して却て尊王忠君なりと云ふ-皇室の万世一系あるは系統主義と忠孝主義と及び神道的信仰によると云へる以上の說明-國民の奉戴と云ふことゝ系統の連續と云ふ〓ととは別問題なり--基督の後に羅馬法王ある如く國體論は羅馬法王となりて今や眞理を迫害するに至れり-有賀博士の統治權委任論-有賀博士は歷史家として一の價値なし- -有賀博士は宇宙開闢說を以て歷史を解しつゝある點に於て神道の信者たる穗積博士と等し-有賀博士の徳川氏に關する統治權委任論は純然たる論理的措亂なり--博士は更に德川氏以前より凡て幕府との關係は委任なりと云ふ-兵馬權
なる者が天皇より委任されしとの議論は成立せず-外交權なる者が天皇より委任されしとの議論も成立せず-有賀博士の用語は詐欺取財脅喝取財を委任取財と云ひ臟品を委任財產と云ふ者なり-博士の主權論は其の主體と行用とが相背馳し若しくは相打撃し得べしと云ふ者なり-歐州今日の各國は主權の體と云ふもの無き空虛のものか-万國無比の國體には万國無比の統治權委任論あり-穗積博士の主權本質論は有賀博士の統治權委任論を打ち消す-穂積博士の主權本質論は權力を行ふ力なかりし中世史一千年間の天皇が主權者にあらずとの斷言なり-其二、權力を行ふ所の今日の天皇を主權者とすると共に幕府を權力者なりと云ふ主張なり- -其三、日本の主權は決して万世一系に固定せず常に動搖したりとの歷史解釋なりし穂穂博士の主權本質論は亂臣賊子を主權者なりと追認するものなり-穂積博士の銅像は兩頭にして各々脫糞を要す-伊藤博文氏の强者の權の表白と穂積博士の奴隷-穂積博士は幕府主權論者として志士の忠魂を侮弄す-穂積博士の維新革命論は凡て矛盾なり-『主權の恢復』とは主權の喪失を前提とす-氏の主權本質論は强力說にして神道的憲法論を打消す-穗積博士の主權本質論は自らの君主々權論を打ち消す所の國家主權論なり-有賀博士と穂積博士の衝突-中世史の天皇の意義につきては有賀y博士も穂積博士もともに誤謬なり-多くの統治權の主體が存在せし家長國と云ふ別個の國體-强力が凡ての權利を決定せし中世時代-天皇は神道の羅馬法王たる以外其の範圍內に於ける家長君主としての統治者たる〓とを失ひし〓となしー-貴族國時代の『貴族』の意義〓主主本來の意義は最高の統治者と云ふ〓とにして統治者の上の統治者君主の上の君主と云ふことなり-主權の思想は中世の出現にして今日に最高權と
云ふことなし-最高權の意義に於ける主權所在論は『王覇の辨』の名に於て天皇主權論と幕府主權論との論爭なり-主權論とは無關係に天皇の君主たりしことに動きなし-幕末の國體論は天皇に對する尊王忠君を要求として唱へたるにて歷史上の事實として認めたるにあらず、万世一系を奉戴すべき〓とを要求として唱へたるにて歷史上の事實として奉戴しつゝありしと云ふにあらず-吾人は國體論の名に於て羅馬法王の〓義を排し、万世一系の連綿たるは國民の億兆心を一にして万世欠くるなき亂臣賊子を働きたる結果なりと云ふ第十四章七八四········七九〇維新革命の國體論は天皇に對する忠を主張せんよりも貴族階級に對する忠を否認せんが爲めなり-國體論者は亂臣賊子なる名に於て亂臣賊子に殺さる-等しく忠臣義士なる所の諸侯將軍と等しく忠臣義士なる所の國體論者との奇怪なる階級鬪爭-尊王忠君が十年ならずして憲法要求の運動となれりと云ふ奇怪なる民族心理學-維新革命は王政復古にあらず、歷史とは復古するものにあらず-維新革命は大化の遠き理想たりし公民國家の實現なり-個人の現在的利巳的目的より外なかりし家長國時代と社會の永遠なる理想を意識せる公民國家の現代-社會哲學の見地と道徳學法律學の見地-大化革命の公民國家は天智の理想に止まりて實現されたるものは君主々權の家長國なりき-國家主權論と共に土地國有論を斷行したるは其經濟的關係に於て國家に忠ならしめん〓とに在り-土地國有論の勵行と貴族國の萠芽-後の天皇皆天智の理想を打ち消して家長國となる-經濟的基礎を失へる中世史の天皇は單に理想國を理想しつゝありしに過ぎず-大化革命の政治的組織は尙純然たる階級國家なり-
プラトーの理想國とブラトーの期待したる哲學者の君主-國家主權の國體は長き進化の後なり-朕即ち國家なりとは法理上國家の一部分なる君主が國家の全部なることを意味す-個人的利已心の意識が同時に國家の意志たる家長國-社會の進化と國家意識の覺醒-攘夷論の社會單位の生存競爭による社會的存在の覺醒-維新革命は國家の目的理想を法律道德の上に明らかに意識したる點に於て社會主義なりー-下層階級の經濟的進化による民主的獨立-革命の要求と理論-『國體論』とは民主々義を古典と儒〓とに蔽ひたる革命論なり-權利思想の三百年間に於ける急轉-革命論の要求急なりしが爲めに古代史を考察するの暇なし-幕末に於ける神道的信仰の皆無-國體論者の革命文學-革命論は凡て王覇の辨と古典の假定より續繹されたり-維新革命は社會間の接觸によりて覺醒せる國家意識と一千三百年の社會進化による平等觀の普及とが未だ社會民主々義の理論を得ずして先づ爆發したるものなり-政權藩領の奉戴にあらず又尊王忠君に非らず-『二千五百年史』は義時尊氏等の貴族主義者を民主々義者と誤り國體論を君主々義と謬れり-髙山彥九郞と獨乙皇帝の狙擊者は國體論と社會民主々義とが皇帝其者を目的とせざる〓とを解せざる政治狂なり-政治史とは政權に對する意識の擴張と云ふ〓となり-現天皇は特權ある一國民として維新革命の民主的大首領たりき-維新革命以後の『天皇』の內容-維新革命は建設的方面に於ける無計劃の爆發なり-歐州の革命は長き計劃後なりき-維新革命と戌辰戰役に於て貴族主義に對する破壞をなし民主々義の建設的本色は二十三年間の繼續運動にて段落したり-『華族』の意義-維新革命の民主々義者は成功と共に貴族主義となれり-貴族主義者の大勝利-維新革命の本義を明らかに解し
藩閥がその破壞的方面に於て元勳たることを正當に認識すると共に建設的本色に於て元兇なることを嚴肅に解せよ-『亂臣賊子』と云ふが如き逆進的批判は善惡の進化的のものなることを知らざるによる-成功せる今日維新革命の民主々義者が亂臣賊子の名を拭はれたる如く成功せる貴族は當時に於て亂臣賊子と呼はれず-善惡の決定と社會的勢力-〓育勅語を自家の護衛に使役する井上博士の倫理學-現天皇の個人的卓越に向つて科學的倫理學者としての全能までを要求するは暴なり-〓育勅語は學界に惡果を來したるものにあらず、學者の愚呆を〓育勅語の責任に導くべからず-義時尊氏等が國利民福の爲めに民政を害する皇室を排斥せる者なりと云ふ他の獨斷論-中世貴族の亂臣賊子に非らずと云ふことは其の人民及び他の貴族等より自由獨立を承認せられたりと云ふことなり-貴族のみならず凡ての武士百性の階級も亂臣賊子にあらず-經濟史の進化と武士平民の開放-社會民主々義は現今の國體と政體とを〓覆して實現さるゝものにあらず維新革命其事が社會民主々義なり-今日の社會民主々義-憲法第一條の『萬世一系』とあるは將來のことにして歷史に係はりなし-契約憲法に非らざると共に又君主々權論者の解する如き欽定憲法にあらず-維新より二十三年に至るまでに於ては國家主權の國體にして政體は最高機關を人の特權者にて組織する政體なりき-家長國時代の君主專制と公民國家の君主專制-二十三年の帝國憲法は國家が其の主權によりて一人の最高機關の口を通じて最高機關に平等の多數を要素する政體に變更することを表白したるものなり-國家は主權體として機關を改廢作成するを得と雖も二十三年にして消えたる一人の最高機關は憲法改正又は廢止の自由なし-穂積博士の欽定憲法論は繼體天皇若しくは孝光天
皇の如きを金村基經等の自由に改廢するを得べき欽定天皇なりと云ふ論理なり--欽定憲法の意義-憲法の解釋權は何者にも存せず-『愛國』と『民權』の聲-天皇の國家機關たる地位は原始的宗〓を信せずと云ふこと若しくは血液を異にすとの理由を以て侵犯さるべからず又奴隷的從屬關係にあらず- -天皇は崩壞しつゝある系統崇拜の基礎に立てたるものに非らず-天皇と國民とが血液に於て懸隔なしと云ふことを以て天皇を否認ずることは國家の是認せざる所なり-土人部落の蠻神は〓育勅語を盜奪したり-國家機關は內部的生活に立ち入る能はず-井上博士一派の解釋家の『克く忠に』の意義は天皇を解せず-忠君と愛國との道徳的理想の進化-忠君愛國一致論の迷妄-穂積博士の忠君愛國一致論は其の排擊する國家主權論と自家の君主々權論と一致すと云ふ死滅なり-『爾臣民克く忠に』とは國家の利益の爲めに天皇の特權を尊重せよと云ふことなり-以上の〓括第五編社會主義の啓蒙運動第十五章法理學上の國家と政治學上の國家とを混同するより生ずる權力階級と社會黨の惑乱-現今の國体に於て國家とは國民の全部なり-今日國家の意志たる者が上層階級なりと云ふことを以て國家を否定すべからず-個人主義の革命論に於ては國家の否定は論理的可能なり-社會主義の革命は國家の否定にあらずして國家の意志が新たなる社會的勢力を表白することに在り-現今は經濟的階級國家の爲めに政治上に階級國家の實を表はしつゝあるなり-法律上の階級國家なりと云はヾ論理上議會に入ることを拒絕せざるべからず-べ
ーベルの矛盾-社會主義の革命は血を以て法律の根據より動かさんとする如き壯烈なる革命にあらず--經濟的維新革命-法律的源泉の國有と經濟的源泉の國有-國家の內容は全く階級國家となれり-今日の階級とは經濟的階級にして天皇と云ひ華族と云ひ中世の階級たりしものと異なりて國家の機關なり-武力の掠奪者と資本の掠奪者-社會主義は國家主義を抱擁するものにして國家主義と背馳するものは中世までの君主々義なり-國家の名を盜奪しつゝある經濟的貴族-歷史上無比の大矛盾-君の爲めにせし〓とを恥とせざりし武士と經濟的君主等の爲めにしつゝある〓とを恥づる紳士-社會民主義を迫害しつつある者は國家にあらず-專制に用ひらるる自由の名と個人に用ひらるる國家の名-國家を解せざる日本國民と國家を解せざる日本社會黨-經濟的維新革命黨の迫害-旅順開塞の决死隊と革命黨の實行委員-イゴール、サソノフの爆烈彈の說明-ベランメーの一喝と暗殺の嗷昨犯-社會主義の迫害と〓育普及の矛盾- -露西亞政府は迫害に於て貫徹せり-文字の普及は社會主義に入るべき鍵なり-露西亞皇帝と露西亞國民との間に法律關係なし-露西亞皇帝が法律的意義に於て存在する塲合-露西亞の革命黨は政治上の利害より如何に評せらるるも法律上の背反に非らず-金冠の叛逆者-叛逆は主權体に反することなるが故に露西亞皇帝は法理學上謀反人なり-穂積博士も露西亞皇帝の主權者に非らざることを承認ずべし國家機關を逸出して一介の暴僕となるときに生ずる正當防衛權-今の社會黨が正當防衛權を振はざるは權利なきが爲めに非らずして社會の利益の爲めなり-利害を無視する無政府主義者の社會主義に加ふる嘲罵-吾人にして露西亞に產るれば爆烈彈の主張者となるべし-法律戰爭に於ける
普通撰擧權の獲得は投票の爆藥庫の占領なり-革命は思想系を異にずるを主眼として流血は要素にあらず-革命は新生兒にして普通撰擧權は產料醫なり-空名の權利にあらずー-凱旋にあらず法律戰爭の進擊軍なり-血稅と權利-『國家の爲め』とは國家の全部の爲めか上層の一部の爲めか-『國家の爲め』とは經濟的貴族の〓覆さるゝ時の叫聲なり-國會早尙論と普通撰擧權早尙論-突貫の第一列を爭へる國民は撰擧權なき鯨波の群に甘ぜず--烟烟の階級鬪爭と議會の階級圓爭-階級鬪爭とは下層が上層に進化せんとするときの闘爭なり-國家主義をブラトーの意義に於て嚴肅に唱へよ-社會主義は經濟的君主々義に國家を掠奪せられて冷然たるほどに非國家主義に非らず-吾人は萬國社會黨の大會の決議に反して現今の國家を法律の上に是認す-權利の基礎と强力-强力なき今日の社會民主々義は惡なり-眠れる獅子は喚び醒されつゝあり-鍬と鉄槌とを持てる百千萬の貴族- -慈善家とは基督を逆倒して人はバンのみによりて生くと考ふる者なり-資本家地主は席上の乞食にあらず堂々たる掠奪者。なり-個人的生產時代の慈善と社會的生產を掠奪せる今日の其れ-慈善を恥づるに至れるは奴隷の卑屈を脫して貴族たらんが爲めなり-社會民主々義と個人の貴族的權威-ー聖書をパンにせよと云ふ惡魔の試みじ-資本勞働の調和と公武合体論-勞働の具体的表現たる資本と勞働の調和と云ふとは意味をなさず-農夫と其の牛とが葡草を分配すと云ふ講壇社會主義の文法-維新革命黨に米碌を多くするが故に國体論を止めよと云ふ社會政策-金井博士の社會黨觀- -田嶋博士の社會黨觀-社會民主々義はバンの問題に非らず-講壇社會主義は饒へて鉄鎖を脫する能はざる獅子に一樹の肉を投ずる愚なり-社會民主々義が先づ社會政策の實
行を求むる理由-處士橫議を如何にすべきやと云ふ講壇社會主義の歎息-社會政策なる者を以て社會民主々義を絕たんとするは墮胎せんとして牛乳を求むるの愚なり- -社會黨に對する唯一の方法は沈壓政策の外なし-對社會黨の政策として啓蒙運動を迫害し又所謂社會政策を蹂躙しつゝあーる日本政府は堂々たり-ビススマークの沈壓政策の効果-佛蘭西革命を見てナポレオン沈壓政策なきを歎ず-社會主義を迫害することは却て社會主義を盛ならしむる者なりと云ふ社會黨の聲言しつゝある所は僞なり-社會政策は上層の利益を中心とする者に限らずと雖も階級的智識感情の爲めに社會全体の利否は確實ならず-階級闘爭の歷史學及び倫理學-日本の國家社會黨は全く階級鬪爭につきて無知なり-政權奉還に非らざる如く生產權が天皇に奉還さるゝ時を待つべからず-社會の進化は一に進化せる權利思想に社會が啓蒙さるゝことなり-『掠奪者』とは新らしき權利思想が舊き其れを名くるなり-世に絕對の善なく絕對の惡なし-上層は其の進化せる善を以て下層の進化せざる善を排擊するを得べしとの意味に於ける今後の刑法學--將來の善を迫害しつゝある現代の善として上層階級は社會黨沈壓につきて自己の良心に叛かず-迫害の定義-地方的良心の衝突たる國家競爭が干戈に決せられし如く階級的良心の衝突たる階級鬪爭に於て迫害が却て敵勢を盛ならしむと云ふは痴愚なり-地主資本家の處分策は主義の問題にあらずして政策論なり-極端と云ひ過激と云ふは其の主義を持する個人若しくは社會的勢力を表はすのみ--個人主義の革命と其の政策-個人主義の革命後と社會主義の革命後-今の所謂社會主義者は政策論に於ても個人主義時代の繼承なり-『國家の爲め』と云ふ個人の沒收と『最高の所有權』の經營-勞働者と云ふ『生產機關』
を使用し破壞しつゝある社會の權利-公債の所有者は私有財產制の革命に於ては正當なるも共產制の革命に於て經濟的貴族が華族として殘るは人類に獸尾あるものなり-社會の者は社會に返へせ第+六章章東洋社會主義の源泉たる儒學の理想的國家論-東西古代の政治學と倫理學の合致-東洋のプラトー孟子の社會主義の倫理的基礎-性善說と社會的本能の先天的存在〓-容貌の階級的定型の說明-彼の說明せる良心の社會的作成- -彼の痛快なる獨斷的不平等論の打破-彼の說明せる下層階級の道德的低級の理由-『性善』と『堯舜』とを揭けたる急進的革命主義-、-所謂慈善の嘲笑-所謂社會改良主義の排斥-彼の土地國有論は部落共有制時代の復古的夢想なり-彼の承認せる掠奪階級の發生と『空想的社會主義』-彼の想望せる社會主義の理想〓-堯舜の原始的天然物の時代と社會主義の機械による物質的豐富の時代-經濟的君主等の生產權を吸收して國家が經濟的源泉の主体となる-孟子は社會主義の啓蒙運動を解せず-社會民主々義と日本天皇と兩立するを得るや否や-吾人の如き意味に於ての孟子の政治學は民主々義なりと雖も一般に謂ふ民主々義にあらず-孟子は國家主權論者にして最高機關を一人の特權者にて組織すべきを云へり-今日孟子の如く天皇にのみ社會民主々義を說くべからざる理由-多數政治の意味に於ける民主的政体と政治的槓杆--一一夫紂論』と帝冠の叛逆者-國家主權の國体を保つには純然たる民主政体若しくは特權者の一人と平等の多數とを以て組織する民主的政体とを要す-天皇が社會民主々義たりとも經濟的貴族は其の實現を防害すべき法律的可能を
有す--社會民主々義と兩立せざるのは經濟的貴族と帝冠の叛逆者にして天皇は國家の重大なる機關なり-孟子の民主的政体の想望彼の說明せる國家の原始時代-彼の說明せる君主の發生及び君位繼承の理由の說明-君主政の萠芽社會の機關とトママルクの用不用說-君位世襲制の正義-吾人の哲學科學よりする天則と彼の所謂『天』-天賢に與へたる維新革命と天、子に與へたる帝國憲法-天は露西亞皇帝の愚より天下を奪ひ獨乙皇帝の子に天下を與へざらんとすー-日本民族は原始的共和平等の時代を他の國土に漂浪せしを以て孟子の國家起原論を解する能はぎりき-儒〓を君主の政治道德に對する制裁の意味に解するの外なかりし理由-『一夫紂論』の反覆と中世史の進化-維新革命の議論が要求と背馳せる理由-講壇社會主義に對する無限の輕蔑-樋口氏の社會主義實現の方法-『赤子』にあらず『父母』にあらず-蒸氣と電氣とは天皇の資本家に興へたるものにあらず天皇は資本家等の財產を沒收する能はず-社會主義は私有財產制によりて社會全分子の覺醒するを要す-『赤子』の無意識と原始的共產時代-大化の土地國有論の夢想なりし理由-吾人は國家社會黨と握手せんよりも地主資本家の權利救濟に努力すべし-國家社會主義なる者は經濟的君主國の下に全國民が君主の經濟物たる奴隷たらしめんとの革命なり-『不敬』を云ふ卑劣の桑田博士-文字の形態發音によりて獨乙皇帝と日本天皇とを同一視すべからず-國家社會主義は『國家』を知らずー無抵抗主義の非戰論ビ無抵抗主義のトルストイズムとなりて社會主義を否認せしむ-原子的個人を單位としての世界主義は個人王義のナポレオンを承認にして侵容になる日露戰爭を否定せる萬國的會黨大、會の决議は取るに足らず--社會主義者はマークスよりも寧ろプラトーに據るべし
-『國家の外に在るものは神か然らざれば禽獸なり』-國家競爭の現實なることは尙排泄作用と交接作用との現實なるが如し-階級的作成と國家的作成-個人の世界に對する關係は階級と國家とを通しての關係なり--日露戰爭が無勢力なる資本家の爲めに戰はれたりと解するは直譯的慷慨なり-日露戰爭は尊王攘夷論を繼承せる國民精神の要求なり-下層階級の排外思想は最も根本的なり-非戰論者の日露戰爭論は國体論式の論理なり-尊王攘夷論と國家の覺醒せる中世的自由-國家主義なくして世界聯邦なし-社會主義者が却て個人主義的世界主義を取り資本家地主の個人主義者が却て國家を主張する帝國主義を取る-羅馬帝國はあり得べきも世界聯邦なし-瑞西は理想國に非らず-國家は自由を得てより僅少なる時日なり-中世的蠻風の國家の自由と今後の非戰論-『團体論』と國家の權威國體論及び純正社會主義北輝次郞著
社會主義の經濟的正義第壹編第章所謂社會の秩序と國家の安寧幸福-政府の迫害と學者の讒誣-貧困の原因-機械の發明-機械工業の結果にあらず-經濟的貴族國-經濟的勢力と政治的勢力-人格なき經濟物-奴隷制度-個人主義の舊派經濟學-個人主義の發展と歷史の進化-個人主義經濟學の革命的任務-スミス當時の貴族國經濟組織-經濟界の民約論-個人主義の叛逆者-階級に阻害されたる自由競爭-機械と云ふ封建城廓- -自由競爭の二分類-機械中心問題の社會的諸科學-個人主義は革命に至る-個人主義の論理的歸結-官許無政府黨員-所謂社會主義者に混ぜる個人主義者社會主義の深遠なる根本義は直に宇宙人生に對する一派の哲學宗〓にして嚴肅なる科學的基礎の上に立ち、貧困と犯罪とに理性を攪亂せられて徒らに感情と獨斷とによりて盲動する者に非らず。而しながら貪困と犯罪とを以て蔽はれたる現社會より產れて、新社會の實現に努力しつゝある實際問題たる點に於て論究の順序が先づ貧困と犯罪の絕滅ならざるべからず。故に吾人は第一編「社會主義の經濟的正義』に於て社會主義の物質的幸福を說き、第二編『社會主義の倫理的理想』に於て社會主義の精神的滿足を論じ、而して第三編に於て『生物進化論と社會哲學』として社會進化の理法と理想とを論じ、社會主義の哲學を說き、社會的諸科學の根本思想たる者を述べ、以て第四編『所謂國體論の復古的
革命主義』に入りて古來の妄想を排して國家の本質及び憲法の法理と歷史哲學の日本史を論じ、第五編『社會主義の啓蒙運動』に及で實現の手段を論ぜんとす貧困と犯罪-實に社會主義の實現によりて斯の人生の悲惨醜惡なる二事が先づ社會より跡を絕つとせば、社會主義は此の地球を導きて天國に至るべき軌道を發見せる者と云ふべし。而して社會主義は實に此の發見のために今や全地球に征服の翼を張るに至れり。然るに頻倒の甚しき。却て今の政府と學者とは社會主義を迫害し讒誣するに當りて、常に必ず社會の秩序を紊亂すといひ、國家の安寧幸福を傷害すといふ。而しながら斯くの如き誣妄は已に現今の社會に秩序あり、今日の國家に安寧と幸福とあることを確實として云へるものなり。社會主義は實に反問せざるべからず、現今の社會に紊亂すべきだけの秩序ありや、今日の國家に傷害すべからざるほどの安寧と幸福〓家序會所幸のとの謂秩福安國秩社とありやと。今日の科學的社會主義は徒らに感情的言辭を弄して足れりとするものにあらず、理性にして其の光を文明の名に蔽はれざるならば、此の反問は實に凡ての口より聞かるべき疑問なり若し或る階級の權勢と榮華とを築かんがために警察官の洋刀と軍隊の銃鎗とに〓よりて危うく支へらるゝ狀態を指して秩序なりと云はゞ、現今の社會は斯る秩序の精微複雜なるものを有す。身命を失ふもの日に限りなくして財產は野蠻部落の如く多く各自の物質力によりて各自に保護せらるに係らず、吾人は財產を保護し身命を安固にすといふ法律の下に國家の安寧幸福を受けつゝあり。社會主義は斯る狀態の秩序と斯る安寧幸福とを以て地球の冷却するまで維持すべきものなるかの如く信ずるものにあらざるが故に、政府の迫害と學者の議誣とは此の意味よりせば誠實なる憂慮より出づるものなりとすべし。同類なる人類の血と汗とを絞り取りて腿滿病に苦しむものに取りては今日の國家は安寧幸福を與ふべしと雖も斯る滋養物の供給を負擔せしむる社會の秩序は血と
冬汗との階級に取りては紊亂すべからざるほどに尊重なるものとは考ヘざるべし。生るゝとより死に至るまで脫する能はざる永續的饑饉の地獄は富豪の天國に隣りて存す。この餓鬼道の餓死より遁れんが爲めに男は盜賊となり女は賣〓婦となり、而して國家は赤煉瓦の監獄を築きて盜賊に安寧を與へ、妓樓を警官に護衞せしめて賣〓婦に幸福を受けしむ。この幸福を受く可き賣媱婦を繁榮ならしめんかために賣〓の料を以て政府は設けられ、洪澣の法典は學者の腦醬を絞りて安寧を與へらるべき盜賊の歡迎のために存す。文明の華なりと稱する新聞紙は强窃盜の記事、毒殺刄傷の報導、老病の縊死、貧婦の投身、幼兒の遺棄、乞食の凍餓といふか如き記事を補綴して其の文明の華を紙面に飾りつゝあり。而して殘忍に慣らされたる吾人には其の紙面に附着せる斑々たる血痕と紙背より洩るゝ悲鳴の聲を忘却して斯る平凡なるものゝ代りにより一層の悲慘なる出來事の物語を待たしむ。斯る永續的饑饉を出すべき秩序、凍餓の幸福、殺傷の安寧は學者の奴隷的辨護を受くべき或る階級に取りては一指も觸れしむべきものに非らざるべしと雖も、社會と國家とは實に社會主義の下に眞の秩序と安寧幸福とを求めさるべからず、あゝ貧困と罪惡、これ人類に伴ふ永遠の運命のものか。基督〓徒は是れ神の御旨なりと誣ひ、佛〓徒は未來に於て極樂に行くべしと僞はる。而も貧民はたとへ極樂に行くとも己にマルサスの在りて人口論を以て拒絕すべく、己れの形に似せて作れる男をして盜まし.め女をして婦を鬻ぎて糊口せしむるの殘虐は神の觀念と相納れずして惡魔の名あり。而しながら社會主義者は決して斯る障害に對して徒らに憤怒するものにあらず。新らしき理想の前に舊思想の橫はりて急步ならしめざるものは社會進化の常態にして、彼等は障害として橫はると共に社會維持の或る任務に服し以て新社會の誕生までを蔽ふべき卵殼たるものな500而して社會進化の斷崖に臨みて權力階級の壓迫あるは是れ即ち權力者の權利にして、社會主義を實現すべき運動の本隊たる階級の尙未4政府の迫害と學者の發誣
〃だ奴隷として彼等の鞭の下に唯々たる間は、社會主義は社會の秩序と國家の安寧幸福の名に於て迫害さるべきを避くる能はず。-社會主義が社會より冷笑せられ、國家より恐怖せらるゝは其の空想なるが故に非らず又激烈なりといふが爲めにもあらず、只政府の迫害と學者の讒誣あるを以てのみ。社會主義!何ぞ彼等の言ふが如きものならんや。社會主義とは何ぞ。●先づ說明の順序として現社會の大多數階級の貧困なる原因を察せざるべからず。如何にして大多數は斯くまでに貧困なりや。經濟學者はこの解釋として近世文明の機械工業の結果なりといふを以てせり、吾人社會主義者も亦然かく信ずるものなり。而しながら若し此の問に對して斯く答へられて吾人が滿足し得るならば、實に甚しき奇怪なりと云ふ。べし。鐵道は地球の周圍を六十回し月までの距離の原因貫困の二倍に達せりといふ。而も人類の多くは其の生れたる地方に植物の如く定着して旅行の自由だも無きなり。ウオターベリ會社の懷中時計は僅かに一個五分間を以て完成せらるといふにあらずや。而も農夫にして此の必要品の一個を夢むならば贅澤なりとせらる。アダムスミスが分業の利を說くに引例せし留針の製造に於て彼の當時分業の結果十人にて一日四萬八千個を作るとして驚歎されしもの、今日は僅かに一個の器械にて一分間に百八十個を製し單に三人の監督者は七十個の器械を運用して一日七百五十万個を容易に製出すといふ。農業につきて見るも。僅かに、八馬力の蒸氣脫殼器は八十人の農夫に休息を與ふべく、蒸氣型は一日に五六町歩を耕やし、風力、水力、蒸氣力による喞筒は一時に數百町步を灌漑するを得べし。嘗て八十年前に五百人の强壯なる男子勞働者が終日の勞働を要したるもの、今は一人の監督者だにあらば一個の器械にて足るといふにあらずや。一八八七年の古き統計によるも、世界諸國の蒸氣力のみを合して尙全世界の人口即ち十億人の機械の發明
勞働に匹敵すと云ひ、イリーの言によれば亞典全盛の時すら一家十人の奴隷を有するもの僅少なる富豪なりしに、今日吾人は一家六十人の奴隷を有する割合の機械の發明なりと云ふにあらずやっ-この近世文明の機械工業は何を意味するぞ。斯る農具の發明あるに係らず、可憐の童幼の時より弓腰の老衰に至るまで案山子の如く坭土の中に其の生を送らざるべからずとせば意義なきことなり。全人類に匹敵すべき蒸氣力は全人類をして勞働の苦痛より脫せしむることに於て始めて理由あるべし。希臘の自由民が十人の奴隷によりて其の燦爛たる文化の階級を作り上げしならば、其れに六倍せる機械の勞働力を有する吾人は人類種屬といふ階級を擧りて希臘自由民の如く精神的活働に入るべき理にあらずや。機械が發明さるゝならば、其の發明されたるだけ社會より貧困を驅逐すべく、近世機械工業の爲めに社會大數多が貧困に陷れりとは實に八に五を加へて三となると云ふが如き顛倒せる答案な90勞働の苦痛に代るべき者が機械ならば、機械の發明によりて勞働者は其の苦痛の時間を减少さるべく、然るに减少は勞働時間の上に來らずして勞働者の數の上に落下し、絕間なき失業者を產む。失業者は更に新たなる機械に、よりて需要さるゝまて食ふべき勞働の途なきなり。而して其の辛して途を得たる者と雖も、休まず眠らざる機械と共に終日終夜を勞働に過ごして不靈の自働機械と化し去る。物質的生活の資料を供給すべき機械は却て勞働者の維持し來れる物質的資料を奪ひ、精神的生活に入るべき閑暇を與へずして却て機械の周圍に勞働者を精神なき動物として繋ぐに至れり。-貧因の原困は玆に求めよ。是れ機械工業の罪に非らず、近世文明の與かり知らざる所なり。原因は茲に存す。-即ち經濟的貴族國の故なればなり。經濟的君主、經濟的貴族の秩序的掠奪あればなり。實に今日の所謂大資本家といひ大地主といふ者は單一なる富豪にあらず國家の經濟的源泉を私有して殺活與奪の自由あることに於て全き意義の大小名なり。北米の富豪の如きは廣大なる領土を有し幾万の賃冷麺庫上ら果業の結あ濟濟的
銀奴隷を殺活するの自由なることに於て、恰もルヰ十四世の如き主權の本體たる家長君主なり。幾多の實業雜誌と稱せらるゝ黃金宗の宗〓時報とも稱せらるべきものを開きて卷頭に載せられたる其の御眞影を見よ。石油王某、鑛山王某、製鐵王某、某々の銀行某、某々の石炭王。斯る尊號は決して比喩に於て用ひらるゝに非らず、彼等は實に王位の尊嚴と權力とを有するものなればなり。-否、現今世に存する近代國家の國家機關たる·君主等は殺活與奪の權を有する彼等に比するならば誠に無權力なるものに過ぎず。獨立戰爭によりて英王の苛政より脫せるアシントンの子孫は國土及び人民を君主の財產として所有せる時代の絕對無限權の家長君主等を奉戴して其の下に奴隷として呼吸しつ4,ゝあるなり。佛蘭西革命の名に於て皇帝と貴族の手より土地を奪ひて自由平等を呼ひたる全歐州は、斯る新國王と新貴族とに一切の經濟的源泉を掠奪せられて再び革命以前に逆倒せり。我が日本に於ても然り、往年の貴族は其の國土を國家に返還せしめられたるに、更に國家の經濟的源泉を掠奪して私有せる新たなる大小名は生じつゝ始まれり。今日日本皇帝と雖も國家の領土を掠奪し國家の臣民を殺活すべき權利なし、國土及び人民は天皇の私有地にあらず天皇の經濟物たる奴隷にあらず。然るに普天の下地主の王土にあらざるなく、卒土の濱資本家の王臣にあらざるなし。若し某々の王と稱せらるゝ經濟界の家長君主等にして其の帝王の名なく大名の稱なきが故に彼等の恐るべき權力を注意せざるならば、是れ南面して朕と稱せさる者は王にあらずと云へる王覇の辨なり。一切の政治的勢力は經濟的勢力なり、國土及び人民を所有せる經濟的勢力の上に立てる幕府時代の大小名を見て單に公債の所有者たる今の華族の如何に權力の皆無にして痕跡に過きざるかを見よ。然れば限られたる王室費によりて支へらるヽ歐州諸國の君主よりも、土地と資本との經濟的家長君主の如何に優かに强盛なる權力を有するかは想像せらるべし。一年の収入八千五百万圓の露西亞皇帝の經濟的勢力は其の政治的勢力をして專制ならしむる所以なりと雖も、二
億八千六百万圓のロツクフエラー第一世が人類の咽喉に對して直接の權力あるに加かざるべく。又土耳古皇帝が如何に東洋の暴君なりとも、其の収入が二千万圓に過ぎざる間は、其れに二倍して尙餘りある、ゼ、コンクエラー+トーリー戰勝王が飯部文式にましまさくる時より以上の極力に極ふ能はず。獨乙皇帝が如何に實質なき神聖羅馬皇帝の虛名を襲踏せんがために帝國主義を主張すとも、其の歲入が一千八百万圓のラツセルゼーヂ陛下の三分の一の其れに過ぎざる間は三分の一の算盤に於て權力を得べし。-全社會の貧困は斯る經濟的君主經濟的諸侯の掠奪あればなり。彼の大小名に代りて再び大小名となりし地上の下に於ける土自姓は、國家に對して多くの權利なき代りに大小名に對して無限服從の義務あり。地代借地料と稱せられたる苛重なる年貢租稅を奉納し、少しく滯納し御意に逆ふことあらんか、土地の取上げとなり御所拂ひとなる。彼等は『百姓は死なぬやう生きぬやう治むべきこと』と定め、られたる幕府の貴族政治の如く、新たなる貴族の下に蜜蜂の如く働き、働きて得たる凡ての蜂蜜を地代なる名に於て悉く取り上げらる。而して彼等は地主の前に凡ての獨立を失ひて土百姓の如く土下坐せさるべからず。大阪の大資本家等が坐して地方の土地を占め最も冷酷なる、代官をして誅求収歛を逞ふせるは實に將軍家直轄の御領地なり。彼等は地方の地主が舊慣等に制限せられて契約をなすに反してリカードの地代則其のまゝに於てし、土地の騰貴に伴ふ地代の增加を以て契約を繼續する能はさるを待ち猶豫なく土地を取り上けて御所拂ひをなす。御所拂ひとは舊幕時代のことにして居住の自由を剝奪することにあらずや。斯る權力は平等の國民にあらず、單一なる地主にあらず、事實上の疑ひなき貴族國の君主なり。否〓彼等は只に事實上の貴族なるのみならず、大名たるの榮譽と權力に伴ふべき尊號を有す。『殿樣』といひ『御前』と呼ばれ、其邸宅は舊大名の跡に搆へられて『御屋敷』と稱せらる。彼の資本家なるものに至りては工塲と名くる城廓を築き、學者と政治家とを家老とし、無數の年俸
奴隷月給奴隷を武士となし足輕として其の範圖內に號令し他の經濟的君主と混戰しつゝあり。彼等の街頭に馬車を驅るや大名の御通りの如く考弱男女を追ひ散らして行く。彼等大小名は今や全く當年の馬鹿大名となり、忠勤と私利と相半ばする家、臣等の畫策によトて其の尊榮と安全を維持しつつあり。利子と名け利潤と稱せらるゝ租稅は、家臣等の忠勤によりて大名の馬鹿をして更に馬鹿たらしむべく、大名の知らざる方法を以て知らざる間に河の如く流れ込み山の如く積む。而してs四圍の迎合阿諛のために馬鹿大名が『身共』の身體は特別の構造を有すと考へたる如く、彼等は彼等自身を國民と同胞なりと考ふることに於て貴族たる面目を汚すかの如く感ず。舊大名が道樂半ばに御仁政を敷きて快を取りしことのありしが如く、彼等に於ても慈善なる名に於て天下を欺かんと試むること無きにあらず。而しながら彼等黃金大名に於ては黄金によりてのみ其の權勢を維持し得る大名なり。彼等にして黄金の一片を失ふときは其れだけ他の大名に對する對抗力の失墜なり。この時に人格な物-あゝ斯る貴族國の土百姓と素町人よ!彼等は人に非らず。商品として見らる。市價を有す。此の商品は魚の如く早く沾らされば腐敗うるものなり。市價は需要供給の原則によりて支配せらる。法理的に云へば彼等は人格にあらずして物格なり。封建諸侯の百姓町人が經濟物として大名の自由なる處分の下にありしが如く、彼等は資本家の自由に處分するを得べき經濟物にして人格ある國家の一分子にあらず。故に斯る經濟物の多く集り來たることは供給過多による物價下落の經濟學によりて經濟物の物價を下落せしめ。此の經濟物が空腹によりて斃死せんとするや一切の條〓を考ふる暇なからしめて貴族等の自由なる處分權を認識せしむ。-即ち破產者、失業者地方よりの放逐者が工塲の門前に供給過多と空腹の壓迫を以て叢がり集まることは經濟的貴族國の群雄諸侯が篤くべき權力を振ひ。其の家臣等が乘じて以て忠勤を抽きんじ功名を博すべき機會なり而して此の機械が不斷に存在し、永續して絶ゆることなきが故に、其の足に一たび縛せ
玆に嚴然たる奴隷制られたる契約の鐵鎖を墓穴にまで引き摺り行き、玆に嚴然たる奴隷制度は復活せり。奴隷制度-鎖と鞭とあるもののみが奴隷制度にあらず。法理的に云へば人類の人格が剝奪されて他の同類の自由なる生殺の下に在るを名つく即ち彼の群雄戰國封建制度に於て土地と共に人民が貴族等の所有權の下に經濟物として存したりし者の如き亦奴隷制度なり。吾人は鎖と鞭とありし時代の奴隷が三百弗の價せし間は今の勞働者より幸福なりしや否やを知らず。而も晝は鐵鎖に繋がれて働き夜は暗黑なる穴倉の中に眠りし羅馬の奴隷と、今日、九尺二間の病毒に充滿せる裏長屋に豚の如く父子重り合ひて眠り、一日十三四時間の長き一分の休息だに得ずして機械に縛せらるゝ賃銀奴隷とが然かく差別あるを信ずる能はざるなり羅馬の奴隷は俄ゆることだけは無かりき、而も今日の契約奴隷、賃銀奴隷は、會社の破產のために、失業のために、不景氣の爲めに、雨天のために、數日數十日に涉る斷食-而して餓死は稀奴隷制度有のことに非らず。正義を顯現すべき法律は實に明かに自由と平等とを万人に與へたり。而しながら餓へて昏倒せんとするものゝ耳に就きて自由を叫やき、眼に平等の法律を示すとも一片の麵麭の皮は遙かに正義よりも高貴なり。自由と平等とを呼吸して生漬する能はざる動物は其の妻子の恩愛のために如何なる苦痛をも侮蔑をも忍びて、嘗て其の足を顧みて繋がれたる鐵鎖を疑はんとだにせざるなり。昔時奴隷の子孫は家系によりて永久に奴隷となり、近世封建時代の百姓町人は階級によりて子々孫々百姓町人たりしが如く、賃銀奴隷の腹より世に落ちたる子女は永却に賃銀奴隷を脫する能はず、小作人の子は小作人に、日雇取の孫は日雇取たらざるべからず。戰敗の捕虜が奴隷とせられ、債務者が身を奴隷にして債權者の使役に致せし如く、此の惨憺たる經濟的戰鬪の敗者と債務者とは又賃銀奴隷たるより外生くるの途なし。露西亞の農奴が其の主人の名を記せる金屬を頸に捜みて働ける如く、蟻の如く工塲より這ひ出づる賃銀奴隷は其の印半纏に奴隷所有主の記
號を附けられて侮辱せらる。過度の勞働時間は彼等をして全く動物化せしめ、面貌は黑奴の如く、野蠻性の回歸のために甚しく粗暴に愈々野卑となれり。嘗て米合衆國の南部に於て、四年間に利益を得盡さんがために奴隷を極度まで酷使して斃死せしむべしとの動議が拍手喝采を以て可決せられし聯邦議會ありしが如く、天命を短縮する長時間の勞働、人性を殘賊する婦人小兒の勞働を禁ずべき工塲法案が有耶無耶の間に消え去りし大日本帝國議會あり羅馬の奴隷の病む者あるときは餌藥を與ふるよりも、更に强壯なる奴隷を買ひ求むる方が遙かに利益なりとして之を河中の離れ島に棄て鳴號して死せしめたりと云ふ。而も今日の勞働者は病氣老衰にあらず職業のために受けたる負傷も職に堪へずとして棄てらる而も其の棄てらるゝや大都會の中央に於てし、無智なる世人は彼等の病みて路傍に呻吟するを恰も頑童の湖邊に打ち上げられたる猫め死骸を見んとして集まる如く彼等の周圍に繞ぐりて憫憐と好奇の面貌とを以て眺めつゝあるは屢々見る所なり。農夫の如きは土地と共に賣買せらる。羅馬人の所謂『話し得る農具』なり、中世史の土百姓農奴なり。而して此の奴隷の繁殖は廉價なる黃色奴隷として海外に輸出せらる。彼の國法の保護の下に立てる移民會社なるもの、一個嚴然たる奴隷貿易商人にあらずして何ぞ。貧困の原因は近世文明にあらず機械工業にあらず、實にこの經濟的貴族國の故なり。實族國、家長君主、奴隷制度等の法理的意義及び歷史的說明につきては更に第四編の『所謂國體論の復古的革命主義』及び第五編『社會主義の啓蒙運「動』を見よ)。學派装個經の人濟舊主然るに解すべがらざることは、嘗で貴族國の貴族政治と奴隷制度とを顛覆したる個人主義が、今や却て此の新形式の貴族政治と奴隷制度とを辨護して經濟的貴族國の維持に努力しつゝあることなり。是れ燦爛たる國家の被布に眩惑して內容の醜怪なるを忘却せる、所謂舊派經濟學なるものなり
社會主義は固より個人主義と根本の思想に於て相納れざるものなりと雖も、個人主義の理想が如何に文明史の潮流を指導して流れつゝありしかを考ふるならば個人主義の尊嚴なる意義につきて决して不注意なるべからず。人類の歷史が進化の斷崖に漲り落らんとせる時、即ち過去の革命は常に個入主義の名に於てせられたりき。ルーテルが羅馬法王の權力に對して思想の自由を呼びて起ちしより、佛蘭西國民が天賦の平等を論じてマルセーユ城に突貫せしに至るまで個人主義は實に革命思想の源泉なりき。これ理由ある〓となり。個人主義は之を說明の理論としては誠に一の臆說に過ぎずと雖も、理想として考ふるならば或る高貴なるものを有す。社會の組織は自由の活〓動を理想とすることに於て進化すべく人類の幸福は萬人の平等を理想として達せらるべし。今日の野蠻人は如何にすとも數百千年來の奇異殘忍なる舊慣を脫する能はずして、個人は唯その奇異なる習慣や殘忍なる迷信の犠牲として生るゝかの如し。老ひたる父母を殺して興宴する習慣も幼兒を捕へて化史展義個進歷發主猛獸に供ふる迷信も、其の一たひ古來よりの習慣とさるゝや個人は一の疑ふことをだに得ざるなり。故に彼等は幾萬年を經たるべき今日と雖も依然たる喰人族の蠻風に止まりて進ます。吾人の歷史も亦始めは然らざるを得ざりき。當時に於ては只社會的本能によりて社會的動物天として存在せる社會を雜持し以て他の社會との生存競爭にのみ忙はしく、爲めに個人は全く犧牲たるの外なかりき。埃及の驚歎すべき文明も單に、王及び僧侶の無用なる土木に過ぎずして、而も個人は何か故に彼等の犠牲たらさるべからざるかにつきては一の考ふる所なかりしにあらずやじ日。ンの榮華然り、アツシリアの富有亦然りき。希臘羅馬の末年に及びては聊か個人の權威の認めらるゝに至りしと雖も、而もソクラテースは無智の群衆に思想の自由を蹂躙せられ自ら社會國家なる名の前に其の大なる人格を放棄しで毒盃を仰ぎたりき。羅馬の大都は貴族と乞食の府となりしと雖も、個人は何か故に乞食たらざるべからざるかといふ〓との疑問は無かりき。以降一千年、所謂中世暗黑の
時代となりてゲルマン蠻族が文化に浴するに至るまで羅馬法王なる名に於て社會の壓力は個人の凡ての者を無視したりき。凡ての者、習慣も、坐作も、行爲も、言語も、思想も、政治も法律も、天下のことを擧げて法王の一命の下に在るに至れり。僧侶の破戒も、僧職の賣買も、贖罪符も、些の疑問なしに信せられたりき。是れ法王一人の専制にあらず、社會の權力が法王を通じて個人を蹂躙したる者なり。-歷史の進化は個人々格の覺醒に在り。人類は宗〓革命に於て玆に個人の權威を知り、『信切の自由』となりぬ。-個人々格の覺醒は歷史の進行に伴ひて更に其の覺醒を擴け行く。人類は更に佛蘭西革命の名に於て貴族と帝冠を顛覆し玆に『政治の自由』を宣言したり。無用の貴族に土地を私有せしめて國民は奴隷たる可らず、國民の運命は誕生の僥倖に過ぎざる一個人たる國王輩の掌中に置かる可らずと。個人主義の經濟學は此の革命の風潮に乘じて唱道せられたる者なり。(第三編『生物進化論と社會哲學」に於て偏局的社會主義と偏局的個人主義を論じたる所を見よ)。實に此の個人主義の舊派經濟學は過去の貴族國經濟組織の革命のために起り革命の任務は充分に盡くしたる者なり歷史は經濟界のルーソーに感謝せざるべからず。アダムスミスの富國論は實に貴族國經濟組織に對する革命の民約論にあらずや。凡での分科的諸科學は時の根本思想たる本流の分派なり。個人主義といふ大潮流は、ルーテルに於て信仰の自由となり、ルーソーに於て政治の自由となり、而して彼れアダムスミスに於て實に「職業の自由』となりて發せるなり。スミスに於て當時の貴族國經濟組織を見る、蛛卿の巢の如き法制定規、雜多なる習慣々例は全部破壞せざるべからさるものなりき。即ち革命の外なかりしなり。國內に刺戟を與ふるに欠くべからさる外國人の營業を排斥せんかために居住法あり。その居住法によりて組合に屬せざれば何人も其の市府に於て營業を爲す能はず。これがためにヂエームス、ワツトも其の發明せる蒸氣機關を以て營業する〓とをクラスゴー市のために拒絕せられたりき。公平と名けられたる伴事ありて、資本家と勞務命學義個的の經人任革濟主織経費當ス濟族時ミ組國のス
働者との間に立ちて賃銀を公平に決定すとの名義を以てする權力階級の殘虐なる瓜牙ありき。名は國家に於てするも實は經濟上の智識もなく誠實も公平もなき官吏の方寸にて物價を公定する專制ありき。組合の權力は絕頂に達し、徒丁の年期より種々の慣習より製作品の品質形狀大小に至るまで恣に制限を設けて一步もその外に出づる能はざりき。而して無用なる貴族國王等の寵幸によりて特許せる無數の獨占營業あ經濟界の民約論は斯くて經濟的方面より貴族國に對する革命的任務を果すべく書かれたるなり。今の富國論を繼承する個人主義の經濟學者にして眞に個人主義の意義を解するならば、其れを以て今の經濟的貴族國を辨護するか如きは實に個人主義の叛逆者なり今の社會に個人の自由ありといふ者あらは、そは其等の音響を發するときの唇のみに在り。唇にもあらず、言論の自由、思想の自由は遠き以前に去れりルーテルの信仰の自由によりて戰へる新〓徒の子孫は、今や黃金大石の寄附金のために信仰の自經濟界の民約論逆義個者の人叛主由を賣却して侍僧となり全く當年の舊〓の地位に代りぬ。ルーソーの政治の自由によりて得たる鮮血の憲法は今や黃金貴族の玉座を築かんがための礎石たるに過ぎずなれり。ミスの職業の自由今將た何處に在りや經濟的貴族等が其の緣故と寵幸者とを以て職業の統治權を獨占するか爲めに、餘りある經綸の才を抱けるものも三四十錢の賃銀を得て終生を暗黑なる鑛坑の中に送らざるべからず。自由競爭によりて彼れ取て代るべしと云ふか。是れ德川の封建制度に於て一劔天下を橫行せし天龜天正の戰國を夢むる者、今の法制經濟を學ふ靑年書生は凡て、是れなり。馬鹿大名の下に匍匐する封建時代よりも由井正雪等に取りては戰國の昔は遙かに鼓舞せられたるべし。若し一劒を以て德川の封建制度に反抗して講候に取て代りしものありしならば猿の如く口より手に生活しつゝある勞働者は一時間に坐ながら數百万圓づゝの利潤ある經濟的諸侯に取て代るを得べし。或は往年の山田長政の如く北米に渡航し滿韓に赴きて經濟的諸侯たらんとするか、而も海外の藩圖は爭自れ阻階由た害級競
巳に更に大なる其等に分割せられ終りたるに非らずや。今日三井岩崎を望む者あらば其の不可能なる日本皇帝たらんことを企だつるが如く、不敬漢とは呼ばれさるべきも發狂者と見らるべきは論なし。自由競爭とは競爭すべき機會の自由なる獲得を前提としての立言なり。重き一台の車に、老病の父母と、貧血の妻と、飢餓に泣く子女とを載せて、よろばひながら坂を昇り行く失望の子を、輕裘肥馬の一鞭を振つて嘲笑し去る者ありとせば、そは地獄に存在すべき自由競爭なり。纎弱なる婦女子と可憐なる童幼とを驅りて終生を機械囂々の下に繋ぎ、嘗て拜顏する〓とをも得ざる工業主と自由に競爭せよと云ふ、是れ封建諸侯と一土百性とが自由競爭に在りといふと等しき殘酷なる侮弄なり。自己の殺活の權下に在る奴隷の戰ふべき武器なきを知りて、而も〓育財產の鐘に身を固め雲の如き家臣に護衞せられ、資本の鎗を閃かして對等の勝負を求む、こは自由競爭にあらずして捕虜の虐殺なり。は自由競爭のために自由競爭を說きしに非らず、貴族國頗覆のために自由競爭の對等に行はるべき平等の天地を理想せるのみ。然るに今や再び經濟的貴族國が美はしき自由平等の法律を被布として建てられ、社會は當時の如く上下の二大階級に越ゆべからざる空間を隔でゝ制裂したり職業の自由とは空しく富國論の紙上に殘りて- -見よ、吾人は囚徒の如く機械の周圍に繫がる實に人類の勞働に代はるべく期待せられたる機械は、今や貴族階級の城廓となりて往年の平民を威壓したる如く全社會の上に轟々の響を爲して臨む。社會より貧困を驅逐せんかために歡迎せらるべき機械は、今や貧困者を絞磔し、磔を免れたる僥倖者をも失業の不安に脅かして運轉ず。あゝ機械發明に逆比例する貧民階級の擴大と失業者發生の驚くへき速力。斯る石壁と溝墟とを以て築ける城樓よりも遙かに金城鐵壁の器械を以て黃金貴族の護らるゝ時、何の自由競爭あらんや。自由競爭とは階級に伴ひて二つに分類さるべし、即ち黃金貴族間の殘虐なる經濟的混戰の放任、及び賃銀奴隷間の麺麭屑に對する餓鬼道的爭奪これなり。尊き個人主義と械と云封建城廓分爭自類の由二孰
我がスミスとは斯ることの爲めに自由競爭を說かんや、富國論が兒戯に類するコメンの蒸氣機關を只一ヶ所に而も偶然に引用せるに過きざるは彼が一百年前の人なればなり。彼にして存するならば今日の經濟學は機械を本論とし他は凡て附錄に組み替へよと二はん。今日一切社會の問題は機械より湧沸す、社會的現象の凡ては機械を中心として繞る。實に機械と云ふ封建城廓を貴族階級に占領せしむ可きや否やが一切社會的諸科學の根本闡題なり。個人主義の根據なき誤謬なることは後に說く。只その誤られるにせよ之を今日の經濟的貴族國の下に於て唱導せんとする者あらば、そは嘗てスミスが爲せる如く革命の先鋒たらざるべからず。經濟的貴族の闕下に匍匐して、徒らに望みなき賃銀奴隷を欺適するを以て職業となす如きは其者に取りては職業の自由たるべしと雖とも、スミスは地下に働哭すべし。否、個人主義の論理的飯結は國家を以て『止むを得ざる害物』と名くる如く一の無政府主義に在り。彼の個人の絕對的自由に憧機械中的の心學諦社問科會題個人主義は革命に至結理義個的の人歸論主點して無政府主義を唱ふる者の如きは論理的進行の當然にして、其の或者の爆烈殫に訴ふるが故に强力禁壓せらると雖も。現社會の『止むを得ざる害物』を個人主義に於て讃美しつゝある者は爆烈彈よりも大規模なる餓死に訴へて其の主義を實現しつゝある官許無政府黨員なり。社會主義にせよ、個人主義にせよ、其の現社會の經濟的貴族國なるを認るならば悉く反對の側に立たざるべからず、今日日本に於て一括して社會主義と目せらるゝものゝ中に依然として舊式の獨斷的自由平等論を爲しつゝある者を見るが如き其の個人主義者にして現社會革命の餘儀なきを認むる者の例なり。(故に彼等は廣き意味に於ける社會革命家と云ふべし、後に說く)。許無員政官府黨者人ぜ者會所謂社主るに主義混個義第二章
經濟的貴族國の歷史的考察-個人的勞働時代の勤儉貯蓄-マークスの價格論の誤謬-『大日本史』と『資本論』-資本は掠奪の畜積なりー-經濟的土豪-資本家發達の歷史-日本の土地兼併は資本の侵畧なり工業革命の日本-賃銀奴隷間の餓鬼道的競爭經濟的群雄の天龜天正-恐惶- -企業家の所謂「自巳の責任』-恐惶を負擔するものは全社會なり-經濟的元龜天正はツラストの經濟的封建制度に至る-ツラスの物價低落は經濟的兵火なきが故に事實なり- 1ツラストの誅求苛歛は封建なるが故に亦事實なり、封建時代の百姓一揆とソラストに對する同盟能工-賣買關係の私法にあらず公法の統治關係となる-經濟的封建制度は經濟史の完結にあらず-革命の發火點は權利思想の變遷にあり-社會主義は權利論によりて立つ-個人主義の掠奪せる所有權神聖の金冠-權利思想の變遷-腕力は所有權を確定すと云へる占有說の古代思想-占有の國王貴族を〓獲せる勞働說社會主義は社會の所有權神聖を主張す-資本家の機械占有と往年の奴隷占有-機械は死せる祖先の靈魂が子孫の慈愛のために勞働す-リカドーの不備の點と地代則の說明- -地代は人口增加の結果なり-都會地の地代は社會文明の賜なり-無數の土地所有權辨護論-薄弱なる加工說-個人主義時代の獨斷的權利論-個人主義の權利の理想は形式に於て似たるも社會主義と混同すべからず- -個人主義の法理學は亦其の經濟學の如く現社會の辨護にあらず-權利とは社會生存の目的に適合する社會關係の規定社會の利益即ち權利にして正義なり察史國的實に此の經濟的貴族國に對しては貴族主義を主張するものに非さる
よりは、如何なる者と雖も打破の外なきを認むべし。而して科學的]社會主義は凡ての社會的諸科學の原理に立ちて根本的革命を主張するものなり。故に社會主義は此の經濟的貴族國につきて歷史的知識を要す。如何にして革命せられたる封建の敗墟の上に更に革命を繰り返へすべき經濟的貴族國の建設さるゝに至りしか。此の說明は『資本』と『土地』との解釋なり。然るに下等なる物質を以て組織されたる頭腦の學者は經濟的貴族國の城廓たる資本の說明に於て今尙勤儉貯畜の結果なりと云ひて甘んず。斯る學者は貧困に生るれば天理〓を信じ狐狸を禮拜して世を終るべき憐れなる天賦の爲めに、經濟史の進行に置き去られて一世紀前の知識に止まる者なり-彼等は個人的生產時代の知識を以て社會的生產の現代を解釋せんとする者なり。而しなから彼等は巳に充分に其の任務を盡せる者にして只安らかに死の手に抱かしめば足る、吾人は今日舊派經濟學の死屍に鞭つものにあらず。例令ば茲に滔々たる大河の一所に停滯して數方哩に涉る湖個人的勞働時代の·動動儉貯を湛へたりとせよ。而しで其の湖面の上に狡猾なる獺が小さき頭を出して、この膨〓たる大湖の水は皆余が河畔に勞きて掬み來りし結果なりと云ひしとせよ生き殘れる舊派經濟學者なる者は、然りこれ獺の勤儉貯畜の結果なりと云ひて信仰しつゝある者なり。經濟學の問題は湖面にあらず、河流にあらず、溯つて水源に疑問を集中せざるべからず。農夫の有する一丁の鍬、大工の持てる一振の斧は固より彼等が勤儉貯畜の結果なるべし。山と河とに分かれて働きし翁嫗の昔話の時代に於て、アダムイヴの勞働を命せられたる時代に於て、勤儉貯畜は實に資本の源泉なりき。而しなから機械發明以後の資本は斯る個人的勞働の資本とは流れ來る所の水源に異にす。若し一瓶の美酒に數百人の血液を湛たへ赤道直下に勞らく幾萬同胞の涙を凝集して輝やく粟大のダイヤモンドに其の浪費を飽かしむる能はずして、終生の辛苦は消費の途を發見するに在りと云はるゝ所の經濟的貴族の資本が、却て幾何求數の勢を以て一年は一年より倍加し行くを尙且つ勤儉貯畜の結
果なりとせば、世界の凡ての辭書は直に其等の文字を訂正せざるべからず。若し個人の勤勞の結果なりと云ふならば生るゝとより何等の勤勞なる者をせざる彼等資本家の資本は無より有を生ずるものなり。是れ個人的生產時代の勤儉貯畜にあらず、社會的生產を資本家に獨占せしむる掠奪の畜積なり。-『資本は掠奪の畜積なり』と云ふ科學の歸結は生產を社會的に爲しならが個人的の分配を爲して生產せる社會が分配に與かることを得ざるを以てなり。カールの『資本論』が頗る遠き以前の知識なるかために其の枝葉の點に於て無數の非難を被むるべき餘地ありと雖も、『資本は掠奪の畜積なり』と云ふ大原則は引力說の如く不動の眞理なり。彼が其の價格論に於て貨物の價格は需要供給によりて决定せられず之を生產に要する勞働時間の長短によりて定まるとして一切の議論を建設せしがために。路傍にて拾ひし寶石は一分間の價格より外有せずして數時間を要する机は其れに數十倍する高價なるかと云ふが如き、勞働時間なき天產物は無代價なるかと云ふが如1誤格ス謬論のの價き、同一の石炭にして發堀の困難なる者は容易なる其れより價格を高くして買ふものあるかと云ふが如き、長時間の勞働が無用の生產に終りし時と雖も短時間の有用なる貨物よりも高き價格を有するがと云ふが如き、一時間にて釣りし一尾の魚と時計師の一時間と著述家の一時間と其價格に於て同一なるかと云ふが如き、斯る正當なる批評に對して根據より動搖せしか爲めに、遂に資本が掠奪の畜積なりと云ふ鐵案をも蔽はしむるに至りしとは事實なり。而して今日社會主義者と稱せらるゝ者の中に於て、恰も生物進化論者がダーキンを偶像とせるが如くークスの資本論を信仰個條として今尙物價は勞働時間の長短によりて計算さると論じて甘するものある〓とも亦事實ならずと云はず。而しながら長き討究を以て磨き上けられたる眞理は彼の價格論に大なる脩正を加ふると共に『資本は掠奪の畜積なり』なりと云ふ經濟的貴族國の基礎を愈々嚴肅に發見するに至れり。即ち革命されたる貴族の土地が各國の歷史によりて(日本に於ても幕末の順逆論の歷史によりて)掠奪
なる〓とを發見せられたる如く、マークスの資本論は經濟的貴族の『資本』が亦等しく掠奪なる〓とを科學的歸納に於て發見したる者なり。故に過去の貴族を〓覆せる革命家が歷史的叙述に於て貴族の土地掠奪の跡を明示せる如く、此の經濟的貴族國を革命すべき社會主義は資本家掠奪の跡を歷史的攻究を以て明示す。故に水戶の『大日本史』の如くマークスの『資本論』は經濟的貴族の發生し發達し來れる歷史を明かにす。彼の價格論の誤謬を去れる眞理は下の簡單なる一言に在り。-勞働者の賃銀は需要供給の原則によりて支配せらる。而して人口の增殖は勞働者の供給を過多にし機械の發明は(其の事業の擴張さるゝ時を外にして)需要を减少せしめ、賃銀の市價をして勞働者自身を依持し得る食物の市價にまで低落せしむ。資本家は此の食物の市價に於て勞働者と契約し一日十三四時間の長時間を勞働せしむ。此の長時間の勞働によりて得る生產物の中(必ず注意するを要す吾人は勞働の時間其者を價格となして長時間の勞働によりて得る價格の中とは云はず)、勞働者の賃『大日史と本,資一本論』り畜掠資積奪本銀たる食物の市價だけを引き去り、殘れる生產物の有用なる價値を需要せらるゝことによりて生ずる價格は悉く資本家の掠奪する所となる。この掠奪の畜積は更に轉じて資本となり、更に勞働者の庸ひ入れとなり、更に大なる掠奪となり、雪塊の轉々するか如く更に其の資本を增大し行く是れ貴族國の萠芽たる土豪の發生せるが如きものにして漸時に經濟的群雄割據の戰國となり(例へば現時の日本の如し)、更に嚴然として動かざる經濟的封建制度の大資本家合同の時代となる(例へば〓ラスの北米の如し)。實に、斯る無數の土豪的小資本家が、僅かに一世紀間に於て僅少の群雄割據となり嚴然たる經濟的諸侯となりて發達し來れる所以の者は、實に近世文明の機械工業にあり。經濟的貴族國の城廓なりと云へるもの是れなり。重力落下の物理的原則によりて支配せらるゝ歷史の進行は、十九世紀に至つて彼自身が發明せる滊車と競爭すべき速力を以て走り來れり。此の時勢の滊車に一步を先んじて投じたる、否多くは或出豪經濟的壓發資史達本の家
る事情のために自ら知らずして車中に轉がり入りし僥倖者が今の經濟的貴族或はその父祖なり。機械工業を利用することに於て智巧なる、或は幸運なる者は其機械の城廓に據りて獨立手工業者を壓倒せり。而して壓倒せられたる獨立手業者は麵麭のために其の獨立を維持する能はずして戰勝者の軍門に降り勞働者となる。經濟的貴族國の萠芽は茲に於て培養せらる。嘗て獨立手工業者の獨立なる經營が其の勞働の結果に對して全部の所有權を主張したりしもの、今や自己勞働の果實が食物の市價たる賃銀のみを除去して他の凡て掠奪さるゝに一の疑ひをだに抱かず其の臟品の所有權神聖の下に唯々として働くに至りぬ。瀉車に乘り後れたる一步の差は如何に健脚を以て走るも及ふべきにあらず。一步の幸運兒は掠奪せる價格の畜積を以て更に新機械を使用し、是を使用する能はざる他のより少さき資本家を壓倒す。而して更にその新機械を以て其の資本を增大し、增大せる資本を以て更に新機械を使用し、更に之を使用する能はざるより小さき資本家を壓倒す。壓倒は更らに資本の增大となり。資本の增大は亦更に轉じて壓倒となる。茲に至りては勤情にあらず賢愚にあらず、資本增大の速力は新機械の發明に應じて數學的確實を以て進行す。而して新機械の發明と其れに對抗する能はざる大資本家の敗北とは、無數の失業者をして彼等の門前に集まらしむ。經濟的貴族國の土豪等は茲に於て征服の翼を張る。失業者は失業者各自の競爭のために其の市價を動物として生存し得るだけに低落せしめ、背後に迫り來る空腹と妻子の悲鳴とは彼等をして餓鬼の如く奴隷の鐵鎖を爭はしむ始めには少なくも一家妻子を維持し得るだけの賃銀を以て最低限度とせるもの、今や腕力を要せざる機械は家庭の神聖と幸福とを詩人と道德家の問題に殘して、臨月の母と頑是なき兒童とを捕縛して工業に繫ぐ。此の經濟的戰國の君主等は更に其資本を以て地方に侵畧して土地の掠奪となり、土地を掠奪して存する地方の大地主は其の掠奪によりて得たる資本を以て其の範圖を擴張す。高利なる資本は土地占領の彈丸且よろ計畫課本併資侵畧なり
となりて働らく。日本に於ては愛蘭土の大地主の如く革命前の歐州の如く、戰爭の掠奪による土地の占有者は維新革命によりて其の掠奪物を國家に返へし、今は無權力なる華族として痕跡を殘すのみ。(故に社會主義を直譯的口吻に於て唱へ土地は戰爭の掠奪なりとして沒收を主張するは的なき發砲たるべし)。日本は諸侯の所有權の下に小作權をのみ有したりし者に國家が權利を附與して小有土農夫國となれり。(故に國家が公債の利子を負擔して與へたる權利は國家に回復の自由ありと云はヾ聊か論理的なるべし)。兎に角日本の土地は一たび戰勝の掠奪者の手より離れたることは事實なり。而も今や新たなる掠奪者は資本の威力によりて土地を併呑しつゝ始まれり。近年機械工業の起るを共に資本は無限に需要せられて無限の價値を表はし、年々誤算なく入る所の諸外國に類例なき利子利潤に比較しては、猫額大の水田に舊き小農式を以て一家老幼の營々たるも尙最低度の生活を維持するより外なき土地の薄利は餘りに甚しき懸隔なり。往時農家の複業として重要なる收入を爲せる織業紡績等も凡て資本に奪はれたり。地租の負擔は大地主にとりては地代の社會的產物に對する社會の權利なるべきも小有土農夫にとりては微少なる所有權に對する威嚇なり彼等は蜜蜂の如く働きたる諸侯の小作人たりし土百姓當時と多くの相違ある生活を爲す能はざるなり、都人士の嘲笑する赤毛布は其の嘲笑さるゝ如く東京見物の時と鎭守の祭禮の時とより外には鄭重に保存さるゝ贅澤品なり。疊なき茅屋と坭と破れとに充てる布衣とは、實に中農の稱せらるゝ農業者の一般階級に於ける平常の生活なり。若し中農と稱せらるヽ者が其の二三子女をして中農の名に應ずるだけの中等〓育を受けしめんとせば借財せざるべからず。敢て子女の〓育に限らず、平常に於てすら斯の如き低度の生活を送りて漸く祖先よりの神聖視する土地を維持せる彼等が、暫々襲はるゝ不作、疾病、等によりて借財に陷るや高利なる資本は土地の上に蛇の如く纏ひて、如何に勞働の上に勞働し如何に低度なる生活を更に低下すとも、土地の薄利は到庭資本の高利に對杭する
能はずして高利は高利を產み、數年ならずして其の神聖視する土地は都會の資本家、或は資本の自由なる他の大地主に兼併せらる。眞に英國に於て『工業革命』の慘劇を演じて一瞬の間に小有土農を掃蕩したる機械工業は實に此の可憐なる東洋の英國の上に工業革命を繰り返しつゝあるなり。如何に統計は土地兼併の戰栗すべき速力を以て進みつゝあるかを示すよ。吾人は决して無智なる農業者をして文明の光輝ある生活も知らず、子女に高等なる〓育をも受けしめず、只その生れたる土地に粘着せしめば足ると云ふものに非らず、否、社會主義は其の實現と共に日本の未開なる小農法の如きは根底より棄却して大農法の機械農業に改めさるべからざるを主張する者なり。然しながら此の年々數限りなく土地を驅遂せられて浪々する同胞の前途につきて單に、是れ自然に大農法に至ること英國の如くなるべしとして悅ぶことは實に英國の工業革命と同一なる恐怖すべき形勢を忘却せるものなり。彼等は何處に行く。老衰せる父母は祖先墳墓の地を離るゝに忍びずとな工業革本して拡養募られたる上地の上に農奴となる〓とにあり。若き男女は各々賃銀奴隷となりて食を求むべく都會に叢がり集まることに在り。父子相見えず兄弟妻子離散すあゝ農奴と奴隷の日本!經濟的貴族國の下に於ては彼等は何處に浮浪するも農奴と奴隷とより外に生くるの途なき〓とを知らざるなり。土地を放逐せられたる地方勞働者が都會に流れ來りて喪家の犬の如く桂庵の戶口に徘徊するの時は彼等と同一なる苦境に沈淪せる都會勞働者が工塲の門前に掃き出さるゝの時なり。羅馬の奴隷商人は奴隸の頸に代價、年齢、能力を書きつけて飼小屋の中に置き以て人の來り買ふを待てりと云ふも、今日の桂庵は日に數百人を以て數ふる彼等に對して飼小屋をも有せず又〓物をも與へ得るものにあらず。自由と平等の文字を額に烙印されたる奴隷は、如何なる困難を忍びても先づ口を糊する〓とに急ならざるべからず。經濟的貴族國の君主等は茲に至て其の經濟的統治權を振つて愈々强大を加ふ。得業者に對する失業者の賃競鬼間銀爭道 の奴的饑
競爭、失業者と失業者との競爭、都會勞働者と地方勞働者との競爭。實に賃銀奴隷階級の識鬼道的競爭は酸鼻を極む。賃銀奴隷間の餓鬼道的競爭と共に(完全に行はるゝ自由競爭よー)、-方に於て資本家間の相殺的競爭は眞に血の河を流れつゝあり(前きに自由競爭を二大階級に從ひて分類すべしと云ひしは是れなり)。經濟學者は、資本家が其の家老家臣を卒ひ賃銀奴隷を招集して商工業を營むと云ふを見て生產なりと云ひつゝあり。而しながら事實は多く然らずして彼等は生產せんが爲めに企業なる者をなすにあらず、他の對杭者の生產を打破せんがために勞働を命令しつゝあるなり。是れ奇嬌なる文字の玩弄にあらず、却て元龜天正の群雄が國利民福の爲めに戰爭せしと云ふが如き經濟學者こそ文章に於て形容辭に富む。彼等は大部分他の生產を破壞せんとする意志を以て費やされたる破壞費を却て生產費と名く。實に經濟的戰國なり。機械の響、鐵槌の音は正元群經亀雄濟天の的戰塲の突貫鯨波の聲なりとすべし。彼等經濟的群雄は人情も、名譽も、高尙なる快樂も、精神靈能の開發も、一切を忘却して只管戰爭にのみ熱狂す殺伐なる群雄が血に渴せる如く黃金に渴する彼等經濟的群雄は暗殺襲撃を以て親藉も朋友も眼中に映せざるものなり。元龜天正の群雄が連合反間の目的のために妻女の贈與放棄を手段として平然たりしが如く、令夫人と令孃なるものとは資本の聯合のために結婚せしめられ市塲の競爭のために離婚さる野蠻人の道德家たらんには其の資格としで殺戮、强奪、喰人の缺くべからずと云ふ如く、資本家階級の道德家たらんには一切の不道德と名けられたるものを履行して洒然たるべき良心を要す。彼等は床に即くときと雖も、如何にして彼の願客を奪ふべき、如何にして彼の工塲を顛覆すべき、如何にして彼の一家を倒すべきと云ふ計書に頭腦を惱ましつゝあるなり。彼等は夢に惡魔と叫やく。同一なる營業者と云ふことは彼等にとりては地獄に落つるまでの仇敵にして、若し戰敗者の一家にして零落離散し、其の父老
が內職の寸燐箱を張り、世波を知らざる若者が腰辨當の小官吏となり、可憐なる愛女の細腰に飾るべき何者をも有せざるに至るか如き〓とあらほ、是れ彼等の生涯に於ける最高調の滿足にして、黃き齒を露はして嘲笑し、手を拍て凱歌を唱ふ。この戰鬪のために彼等は。特殊の良心を有す。驕慢に滿てる額も顧客の前には恥も外聞も解せずして叩頭し、利益を與ふべき官吏の足下には罪人の如く匍匐す。法螺と吹聽とは彼等にとりては最も高貴なる道德なり。自家の正直、自巳の勤勉、自店の誠實、而して其の製品の優秀拔群なる虛構より他の批謗排擊に至るまで、實に一切轉倒せる道德を奉ず。賄賂、賣收、運動、廣告、世にあらゆる醜惡なる良心に於てする醜惡なる戰鬪なり。(『社會主義の倫理的理想』に於て階級的良心を說ける所を見よ)。而して戰闘は軍事費なくして繼續する能はず。彼等は『生產費』なる名の下に經濟的兵火の軍事費を祖稅の如く全社會の購賣者に負擔せしむ。而して戰鬪のために明を失へる彼等は各々需要を超越する生產をなし、掠奪されたる全社會が恐惶其の生產物を購賣するの力盡くるや恐惶となる。恐惶!此の一語は地震の如く戰勝者も戰敗者も共に仆す。如何にロツセルが『唯野蠻なる民族のみ恐惶を免かるゝのみ、而も之を免かるゝも彼等は幸福なりと云ふを得ず』と云ふとも、又リカードが『恐惶を歎くは富豪が其の滿船の貨物の風波に逢はんことを恐れて貧民の安全を欲するの愚と等し』と云ふとも、そが野蠻人も知らざる如き悲慘なる爆發を來たし實に全社會を船に載せて難破する如く數年の畜積を一朝にして掃蕩す。而して之れ必ず十年毎に來り其の小なる者は常に至る處に在り。而もヂヱオンスは其の責任を太陽の黑點に負擔せしむ。-この經濟的元龜天正の禍害を被むる者は、往年の戰亂の下に在りし百性町人の如く實に勞働者と全社會となり。然るに凡ての經濟學者が彼等企業家なる者の定義を下すや、皆必ず、『企業家とは自已の計算によりて自巳の責任を以て勞働者を雇傭して生產に從事する者なり』と云ふ。自己の計算と云ふことが空虛の誤算と我利の計·書なりといふことならば充分に眞なるべく、業家任已謂の企所の自貴一
生產に從事するといふことも或る程度まで僞りならざるべし。而しながら『自已の責任』といふに至りては憤怒すべき欺懣なり。彼等は何日その責任なるものを盡くしたる〓とありしか。利益は自己の責任に於て負擔する〓とは便宜にして事實なり。而も需要供給が世界的經濟に擴張せられて徹頭より暗中の飛躍に過ぎざる彼等が無謀なる計算のために、一切の損失困難禍害を負擔する者は實に勞働者と全社會となることを知らざるべからず。掠奪の畜積に過ぎざる資本の喪失は彼等冐險者にとりては本來の裸体なり而しなから工塲の閉鎖によりて生ずる勞働者の失業、失業者によりて被る社會の危險と動亂とは『自已の責任』は別問題とするに似たり。愚昧と殘忍との系統的組織に過ぎざる經濟學は、失業者の如きは小活字を以て一隅に葬り去る。而も一人の失業者は其の老母をして縊死せしめ、其の妻をして貧血に病ましめ、その女をして賣〓婦たらしめ、而して彼自身をして『犯罪たるべき危險狀態」として流浪せしめ、愈々食なくして飢ゆるや終に一錢の窃盜となり更秀雄は週五十は全社會なりに殺人の强盜となる。經濟的群雄の元龜天正のために、一戰敗者の生する每に社會の下層は實に一個の犯罪階級と化しつゝあるなり。而してこの犯罪者によりて害せらるゝものは猛犬と門壁とを有する上層の犯罪階級-詐欺、賄賂、官金費消、投機、政治の罪惡によりて安全なる設備を有する邸宅に住する犯罪階級にあらずして、備へなき家屋の中產者と勞働者との階級なり。彼等は上層の犯罪階級の爲に一切の生產を掠奪せられ生產物の購入に於て軍事費を課稅せられ、戰敗者の生ずる失業者のために更に僅少なる殘部を脅かさる。『自巳の責任』とは企業家一人の援沒を以で抹殺さるべきものにあらず。而しながら、この資本家間の殺戮戰は近き將來に於て全く停止すべきものなり。米合衆國の如きは巳に殆ど全く停止しつゝ始まれり。彼等が小企業家を倒し大企業家を倒し、より大なる企業家を倒しつゝ進む間に、彼等は數十の戰勝者と相對抗せるを發見す。-經濟的元龜天正は經濟的封建制度に至るべき歷史的過程なり。資本家は德義につ至制的のラ正正經るには積極ドッチ的
きては良心の感覺は甚だ痴鈍なるも利害につきては驚くべき銳敏の耳を有す。目醒むるとより黃金々々と呼び眠るまで經濟々々と叫きつゝある彼等が、龍虎の相擊が大損失の愴傷なくして終るものに非さることに氣附かざるの理なし。廣告によりて數千万圓を費やし、競爭によりて物價を低落せしむるよりも、最後まで踏み止まりし大資本間の合同は經濟史當然の潮勢なり。ツラスト是れなり。而して他の階級に相競爭せる勞働者も亦强國なる勞働組合を組織し玆に二大階級は其の階級間に於ける自由競爭を停止す。我が經濟的群雄戰國の日本に於ても近時ツラストの唱呼漸く高くなり來れり。恐くは今後十年の後に於ては米合衆國の如き嚴然たる經濟的封建制度となるべし。資本家の歷史が斯くて封建制度に入るや、大名階級の聯合によりて全社會を抑壓し、大名階級は盤石の上に築かれて全社會の上に權力を振ひ誅求苛歛し始じむ。彼等が大合同による經費の節約と新機械應用の自由と、原料の安價なる買入と、一切の廣〓引いる麺價低落實故な的はき兵經火濟り事競爭の無用とのために驚くべき利潤の增加を來し、爲めに其の餘澤を以て或は物價を低落せしめ、全社會をして經濟的兵火より免かれしむる〓とは事實なり。故に吾人は皮相的見解者の如く徒らに慷慨してツラストは物價を騰貴せしむと論するものに與みせず、統計は明かにツラストが小資本家時代よりも物價を下落せしめて全社會を幸福ならしめつゝある事實を示めせばなり。然しなからツラストの誅求苛歛といふことは亦統計の示めす所なり。何となれば、そはツラストなればなり、經濟的封建制度なればなり。封建制度は群雄戰國より兵火の禍害なしとするも封建制度の誅求苛歛は其の封建制度たる〓とに於て論なき事實なり若し經濟的諸侯にして永久に賢明に、又賢明なるものゝみならば社會の購買力を計りて物價を低落せしめ、仁君なる崇尊と共に永續的に血液を絞り取る〓とは安全なる方法にして、過去の貴族等も頗る斯る智巧ありき。然しながら彼等の多くが馬鹿大名なるか如く。絕對無限の專制權には驕慢と暗愚とが伴ふ。經濟界の專權を有するツラストり事故なは求ト|ツ實にる封苛のラな亦が建飮誅ス
は其の生產が社會の購買力によりて維持さるゝものなるとを觀慮せずして物價の橫暴なる騰貴は續々として起る。これかために起る彼の生產過多-實はイリーの所謂消費不足の爲めに依然たる經濟界の動亂は今の北米に見よ。經濟的貴族國に於て驕慢暗愚のために頻覆する諸侯と其れが爲めに生ずる百姓一揆とは當然の現象なり。-實にツラストは專制無限權の封建諸侯なり。彼等は人類咽喉の支配權を有す。ツラストにとりては賣買を保護する私法と云ふもの化して以て明白なる公法となる。法律學者の云ふが如く、公法とは權力關係を規定し私法は平等關係を規定すといふものならば、而して權力關係とは强き意志が弱き意志に對する關係にして命令し服從するの關係なりといふに在るならば、人類の物質的生活に對する一切の權力、生殺與奪の絕對專制權を有する彼等は、全き意味に於ける統治者にあらずや。對等の意志による賣買にあらず、此の統治者が物價を命令し、之が消費者たる社會が服從する明白なる統治關係なり。彼等は賣買と云ふ名の下に「對ス」と性代對時一の建揆百たに同盟罷工賣買開と治法ら法係る 統統金あ私全社會に對して租稅を徵収する眞の經濟的貴族、經濟的家長君主なり。而しながら貴族制度が國家主權の公民國家に至りし如く(『所謂國體論の復古的革命主義』を見よ)、經濟的封建制度は亦決して經濟歷史の完結にあらず。彼等がツラストの大合同を爲さんとするや、無用なる、若くは利益少なき工塲を閉鎖し、其の工塲によりて立てる都會を土耳古人の如く破壞し、際限なく發明さるる新機械の使用每に一時に數万の勞働者を失業者として社會に放逐す-失業者の或者は輕蔑に漲ぎれる慈善家の徵笑に迎へられ、社會は監獄の鐵門を地獄の如く開放して待つ。切迫は勞働者をして尊き諸侯に叛亂せしむ-恰も封建時代の百姓一揆の如く。彼等は大團結を爲して數十日數閱月に涉る同盟能工を爲して百姓一揆を繼續す。罷工又罷工、工塲の閉鎖又閉鎖、アナーキストは飛躍し、勞働者の飢餓は暴行となり、終に警察權濫用の口實となり、更に軍隊の發砲となり、實に慘憺の市街戰を演ず。河流は流るゝ所に流るゝものなり。ナイヤガラの大瀑布はオンタリ經濟的封建制度は經濟史の完結に
オ湖に落ちんかために轟き、全社會は社會主義に落ちんが爲めに沸騰す、屢々繰り返へされて屢々敗らるゝ同盟罷工の百姓一揆が終に政權の上に起ち現はれて『社會主義』の旗幟の下に集まるの時、茲に經濟的貴族國は頗覆して維新革命の斷崖に漲ぎり落つ。革命の發火點は權利思想の變遷に在り。故に社會主義は徹頭徹尾權利論によりて立ち些の調和折衷を許さず。社會主義にして權利の前に法懦なるが如きことあらば社會と國家とは秩序と安寧幸福の名に於て之を十字架に上すも一人の涕泣すべき使徒も無かるべきなり。現今、社會主義を審問して判ばきつゝある者は所有權神聖の金冠を戴ける個人主義なり。而しながら個人主義よ、社會主義は爾が戴ける金冠其者よりして掠奪物なる〓とを指示する者なり。金冠は侵かす可らず、所有權は神聖なり。而しながら單に所有權神聖と云ふが如きは內容なき文字にして其の所有する理由によりて神聖なる權利が歸屬するは發華思想の權火命利点の變遷に義は權社會主立よ利り論つでに個人主義の掠奪所冠聖有せ權る金神所を異にす。マークス以前の空想的社會主義の如く資本家階級の所有權を認識して只神に求め涙を流すとも嚴格なる權利は冷笑すべきなり。科學的社會主義は自ら金冠を戴きて凡ての者の上に神の如く判ばく。中世貴族國時代に於ては、我は我が力を以て天下を取れり、王たらんと欲すれば王、帝たらんと欲すれば帝と云へる權利の聲ありき。而,しながら維新革命は國家主義の權利を以て溯つて之を否みたり。是れ占有說と稱せらるゝ者にして、征服と掠奪とによりて國を建てたる羅馬が占有の論塩に十二銅柱を建てたる如き是れなり。是れ古代中世に於ける凡ての民族に共通なる權利にして、日本民族の祖先が此の國土を掠奪して權利を設定せしが如き是れなり。腕力が所有權を確定すと云へる者是れなり。此の權利思想は永き間繼續したりき。歐州に於ては大革命以前まで日本に於ては維新革命以前まで、土地の所有權は此の占有說によりて國王貴族を神聖ならしめたり。然しながら土地に對する本來の占有者は決して一個人にあらずして民族全體の發見と戰鬪青蔥、德の湯遷想古有へすを所腕代說ると確有力思の占云定權は
とによる占有なり。而して占有によりて得たる所有權は占有すること能はざるによりて所有權の理由を打ち消さる、故に、骸骨が墓中より臂を延べて其の占有を繼續する能はざるが故に相續權の如きは占有說によりては解すべからざることゝなり、爲めに之を今日に於て唱へんとするならば相續によりて生ぜる財產、及び財產を相續せしめんとする理由を、自家の論理によりて暗殺することゝなる。否、是れ實に國王貴族が其の土地に對する所有權を打破せられたる所以にして革命前後は個人主義の勞働說を以て所有權を說明するに至れり。實に勞働の果實が勞働せる個人の所有となると云ふ明白なる理由は、遊牧時代より農業時代に入り(一面他の民族に對して主張せる占有說と共に)民族内個々の間に於ける個人勞働の果實を無視せんとするものに對して生產を保護したり。而してこの勞働說による所有權の要求は中世の封建諸侯の掠奪に對して市民の商工業を保護し、更に占有說によりで立てる國王貴族の土地所有權を打ち消して唱へられたり。彼の革命の大破裂占有の國王貴族を顯覆せる勞働說に於て掠奪によりて得たる彼等の土地財產を頗覆せるものは、實に此の勞働の結實は勞働せるものゝ所有なりと云ふ勞働說が占有說の掠奪を否認したる者なり。焉ぞ地代資本の如き社會的產物を占有なる名に於て掠奪せしめんがかめに、勞働說の個人主義が所有權神聖の語に飾られて唱へんや。個人的勞働によりて個人の所有權が神聖なる時代は歷史に葬られたり。社會的勞働の今日、社會のみの所有權が神聖なり。實に、所有權神聖の如き語は寧ろ社會の權利を神聖なりと云ふ者にして却て社會主義の金冠たりとすべし。實に社會主義は社會が社會勞働の果實に對して主張する所有權神聖の聲なり。然るに機械の公有を以て所有權を無視すとの抗辨は何たることぞ。若し何者の勞働せる果實なるに拘らず余の占有せるものは余の權利なりと云はヾ、是れ腕力を以て所有權を確定せる近代以前の權利思想にして、人類を鎖と鞭とによりて占有するが故に奴隷廢止は所有權を無視すと云ふと同一なる議論なり。個人主義を主張して社會主張聖有會義社すを權のは會主神所社主有奴往占の資隷年有機本占のと械家
義に對抗するならば個人主義の權利論を以てすべく、而して所有權は勞働せるものに在りとの正義は實に個人主義の法律の理想たり。然れば機械の公有を勞働說の個人主義に於て否定せんと欲するならば、權利の主張者はワツト以下の發明家の子孫たるべくして、單に排泄作用の勞働より外爲せしことなき資本家は其の勞働の果實たる醜怪なる物質に對してのみ神聖なる所有權を得べし。否、機械其れ自體が勞働の限界分量を限りて分割するを得べきものにあらず、一つの蒸滊機關に於けるワツトの個人的効果は其の機械を組み立つるに用ひられたる全智識の百千分の一にも過ぎず-故に個人主義は非なり。眞に法律の理想よりて圓滿なる所有權を主張し得るものは、其等個々の發明家にもあらず、其の占有者たる階級の資本家にもあらず、又その運轉を爲しつゝある他の階級たる今の勞働者にも非ず、只歷史的維續を有する人類の混然たる一體の社會のみ。機械は歷史の智識的積集の結晶物な機械は死せる祖先の靈魂が宿りて子孫の慈愛のために勞働しつゝた慈子靈祖死機魂先ぜ械が9るは働め愛保勞あるものなり。愛兒の大多數をして地獄の苦痛に投じながら二三惡童の野蠻時代なる權利思想を以て占有を主張すとも今日の正義は許容せ故に若し所有權神聖の理由を以て社會主義に對抗せんとするものあらば社會主義は寧ろ社會勞働の果實たる資本に對して所有權神聖の名に於て公有を唱ふと云はん。社會勞働の果實に對する社會の所有權は又地代の上に要求せらる。何人も知れる如くリカードの地代則によりて、地代か人口增加の結果と社會文明の賜なるとは確定せられたる事實なり。固より後世の學者によりて充分に指摘せられたる如く、耕境の伸縮は彼の云ふが如く、時に應じて迅速に行はるゝものにあらさるべし。小作料の如きは多く在來の慣習慣例に防害せられて其の法則のまゝに上下する者にあらざるべし。外國米の輸入、外國の土地の開墾等によりて又その法則の壓伏せられて働らかざる〓とあるべし。彼は舊世界の英國に生れたるか故に土地は始め豊饒の地よりのみ耕やさるゝと思ひ全く反對の現象の存カ·四五五の地の說代點明則と
する新開國を知らず、爲めに其の法則が事實上の根據に於て薄弱なりしことはあるべし。即ち舊派經濟學の抽象論に走る獘害の俑を爲せる彼れたることに於て、他の多くの働きを爲す社會的條件を忘却せる非難は充分に理由あり。而しながら斯る欠陷に充てるに拘らず、彼れが如く考ふることによりてのみ地代の說明せられ得るものなることは一般の學者の否まざる所なり。吾人は固より舊派經濟學の無數の誤謬を認むる〓とに於て社會主義者の名が示す如くなりと雖も、彼の如き方法によりて地代を思考し得べしとする者なり。-穀物の市價は最も多き生產費によりて定まる。斯る生產費の差額は土地の肥度と市塲への便宜とによりて生ず。斯く多くの生產費を要する下等地を耕作せしむるに至るは人口增加の爲めに穀物の需要多くなるか故なり。されば今、生產費差額を全く土地所有者に拂ひ土地を借りて耕作に從事するも、下等地を耕作すると同一なる利潤を得べし。茲に於て其の生產費差額は常に全く地代となる。而して人口愈々增加すれば、更に多くの生產果加人地代はなの口り結增費を要する下等地に耕境を低下せしめ、其の低下するだけ生產費の差額を多くせしめ、其れだけ地代を增加せしむ。故に現今小作人が地主に拂ふ多額の地代は全く現今の如く增加せる人口の結果なり。增加せる人口と生食せる地主と何の關係あらんや。實に人口增加の結果たる地代が所有權神聖なる名の下に常に全く地主に掠奪ぜられつゝあるが如きは個人主義の權利思想に背馳す。都會地の地代は實に明白に社會文明の賜なり。停車塲の設けられて其の附近の地代か增加する〓とは地主の所有を神聖ならしむべき理由にあらず。交通の發達による地代の增加は蒸滊と電氣との收得すべきものにして、立ち退きを怒號する地主の勞働の果實にあらず。東京市將來の土地暴騰を見込みて土地を買收しつゝある富豪等は、將來の發達による東京市の所得たるべきものを現在の坐食によりて掠奪すべき權利を有するものにあらず。地主は如何に蚯蚓の如く一升の土を喰ひて脫糞しつゝ銀坐街頭を匍匐するも一升の金と化し去る消化器を有する賜文はの都りつているのできるりの
ものにあらず。-佛國革命の時代の權威たりし所有權神聖とは今や却て社會の主張すべき正義にして地主は占有によりてする掠奪者なり。吾人は茲に世に存する無數の私有財產權の辨護論につきて煩はしく語らざるべし。勞働說によりて機械の私有すべからざるのは上述の如く又占有說に基きて土地を所有する理由なきことも上述の如し。而しながら今日の土地は例令地代のみ社會的產物なりとするも土地其者は往年の貴族の如く掠奪による占有に非さるか故に尙以上の諸說によりて所有權其ものを無視さるべからずと論ずるの餘地あり。是れに對しては或は臟品の賣買は無効なりと云ふを以てすべく、又或は吾人が先きに說ける資本の高利による土地侵畧の非義を以て打破するを得べLo而しながら彼等は加工說なる者に殘りて對抗を試む。即ち今日の土地の上に加へたる長き間の勤勞と云ふ〓となり。而しながら斯る薄弱なる議論は其の所謂加工なるものゝ部落共有の占有に係る土地に對しての小作權に過ぎざりし〓とを忘却せるものにして、且つ著述家が畢世護有土無論權地數所辨薄弱なる加工說の身血を澱ぎて書ける版權にしてすら事効によりて消滅するを知らざるものなり。土地の表面の一呎を攪亂せるに過ぎざる僅少なる加工が如何にして天空より地軸に達するまでの所有權を確定し得るか、又數百年の後に至るも連綿として時効の來ること無きを得るか。資本家の藏する應擧の〓幅に〓劣なる〓工が一抹の白墨を塗抹し是れ余が加工なりと云はヾ資本家は〓工の所有權に服從するか、此の地球は地主の奇蹟によりて六日間に創造せられたる者にあらざるなり。而しながら吾人は斷言す、斯る議論は等しく共に個人主義時代の根據なき思辨的獨斷の權利論なりと。權利とは社會關係なり、社會と社會との間、若しくは社會の會員と會員との間に於ける意志の發動すべき限定されたる境界なり。人類と神との間は宗〓が支配し、人類と他動物との間は生物學が支配す。故に人類社會の關係たる權利の說明に於て、或は神を雲間より引き卸して天賦の權利を唱ふる如き、或は人類は生物なるが故に生存の權利ありと云ふが如きは、其の形式に於て論的の義個權獨時人利断代主個人主
社會主義の理想に類似せりと雖も全く個人主義時代の革命論なり。(今故日社會主義者に混ぜる個人主義の革命論者は尙斯る權利論を爲す)。に吾人は個人的生產時代の權利思想を以て現制度を辨護せんとするものに向つては上述の如く其等の諸說の却て、そが甞て貴族國に爲せし如く此の經濟的貴族國の根據を覆へすに至るべきことを指示すと雖も。眞理によりてのみ言動すべき社會主義は誤れる個人主義時代の天賦人權論的思想によりて社會の所有權を建設せんとするものにあらず。即ち此の經濟的貴族國に對しては社會主義も個人主義も共に同一なる側に立つべきものなりと雖も、社會主義は社會主義にして根據なき個人主義とは同一視さるべからず。故に個人主義の經濟學が再び繰り返へ此の權利論の問題に於ても個人主さるべき革命黨たるの外なき如く、義の法理學は經濟的貴族國に對して辨護者たるべきものに非らずと云ふことを解せば足る。社會主義の權利論は議論の基礎を單に思想上に於て思考し得べき原子的個人に置かずして社會を利益の歸屬すべき主於形理權らすと會るて式想利義義社たすべ温か同ずにの現の經亦理義個あ辨社如濟其學の人ら護會く學のは法主體となす。故に若し利益と云ふ文字を一時的便宜又は眼前の政策といふが如き粗雜なる意味に用ゆる〓と國家社會主義者の如くならず、社會と云ふ生物が(『生物進化論と社會哲學』を見よ)其の生存進化の目的に適合する手段との意義に解するならは、社會關係は其の目的に適合する手段として變遷し、關係の規定たる權利はその變遷に從ひて進化す。故に原始的平等と部落共有制とは平和なる原人社會に於ては其の社會の目的に適合せる社會關係の規定たることに於て、平等と共産とが其の當時の權利なりき。然るに人口の增殖して遊牧時代に入りて漂浪し農業時代に入りて土地を爭ふに於ては其の社會生存の目的の爲めに他の部落を排斥して土地を占有することが權利として其の時代の正義なりき。而して斯く他部落に對しては强力の正義によりて權利を認むると共に、其の部落の社會內の會員間に於ては牛羊を牧し農作を營む等の勞働に伴ふ果實に對する權利として私有財產制が設定せられたり。節ち掠奪による土地の占有も或る時代に於ては權利にして私有財產制度り規調る適目生は權定係社合的存社利なの會すにの會と
も亦或る時代の來るまでは正義なり。然しながら社會の進化と共に新らしき正義は古き權利を破りて進む。甞て充分の正義たりし占有の權利思想は個人主義の權利思想たる勞働說によりて打破せられたり。而して今や又個人が終局目的なりとする思想は社會が利益の主体なりと云ふ新たなる他の正義によりて打ち消されたり。社會主義の權利論は社會が利益の源泉にして又利益の歸歸する所なりと云ふ根本思想に於て個人主義の其れを排す。故に社會主義は徹頭徹尾權利論によりて立つと云ふと雖も、其の權利とは獨斷的正義の理想に憧憬して社會の利益を無視すと云はるゝが如き者に非らずして、社會の利益即ち權利にして正義なり。然らば正義と權利との名に於て土地及び生產機關の公有を主張する社會主義は社會の生存進化の目的に適合する利益なるか。正にち利社し權益會て利即の義な第三章社會の權利即ち社會の利益-經濟的戰國の軍隊的勞働組織と經濟的公民國家の其れ-今日の公民國家の軍隊と社會主義の勞働軍-經濟史の大々的革命-社會主義に對する無數の非難を先づ現社會に提出せよ-人類の歷史は經濟的貴族國に止まるか-社會主義の國旗を濫用せる國際法違反の國家社會主義或は講壇社會主義-『社會經濟學』と『最新經濟論』-國家社會主義は學界に於ける社會主義當面の敵なり-金井博士の社會主義評-氏は社會主義を解して掠奪階級の地位を轉換する者とす-氏は資本と資本家とを混同す-氏は資本の說明と權利論につきて無學なり-田嶋博士と金井博士の人性の解釋よりする非難-人性の解釋に於て新舊經濟學の五十步百步--舊派經濟學と共に新派は公共心を解
せず-社會主義時代の公共心による經濟的活動-有機的活動の生理的要求-有機的休息と今日の傾惰-將來の快樂又は精神的快樂の動機なし-勞働は今日神聖に非らず- -神聖の意義-勞働を忌避するは自由民たらんとの權利思想なり-國家社會主義は勞働を忌避せしむ-今日の貨幣は人生其者の價格を代表す-貨幣の媒介なき地位と名譽とに對する利已心の經濟的活動-万人平等の分配は權力濫用の經濟的懸隔なからしむると共に個性發展の障害なからしめんが爲めなり-田島博士の獨斷的不平等論-社會主義は個性の不平等を認め分配は不平等となる-金井博士は平等に分配さるゝ購買力と云ふことを享樂及び慾望の絕對的平等と誤まる-獨斷的平等論と獨斷的不平等論-不平等の正義なりし時代と平等の正義なるべき時代-田島博士の不平等論は自殺論法なり-平等觀發展と歷史の意義-獨斷的平等論の逆進的批判と獨斷的不平等論の粘着的辨護-元來よりの平等に非らず又元來よりの不平等に非らず-」社會主、義の自由平等論の眞意義--『社會問題解釋法』と憐むべき一記者-田島博士の經濟的貴族國の辨護論-氏は君主國を却て共和國と云ふ-賃銀基金說の誤謬とラサールの賃銀の鐵則-勞働者は生產物の分配を豫じめ受くると云ふ新派の驚くべき空論-氏は企業的才能と利益の主體たる企業家とを同一視す-氏の外國貿易よりする非難-氏の所謂强大なる専制國-君主の目的と利益との爲めに國家が手段として存する專制國に比すべき今日の資本家制度-田島博士の所謂微弱なる共和國、金井博士の所謂生產の减退-社會主義と偏局的社會主義-今日の所謂官吏と社會主義時代の監督者-獨乙に於て社會民主義と云ふ理由-官吏專制の生產は國家社會主義其者なり-生產を減退すと云ふ非難の起る
理由-社會主義は分配論に重きを置かず-今日の分配的限光と共產時代-個人的分配の理論的不能-分配は生產に伴ふ-圓滿なる理想としての共產主義-〓貧の平分にあらず上層を引き下ぐるに非らず-社會主義は大生產によりてのみ實現さる-ツラストの資本家間のみの合同を更に全社會の合同となす-ツラストの浪費なき大ツラスト-生產權が個人の財產權たる今日と賣官制度-小企業家と小資本家の尙存在し得べしと云ふ事實とツラストが社會主義に至ると云ふ事實とは別問題なり--的的社會主義と純正社會主義のち槽社利社利會益會即の實に土地及び生產機關の公有を正義と權利との名に於て主張する社會主義は社會の目的に適合する利益ならざるべからず。故に本編に題せられたる社會主義の經濟的正義とは即ち社會主義の實現による經濟的幸福と云ふことヽ同意義なりと解せらるべし。正義に反する者は利益にあらず利益を來さヾる者亦正義ならず。社會主義が正義によりて土地及び生產機關の公有を主張するは其の社會の利益のためにする公共的經營によりて全社會を經濟的幸福に進ましむることを意味す經濟的群雄戰國は經濟的封建制度に至り經濟的封建制度は更に經濟的公民國家に至る。徵兵的勞働組織と云ふ者これなり。固より現今の生產と雖も或る程度まで軍隊的勞働組織なることは事實なり。即ち工業革命前に於けるが如く各人各個が全く孤立的生產を爲したるが如くならず、機械は集合的勞働によりて運轉さるべきものなるか故に其の間に秩序と一致とを生ずるに至りしを以てなり。而しながら元龜天正の貴族國時代に於ける軍隊と、今日の公民國家の軍隊とは二つの重大なる根本點に於て異なる。-即ち貴族國時代の武士は其の君主との主從的契約關係によりて戰鬪に從事せるに反し、今日の公民國家の軍隊に於ては全國民が國民各自の義務として又權利としの民濟機勢軍戰經其國的と働隊國濟公經組的の的家
ての徵兵組織となれること。戰國時代の戰鬪の目的は君主に歸屬すべき利益の爲めにのみ存し、其の武士と人民とは君主の目的の爲めに手段たりしに反し、今日の公民國家の戰圖は國家の目的と利益との爲めに「爲さるゝ〓と是れなり今の經濟的貴族に卒ひられて戰ひつゝある此の經濟的戰國に於ては、資本家と其の從屬者の關係は往事の米碌封土に於けるか如く全く賃銀年俸等の契約關係に於て成立し、而して奴隷的服從の道德を以て經濟的貴族の富を爲さんが爲めにのみ戰はる。往年の貴族等が其の奴隷的從屬の家臣を氣儘に放逐し怒に任せて恣に斬殺するの權利ありしが如く、今日の經濟的貴族も亦その忠勤に是れ日も足らざる學者と事務員とを自由に解雇し、自已の利益の爲めには幾萬の勞働者を餓死に陷るゝの權利を認識せらる、往年の彼等が領土擴張の利益と他を凌駕すべき權力の爲めに萬骨を枯らすべき道德上の權利を有したる如く、今日の經濟的貴族も其の貪慾と畜財の爲めには幾千勞働者の手足を機械の及に掛けて切斷し不完全なる鑛抗の設備に投して之を殺戮するも道德上の無責任なり。而して元龜天正の當時幾多の貴族の各地に割據して相攻伐し以て他の國土及ひ人民を兵火に荒らしたる如く、今日の經濟的群雄も亦各業に割據し相互に他の生產と勞働者とを經濟的亂軍の兵火に掛けて燒き拂ひつゝあり。吾人は是れ以上に社會主義の勞働的軍隊を以て今日の公民國家の軍隊に比することを止めさるべからず。何となれば其は亦二つの重要なる根本點に於て異なる。-即ち今日の公民國家の軍隊は外國の利益と權利とを排斥せんがために少くも對抗せんか爲めに徵集訓練せらると雖も、社會主〓義の勞働的軍隊は全世界と協同扶助を共にせんがために生產に從事すること。今日の公民國家の軍隊は絕對の專制と無限の奴隷的服從の階級とに組織せられ、其の報酬の如きは往年の主從の如き差ありと雖も、社會主義の勞働的軍隊に於ては各個人の自由と獨立は充分に保證せられ、權力的命令的組織を全く排斥して公共的義務の道德的活動と他の多くの奬勵的動機とによりて勞働し、物質的報酬に至つては如何なる軍の會隊家公今勞主との民日社軍國の義働
輕重の職務も全く同一なること是れなり。即ち約言すれば、社會主義の軍隊的勞働組織とは徵兵の手續によりて召集せられたる壯丁より中老に至るまでの國民が、自已の天性に基く職業の撰擇と、自由獨立の基礎に立つ秩序的大合同の生產方法なりと云ふを得べし。是れ實に經濟歷史の大々的革命なり。然しながら國司土豪より群雄戰國となり遂に封建制度を經て公民國家の權利義務たる國民的軍隊組織に至りし政治歷史の潮勢を見たるならば、此の經濟的土豪の發達し併呑せられて群雄戰國の興隆滅亡となり更にツラストの經濟的封建制度にまで流れ來りし經濟歷史の潮流が獨り維新革命の斷崖を廻避して經濟的公民國家の國民的勞働軍に至らざるの理あらんや。只、現狀に甘ずる人類の最も賤むべき弱點のために甞て封建制度を人類終局の社會組織と爲して公民國家の今日を想望し得ざりし如く、此の經濟的封建制度の下に競々惶々として徒らに潮波に漂ひて溺れつゝある者は、此の『徴兵的勞働組織』と云へる社會主義の理想に無恥も甚しき冷笑を以的の經革大濟々史命て臨む。曰く人は奬勵の利巳心なくして懶惰とならさるか、曰く人は肉體的勞働を忌避せさるか、曰く果して職業撰擇の自由あるか、曰く各個人の獨立は和何にして保證し得るか、曰く官吏專制の時代を現出せざるか、曰く天性不平等の人に平等の分配は不當に非さるか、曰く生產を減退せしめて社會を擧げて甚しき貧困に陷れざるか。曰く何、曰く何。粉々として限りなし。吾人は明かに之を告げん、社會主義は是等凡ての高貴なる要求を全ふせんかために唱へらると。社會主義にして若し是等高貴なるものゝ中一の缺陷にても存するあらば其の終局目的たる社會の進化と云ふが如きも空想に止まるべく實に傷けられたるダイヤモンドに過ぎさるべLo然しながら吾人は切に希望す、斯る無數の質問を社會主義の提案に向つて發する者が、其の發せんとする前に先づ少しく靜思して發せんとする所の同一の質問を現社會の前に提出すべきことを-現社會は人をして利巳的奬勵の動機を挫き社會凡てをして懶惰とならしめつ出會つ難數す義社せに現をのるに會主先非無對よ提社
ゝあらざるか。-現社會は皆人をじて肉體的勞働を忌避せしむるに至ることは無きか。-現社會に於て職業の撰擇は自由なるか。現社會に於て個人の獨立は果して保證せられ居るか。-現社會は甚しき官吏專制に非ざるなきか。-現社會は果して天性の不平等に應ずる正當の分配を爲しつゝあるか。-現社會は經濟的兵火或は經濟的誅求苛歛を以て生產を相破壞し以て全社會を甚しき貧困に陷れつヽあるに非ざるか。恐くは否と云ふべし、然らば先決問題あり、-進化論は誤謬にして人類の歷史は經濟的貴族國に止まりて地球の冷却するまで甞て變ることなきか。るに貴經歴人吾人は社會主義の詳細なる說明、及び以上の如き無數の批難に對して答へんがために玆に代表的學者を指定すべし。そは講壇社會主義或は國家社會主義を主張すと稱する者なり。是れ一は講壇社會主義或は國家社會主義なる者の眞相を暴露して彼等の欺懣より社會主義を保護せざるべからざる必要あればなり。實に純正社會主義は必ず斯る欺懣によりて汚辱さるべからず彼等は其の大學の講壇より唱へらるゝが故に講壇社會主義と呼ばれ、政府によりて取られたるが故に國家社會主義と稱せらると雖も、斯るものは實に社會主義的傾向だも無きもの國家は政府のことにあらず、講壇の神聖は資本家階級の私曲に蹂躙さるべからざるは論なし、而も何れの政府も其の權力階級の便宜は之を國家の名に於てし、資本家階級が事實に於て智識階級を使役するを以て神聖なるべき大學の講壇と倫理的制度たる國家とは、今や却て眞理を讒誣し國家の權利を無視する所の彼等欺懣者に標窃せられたりc否、彼等は少しも社會主義にあらず、口、現今の經濟的貴族國が嚴肅なる個人主義によりては却て、維持さるべきに非ざるを知れるが故に、資本家主義が社會主義の國旗を濫用して其の退却の遁路を濁さんと計る國際法違反に過ぎず。我が日本の如きに於ては猶社會主義の用旗義社際せをの會法る濫國主■る濫違反の壇或會國社は主家會講義社主義
幼稚にして全社會の未だ便々として眠れるか爲めに資本家主義か對絕無限權を振ひつゝあるの時なり。故に吾人は我國に於ける講壇社會主義者といひ國家社會主義者と稱しつゝある者が社會主義の勢力に讓歩せしめられたるより生ぜる國際法違反の卑劣なりとは云はず。而しなから單に通辨の如く外國人の所說を飜譯して報告するに過ぎざる一般の大學〓授輩に於ては、溫和折衷し云ふが如きは理解力の乏しき頭腦に適合すべく、又他面に於ては社會主義に對する惡感情より免るゝ〓とに於て利益なりとすべし。而して其の社會主義の國旗を濫用して公平嚴正なるかの如き感を與ふるか爲めに明確に眞理を解せざる社會主義者を疑惑に彷徨せしめて社會主義の提契者なるが如き感を與へ特に一般世人に社會主義を讒誣して傳ふるの効果に至りては誠に以て警戒すべきなり實に講壇社會主義なる者は神聖なる大學の講壇より說かるべきものに非らずして汚されたる講壇が資本家の辨護に勉むる『資本家社會主義』と名くべく、國家社會主義の名も亦國家に歸屬すべき權利の主張にあらずして權力階級の政府が自家の官吏をして權力の維持を圖らしむる『政府社會主義』と稱すべし。純正社會主義は斯る狐狸と同行する者にあらず。國家社會主義が國家の本質及び法理を解せざることは後の『所謂國體論の復古的革命主義』及び「社會主義の啓蒙運動』に於て說く。茲には社會主義の經濟的正義-即ち社會主義の經濟的幸福を全く解せずして國家社會主義を主張しつゝある學者の代表的なるものを指定して論ぜんとす。而して此の代表的學者として見らるべき者に東京帝國大學に於ては法學博士金井延氏あり、京都帝國大學に於ては法學博士田島錦次氏あり前者の『社會經濟學」及び後者の『最新經濟論』によりて吾人は其の大體を察し得べし。而しながら注意すべきは『最新經濟論』の社會主義に對して淺からぬ同情を有するに反し『社會經濟學』の甚しき非社會主義的惡感に漲ぎれる〓となり。固より前者と雖も『社會黨は本と社會問題解釋の目的を以て起りたれとも今や社會黨それ自身が社會問題の目的物と計會經濟學,最新經濟論
なれり』と云ふが如き禮儀を逸せるの言無きに非らずと雖も、『社會經濟學』の如く經濟學の利益を數へて『惡意を以て殊更に起らしめ公安を害するの虞甚しき謬說を匡すの効用あり。世〓一般の斯學に暗きを利用し、否濫用して獨乙其の他に於て社會民主黨並びに其の亞流が爲せる惡むべき所行は今尙吾人の記憶に存せり。之を匡正するは只それ正確なる經濟學の攻究に在り』との〓論を以て始まれる、實に全卷を通じて恐怖と憎惡の念を以て書かれたるが如ぎものゝ比にあらず。然しながら『最新經濟論』が社會主義に對して同情を失はざる溫健の態度なるだけ、其れだけ博士の誤解が讀者にとりて堅實に受取らるべく、『社會經濟學』が惡感の挑發を以て任務とするの力に劣るものに非らず。而して二者共に十數段を重ねたる堂々の大著たることに於て、全國數万の法制經濟の公私大學書生が如何に經濟學の〓念と同時に社會主義に對する誤解と惡感とを播かして先入思想と爲しつゝあるや知るべからざるなり。吾人は固く信ず、實際の運動に於て社會黨が勢力を占むる塲合には國國家社は學界な面主るにの二家社會主義の隨行することはあるべきも、純然たる資本家經濟學が維持すべからざる今日に於て眞理の敵として經濟的貴族主義唯一の殘壘として學界に殘るものは實に此の國旗濫用の國際法違反者なりと。吾人は先づ金井博士の『社會經濟學』が如何に社會主義の根據より解する能はざるかを下の一節によりて知れり。曰く『社會主義の論者は往々資本の起原は元來勞力に在るを以て生產事業より生する凡ての利益は悉く之を勞働者に報酬すべきものなりと說けり。然れども之れ大に誤まりたる說たるに過ぎす。社會の尙未だ全く開けざる時代に於ては論者の如く資本の生ずるは全く勞力によれりと云ふを得べくこの點に於て勞力は資本の起原なりと斷ずるを得べきかなれとも、當時の所謂資本なるものは其の生ずるやるや直ちに消費されしを以て未だ眞正なる資本の利益を與ふるに暇なし。其れより漸時進みて以て漸く今日の所謂資本なるものを生するに至りしなり。之を金井博の社評會士主義
資本の增加する順序の大要とす。即ち然らば資本の增加するに當りて其の增加する所以の者は單に勞力にのみ是れ依るに非らずして、資本其物も亦大に與かりて力ありと云ふを得べし。若し先の時に際し資本全く無かりせば勞力は只孤立して何等生產の用を爲すを得ざるべし。畢竟勞力は資本に逢ふて其の用ひらるゝ所を得べく、資本も亦勞力を得て活潑なる生產的の活動をなすを得べし。是を以て兩者は恰も車の兩輪の如く離るべからざる關係を生す。この兩者に自然を加へて生產のこと全きを得るは、尙車の廻轉する兩輪の外に其の走る塲所、其の動く力を要するが如し。若し資本の起原は勞力なるを以て生產事業より生ずる所の利益を擧げて之を悉く勞力に報酬するを得べしと云ふを得ば、同樣の論據によりて其の要を爲さしむる所のものは資本なるを以て凡ての利益は之を悉く資本に歸せざるべからずと云ふを得べし。然れども資本が勞力を得て其の用をなすと同時に、勞力は資本によりて始めて其用を爲すを得るものなれば、到底兩者は應分の報酬を得て可なるものなり。「未開時代に於ても資本の起原は獨り勞力のみによるに非らず。勞力は資本の父たるべきも其の母たる自然なくんば資本は决して生じ得ベからざるなり然らば即ち自然物を供給する土地の所有者も亦相當の報酬を受けざるべからざるの理なり。現今の經濟社會に於ける分配は不公平なる所あるにも係らず、社會主義の論者は尙一層不公平なる分配を爲さんとするものなり。加之、今日の社會に於ける資本は資本として勞力を助けつゝあるものなり。且つ多くは生產的の資本として活動しつゝあるものなり。資本其れ自身が又他の新たなる資本を生ずるの時代なり然らば即ち資本家に對しても報酬せざるべからざることは言を待たざる所なるべし。論者の誤れること以て知るべきなり』斯る誤解は敢て金井博士のみに限らず尙多くの資本勞働の調和を計ると云ふものゝ議論にして彼の社會學の上より講壇社會生義を說きつらる文學博士建部遞吾氏の如き亦その一人なり。而しながら社會主義
の理論は如何に深遠にして容易に〓究し得べからざるものなりとも、斯る根本點よりして解せざる如きものは社會主義につきて無知なりと世人は金井博士が甞て勞働問題に係はりし〓とのあるするより外なし。か故に或は社會主義者なるかの如く考へ、而して金井博士の大に恐怖して屢々辨解に盡くせりと雖も、斯くの如き點より誤解する者の社會主義者に非らざるは博士の辨解に有力なる證明を與ふる者なり。吾人は博士の社會主義に惡感を抱けるを以て敢て齒を以て齒に償ふ者に非らずと雖も、他の主義を批難せんと欲せば少くも他の文字を解し得るだけの能力を要求す-實に斯る非禮なる要求は帝國大學〓授法學博士の欠くべからざる能力なり。博士が社會主義の主張を解して『社會主義の論者は往々資本の起原は元來勞力に在るを以て生產事業より生ずる凡ての利益は悉く之を勞働者に報酬すべきものなり』として批難しつゝありと雖も、社會主義は斯ることを要求せざるものなり。現在生存して勞働しつゝある個人或は階級のみが過去の祖先の肉體的精神的勞とる轉地階てを會氏義社位級掠解主は奪しも換働の畜積たる資本より生ずる生產物の全部を壟斷すべしとは社會主義の要求せざる所なり。社會主義は資本家階級が祖先勞働の畜積たる資本より生ずる凡ての生產物の掠奪を否認する如く、現在の勞働よりして過去の勞働に對する壟斷が勞働者階級の權利なりとは是認せざるなり社會主義は階級の掃蕩を計る、資本家階級と勞働者階級とを對立せしめて其の上に資本勞働の調和と云ふが如き補綴を以てせんとする者とは論據其者よりして異なることを知らざるべからず。資本勞働の調和を計ると云ふものは現在の資本家勞働者の二大階級を永刧不滅の制度なりと認識し、其の何れかの階級が歷史と社會との生產物をより多く掠奪すべきかを爭論するものにして、社會主義は此の二大階級を絕滅して『社會』が歷史的累積の智識と社會的勞働とを以て得たる生產物に對して所有權を有すと云ふ者なり。故に社會主義が實現せられて、掠奪さるゝ階級、壟斷する階級の消滅せるときに於ては敢て資本勞働の調和なる名の下に社會の生產物を各階級に掠奪鰹斷することなく。
一切の生產物を所有する社會に對して、生き殘れる資本家も、地主の子女も、織弱なる婦女も、幼兒も、又勞働する能はざる不具廢疾も當然の分配を要求することを得るなり。吾人が前きに機械を以て祖先の靈魂が其の中に宿りて子孫の慈愛の爲めに勞働するものなりとは此の意味なり。然れば今日の如く資本家階級のみが祖先の偏寵を恣にする能はさる如く、勞働し得る强壯者のみが自巳勞働以外なる祖先靈魂の勞働をも壟斷して身心の劣れる不幸なる祖先の愛兒を排斥し得べき者に非らず。社會的生產時代の生產物は個人的勞働時代の分配的眼光を以て計るべからず。否!資本家階級に歸屬すべき利益の爲めに主張せらるゝものを資本家主義と稱せらるゝならば、金井博士及び一般の資本勞働調和論者の解する社會主義なる者は勞働者階級のみの利益を終局目的とするかの如く考ふるか故に勞働者主義と名けらるべし。固より社會主義は當面の救濟として又運動の本隊として今の勞働者階級に陳營を置くものなりと雖も、此れあるが爲めに勞働者階級を維持する者と解すべからず、階級なき平等の一社會たらしむるのみ。社會主義は社會が終局目的にして利益の歸屬する主體なるか故に名あり。現今の階級的對立を維持して掠奪階級の地位を轉換せんと考ふる如きは決して社會主義に非らず。金井博士が文字を解する能力の缺亡よりして、階級絕滅に努力する社會主義を却て勞働者階級を維持して掠奪階級の地位を〓換せんと圖るものなるかの如く解すると共に、實に資本と資本家とを混同しつゝあり。曰く「資本それ自身が又他の新たなる資本を生ずるの時代なり然らば即ち資本家に對しても報酬せざるべからざることは言を待たざるべし」と。斯る最も重大なる點に於ける思想の混亂は一千頁に涉れる『社會經濟學』の大著をして全く反〓故の補綴となし終れり。金井博士は試に親ら省みることを要す、我れ金井延なる者は經濟學者なるか將た經濟學なるかと。若し金井延なる者が經濟學なりと云はゞ經濟學が談話し、經濟學が散歩し、經濟學が最敬禮を爲し天皇陛下萬歲を呼ぶ如き活動氏は資本と實本家とを混同
能力は思考し得べからざることに非らずや。經濟學者と經濟學とを混同することの斯の如くならざるならば、何が故に資本の効用より直ちに轉じて資本家の掠奪に權利を附するや。社會主義は資本家の無用を云ふのみ、決して資本の無用を口にしたることあらずっ地主の無用を云ふのみ、自然の無用を主張したることあらず。勞働者の開放と云ふのみ、勞働せずして生存し得と云ひしことあらざるなり。資本の無用と云ひて而も其の無用なる資本の公有の爲めに身を捨てゝ努力する矛盾は人類として有り得ベからざることにして社會主義にあらず。地主以前に自然あり、地主亡ぶとも自然は生產の源泉として存す。社會主義は此の地球を去りて他の遊星に移住すべしとは云はざるなり。斯る白痴の如き文字の使用は歸する所博士が社會主義につきて理解せる何者をも有せざればなり。社會主義の革命主義たるは其の經濟學の歷史的〓究に於て資本家掠奪を跡を知り而して現在掠奪しつゝある經濟的貴族國なるを發見したるを以てなり。『資本は掠奪の畜積なり」。此の一語は實に社會主義が革命の旗幟を飜へす城廓にして、若し社會主義に一矢を試みんとせば必す此の語が的たらざるべからず。然るに博士の所謂資本の說明なるものを見よ。『當時の所謂資本なるものは其の生ずるや否や直ちに消費されしを以て未だ眞正なる資本の利益を與ふるの暇なし。其れより漸時進みて以て漸く今日の所謂資本なるものを生ずるに至りしなり。之を資本の增加する大要とす』と。而しながら是れ一千頁に渉る大著としては餘りに大要なりき。而して社會主義が嚴肅なる權利論を以て立つに反して博士の其れは古來存在せる無數の權利思想の相刺殺する者を羅列して怙然たりとは驚くの外なし。『一個人の財產所有權は人類が占有と勞力とによりて外界の財產特に貨物に捺印する所の人類としての性格に其の源を發し社會國家が法制上此れの性格を認むるに至り完備するものなり』と。是れ佛蘭西革命を起したる占有說と勞働說とが平坦なる頭腦の上に權利を爭はずして存在せるものにして餘りに完全に過ぎたる調和なりき。(資本勞働の調和につきり無つ利明本民學き論とのはなてに權說資
ては「社會主義の啓蒙運動』を見よ)。田島博士の『最新經濟論』は其卷末にカール、マークスの學說の大畧を解說したるが如きに見ても、金井博士の如く社會主義を勞働者主義と解し、資本と資本家と土地と地主とを混同するが如き醜態なきは論なし0而しながら博士も亦國家社會主義者たることに於て國家社會主義の陷れる淺見は多く免る能はず。其の人性の上よりして社會主義を排したる者に曰く。『極端なる社會主義の學者の希望する所は往々經濟的活動の原動力の一なる利巳心を道德心に變換し、而して自家の想像せる國家即ち社會的國家に於て其の人民をして各々の全力を注ぎ勞働に從事せしめ、其の報酬は之を勞働に應じて公平に分與せんとするにあれども是の學說たる未だ人間本性の全體を看破せるものに非らず。從て實効を見ること甚だ困難なるべきは論を待たざる所なり』田島博の井人博と性士金非り解難す釋金井博士の「社會經濟學」にも、『生產の要具たる土地資本をして社會の共有物たらしめ、生產物の分配をして一に各人の勞働にのみ依らしむるも亦過去に於ける文明進步の狀態に矛盾するものなり。一たび利己心を全く排斥して公共心にのみ依らば經濟上の進步は玆に全く休止すべし。而して經濟上に於ても亦一般社會上に於けると同じく、休止の狀態は退歩と同一の結果に歸すべれけば、共產制度によりて組織せられたる社會は日ならずして終に如何ともすべからざる窮困に陷るか、或は人類の歷史上見るを得ざる專制の行はるゝ社會となるに至るべし』吾人は單に『最新經濟論』と『社會經濟學』とのみならず無數に出版さるゝ新派經濟學なるものゝ著書に於て、實に舊派經濟學の誤謬なる人性に對する見解の駁論を開卷第一章に見る。固より舊派經濟學の如く人間を以て單に貨幣をのみ慾望する動物と假定するか如きは今更に彼等新派經濟學の尊き駁論を待たず己に遠き以前に於て社會主義者と人間靈人性の步十學萬於解步の經て釋百五濟新に
能を直覺する文學者(例へばカーライルの如き)とによりて打破しつくされたる者なり。人間を以て貨幣のみによりて動く動物なりと假定することによりては、他の文學、歷史、藝術、科學等に對する人類の强盛なる活動を說明する能はざるは固より、經濟學其れ自身の對象とする經濟的現象をも、解釋する能はざるは論なきことなり。貨幣のみを慾望する利已的動物ならば、慈善によりて貨幣を授受する如き、寄附金による貨幣の流通の如き、名譽、戀愛、權勢、其の他の政治的軍事的活動の如きによりて生ずる流通交換の經濟的現象が一切說明されざるなり。吾人は新派經濟學が此の偏見を脫却して人類には他の公共心即ち社會性の本能的に存在するを認識し、公共心による經濟的活動を〓究の對象に包容せるを嘉するものなり。-而も尙、人類の利巳心を說明するに貨幣によりてのみ滿足さるゝものと斷定して推論を進むるに至りては、人性を解せざるに於て眞に五十步百步の好き例なり。否新派經濟學は公共心による經濟的活動を解せざることに於て亦奮派經舊派經濟學を多く凌駕するものに非らす。社會主義は實に人類が强盛なる公共心によりて生產に從事するに至るべきことを期待するものな支那の傭兵よりも日本の徵兵が公共心によりて遙かに活動せるを知れるならば、今日の傭兵的勞働者よりも社會主義の徵兵的勞働軍が如何に熾烈なる公共心によりて經濟的活動に從事し生產的効果を擧ぐるかは日〓戰爭の懸隔によりても想像せらるべし。人類が一私人の命令によりて死する者に非らざるを知れるならば、今日の傭兵的勞働者が貪慾なる資本家の利益の爲めに全力を注ぎて勞働せざるは當然の事理なり傭兵的勞働者が無數の監督あるに係らず尙且つ懶惰の隙を得んと窺ひつゝあるは恰も支那の傭兵が尙背後に指揮官の軍刀あるに係らず潰亂して退却せしと同一なる理由なり。社會主義の徵兵的勞働隊を以て無數の官吏の監督を要するものと速斷し、人類の歷史上見るを得ざる甚しき專制の行はるゝ社會となるべしと云へる金井博士つ如きは、維新革命後封建諸侯の廢せられて徴兵組織となれる當時西南役に解共派共濟せ心はに學ずを公新と義時代社會主の公共心天錢所的活動
於て實物〓訓の指示さるゝまで徵兵の武士に及ばざるべきを憂慮せると同一なる淺見なり。公共心が一切を排除して進むときに於て何の監督を要せしや、一大隊の指揮者が凡て戰死せるに係らず尙戰爭を維續せし如き事實は專制の甚しき軍隊に於てすら希有のここに非らず。生存の慾望ある生物として人の最も避くる所の死に於てすら公共心の動機は他の凡ての動機に打ち勝ちて働くとせば、平和に、愉快に、社會の爲めにする勞働なることを明かに意識して服する一日四五時間の僅少なる肉體的活動に於て、人の利巳心が公共心を壓伏すと考ふる如きは嬰兒の推理力にも劣る。(茲には暫らく利己心と公共心とを淺見者の使用する儘に用ゆ、尙『生物進化論と社會哲學』を見よ)。-否、四五時間の勞働は生物として生理的に要求せらるゝものなり。有機體は有機的活動を要す。學者が散歩せずして終日を書見にのみ耽る能はざるが如く、學生が體操せず又長時間の遊戯なくして英語數學の修得に堪へざる如く、嬰兒が搖籃の中に在りて絕へず自動機械の如く手足を動か求理動機的要生活有的しつゝある如く、人類は有機體として如何に精神的事務に從ふものと雖も苦痛なく捲息に至らざる程度の勞働は却て當然の生理的要求なり。今日半獄に在るものゝ禁錮の無爲に堪へずして自ら進て定役を願ひ出づるを以て通例とするが如きは全くこの理由なり、(故にベラミーは其ルツキング、バツクワードの回顧に於て特別なる懶惰漢を此の主理的要求の束縛に置きて無爲の若痛を味はしめんが爲めに滑稽の口吻を以て獨居せしむるの制度を語れり)。而しながら有機體は有機的活動を要すると共に又有機的休息を要す。吾人は今日の賃銀奴隷が懶惰なり易き事實を見て人性の本質は懶惰に在るかの如く考ふる淺見の學者をして、彼等の懶惰ならざるべがらざる理由を解し易からしめんか爲めに斯く想像せんことを要む。即ち今の經濟學者が七歲の時より白髪を過ぎて墓穴に至るまで一口十二三時間一年三百六十日、休息時間なく寧日なく希望なく變化なく興味なく、例へばフオーセツトの小經濟學一册を繰り返へし〓〓無限に繰り返へして一生を送るべき單調の運命に捉へられたりとせよ。有機的休息と今日の懶惰
斯くても學者は其の經濟學に對して傾惰ならず又懶惰は人性の本質なりと云ふ信念を維持し得るや。斯る假設の問は殆んど常識を欠ける者に非ざれば發し得ざる如きなり。而も斯る常識を欠ける〓とに於て法學博士大學〓授は社會主義を批難する議論を綴りつゝありとせば如何。勞働者は斯る沒常識の假設を事實に於て味ひつゝあるなり。早朝より日沒まで機械の耳を破るか如き運轉の傍に在りて單に鐵板を反覆するに過ぎざる勞働あり。夏日の燒くが如き日中に至るも休息時間なく石炭を火に投するのみの勞働あり。而して凡ての階級を通ぜる勞働者は斯る變化なき一日を繰り返へし希望なき一年を繰り返へし以て單調なる一生を終るなり。勞働者は有機體以下なる石にあらず又有機體以上なる神にあらず。有機体として學者が有機的活動の散步を要むる如く有機體として要求さるゝ勞働者の有機的休息が懶惰と名けらるるは勞働者を無機物の機械と考ふるが故なり。のみならず。懶惰其れ自身と雖も今日の社會組織に於ては當然なり。人は苦痛の動機によりて動くなの的は快懸快精樂來樂神又のし動機ものにあらず、眼前の苦痛を忍び又物質的の其れを甘受するものは將、來の快樂若しくは精神的快樂の其等に打ち勝ちて働らくものあればな今日の賃銀奴隷の如く徒らに他人に歸屬すべき利益の爲めに生產し、自巳の眼前には暗黑の躍るより外何者も認めざる境遇に繫がれたるものが、眼前の苦痛を回避せんが爲めに懶惰に走るは明白の事理にあらずや又社會主義の時代に於けるか如く其の勞働によりて社會の幸福が增進さるゝことを明かに意識するならば假令特別の事情により勞働時間の多く又肉體的苦痛の少なからざるものありとするも、精神的快樂の動機は利巳心の其れを壓伏して働くべく、然るに勞働が輕蔑すべき奴隷の職たる今日に於ては精神的快樂の動機は皆無なり。(尙『社會主義の倫理的理想』を見よ)。實に勞働と云ふ語の中には輕蔑の意味が伴ふ、是れ奴隷の職なればなり。奴隷は輕蔑せられ自由民は尊敬せらる。今日多くの世人に神聖なりとせらるゝ軍務に服することも其が奴隷の職なりし間は甚しく輕勞働は今日神善したず
蔑せられたりしが如きこれなり。由來、神聖と云ひ下賤と云ふが如きは其の時代に於ける社會組織の狀態に在りて職業その事とは全く關係なきことなり。故に吾人は一般社會主義者の如く戰爭は罪惡にして勞働は神聖なりと主張して甘ずるものにあらず。理想ならば可なり。今日勞働は決して神聖にあらず輕蔑すべき奴隷の職にして、神聖なるものは一の黄金のみなり。黃金ならば盜賊の者にても、賄賂のものにても.詐欺の者にても、賣〓の者にても、理由は問はずして價値に高下なし。神聖とは斯る其れ自体の價値を有して外部的條件によりて妨げられざる絕對者にのみ名けらるべきもの、例へべ絕對無限權を有せし時代の君主を神聖と稱したりしが如し。今日の勞働の如きは其の如何なる勞働なるかの相對的條件によりて差等を附せらる、決して神聖なる者に非らず。今日の勞働が肉體的と精神的との相對的條件によりて或は尊敬せられ或は輕蔑せらるる所以の者は明かに勞働が絕對者なる神聖に非ざるの證にして、其の輕蔑せらるゝ肉體的勞働は奴隷の輕蔑神聖の意義すべきが故なり。奴隷は輕蔑せられ自由民は尊敬せらる。故に今日精神的勞働の万人に希望せられ肉體的勞働の忌避せらるゝは勞働の難易にあらず尊卑にあらずして奴隷の屈從よりも尊敬さるべき自由民たらんとの權利思想の要求なり。-權利の前には何者も稽首せざるべからず、勞働の神聖と雖も。-此故にこそ級階打破の社會主義あるなり。精神的勞働は掠奪階級が其の掠奪によりて培養せる花なるが故に掠奪階級の背景に輝やき、肉體的勞働は屈從階級が其の屈從者たることを表白する所以の勞働なるが故に輕蔑せらるゝを解せば。奴隷の階級と自由民の其れと無くして、即ち全社會悉く平等の權義によりて相愛する自由民として。自由民たる權利として又義務として以て勞働するに至らば、玆に勞働は外部よりの相對的條件によりて差等せらるる〓となく、勞働すること其れ自體が絕對者として神聖なるべし。然るに階級打破の社會主義に對して人は勞働を忌避すべしと云ひ懶惰の爲めに官吏專制に至るべしとの非難は何事ぞ。國家社會主義こそ資本家階由る忌勞働をは自民は避た自す國際の權利リ
級の掠奪者と勞働者階級の奴隷とを維持する者、故に勞働は神聖にあ。らず。-人をして懶惰ならしめ勞働を忌避せしむるものは却て國家社會主義その者に非らずや。軍人の職が輕蔑より光榮に至れる如く勞働をして屈從勞働の忌避より階級無き神聖に至らしめよ。軍人の光榮に代れる勞働の神聖は軍人が戰塲に於て表はす如き公共心を以て生產に活動すべし。而しながら田島博士の誤解せる如く、社會主義は今日直ちに經濟的活動の『原動力の一たる利巳心を全然道德心に變換せん』と主張する者に非らず。吾人は『今日直ちに』と云ふ前置きを置く、何となれば今日の强盛なる利已心は人類が私有財產制度に入りしよりの强盛にせられたる本能にして、社會主義の實現後三四世の後に及ばゞ共產制度に適合すべき道德心の本能化すべきは社會進化の理想として吾人の充分に信すべき根據あればなり。(『生物進化論と社會哲學』の道德の本能化を論じたる所を見よ)。兎に角社會進化の斯る一階段に致逹する間までは利已心は會國主家義社せるべきが公共心と相並で社會的活動の二大柱たる〓とは疑ひも無き事實なり。故に社會主義は經濟的活動に於て利巳心の動機を無視するものにあらす。而ながら利巳心の動機を無視せずと云ふことは利巳心が貨幣によりて滿足さると云ふことに非ざるなり、吾人が前きに新派經濟學の人性に對する見解は舊派經濟學の其れと五十步百步なりと云へるもの是れなり。彼等は須らく經濟學の貝殻より頭を出して先づ『貨幣』の中に〓まるゝ元素を分折するとを要す。貨幣の本體たる黄金が光輝ある物質なるか故に珍重さるゝは本來の意義にして野蠻人はこの意味に黃金を使用す。然るに黃金が貨幣に用ひらるゝに於ては單に光輝ある物質と云ふ意味にあらず又單に他の質物の代表と云ふ意味にも非らずして黃金の代表する者は實に人生其者の價格なり。一片の黄金の中には、生存の安慰籠り、疾病の平癒籠り、家庭の快樂籠り、子女の〓育籠り、老後の休養籠り丈夫の威嚴、貞操の神聖、良心の獨立、政治の自由公共の活動、智識品性、權力、名譽の源泉、實に一切人生の意義籠れ書人數百合今質料金免
るなり。然るに社會主義の實現されて人生の價格が黃金によりて評價されざるに至るも、尙黃金が人性と同一なるメートルを保つと考ふるならば憐むべき思考力なり。社會は權力組織に非ざれば黃金を以て購買すべき權力なく。政治なる名に於て黄金の掠奪が營業となれる世にざれば政治業者たらんが爲に要むる黃金を要せず、又黃金によりて購買し得べき政治業者無し。公共的活動を爲さんとするには今日の如く一私人の奮勵を要せず、公共が公共の財產を以て活動すべく。個人に賄賂を贈るべき財產と必要となきと同時に、賄賂に値する權力を有し誘惑さるべき專制と奴隷の官吏組織なし。個人は國家の物質的保護によりて何人にも其の良心の獨立を屈するの必要なく、道德の履行は經濟上の强迫と誘惑と無くして本能的に行はるべし。明哲なる學者と熱誠の政治家が無智にして豚の美服せるか如き資本家の前に匍匐するの醜態もなく老排の獸慾に蕾の小女を弄はしむるの殘忍も去るべし。子女の養育は公共に於て其の費用を支辨し、〓育は社會之に任ず。病みては公共の病院と醫師の自由あり、老いては養老金の下賦あり。平等の分配の爲めに家庭は經濟的從屬關係より生ずる專制と屈從と無くして純潔なる父母の戀愛と親子の慈悲とのみによりて結合せられ、今日存する生存の不安の如きは夢むべくもあらず。今日黃金の中に籠る是等凡ての要素を引き去りて殘れるものを考へよ。貨幣は全く本來の光輝ある物質に過ぎざるに非らずや。而して又社會主義の提案の如く、手形が紙幣を代表し紙幣が黃金を代表し更に黄金が貨物を代表すと云ふが如き重複を去りて、貨物其物を直接に代表する紙片を以て貨幣とすとするも、人生の充分なる滿足は大に擴張されたる公共財產によりて足れりとするか故に、其の紙片が今日の貨幣の如く人生其者の價格を有して爭奪の對象となるが如きは想像すべきものと非らず。所謂經濟學者なる者は須らく顧みるを要す、人が貨幣を欲するは貨幣其者なるか、·貨幣の光輝ある性質なるか、貨幣の與ふる快樂なるか、貨幣によりて購買し得る他の一般の快樂なるか、快樂を受くる所の自我なる
か、自我の實現に在るか、一層高き自我に到達せんとする或る他の目的の手段に在るか。-守錢奴と裝飾とは貨幣の要求さるゝ一の理由なり。衣食の滿足は又實に他の一の理由なり。而もその滿足の後に於て貨幣の無限に要求せられつゝあるは實に名譽と地位に對する購買力あるを以てなり。而して斯る重大なる購買力が單に一個の鑛物に存するは名譽と地位が貨幣によりて築かるゝ社會組織なるを以てのみ。社會主義が斯る社會組織を革命したる後に於ては、名譽と地位に對する利已心は貨幣の介在を待たず名譽其者、地位其者に對する利已心の活動となり、活潑に生產的動機を刺激すべし。新派經濟學者にして少しく思考を回らさば、經濟的競爭の無くなると共に彼の武士が尙經濟的階級あるに係らず利巳心の満足を他の名譽文武の道に求め黄金を扇面に戴せて觸るゝをだに汚らはしとせる事實を認むべきに非らずや。社會主義の徵兵的勞働組織は大に公共心の强盛なる活動を待期すると共1:社會の或る進化に達するまでは名譽と地位に對する利巳心の競爭濃厚張BDき地位と名譽活經巳すと的の利對濟心る動によりて生產的活動の剌激さるべき奬勵的設備を要すと信ずる者なり。故に社會主義の萬人平等の分配と云ふことは固より權力濫用の源泉たる經濟的惡隔なからしむるに在りと雖も、一は亦個人性の發展をして障害なからしむる〓とに存すと考へらるべし。若し物質的報酬にして人爲的差等の存するならば、而して差等し得べきものならば、個人は個性其者の發展によりて得べき名譽と地位の途を取らずして、先づ名譽に地位とに早く到達すべき物質的報酬の多額なるべき職を擇び個性の發展は第二次に位すべし。是れ個性個々の傾向を曲げ發展を障害するに至るべきものにして、今日の社會主義が在來の勞働に比例する報酬の差等と云ふ提案を排斥したる所以なり。社會主義の批難者は茲に至て不平等論を囂々す。田島博士の『最新經濟論』は曰く「人は元、來不平等なり。而して社會の万般の事情は益々人をして不平めんら害展価としな的の力配等万はの人平權分濟用經#附共に性發たから平斷十田島博獨等的論不
等ならしむ。この故に經濟上の絕對的平等を望むは猶人面の同じからんことを望み、人壽の等しからんことを望むか如し』「人は元來不平等なり。智力德力體力の人々に同じからざるは盖し其の面より甚しきものあり。是の故に人が社會を組織するに當りては各個人決して平等の關係を維持する能はずして賢は必ず愚を率ひ、君子は必ず小人を役し、强者は必ず弱者を制すべし。是に於てか夫唱婦隨となり、君尊民卑となり、自由民及ひ奴隷の區別となり、富豪及び貧困の差別となる。依之見之、社會の不平等なるものは人性自然の結果のみ』金井博士の『社會經濟學』は曰く、『一個人の私有財產を全く廢止し人々の享樂並びに慾望の滿足をして絕對的に平等ならんことを欲するものなり』社會主義の分配につきては本編の後に說くべし。而しながら明かに告げざるべからざるは分配の平等と云ふことゝ經濟上の絕對的平等と野菜生姜焼き個下た女子高等云ふことゝは決して同意義に非らず。多病なるものは公共の病院に多く依賴することに於て不平等なるべく、多くの子女を有するものは社會の學校に多くの〓育を仰ぐことに於て不平等なり。旅行家は鐵道を學者は圖書館を、美術家、音樂家、皆其れ々々に美術舘、音樂堂を多く使用することに於て經濟上の不平等なり。即ち不平等なる各個人が各々不平等に公共財產を使用することに於て享くる所の經濟上の利益は各々不平等なり故に個性の不平等に應ずる正當の分配と云ふことを要求するならば社會主義は此の公共財產の大なる擴張を以て要求を滿足し得べし。社會主義は個人の不平等を忘却せるものに非らず。其の平等の分配と云ふことは分配さるゝだけの私有財產が平等なりと云ふことに過ぎずして、享樂及び慾望の滿足をして絕對的に平等ならしむと誣妄する金井博士の如きは學者として誠に卑しむべき不眞面目分配の平等とは平等の購買力を分配さるゝと云ことなり。なりこの平等の購買力を不平等なる個人が不平等に使用することに於て購買さ古舘は平分、 、購買カと云慾樂まず単品 印刷
るゝ經濟的貨物は決して絕對的平等のものにあらず、固より絕對的平等の享樂を與へ慾望の滿足を絕對的に平等ならしむるものにあらず。同一なる價格を以て購買せる書籍と葡萄酒とは經濟的貨物として與ふる所の享樂に於て平等なるものに非らず、又同一なる價格なるか故に書籍と葡萄酒とは凡ての人に平等に慾望さるゝものに非らず、金井博士は嚴肅なる一個の主義に對して單に誣安を傳播するを以て足れりとするに似たり。只遺憾なるは社會問題の專攻を以て法學博士たり大學〓授たる田島錦次氏にして、人は元來不平等なりの一語より糸の如く一切の演釋を爲して平然たることなり。社會主義は固より個人としての不平等を認む、而も其の故に人類としての同類を個性に陰蔽せられて平等主義を主張するを憚かる者にあらず。平等主義ー社會主義は固より社會主義にして社會の生存進化を終局目的とすと雖も、其の目的の爲めに平等の平面の上に自由なる競爭を爲し得べき社會組織を强烈に要求することに於て明かに自由平等論を繼承す。而しながら社會主義の自由平等論は個人主義時代の革命思想の如く、自由の爲めに自由を、平等の爲めに平等を唱ふるものに非らず、又人は元來自由平等なるが故に不自由不平等なる社會を打破すべしと云ふものにあらず。何となれば元來より自由にして平等なるものならば不自由不平等なる社會を(個人主義の思想なるを以て契約によりて)組織するの理なく、自由のための自由、平等のための平等とはフエリーの政治的手焔なりと云へる如く効果なきことなればなり。而しながら社會主義の自由平等論は田島博士の如き人は元來不平等なりとの根據なき臆說を許容するものにあらず、何となれば原人社會に對する科學的推理は本能的社會性に於て平和に存在せる原始的平等なりと云ふことに在ればなり。-即ち社會主義の平等論とは斯る恣なる臆說の如く元來よりの平等と云ひ元來よりの不平等と云ふに非らずして、社會の生存進化の爲めに階級的不平等を去りて平等の平面の上に自由なる活動を爲さしむべしとの要求なり。故に其の平等を說くに當りても『身長肥痩强弱性情趣向平獨論不獨等断平斷論的的と÷等
等は不平等なれとも推理し談話し理性を有する動物として他の動物と異なる點に於て等し』と云ふが如き生物學の許容せざる非科學論斷を爲さゞると共に、又個性の不平等を認識するに於ても『最も下等なる人類と最も高等なる人類との間に在る優劣は、最も高等なる動物と最も下等なる人類との間に在る差よりも大なり』との言を科學的權威の如く遵奉して議論の基礎を築くものに非らず。何となれば推理し談話し理性を有することは單に人類に限らず他の動物の高等なる者に於ては或る程度まで之を有するを以て人類をのみ特別に他動物と隔絕せる天空に置く能はざるは生物進化論の原理なると共に。接近を同一分類に置くと云ふ生物分類の原則によりて恰も犬の黑きを猫に分類し赤きを狐に入れ洋犬の大なるを馬に和犬の小なるを羊に組み入まざる如く、高等なる動物を人類に組み込むか下等なる人類を高等動物に分類するかに非ざれば野蠻人と高等動物の接近を人類間の隔絕より甚だしと形容する能はざればなり。即ち社會主義の自由平等論は人に元來より平等なるか故にとして正義なるかの如く主張せざると共に、人は元來より不平等なりとして自由平等を非義なるかの如く考ふるものにあらず。正義とは社會の生存進化に適合することを示す外包的言辭にして其の內容は地理的に又時代的に異なる、社會の生存進化の爲めに古代の奴隷制度は充分に正義にして中世の君權万能、貴族專制も決して非義に非らざりしは何人も知れる所の如し。而しながら正義の内容は常に流轉して止まず。古代奴隷制度の正義或は中世の君主貴族の万能專制の正義を以て今日及び今後の正義を律する能はざるを知れるならば、何か故に田島博士の如く人は元來不平等なりとの凝結せる獨斷を以て正義の歷史的進化を無視するや。『人は社會を組織するに當りては賢は必ず愚を卒ひ君子は必ず小人を役し强者は必ず弱者を制すべし』との博士の前提は必ずしも眞ならずとは云はず。而もこの前提あるが故に『玆に於てか夫唱婦隨となり、君尊民卑となり、自由民及び奴隷の區別となり、富豪及び貧困の差別となる、依之見之、社會の不平等なるものは人性不平等の正義焼きとなの時る正平代べ義等
自然の結果のみ』との結論は明かに社會の進化につきて無知なるものなり。若し此の前提あるが故に常に必ず此の結論なかるべからずと考ふるならば國家社會主義なる者の主張は下の如くならざるべからず。1 -人は元來不平等なり。而して社會の歷史は進化するものに非らず、正義は古今不變なり、故に今日の民法を改めて羅馬以前の家長無限權の下に家族を物格とし、天皇と華族とをして國土及び人民を經濟物としての殺活贈與の權ある家長君主となし、國際戰爭の捕虜と債務者とは鐵鎖を繋ぎて奴隷とせざるべからず、而して貧富の懸隔は人は元來不平等なる人性自然の結果なるを以て資本勞働の調和と云ひ勞働者保護と云ひ國家社會主義其者と云ひ、不平論と相納れざる空論なりと。社會進化の跡を顧みよ。社會は其の進化に應じて正義を進化せしむ。河流は流れ行くに從ひて深く廣し、歷史の大河は原人部落に限られたる本能的社會性の泉よりして社會意識發展の大奔流となりて流る。-人類の平等觀これなり。家長權の制限、婦人の獨立、奴隷の解放、單書類健康診療濾義而して國王と貴族とを〓覆せる佛蘭西革命の大瀑布。社會主義はこの大瀑布の波瀾を受けてさらに千尋の斷崖に漲ぎり落ちんが爲めに奔りつゝある社會意識の大河流にあらずや。此のナイヤガラを經てオンタリオ湖に落下し、社會意識が鏡の如き湖面に漲ぎり渡り、人類の平等觀が全地球に發展せられたる時-茲に社會主義の主張する社會の進化と、個人主義の理想したる平等の平面の上に行はるゝ自由なる活動と在り。若し六千年の歷史を有する吾人にして此の大河流に浮びつゝあるものなることを解せざるならば、歷史なきことに於て祖先が猛獸と戰ひしと云ふが如き口碑傳說より外有せざる南洋の土人部落にも劣る。(否!東洋の土人部落に於ては二千五百年の平等觀發展の大河流を順逆論に蔽ひて未だ一の歷史無し、有するものは南洋の其れの如く口碑傳說を集めたる古事記日本紀のみ。『所謂國體論の復古的革命主義』を見よ)。"故に吾人は自由平等論を斯る意味に於て主張す。即ち社會進化の理想を實現せんが爲めに甞て家長專權となり君主無限權となり
奴隷制度となりしが如く、社會の進化して同類意識が甚しく銳敏となりて在來の正義とされたる不平等を排し、平等を正義とし平等の團結自由の活動によりて今後の社會を進化せしめんとするに在りと。戰爭による掠奪の權利、占有による土地私有制度が社會の或る進化までに適合して正義なりしが如く、家長權も貴族も奴隷も亦社會の或る進化までは充分の正義として社會の目的に適合したる者なり。故に自由平等論を歷史の波濤に逆進して不平等の非義を唱ふることの誤れる個人主義時代の獨斷論なるは論なく、今日社會主義者の或者が尙依然として斯る議論を繼承しつゝあるも其は或者なるが故にして社會主義の眞理は此の爲めに蔽はるべからず。而も社會の或る進化に至るまでに不平等の一たび正義たりしを以て今日今後の社會進化に抵抗するを事とし、甚しく銳敏となれる同類意識の階級的懸隔に堪ふべからざるに及びても尙平等論を壓伏せんとするは更に遙かに取るに足らざるべく、國家社會主義なるものは一の眞理もあらず。正義は逆進して可否さる辨識等的と的の平獨護著論不獨批逆等斷的的の平斷判進論べからず又辯護を事として粘着すべからず、元來よりの平等と云ひ元來よりの不平等と云ふことは共に根據なき非科學的論斷なり。何となれば元來よりの不平等と云はヾ人類一元論によりて元來は不平等に非ざりしと云はるべく、又元來よりの平等と云はヾ凡ての生物は元來は單細胞生物の進化せるものなるを以て一切の動植物は平等なりと論じ、終局平等即差別の哲學に論陣を移轉するの外無なきに至るべければなり吾人は社會主義を主張する者なり、社會進化の理想に適合する手段を執れば可なり、故に吾人は元來平等なり不平等なりと云はずして、社會進化の理想のために此の不平等なる社會を打破して平等と自由とによりて新社會を組織せんと主張するものなり。即ち吾人は人類其者が元來より自由平等なりしか又懸隔差異ありしかを論爭せずして、社會進化の理想のために物質的保護を均一に與ふべしと要求するものなり-社會主義の自由平等論とは此の眞理なることを明確に解せよ。田島博士及び凡ての國家社會主義者にして社會主義の平等論を人類其眞等自主
者の同一不異と誤解せず物質的保護の平等の事なるを知れるならば、而して物質的保護の平等が或る程度まで今日の法律の上に現はれて、美人も醜婦も、八十歲の高齡も三才の天死も、其の身命に對する危艱脅迫に對して平等の物質的保護を受けつゝあるを解するならば、『經濟上の絕對的平等を望むは猶人面の同しからん〓とを望み人壽の等しからんことを望むが如し』との非難は誠に噴飯すべき方角違ひの者となるを知るべし。社會主義は平等主義なり、而も個人性の障害なき發展を圖らんが爲めにする物質的方面のみに於ける平等主義なり。(平等論につきては更に『社會主義の倫理的理想』及び『生物進化論と社會哲學』を見よ)。吾人は殊更に田島博士の賢明を傷くる者に非らず。社會主義が貧弱沒趣味なる下層的平等の中に個人の人格を溶解し去る衆愚主義と解せらるゝが爲めに、而して或時代の社會主義が斯る者なりしが爲めに、獨斷的不平等論は今日學者階級に於ける勢力にして偶々田島博士の之を口にしたるを以てなり。甞て安部磯雄氏の『社會問題解釋法』に向つて『社會記べと釋問者き憐法題解む一書を著はして論戰の光榮を要めたる一記者の如きは此の勢力に漂溺せる者にして、而も人間には如何に智識道德品性文章等に於て不平等の存するかを、其の論辨に於て記者自身の身を以て證據立てしが爲めに論據に甚だ有力を加へたることありしが如き是の例なりとすべし。資本家社會主義者が斯る獨斷の不平等論を呶々する所以の者は此の經濟的貴族國の維持に在り。如何に田島博士がその辯護の爲めに『最新經濟論』を汚辱しつゝあるかは左の一節に見よ。『抑々現今の勞働者が企業者の如く企業上の危險を犯すことなくして常に定額の賃銀を受取ることを得るは實に彼等に取りて利益ある方法なりとす。佛國經濟學者エミールヴアリエ氏が賃銀制度を批評して、一種固有の組合にして其の組合の一部は業務より生ずる危險の外に立ちて其の報酬、及び報酬を受くるときが豫定されたるものなりと云ひしは眞に至當の言なりとす。余輩は又セルニユスキー氏が賃銀制度を島博辨族濟士田國的のの貴經護論
改革するを以て文明の退歩を望むものなりとの痛言に同意を表せざるを得ず。實に人間に企業者と勞働者との別を生したる所以は自然の勢なり。人は平等なりと云ふ社會主義の學說は毫も實際に適せず。試に思へ勞働者が一致團結して企業家を排斥し生產組合たるものを組織すとするも、其の勞働者の中に才能の優れたるものと劣りたる者と在る以上は、才能あるものは主として企業的業務に從事し劣れるものは力役的業務に從事するに非らざれば何を以てか世界の市場に競爭して勝を制するを得んや。例令彼等の說の如く一國の主權の力を假りて一國內だけは企業家を驅逐して其の國內の生產事業は凡て皆勞働者の生產組合にまりて行ふを得べしとするも他の諸國には機敏なる企業家尙存し勞働者を使役して之に當らんには、其の國は必ず不振の地位に立つべき〓と恰も徵弱なる共和國が强大なる專制國に其軍事上外交上後れを取ると一般ならんのみ。故に吾輩は社會主義者の說の如く生產組合を凡ての產業に適用して現今行はるゝ賃銀制度と企業家の存在を社會をり驅逐するの說に同意する能はず。我輩は賃銀制度の革命者にあらずして改革者を以て自ら任せざる能はず』若し以上の言が金井博士の如く徒らに非社會主義的惡感情の傳播を任務として書かれたるものなりとせば、『最近經濟論』は吾人の爲めに憐むべき愚弄の題目となり、玆にも文學上の能力を疑はるべき帝國大學〓授法學博士を見出すべかりしなり。田島博士は固より通辯的學者に非ざるべく、特に吾人の如きは何々氏曰くとの虎威は最も快よしとせざる所なるが故にエミール、ヴアリエの言は恐らくは單に博引傍證の用に過ぎざりしことゝ信ず。而しながら今日の賃銀制度を目して却て一種固有の組合なりとの言を自已の責任に於て裏書人となるとは何たる不謹愼ぞ。組合制度の生產とは社會主義の或る程度までの發現にし然るに若しヴアリエの言て社會主義的生產制度と呼はるゝものなり、の如く賃銀制度が巳に一種の生產組合ならば是れ現社會が巳に社會主義の理想郷なりと云ふことにして、世界の社會黨は悉く解散すべく而と共を君云和却主氏
して社會黨處分策を以て社會政策上の難問とせる『最新經濟論』も燒棄して可なり。生產組合は組合員の發言權を要し、生產に關しては共和的合議制を要す。經濟的貴族が其の家臣等の〓策を聞きて生產に關する一切の事を決定し、勞働者は賃銀の多少以外には一言の容吻も爲す能はず、斯るものを何の國語に於て組合と稱するや。一人の利害によりて身命を奪ひ居住營業の自由を剝奪し得る國家は決して共和國と命名せられざる如く、資本家の權利によりて賃銀奴隷を工場の門外に放逐し明日にも糊口の途を失はしむる生產の專制君主國は生產的共和國と全く異なれる今日通用の文字、資本家制度賃銀制度の名あり、何を苦でか經濟學の根本思想より覆すが如き文字の混同を爲すや。統治權が國家の權利に非らずして君主及び諸侯が統治よりして得る利益の歸屬する主體たりし時代を共和國と命名せざるならば、生產が經濟的家長君主等の統治權として其の目的と利益との爲めに勞働者を物格として處分しつゝある今日を、何か故に生產的共和國たる生產組合に比するや。社會主義の生產組織ば固より大に今日の生產組合と異なること論なしと雖も、或者は政治的革命の途によらず生產組合を經て社會主義に到達すべしとまで考ふるほどなりとせば、斯る馬を指して鹿と云ふが如きは學者として不謹愼の極と云ふべし。生產組合は生產組合なり、賃銀制度は賃銀制度なり。ヴアリエと田島博士とは人類界の言語を使用せざる者なり。而しながら斯く賃銀制度を却て生產組合に混同する所以の者は考ふるに圓結的生產の利益が資本家一人のみに歸せずして勞働者も其の利益に與りて高き賃銀を得べしとの議論を爲さんが爲めなり。固より舊派經濟學の假說する如く、賃銀基金なるものゝ世に存すべき理なく、其の基金に對する需要者(即ち勞働者)の人口の增减によりて賃銀が常に一定の點より一定の點までの間を上下すとは議論として貫徹せざる者なり、故に其の基金說の上に築かれたるラサールの『賃銀の鐵則』が大に脩正ざるべきは論なし。即ち企業家が勞働者に賃銀を拂ふは將來の生良心配塗裝卷誤謬は則銀ルラ鐵賃
產物より配當さるべき勞働者の分を先き拂ひとなすものにして、賃銀は生產物より支拂はるとの說明は或る場合の事實なることは吾人固より否まざるものなり。而しながら或る場合とは凡てのことに非らず、企業家が其の生產物によりて利益を得ざる時に於ては勞働者へ支拂ひたる賃銀は決して生產物の中より出でたる者に非ざるを以て、この說明も多く假說に過ぎず。吾人は斯る枝葉を云爲する者に非らず、問題は賃銀が支拂はるゝ所に非らずして賃銀が契約さるゝ所に在り。企業家が勞働者と賃銀を契約せんとするや、生產物の利益によりて支拂ひ得べき將來を期待して『需要』すると共に、市場に於ける勞働者は空腹の壓迫と人口過多とを以て『供給』しつゝあるなり。-即ち勞働者は勞働を賣ると云ふ名の下に(恰も人身其者を賣る娼妓が媱のみを賣ると云ふ如く)、肉體を需要供給の法則の上に橫へて人身賣買を行ひつゝあるな而して一たび買はれて契約の鐵鎖に繫がれたる奴隷は其の生產物の利益につきて何等の要求もなく、支拂はるゝ賃銀が例令企業家の巳物は勞働者の生産分じ配め受を豫空く派云く論べのふるき驚新とに有する資本の中より出づるとも又企業家が將來生產物より得べきを期待して先拂ひを爲せるものなりとも、又其の期待の誤りて他の資本そは神と雖も解する所に非らず。奴家の金庫より出づるに至るとも、隷の價格は巳に市塲に於て決定されたればなり。新派經濟學者は企業家が生產物の中より賃銀を支拂ふべきを期待して勞働者を需要するを供給者が經濟物として已に市塲に於て價格の決定さるゝをも願以て、みず、又恰も其の期待の誤りなきものなるかの如く獨斷し、即ち賃銀制度は一種固有の生產組合にして勞働者は生產物に對して分配を豫じめ受くる便利なる制度なりとは何たる空論ぞ。否!自ら稱して科學的なりと云ひ經濟的なりと云〓ふ新派經濟學は此の點に於て舊派の其れよりも如何に甚しく空論に耽りつゝあるよ。『基の組合員の一部は業務より生ずる危險の外に立ちて其の報酬及び報酬を受くるときが豫定されたるものなり』。『現今の勞働者が企業の危險を犯すことなくして常に定額の賃銀を受取るを得るは實に彼等に取りて利益ある方法なり』。然
らば失業者とは企業の危險を負擔せず豫定されたる定額の賃銀を受取りたるが故なり!田島博士の經濟的貴族國の辯護論は前きに言へる獨斷的見解の不平等論に在り即ち企業家と勞働者との別を生したる所以は不平等なる人性自然の結果にして例令勞働者の生產組合を以てするも企業の才能あるものは企業的業務に服し他は力役的業務に從事するに至るを以て平等の勞働組織は不可能にして企業家は不滅なりとの議論これなり。而しながら是れ即ち文字の能力を疑はるべき所にして、社會主義は今日の企業家を排すと雖も企業家的才能の者を獨斷的平等論によりて無視するものに非らず。國家社會主義の白眉たるイリー博士の如く企業家を工業の船長なりとして重要視する〓とは絕對に否まざるも、彼の如く工業の船長が同時に工業の船主たらざるべからざる理由を認めざるものなり。法理的に云へば自己の目的の爲めに自己の利益に歸屬すべき權利の主體として企業を爲す今日の企業家を排すと雖も、國家の目的中國風味企一、大、8.5視すの爲めに國家に歸屬すべき利益のために國家の機關として企業を爲す才能ある者を無用なりと云ふに非らず。繰り返へして云へば、工業の船主たり利益の主體たる企業家は國家にして、全國民は國家の機關として國家の利益の爲めに或は筋肉を勞し或は才能を働かす所の勞働者なりとすべし。更に繰り返して云へば、過去貴族國時代の家長君主等の如く自已の目的の爲めに自已の利益に歸屬すべき權利の主體として存せしむる今日の經濟的貴族國を打破して、恰も今日の中央地方の官吏が國家の目的の爲めに國家に歸屬すべき利益の爲めに國家機關として存する如く、企業的業務に服する機關を其の才能ある者に行はしむることに在り。即ち博士の言の如く勞働者の生產組合中にて企業の才能ある者が企業的業務に從事すとも、其の全業者は所謂企業家と全く異なれる組合の機關にして、即ち或る種類の勞働者たるに過ぎず。統治權を行使する才能ある者が直ちに統治權の主體たる諸侯君主たらざるべからずと云ふ理由なきが如く、企業の才能ある者が必ず利益の主
體たる企業家たらざるべからざるの理なし。この點に於て博士も亦金井博士の如く我れ田島島錦次なるものは經濟學者なるか將た經濟學かと顧みるの要あり。獨斷的不平等論に頭惱の中樞を腐蝕せられたる者は斯くまでに賢明を蔽はるゝか。田島博士の經濟的國の辨護論は餘薀なき者なり。氏は放縱に專制權の利益を列べて憚からず。曰く、『其の國內の生產業は凡て勞働者の生產組合によりて行ふを得べしとするも他の諸國には機敏なる企業家尙存し勞働者を使役して之に當らんには其の國は必ず不振の地位に立つべきこと恰も微弱なる共和國が强大なる專制國に兵事上外交上後れを取ると一般ならんのみ』。是れ事實なり。故に一國家內に於ける生產組合が勞働者の適度の勞働時間と高尙なる生治との爲めに、他の廉價なる賃銀奴隷の酷使によりて廉價なる生產費にて足る資本家組織の產的と市塲の競爭に勝へざることは事實にして、是れが爲めに社會主義が一局部の生產組合の方法を排し政權の上に立ち現はれて國家が凡ての氏の外國貿易る非難產業を國家の手に吸集せんとする如く。外國に於ける同じき資本家的產業の存在は社會主義の實現されたる國家の產業に防害たるべきが故に、玆に社會主義の萬國國際大同盟の運動あるなり。斯ることは社會問題專攻の博士の不注意なるべき理なく彼の矢野文雄氏の微溫的なる『新社會』が此の點に於て特更に注意を拂ひて書かれたるが爲めなることは何人も知れる所の如し。而して其の微溫的なるにせよ一國內に於ける社會主義の或る程度までの實現が必ずしも不能にあらず、國家內の資本と勞働の團結の爲めに經濟的先進國に對抗し得べしとの矢野氏の議論は博士の根據なき推理を打消して餘りあるべし。何となれば小資本の分立的競爭よりも大資本の合同的活動が遙かに有力にして、相殺的破壞的勞働よりも團結的秩序的勞働の大なる生產を來すべきは經濟學の原理にして、之を國際競爭に行ふも彼の幕末に名ける各藩貴族の分立が外國に破られたるに係らず、團結せる一公民國家となりては强大なる露西亞にすら打勝ちたるが如くなるべければなり。只、看過す
べからざることは『强大なる專制國』の語を以て現今の生產的專制國を讃美する博士の根本思想に在り。若し專制國と云ふ語が國家の目的と利益との爲めに國家の統治權を專制に行使する國家機關の政體なりとの意味ならば專制に伴ふ機敏と秘密とが戰鬪或は外交の激甚なる競爭に於て國家を利すべきは疑ひなき事實なり。而しながら君主が統治權の主體として君主の目的と利益との爲めに國家が客體たる物格として取扱はれし家長國時代を指して專制國と云ふならば、其の專制權の行使によりて利せらるゝものは君主にして國家に非らざることは亦論なし。(『所謂國體論の復古的革命主義』に於て國家を人格と物格とに分類したる所を見よ)。故に若し田島博士の所謂强大なる專制國たる今の資本家制度に於て、資本家が其の生產團體の機關として團體の利益のために團體の目的のために生產權を行使するならば、たとへ其が專制なりとも專制によりて得べき利益あらば其の生產に與かれる剛體員に當然なる權利として拘霑すべきなり。氏の所講張大なる專制國而しながら是れ決して現今の狀態に非らず。資本家は其の生產權を恰も家長君主の如く自巳の統治權として自己の目的と利益との爲めに振ひ、年俸月給賃銀によりて家臣奴僕たる團體員は資本家の目的の下に客體として存するに過ぎず。故に斯る意味の强大なる專制國に於ては其の强大なる國家、生產團體ならば强大なる生產團體を有することは君主と資本家の利益にして、其の强大なる國家或は生產團體を率ひて君主と資本家の强大を加ふることは權利の主體たる彼等に歸屬すべき利益にして、其の利益が偶然に他に溢霑するや否やは問題外なり。故に英國に於て一八九五年の統計、百三十五億萬圓の收入中八十五億萬圓まで全人口の八分の一の經濟的君主等に歸屬することは强大なる專制國に於ける專制君主の權利なるべきも、其の君主の目的と利益との爲めに物格として存する他の八分の七が飢餓點を上下しつゝ英國は强大なる國家に非らず。統計家の殘酷なる惡戲は、米國シカゴ市の富を全人口に平分して一人壹萬圓となり一家五六萬圓の割合なりと計算しし手國爲益的主て段家めととの度本日べに專存とひにの利目君制國
つゝあるも、失業者と犯罪者とに充滿せる米國は貧弱なる國家にして、强大なる者は數十の經濟的專制君主のことなり。岩崎黄金皇帝が其の高き屋に登りて朕富めり民焉ぞ富まざらんやと宣ふとも、强大なる者は岩崎なる者のことにして賃銀奴隷と農奴とによりて組織せられたる大日本帝國は決して强大なる國家に非らず。日〓戰爭に勝ち日露戰爭に勝ちて、利益線の膨脹、貿易圈の擴大が無數に存在する經濟的家長君主の强大を加ふるとも、其れによりて國民と國家とが强大なりや否やは全く問題を異にす。十六軍團の陸軍と數十萬噸の海軍とを以て武裝せる巨人が骸骨の如く餓へて、貧民の上には小盜人を働き富豪の前には跪きて租稅の投與を哀泣しつゝある醜態を見よ。大日本帝國は今や利益の歸屬すべき權利の主體たる人格を剝奪せられて經濟的家長君主等の爲めに客體として存するに過ぎずなれり經濟的專制君主等は强大なるべし。而しながら大日本帝國は斯くても强大の國家か。田島博士は恐くは斯る意味に於て『强大なる專制國』の語を吐しきに非らざるべく單に社會主義の生產組織を指して『微弱なる共和國』と名けたるに對照せしが爲めなるべし。あゝ微弱なる共和國!共和國何ぞ必ずしも微弱ならん。而しながら微弱の一語は社會主義に對する死活問題なり、是れ氏に限らず堂々たる學者より常に聽く所にして、社會主義の實現は生產を减退すとの全く〓倒せる誣妄これなり。金井博士yの『社會經濟學』にも。『若し强ひて之に實行せんとせば生產を監督し凡ての生產に從事するものは子孫の〓育養生のみならず、又一般に消費をも監督せしめんが爲めに非常に多數の官吏を要することは免かるべからざるなり。然れども尙これよりも更に恐るべきは指揮監督の任に當れる上級官吏の無限の權力を有し絕へず之を實行するの地位に立つに至らんこと是れなり。斯くして社會は古來比類なき壓制に苦しむに至るみならず、際限なき干渉と監督との行はるゝにも係らず生產の結果は決して現制度の田島博减もの井和な謂士退産所博國る微の請士金共弱所士金共
下に於けるよりも多からざるべし。否却て少なかるべし。何となれば巳に經驗によりて知れる如く方今の社會にも自利心の活動全く無きか或は少なき所にては生產甚だ少なきか或は惡しきかは一般の事實なればなり」。是れ社會主義に對する兩刀論法なるべし。社會全員の貧困か國家萬能主義かとの兩刀は全社會の富有と同時に個人の自由獨立を主張する社會主義をして逃路なからしめんとする者なるべし。而しながら其の刀は共に地を擊てるに過ぎす。社會主義は全社會の驚くべき富有と個人の獨立どを共に得べきことを確信するものなり。吾人は決して尊敬すべき金井博士を通辨的學者なりと信ずるものに非らずと雖も、社會主義を以て官吏專制の國家萬能主義と誤解して强烈に個人性の權威を主張する者は所謂個人主義なり。(個人主義の大なる意義につきては後の『生物進化論と社會哲學』を見よ)。而しながら誤解さるゝが如き偏局的社會主義はフラトー以前の遠きに千年前のことして如何に官吏のred整理屬的社會主義干渉を許したるかは婦人の貞操をまで監督せしめたるにても知るべし。現今の科學的社會主義は決して斯る素朴なる本能的社會性によりて無意義に繋がれたる古代の復古主義にあらず。十九世紀に至るまでの個人主義の〓鮮なる覺醒を受けて社會性と個人性との確實なる自覺の上に新らしく築かれたる全く別個の理想なり。此の精細は更に『生物進化論と社會哲學」に於て說く。而して官吏の監督無くしては生產的活動を萎縮せしむと推想する〓との人性に對する無智識に基くことは前きに說けり。而しながら社會主義の世と雖も决して僅少なる監督者の凡て無用なりと云ふにあらず。只其の監督者とは今日の官吏と全く別種の者なることを忘却せざれば足る。今日の官吏の重要なる任務は權力階級の維持の爲めに常に反抗せんとする劣弱階級を抑壓する〓とに在り、而して經濟的誘惑によりて腐敗し易き組織の下に置かれ、階級組織の爲めに專制の驕慢と奴隷の卑屈あり。斯る者が社會主義の實現されたる曉に於ても尙存在すと考ふるは、日出でゝ尙狐の陰れずと云ふと同一所今會代主と謂日官社登時會定教者の
なり。今日の如く上官の前には即頭の藝術家たるに過ぎざる者が轉じて社會に對するや帝王の如き權力を振ふは此の經濟的懸隔と權力的階級組織の暗黑なる社會なればなり。監督者の推擧に至りても決して今日の官吏の如く、妻君の緣故、形式の試驗、月謝納附の履歷書、政黨騒擾の獵官に非らずして撰擧によりて立ち。而して其撰擧と云ふも其の軍中より撰出されし羅馬末年の皇帝の如くならず、勞働の義務を終へたる局外者より勞働軍中の適當せる者を選擧すとのベラミーの提案の如くせば何處に專制あらんや。而して今日の司法官の職が人格ある人物の名譽職となりて權力の濫用を監視して個人の自由獨立を保護して立つべく、且つ勞働的兵卒も監督者も又今日の企業家に相當する所の重大なる機關も同一の分配を受けて經濟的に對當の地位に立つとせば其間亦何ぞ專制と卑屈の官吏的階級あらんや。この故を以て古代よりの偏局的社會主義即ち國家万能主義を個人主義の革命によりて一たび全く頗覆して佛蘭西の如くなる能はざりし獨乙に於ては民主々義な由云主會於獨ふ義氏て乙社理と主る名に於で個人の權威が社會の利益の爲めに强大に主張せられ、中世の遺物を載せて流れ來れる國家万能主義の浮氷を國境外に驅逐せんが爲めに『社會民主々義』なる者あるなり。即ち社會主義と共に民主々義の主張せられつゝあるは個人の權威か社會なるの名に於てする他の個人の意志に汚辱さるべからずとの要求にして、何ぞ今日の如き官吏を以て生產を司らしむるを得べしと考ふる者ならんや。-否-今日の國家万能の官吏專制を以て生產を司らしめ或は生產に容吻せしめんとする者こそ金井博士等の所謂國家社會主義に非らずや。金井博士の用ふる兩刀論法の一刀は却て深く國家社會主義自身の心臟を貫けるに過ぎず!玆に於て問題は、金井博士の所謂生產を減退せしむと云ひ、田島博士の所謂微弱なる共和國と云ふことに歸す。これ誠に以て〓倒せる誣妄なり。社會主義は生產を減退せしむるものに非らずして生產を增進せんが爲めなり。微弱なる共和國に非らずして强大なる產業的共和國官吏專制の生南は國書籍廣告含むりも産を减退す推し
を現出すべき者なり。吾人は斯る全く〓倒なる誤解が敢て二氏のみならず充分に尊敬せらるべき人々の頑强に維持する所となるを見る毎に、誤解者が何の理由によりて斯る非難を發するかを考慮したりき。而も吾人は上來打破し來れる不見識或は無思慮より外に斯る非難の發せらるべき理由を見出す能はざりき。若し有りとせば空想的社會主義及ひ今日の社會主義者の或者が分配の不公平を論議する〓とに力を注ぎつゝあるを見て生產の多少を顧みず平等の〓貧に至るべしと考ふることに在るか。而しながら吾人は斷言す、科學的社會主義は決して分配論に重きを置くものにあらずと。これ奇怪に似たるも吾人の特に强く主張せんと欲する所なり。空想的社會主義時代に於ては獨斷的平等論の規矩を以て上層の階級を只下層に引き下くれば可なりと考へしが如きもあり、又社會主義の發見に導きたる動機が現社會の分配の不道理不公平に在りしを以て、分配論が主張の眼目なるかの如く思はるゝは社會主義者社會主義は分配論に重きを置かす自身と雖も亦免かれざる所なり。而しながら社會主義の眞髓は分配論に非らずして實は生產論に在るなり、即ち土地及び生產機關の公有と其の公共的經營と云ふことが社會主義の脊髓骨なるなり。事實に見るも世界の社會黨は無數に異なれる分配論によりて甞て離散せしことなく生產論を中心として合同して動かざるなり。由來分配と云ふ語は私有財產的臭氣を有す。固より分配さるゝ配當額が私有財產として全く各個人の權內に屬することなれば此の語を然かく不當なりと云ふに非らずと雖も、一切を現社會の標準によりて推論するより外知らざる彼等に取りては分配と云ふ語は直ちに、大に擴張されたる公共財產の私有財產制度の非社會的觀察を以て受取存することを想像せずして、らる。現今存する僅少なる公共的財產は私有財產制度の砂漠中に在るオアシスなるを以て圖書館には鐵網あり公園には鐵柵あるの止むを得ざるに係らず、而も尙この非社會的思想より外有せざる今日の人と雖も決して軍艦に對して分配を主張し兵營の建物に向のて分配を要求せ觀分今日共產光配時と的代
ざるに非らずや。是れ軍事上の〓とは往年の大名の如くならず國家の經營すべき者なる〓とを解すればなり。故に此れと同樣に生產上の事も決して一私人に任ずべき者に非らずとの〓とが明瞭に了解せらるゝに至らば、兵營よりも大なる工塲、軍艦をも築造する大製造所の如きを今日の如く私有財產制度の分配的眼光を以て眺むるの不合理は存せざるべきなり然らば社會財產の大部分は共產として存すべく分配さるゝ部分の如きは平常の生活と社會の進化に應し個性の傾向を滿すための購買力なるべく、決して現今用ひらるゝ分配-名譽權力生活戀愛の凡てを含有する意義の分配に非らざるは明白なるべし。故に社會主義者の分配に對する提案は種々に異なり、サン、シモンの如きは勞力に比例する分配の差等と云ひ、ルイ、ブランの如きは理想の極致を揭げて能力に應じて生產し必要に應じて消費すと云ひ、今日の社會主義者は萬人平等の分配と云ふ。固より『能力に應じて生產し必要に應じて消費す』とのプランの理想は吾人の理想にして遠からざる將來に於て達し得書べき者なり。然しながら斯る理想的の共產社會は生產のより一層に多くなり道德的進化の更に一段の高きに到らざれば實現さるべからざる者なるを以て、科學的社會主義は現今の程度に應じて萬人平等の分配に止まりて次の進化を待つ者なり。固より現時の日本に於て今日直ちに社會主義の實現さるゝ者と假定せば、『新社會』の如くシモンの提案を暫くの間取る〓とは生產の然力の發達せざる國の狀態として可なるべしと雖も、斯る實現は決して今日に期待さるべからず(『社會主義の啓蒙運動』を見よ)。のみならず、一個の生產物の上に其の生產に從事せる人々の個人的勤勞の限界を附する能はず、又歷史的累積の智識の効果が其の中に如何ほどの分量に於て含まるヽや知る能はず、生產物とは混然たる一個不可分の社會的歷史的產物なるを以て、其れを個人的に現在的に分配の差等を設けんとするは、社會的生產時代に於て個人的生產時代の分配法を繼承する者にして今日の正義とする所と甚しく背馳すべければなり。吾人は分配論に關する種々なる提案を時代的に進化す不理分個能論配人的の的
べき者と見よと云へる見解を執る。分配は生產に伴ふ。社會と云ふ生物は其の生存進化の物質的資料たる生產の多少に應じて分配法の正義を異にす。彼の生產の最も缺亡せる喰人族が其の社會生存の目的のために同類の肉をも分配さるべき物質的資料の中に加へて相殺戮する如く、今日までの私有財產制度が戰爭或は法律の形に於て他の社會と或は他の階級との間に於て掠奪の分配を爲しつゝある如く。原始的平等の部落共產制に在りては原始的共產なるべき原始的生產物の富有ありて行はれ將來に來るべき共產的分配は無限なる發明による共產的生產の富有ありて行はれ、其れに到達すべき階級たる社會主義の萬人平等の分配は萬人をして平等の分配に與かりて經濟上の慾望が相衝突するの要なきまでの富有なる大生產を徵兵的勞働組織によりて來さゞるべからず。孟子が『民水火に非ざれば生活せず、昏暮に人の門戶を叩ひて水火を求むるに與へざる者なし、至て足ればなり。聖人の天下を治むる菽粟ある〓と水火の如くならしむ。菽粟水火の如くにして民焉ぞ不仁伴生分ふ產配にはなる者あらんや』と云ひしは豊饒なる平原に人口の稀薄なりし堯舜時代の原始的部落共產制に於ては眞なりしなるべく、之を私有財產制度に入りて君主貴族等の掠奪階級が生じたる素朴なる萊犁の農業的產業時代に主張せるは固より空想に過ぎざりしは論なし(孟子の社會主義につきては後に『社會主義の啓蒙運動』に於て說く)。而しながら、今日再び人口より遙かに超過せる生產を爲し得べき機械は續々〓しし發明せられつゝあり。この機械を以て今日の如く經濟的貴族階級の獨占して相破壞するが如き方法に於て生產せざるに至らば、分配論の如きは生產の進化に伴ひて自ら解釋さるべきなり。故に吾人は社會の進化して萬人平等の分配と云ふ一階級を越へて純然たる共產的社會に至るべき〓とを圓滿なる理想として有する者なり。今日の社會主義者が孔子の如く少きを憂へず均しからざらん〓とを憂ふと云へる過去の空想的社會主義を脫して、擧りて土地及び生產機關の公有に全力を注きつゝある者は一切が大生產を擧ぐる〓とによりてのみ解釋さるゝものなるを知れば國滿な理想共産主義
なり。微弱なる共和國と云ふに至りては今の社會主義を以て空想的時代の其れと同一視し、只退嬰的に〓貧の平分に甘んずと解すればなり。社會主義は貧少なる分配を平等にすべきことを主張せずして寧ろ富有なる公共財產に對して個性の相異に應ずる共產的使用によりて滿足を得べきことを理想とする者なり、上層階級を下層に引き下ぐる者にあらずして下層階級が土層に進化する者なり。誣妄も極る。然らば如何にして全社會をして今日の上層階級の如き幸福なる生活を受けしむるほどの大生產を得るや、曰く歷史的進行の流に從ひて至るべきのみと。吾人が前さに經濟的貴族國の歷史を述べて、經濟的土豪より經濟的群雄戰國となり更に經濟的封建制度に至ると云へる如く、經濟然の潮流は今や實に滔々としてツラストに流れつゝあり。而して群雄戰國の兵亂に苦みたる者が封建制度の貴族政治を悅びたる如く今の經濟學者は擧りてツラストの大生產を讃美しつゝある者なり。是れ固より當然のことにして分立せる資本が合同せる資本よりも多く經濟平分に〓貧の上層を引き下非らず生義社みり産は會實てに大主現さる的にして協同の勞働よりも相破壞し合ふ勞働が多くの生產を來すと云ふが如き痴呆の存すべき理なく、經濟的封建制度は群雄戰國の經濟的兵火なきを以て彼等諸候と共に社會を利して大生產を擧ぐるを得るは疑ひなき眼前の事實なればなり。如何に米國の法官がツラスト禁壓に全力を注ぎたりとも、又如何に勞働者と小資本家とが其の横暴に恐怖して極力防害に努むとも歷史の大潮流は木柵石塊を以て阻むべからず、全世界は今や殆んど全くツラストとを以て蔽はれんとす。嘗て北米の石油業者の破壊的競爭の爲めに石油は徒らに倉庫に積まれ地に流れて願みられざりしか如き大損失を來せし者、一八八二年スタンダード石油ツラストの組織さるゝや、實に生產費の六割を減じ近年の配當總額六億萬圓に近しと云ふにあらずや。四十億圓の資本を合同して成れるカーネギーの鐵製ツラストが如何に他の合同なき歐州の資本家を支那の市塲より驅逐せるかを見よ。グールゴース製糖會社は全米國の悉皆を合同し、ナシヨナル、ヒスケツト會社は全國大製造會社の九割を合
同し、倫敦に於ては八百屋すらツラスト組織となれりと云ふに非らずや。社會主義はツラストか如何に專橫を働くとも歷史の進行に逆ひて小資本分立の前世紀を回顧する者にあらず、ラストの進行を繼承して更に大合同に進まんとする者な、り。ツラストの資本家大合同は同業者間の破壞的競爭を止めて廣告の莫大なる浪費と各自の破壞的行爲による資本の徒費なしと雖も、そは單に資本家間の大合同に過ぎずして他の勞力大合同の勞働組合と激甚なる戰鬪を絕たざるが故に如何に資本と勞力の浪費あるや知るべからず-是れツラストの尙勞力と資本との關係に於て全からざる合同にして大なる浪費をなして生產を傷害する所以なり。ツラストの資本家大合同は暗中の飛躍に過ぎざる經濟的混戰を止めて需要供給の關係を統計に於て眼下に俯瞰するの便宜あるが爲めに從來の如く十年毎の大恐惶を來すが、如きとは無しと雖も、而も其の經營が專制權に件ふ暗愚と驕慢に基くを以て需給の關係を見るの明を蔽はれ、諸侯等の誅求苛歛の爲めに社會の購買力を枯渴せし間資ス等會醫めて茲に頻々たる生產過多となり社會は如何に資本と勞力を消費しつゝあるや知るべからず-是れツラストの尙消費と生產との關係に於て全からざる合同にして大なる消費を爲して生產を傷害しつゝある所以なりツラスト資本家大合同は無數の小賣人を要せず、同業者間の破壞の爲めに要する人員、及び收益少なき工塲を閉鎖するより解雇する勞働者等によりて勞力の消費を避くることに於て大なる利益を得つゝありと雖も、其の節約されたる勞力は直ちに生產の途に即く能はずして徒に節約たらざるのみならず或は社會の慈善に衣食して次ぎの需要までを遊食し或は社會を脅かして犯罪者となる。社會の被る勞力の浪費は如何に多大なるや知るべからず-是れツラストが猶凡ての關係に於て全からざる合同にして大なる浪費を爲して生產を傷害する所以なり。而して經濟的活動の二大動機たる公共心は個人的契約關係の爲めに壓伏されて働かず自己心は階級的隔絕による絕望の爲めに刺激さるゝ所なし-ト是れツラストが全社會を打て一丸とせる大合同に非
らずして全社會を富有ならしむべき大生產を來す能はざる所以なり。社會主義は此の資本勞力の大浪費あるツラストを社會の經營に移して斯る浪費の欠滔を去れる者なりと考へらるべし。經濟的群雄戰國は經濟的封建制度に至り、經濟的封建制度は更に經濟的公民國家に至る。社會主義は社會の爲めにする生產なるを以て社會の購買力を枯渴するが如き誅求苛歛なく、專制の暗愚より生ずる生產過多なく、無責任なる勞働者の解雇、工塲の閉鎖より生ずる失業者なく、勞力資本の二大階級の闘爭より生ずる資本勞働の徒費無し。而して平等の分配の爲めに自由に行はるゝ個性發展によりて達せんとする名譽と地位に對する利己心の强盛なる活動あり、社會に歸屬すべき利益なる〓とを意識して努力する公共心の神聖なる刺激あり。經濟學者なる者はツラストの大生產を禿筆爛舌して說きながら、ツラストの進化を受けて其進化を繼續し更に其れりも遙かに大生產を來すべき社會主義を誤解して却て生產を减退せしむと云ひ微弱なる共和國と云ふは何たる〓とぞ。彼等は一ス|大費ト|ツなのラき浪ス個人の利己心をして社會の經濟的源泉を左右せしむるを然かく賢明なる制度なりと思はゞ何か故に大倉某の如き者をして砲兵工廠の工塲主として砲彈に砂を入れ銃丸に石を混ぜしめざるや。國家生命の根源たる生產構を個人の財產權として存せしむる今日の賣官制度を然かく確定の經濟組織なりと思はゞ何が故に統治權を皇帝の利益の爲めに存する財產權として官職を賣買しつゝある支那朝鮮の如くならしめざるや實日た財個產權度賣今権のが生人產劃而しながら誤解すべからず、ツラストの經濟的封建制度の一轉して社會主義の經濟的公民國家に至ると云ふと、ツラストの時代に小企業家と小資本家との存在する餘地なしと云ふ〓とゝは自ら別問題なり。統計は明かにツラストの大企業家合同が其れと同業の小企業家を併含し壓倒すると共に、ツヲストの餘澤によりて立つ小企業家は其れに併行して發生し、又大規模によりて生產する能はざる美術品修繕業等の手工業的小企業家はツラストの勢力範圍の外に立ちて存在しつゝあるを
示し。月給年俸にて雇傭さるゝ精神的勞働者及び賃銀に衣食する肉體的勞働者と雖もツラストの株劵を買ひ一面小資本家となり得べきを以てなり故に吾人は社會主義者中の皮想的見解者の如くツラストの勢力を見て直ちに小企業家の存在し得べき餘地なきかの如く信じ、社會の階級的隔絕を直ちにツラストの株劵の悉くが黃金貴族階級に獨占さるゝ者なるかの如く解するの誠に獨斷論なるを知る。而しながら斯る小企業家と云ふが如き小さき掠奪者の存在し得べきは恰も封建時代の政刑普及せざるが爲に森林に山賊あり市井に賻徒ありしが如く黃金大名の目を避けて嚴鼠の如く存する者にして。其のツラストの株主として小資本家たり得べしと云ふが如きは、恰も封建時代と雖も、土百性のみに非らず貴族階級に隷屬して掠奪階級を組織せる武士若くは足輕仲間の階級ありしが如し。若し封建時代と雖も森林に山賊あり市井に貴族階級と土百性の階級とのみならす其賻徒ありと云ふ理由を以て、間に武士と云ひ足輕仲間と云ふが如き掠奪階級の介在せしと云ふ理由な別實云至主カラ賣實べ在の資家小業小家得社ス會トふ事り:を以て、人類の政治史が封建制度を以て終局とせざりしとを解するならば。彼の講壇社會主義者なる者が社會主義者中の皮想的見解者を窮追するに此の經濟的封建制度の下に於て小企業家と小資本家の存在し得べき餘地ありと云ふを理由として、却て自ら經濟史の進行を忘却せるが如き失態に陷るは何事ぞ。金井博士と田島博士との著書に於ては此の點よりする非難は見出されざりしと雖も、自ら稱して講壇社會主義を主張すと云ふ者の多くは殊に此の點に力を極めて純正社會主義の前に抵抗を試む。京都帝國大學〓授法學博士桑田熊三氏の如き、千山万水樓主人の名の下に讀賣新聞紙上に流麗の筆を揮つて大に議論せし法學士河上肇氏の如き、『社會問題解釋法』に對して論戰を求めたる一著者の如き是なり。社會主義は小企業家と云ふが如き小さき掠奪者が尙經濟的諸侯の勢力外に立ちて存在しつゝある現時代に甘ずる者に非らずして來るべき時代に於ては小企業家をも存在せしめて掠奪せしむべからずと主張する者なり。精神的肉體的勞働者がツラストの株劵を得
て一面小資本家の小さき掠奪者として經濟的貴族の下に隷屬して存在しつゝある現時代に甘ぜす、來るべき時代に於て小資本家をも存在せしめて掠奪せしむべからずと主張する者なり。即ち、經濟的封建制度の下に於て小企業家と小資本家の尙存在しつゝありと云ふ〓とは其れだけの事實にして、經濟的階級國家が歷史的進行の當然として經濟的公民國家に至ると云ふことゝは他の事實にして別問題なり。講壇社會主義者の議論は經濟史の進行する將來を看る能はずして經濟的貴族國の維持を以て思想の基礎とし、純正社會主義は經濟史の潮流に從ひて經濟的民主國を理想す。而して今日の權利思想は强力による所有權の主張にあらず。個人的勞働に對する個人的分配の正義にあらず。社會が凡ての富の生產者にして凡ての富の所有者たる〓とは、今日の國家に於ても種々の法律に於て其の『最高の所有權者』たる〓とを現はしつゝあるを見るべし。斯く國家が最高の所有者と承認さるゝまで權利思想の進化し正義の理想の向上せる今日に於て尙小企業家と云ひ小資本家と云ふが如き小さき掠奪者の存在し得べきことを理由として經濟的維新革命を阻害せんと試むるは何ぞや。是れ先きに先決間題と云ひしものなり。ヨくー-進化論は誤謬にし誓で人類の歴史は經濟的其族國に止まり地球の治却するさて管て幾さとなきか「社會經濟學」と「最近經濟論』とが社會主義に關して傳播しつゝある誣妄は決して以上に止まらず。只だ、吾人が以上の二氏を殊更に指定して打破したる所以の者は其の肩書と地位と而して其著書の名聲とが斯る思慮なき讒經に光輝を放つものなるを認め、特に半鳥半獸の鶴の如く社會主義の假面を剽窃して被れるが爲めに純然たる資本家經濟學よりも世を毒する〓とに於て遙かに甚だしき者あるべきを信じたるが故なり。而して以上の說明に於て彼等の云爲する所が些の社會主義的傾向だになく「政府社會主義」或は『資本家社會主義』に過ぎざるとを明にし、以て辨
妄の間に於て純正社會主義の本義を經濟的方面に於て或る程度まで示し得たりと信ず。-純正社會主義は鵺的社會主義の誤解するが如く掠奪階級の地位を轉換せんとする者にあらず、一切階級を掃蕩して社會が社會の權利に於て社會の利益を圖る者なり。純正社會主義は鵺的社會主義の如く經濟的活動の動機を壓伏する現社會を辯護するほどに人性につきて無智なる者に非らず、公共心の强盛なる刺激と共に利己心の障害なき發動によりて驚くべき經濟的活動を期待する者なり。純正社會主義は鵺的社會主義のごとく階級隔絕を維持して勞働を輕蔑忌避せしむる者に非らず、勞働それ自身を外部的條件の上に置きて絕對に神聖ならしむる者なり。純正社會主義は鶴的社會主義の如く獨斷的不平等論によりて今日の階級的不平等を維持して歷史の潮流に逆らはんとする者に非らず、同類觀の銳敏になれる社會進化に應じて社會の進化の爲めに個人性の發展を障害なからしめんとして物質的保護の平等を圓る者なり。純正社會主義は鵺的社會主義の如く一私人の目的の鵺的社會主義義社と會純主正爲めに爲さるゝ專制を讃美する者にあらず又國家萬能主義を以て今日の官吏をして生產に係はしめんとする者にあらず、個人主義の覺醒を承けて僅少にして平等なる監督者を賢明なる撰擧法によりて社會の機關たらしむる者なり。純正社會主義は鵺的社會主義の誤解する如く微弱なる生產をなし〓貧の平分に甘ずる者にあらず又分配論を重要視する者にあらず、一切が大生產によりてのみ實現さるゝことを知りてツラストの進化を更に進化せしめツラストに伴ふ凡ての浪費を去り、資本家間のみの合同を更に全社會の大合同に來らしめ、私人の權利たる生產權を國家の目的と利益との爲めにする公權となし、個性發展の競爭と公共心の强烈なる動機によりて全社會を驚くべく富有ならしむることに在り。而して此の富有は利巳的妄動の障害なく犯罪なく盲目の企業なく階級の爭鬪なく恐惶の大破裂なく、經濟的誘惑を去れる平等の出發點よりする競爭の自由と、智識の遺漏なき廣漠なる普及とによりて發明は更に發明を產み機械は更に機械を作り、累積して止まざる
資本は又さらに其累積して止まざる資本を止まずして累積し、今日の程度を以ては想像し得べからざる速度を以て增加又增加して無限無際邊に進む-實に社會の權利と利益とを主張する純正社會主義は此の社會進化の理想を根本義とす。徒らに政府と資本家との爲めに國家の權利と講檀の神聖を汚辱して鶴の如く怪鳴する彼等は社會主義と名けらるべき何者をも有せざるなり。鵺的社會主義にとりては經濟的貴族國は人類歷史の終局にして地球の冷却するまでの制度なり、純正社會主義は進化論の上に立ちて嚴肅なる科學的基礎によりて推理し明確に社會進化の理想を意識して努力す、斷じて錦鑛に包まれたる糞土の塊と混同すべからざるなり。而しながら社會主義の理想〓に到達するまで資本家階級に對する階級鬪爭の一擧にして勝を制する能はざるが爲めに、社會進化の跡が國家社會主義の途を經由するの形を現すや否やは自ら別問題なり。(後の『社會主義の啓蒙運動」を見よ。)第貳編社會主義の倫理的理想第四章個人主義の犯罪觀--先天的犯罪者の多くも祖先の社會的境遇の遺傳なり-生活の欲望と下層階級の犯罪-犯罪者の多くは家庭に於ける道德家たらんが爲めなり-カルカツタの獄に繋がれたる貧民階級-緊急狀態權と個人主義の刑法學の矛盾-高尙なる生活の慾望と上層階級の犯罪-髙尙と云ふ文字の內容は今日黃金を以て充塞せらる-講壇社會主義の犯罪觀-樋口勘次郞氏の犯罪不滅論-犯罪は病的
現象に非らず-社會良心-進步の先驅者と犯罪者-生體の根本的組織の革命と其れに伴ふ必然的現象たる犯罪の消滅-ヂユルクハイムの承認せる宗〓的犯罪の消滅と社會主義による經濟的原因に基く犯罪の消滅-普通良心の銳敏と刑罰の輕減-社會良心の進化-社會主義は餘りに多くを將來に期待する空想なりと云ふ先入思想-重力落下の原則と社會進化-宗〓に關する犯罪の時代と社會良心の進化- -强者の意志に反する犯罪の時代と普通良心の進化-生體の根本的組織の革命と犯罪の質の變化-犯罪の質と數-偏局的社會主義時代の社會良心と社會主義時代の社會良心- -樋口氏は報復主義の刑法論を取る-社會良心の進化と死刑-法律の時代と道德の時代-個性の變異を尊重する社會良心は變異の個性を犯罪視する者に非らず- -今日の多くの犯罪は各階級の各異なれる階級的良心と國家社會の利益を理想とする良心との衝突なり-良心の內容の社會的作成- -國家の法律は階級的行爲を律するを得べきも社會の道徳は階級的良心を責むる能はず-獨乙皇帝の階級國家時代の良心-經濟的貴族階級の良心-裸體に生れたる良心と階級的衣服-貧民階級の良心作成の狀態-一國家一社會內に地方的時代的良心を混在せしむ-社會主義と階級的良心を掃蕩の爲めに革命主義となる-階級的良心と階級闘爭-『人は只社會によりてのみ人となる』-倫理的生物と倫理的境遇-狼に養はれて獸類に退化せる小兒の事例-獸類の如く退化する變化性は神の如く進化する變化性なり-遺傳と境遇-摸做性の說明-現代の人は凡て狼の手に養はれつゝあり-空腹即ち犯罪飽腹即ち犯罪と云ふ意味-社會主義と個人の責任-思想の獨立信仰の自由あるは其の獨立信仰を認むる社會良心あるを以てなり-社會主義の自由論の
眞意義-純正社會主義は個人主義の進化を繼承す-私有財產制と個人主義-社會主義は亦私有財產制の進化を繼承す-經濟上の獨立と政治上及び道德上の獨立-私有財產制度の高貴なる意義と民主々義-經濟的貴族國の現代として政治の自由なく道德の獨立なし-現社會に個人の自由なきは其の根底たる個人の私有財產なくなれるを以てなり-社會主義時代には個人は他の如何なる個人にも屬せずして社會に屬す-忠君と愛國-個人は社會に對する經濟的從屬關係より社會の幸福進化に努力すべき敢治的道德的義務を意識するに至る-賣買廢止は亦この理由による-献身的道德の武士道と素町人の利巳的道德との差は經濟的關係に於て責任を有すると有せざるとによる-國家社會に對する經濟的從屬關係より國家社會に對する献身的道德を生ず-個人社會と社會主義とを混同しつゝある奇觀以上、吾人は社會主義の實現による經濟的進化によりて貧困の消滅すべきことを說きたり本編に於ては更に社會の道德的進化によりて犯罪の消滅を論ずべし。罪義個觀の人犯主吾人は先づ個人主義の犯罪觀を排斥せざるべからず。固より刑法學者によりて體質犯と命名せられたる種々の生理上の病的原因に基く犯罪、又は酒精中毒の爲めに不德に抵抗する意志の傳弱による犯罪、又は父母の犯罪的傾向の遺傳による犯罪の如きは、其の犯罪者其者に原因の存するを以て、個人を犯罪の責任體となす個人主義の刑法學は或る程度までの理由を有す。而しながら斯る一局部の者を捉へて犯罪人には凡て先天的特質ありとして無用なる方面に研究の力を注ぎし時代は過ぎ去りて、今や犯罪は殆ど全く社會の必然的現象なりとして取扱はれつゝあり。而して其の體質犯と云ふ先天的特質の犯罪者と雖も、
犯罪者が其の犯罪的特質を先天的に有するは其の父母若しくは其の祖先が或る特殊の境遇若しくは社會的壓迫の下に在りて陷りたる犯罪的傾向を遺傳するに基くと解せらるゝに至れり。固より吾人は犯罪が社會の必要的現象なりと云ふ理由を以て、意識の主體た1個人の責任を悉く無視する者に非らずと雖も、十九世紀の始めより犯罪の驚くべく增加せる事實は、社會進化の一過程として社會組織其者の革命さるゝより外責任を問ふべき何者をも見出すべからざるべきを思ふ。辯護を天職とする學者の解釋としては是を以て或は人口の增加に歸し、富の增殖に歸し、或は犯罪發見に關する司法機關の精微に赴きたる結果に歸すべし。然しながら司法機關の精微に比例して犯罪の巧妙を加へ、人口の增加、富の增加に比例して犯罪の增加すと云ふが如きは現社會が或る進化の斷崖を走りつゝある故なるを解せざるが爲めにして、實は增加せる富が精微なる司法機關に護られたる或る階級に壟斷せられて增加せる人口は其の凍餓を免かれんが爲めに巧妙なる犯罪を爲しつ犯先祖多罪天的先く者なの的のものり遺境社傳過會ゝありと云ふことが多くの理由なり。人は生物なり。生物は生活の慾何が爲めに生活の慾望を有するかの如き問ひは、望を有す。何が爲めに生物たりしかと云ふ答への與へられざるかぎりに於ては吾人の知り得る所に非らずと雖も、只人は生物として生活の慾望を有することは事實なり生活の慾望の爲めには空腹裸體なるべからず。人は此の生活の慾望を有する生物としての第一の慾望の爲めに、さらに高尙なる生物として生活すべき第二第三の慾望が壓伏さるゝを以て犯罪に陷るを餘儀なくせらる。空腹即ち犯罪と云ふことは社會主義者中の皮想的見解者の信ずる如く凡ての說明たり得べき者に非らずと雖も、社會の下層階級より出づる殆ど凡ての犯罪者は實に全く此の經濟的缺亡に原因するなり。否!彼等は家庭に於ける道德家とならんが爲めに社會の犯罪者となる。一切の動物界に於ても一切の生物其者が生存競爭の單位に非らざる如く(次ぎに說く「生物進化論と社會哲學』を見よ)、今日の激烈なる經の層望活野級下欲生犯階との犯罪者OSHI.
濟的生存競爭の社會に於て單位たる者は實に家庭なり。·鴉が惡童に其の雛を奪はるゝ時に如何に鷲の如く狂ふかを見よ。可憐の雉子が鼬に其の卵を襲はるゝ時に如何に鬪雞の如く鬪ふかを見よ。本來菜食動物に生れて最も柔和なるべき人類と雖も、其の妻子の愛の故に狼の如き純然たる肉食獸と化し去る。-實に社會の犯罪者の多くは家庭に於ける道德家たらんが爲めなり。社會主義の倫理的理想は固より之れを是認せず。$然しながら國家の我利の爲めには人類の幸福、世界の平和を無視し、外交を以て欺くも兵力を以て侵畧するも貿易の名に於て掠奪するも、是れ國家の道德なりと云ふマキアベリズムが帝國主義の名に於て主張されつゝある今日に於ては、若し彼等犯罪者の或者にして余は小さき帝國主義者として讃美さるべき榮譽を有すと云はゞ如何にする。今日、吾人は空氣を掠奪して相爭はず、然るに昔時カルカツタに於て殘虐なる印度王に捕へられたる百人の英人が一小孔によりて辛ふじて空氣を通じ得る牢獄に繫がれたる時、缺亡の壓迫は終に充分にながた道於家德け庭めん家るにはらり爲道義ある人士のみなりしに拘らず、其の一小孔より空氣を吸入せん〓とを爭ひて相殺傷せしむるに至りしと云ふ。是れ何ぞ印度の昔噺ならんや現今眼前に存す。都會の膨脹と共に一方に城廓の如き障壁を繞らし森林の如き花木によりて新鮮にせられたる空氣を占有しつゝあるに拘らず、九尺二間の豚小屋の中に於て、腐敗と〓氣の流通せざる空氣の爲めに如何に無數の小兒が窒息して殺されつゝあるかを見よ。都會の小兒死亡の統計は明かに之れを語る。若し個人主義者にして空氣の欠亡の時に於て相殺傷せるカルカツタ獄中の英人を絞殺に處すべしと主張せざるならば、吾人は實に此の空氣の如く充滿せる富の中に於てカルカツタの獄に繋がれたる貧民階級の一錢の窃盜をも羅織して縛せんと迫る繩の說明を要む。今日の刑法と刑法學とは緊急狀態權を認むるに非らずや。若し其の緊急狀態權の說明として希臘にありし例なりとして引用さるゝ、船の覆沒の時に於て一人が他の一人の據りて浮べる而を奪ひて溺死せしめたるも緊急狀態なりとして寬假さるゝならば、木階るが獄ツ級貧れにタ繋民た繋の急予法義個華緊盾學の人權の刑主と狀
して妻子父母の溺死を救はんが爲めにも其緊急狀態權の擴張されたるならば、吾人社會は社會の制度によりて下層階級を不斷の緊急狀態に落し置きながら、尙且つ軍艦より一片の木片を盜みて溺死を免かれんと悶へつゝある如き難破者に對して、個人主義なる者の犯罪を呼ばゝるに何の理由を以てするや。斯くの如くにして彼等は其の家庭を維持●する能はず破壞の斷片となりて終に自暴自棄の再犯三犯となり、而して其の小さき斷片は所謂將來恐るべき惡童となりて次代の犯罪者として待つ。上層階級の犯罪と雖も然り。人は生物として生活の慾望を有す、而しながら人はプラトーの謂へる如く單に生活するのみならず更に高尙なる生活に至らんとする傾向的生物なり。然るに元來此の內容無き高尙と云ふ語の中に、今日充塞せられたる者は黃金のみなり。黃金の時計を有せざれば醫師は病者の信賴を失ひ、黃金の眼鏡を持たざる學者は其の學說の價値を保つ能はず。單に排泄作用を營むに過ぎさる一塊高尙なの慾望る生活上層階級の犯罪の腐肉も黃金の後光を帶びては旦那樣として崇められ、ホツテントツトの部落に於てのみ第一流の美人も黃金の指環を有すれば乃ち令孃として其の斗大の臀後に擾なたる戀慕者を引率するを得るなり。高尙と云ふ語の內に含まれたるフラトーの內容は全く驅逐せられて黃金が全部下層階級が生活すべき黃金を得を占領せり。斯くの如き今日に於て、んが爲めに犯罪者となる如く、上層階級が高尙なる生活を爲さんとして又等しく犯罪者となるは論なき〓とに非らずや。窮迫に陷れられて犯罪者となるも、誘惑に圍繞せられて犯罪者となるも、其の犯罪者こそ薄僥なる犠牲にして社會は社會の必然的現象として自己の責任に顧みる〓とを要す。善良なる境遇に置かるれば下層階級より强窃盜を出さゞる如く、詐欺收賄賣節の如き犯罪が決して上層階級より產るゝの理なLo學者が其の眞理を黃金に沽りて生活せざるべからざるが爲めに更に高尙なる生活を爲さんとして黃金の前に眞理を曲げて髙く沽るに非らずや。官吏が其の地位によりて得る黃金を以て生活せざるべからさら充を日容字云高ふ尙文とる塞以黃はのせて金今內
るが爲めに、更に高尙なる生活を爲さんとして其の地位を高き黃金に沾りて賄賂を貪ぼるにあらずや。憲法によりて現在の地位は保證せられて生活の憂ひなき司法官と雖も、現在より高尙なる生活を營まんが3爲めに私曲に誘はる〓は〓くべからざる〓となり。遊廓に育てられたる子女が貞操を解せずと云ふ如く、黃金に埋沒さるゝ銀行員の詐取費消、等は、高尙なる生活を營まんが爲めとすれば阻むべき途なし。今日の政治業者なる者が學識才能文章雄辯等によりて立つ能はずして、投票を買收すべき黃金によりて代議士の椅子を得、其の得たる椅子も黃金によりて得べき車馬、壯大の邸宅によりて飾らざるべからざる時に於ては、例へ彼等の奉ずる資本家經濟學の自由競爭による物價下落の原理を以て一頭百金の市價は聊か噴飯に値すと雖も、高尙なる生活を覺まんとする傾向的生物なりと云へる希臘の哲學者は止むを得ざることなりとして看過すべし。-個人主義の刑法學は斯く窮迫に陷れられたる下層階級と誘惑に圍繞せられたる上層階級とに向つて、意志自由論の獨斷的假定を挾て徒らに個人の責任を呶々する者なり。講壇社會主義觀の犯罪個人主義の意志自由論の今日に於て科學的批評に堪へざることは事新らしく說くの要なし。然しながら意志自由論の根據なきことを知悉せる講壇社會主義者なる者にして社會主義の倫理的効果を解せざるに至つては誠に思考すべからざることなり。吾人は玆に其の例として講壇社會主義者中の倫理的方面に〓究の力を注ぎつゝある名聲ある一〓育學者樋口勘次郞氏を指定すべし。其の『〓育家と國家社會主義』と云ひ、『國家社會主義新〓育學』と云ひ、『國家社會主義〓育學本論』と云ひ、皆嚴肅なる理論の上より社會主義の犯罪絕滅を期待しつゝあることを以て純然たる空想なりと論ぜり吾人は嚴肅なる理論の上より犯罪絕滅の必ず社會主義の實現によりて期待さるべきを信ずる者なり。誠に其の『國家社會主義新〓育學』中に於て氏の論ずる所を揭げしめよ。『社會的事實の病的なるか否かを知らんは斯くまでに複雑にして困難樋口勘
なるを、往々にして簡單なる績繹論法によりて輕々しく斷言するは癖事なり。之れが爲めに同じ事實を或者は病的とし或者は正的とし何れとも區別し難く議論の絕えぬこと甚多し。『例へば彼の犯罪の如き、明かに病的現象の如く見え、多くの刑法學者亦然りと爲す者の如し。されどデユルクハイム〓授は(其の數の或る範圍を超えざる限りは)健康狀態なるを論して曰く、『刑罪は啻に一種の社會に現はるゝのみならず、あらゆる社會の或る程度に於て見らるゝ現象なり。其の形狀には變化あり。されど罪惡として取扱はれ、刑罰の下に置かるゝ所爲は何れの社會にも之れあり。若し社會の高等に進むに從ひて人口と刑罪との比例が少なくなり行くならば、罪惡は今假りに常態とするも、次第に其の性質は變し行くと例へば宗〓的信仰の如き者なりとするを得ん。されど吾等は此の想像を確かむる一理由だも有せず、否寧ろ其の反對の方面に向はしむる事實却て多し。吾人は統計によりて十九世紀の始めより刑罪の進行を觀察するを得るが、各本質酒師不滅論犯罪は病的現製作所59國共に其の數を增加せざるなし。佛國に於ては凡そ三百パーセント〇增加なり。天下何の所にか此れにましたる普通性を現はせる現象あらんや。啻に普通なるのみならず、其の數を增加し行くは、社會の組織內に於て他の現象との關係上必然の結果なるによらざらんや。刑罪を社會的疾病となすは、病氣の偶發性の者にあらずして、生體の根本的組織より發生することあるをも許すなり。此れ生理と病理とを全く混同することなり。勿論刑罪の變體を呈する〓とあるべし。例へば其の數の非常に多き時の如し。罪人の過多なるは健康なる社會に非らざるべきや疑ふべくもあらず。只或る數まで達し而して之を超過せざる程度に於て罪人に存することは之を尋常のことゝせざるを得ず。而してこの割合は各社會につきてのみ決定するを得べし。斯く云へばとて刑罪の心理的若しくは生理的に變體なるをば許さヾるにあらず。罪人個々を取りて見るときは病的なり。其の社會現象として一定數まて現はるゝことは病的にあらず』と。
『斯る結論は一見奇矯に感せらるべしと雖も、聊か考慮を費やす時は其の人生の欠陷に出づるは止むるを得ざる結果なるのみならず、公共衛生の爲めに欠くべからざる現象にして健康なる社會の必要なる要件の一なるを知るに足るべし。第一、刑罪は如何なる社會も之れを免かるゝ能はざることなれば之れを常態とせざるを得ず。前諸章を於て道德上の罪惡を社會の公共良心を犯すより成立するを明かにせり。豈に道徳上の罪惡のみならんや、刑法上の罪惡も亦然り。刑法は道德的良心の保護者なり。さればあらゆる社會に此の罪惡なからしめんには、全會員が一樣なる良心と又これに服從する傾向とを有せざるべからず、されども若し現在社會の良心が、今入り込み居らぬ人々の心を開きて入り込み、若しくは今まで威じの弱かりし者に强く感ぜられんには、從前よりは强き者、銳敏なる者とならざるべからず。殺人犯の無くならんためには、血を見るを忌むの心が今まで殺人犯を爲したる社會の層の中に浸み込まざるべからず。其れが爲めには全社會の道德感情の社會良心强くなるを要するや明かなり。且つ殺人犯が減ずるときは滅ずるほど一般の良心の殺人犯を見る益々酷なるに至るべし。されば是と同時に今日さまでのことゝ思はれざりし罪惡が銳敏に感ぜられて、前きに殺人犯が與へしと同し感覺を與ふるに至るべきなり。强盜も窃盜も同じく他人の財產を尊重するの感情を犯す者なり。されど强盜は惡事と感ずる者の尙窃盗はさまでに感せざるがあるべし。他人の財產を犯すを惡しとする感情の愈〓銳くなりて强盜の減少するに從ひ窃盜を惡と感ずる者は增加し行くべきの理。最初輕罪として扱はれたる窃盜が前よりは重き罪に問はるべきは自然の勢。野蠻社會を見よ。我等の社會にては重罪に問はるべきことの日常に行はれて世の責罰を免かるゝを。同じ社會につきても世の進むに從ひて輕き罪を重く見るに至り。同じ時代の中に於ても、又種々の階級、小社會の中には各異なれる良心ありて、政治社會にては罪とならざることの〓育社會にては罪となること多し。何れの社會にても罪の絕へざるはこれが爲なり。
『抑々人は遺傳を異にし、體質を異にし、傾向を異にし、境遇を異にするを以て、全く同一の感情を有せんことは想像し得べからず。既に其の間に多少の相異ありとせば、必ず普通良心の命ずる所に從はざる者の出づるを免かれ難かるべし。而して其の僅微なる犯罪も次第に强き感情を生ずるに至るべければ、罪人は終に絕ゆる時無かるべしと云ふなり。『是れに依て之を見れば罪惡は社會に必然なり。凡ての社會生活の諸事情と結合して離るべからざる關係を有す。故に其の適度に現はるゝことは恰も婦人の月經の人身に有益なる如く、社會に對して有益なりとせざるを得ず。『人間社會の道德は次第に進化する者にして、此の進化は社會全般の進化に對して必要なるが此の道德の進化あらんためには道德の根底に橫たはれる社會良心の極端に强からざるを要す。何となれば、若し社會の良心が常に嚴重にして聊か之れに遠ざかれる者をも壓抑せば此處者と先進步の犯罪罪者に變遷なく又進化なかるべければなり。凡ての組織の保守的勞力ありて改革に防害なる〓とは前にも之れを言へり。實に過酷なる社會良心は却て社會を停滯せしむるを免かれず。詳言せば一人の罪人も出づる餘地なき社會は其の社會良心の權力强大なるの證にして、誰も之れに觸るゝを肯ぜざるべし。從て社會進步の途も壯絕すべきなり。或る社會の進步せん爲めには個人の特性の發輝せらるゝを要す。ソクラテスの道德界に出で、ガリレオの物理界に出で、ルーソーの哲學界に出で、ルーテルの宗〓界に出でんためには、社會の智識に若干の「ゆるみ」あるを要す。此の「ゆるみ」は一方に水平以上の罪人たる進步の先驅者を出すに必要なると同時に、他方には進步の殿騎なる水平以下の罪人を伴ふは止を得さるの結果と云はざるべからず」。吾人は、犯罪を以て社會的疾病の偶發性の者に非らずして生體の根本的組織より發生する者なりと云へるデユルクハイムの言を全き眞理と認る者なり。-故に吾人は犯罪を現社會の組織に伴ふ必然的現象革組根生命織本体との的の第十一章鉄道
となし社會主義を以て生體の根本的組織より革命せんと企圖す。然しながらデユルクハイムより續繹して犯罪の永久に絕ゆるの期なしと推論せる樋口氏の主張を全く否む者なり。デユルクハイムが社會の高等に進むに從ひて人口と刑罪との比例が少なくなり行くならば罪惡は今假りに常態とするも次第に其の性質の變し行くこと例へば宗〓的信仰の如き者なりとするを得んと云へるは吾人の主張せんとする所なり。-故に吾人は宗〓的信仰に係はる犯罪の消滅せるが如く今日の經濟的競爭に基く犯罪の消滅すべきことを社會主義に於て期待す。而しながら其の爲めに普通良心の銳敏を加へて今日の窃盜が强盜の刑罰を以て取扱はるべしと云へる樋口氏の議論を全く否む者なり。殺人犯の無くならんためには血を見るを忌むの心が今まで殺人犯をなしたる社會の層の中に浸み込まざるべからずと云へる樋口氏の議論は社會の進化として正當の推理なり、而も血を見るを忌む所の普通良心が其の銳敏になれるが爲めに今日血を以て罰せざりしことにまで血を以てすべし象たる犯罪の滅消デユ1クハイムの氏認せる消犯に的る義社消犯宗滅罪基原經に會滅罪〓、く因濟よ主との主との良咸罰敏心普のとの通銳刑輕とは理由なき臆斷なり。我等の社會に於て重罪たるべきことが野蠻社會に於ては平常に行はれて責なしと云へる樋口氏の事實は固より事實なり、而も吾人の社會に於て罪とならざることの野蠻社會に於ては峻酷なる刑罰を以て問はれつゝあることは亦注意すべき事實なり。樋口氏の罪惡を指して社會衛生に必要なること婦人の月經の如しと云へるは價値なき比喩の玩弄に過ぎずと雖も、普通良心より惡人を以て遇せられたる卓越せる個性が社會を進化せしめ又進化せしむべきことは吾人の充分に認識する所なり。而も氏の指示せるソクラテースと云ひ、ガリレオと云ひ、ルーテルと云ひ、其の宗〓的信仰に背反したるの故を以て罪惡視せられたるは個人性を蹂躙するを不可とせざる偏局的社會主義時代の普通良心なりしが爲めにして、個人主義の覺醒を承けて社會良心が個人性の變異を尊重する今日及び今後に於てはデユルクハイムの所謂『罪惡は今假りに常態とするも次第に其性質を變し行くこと宗〓的信仰の如き者なりとするを得んと』云へる如くなるべきを考へざ化心社の會進良
=道德と法律とを無視し、るべからず。氏は犯罪の數と質とを無視し、道德と法律とを無視し、而して普通良心の進化を無視す。豊富なる學識を有する樋口氏のごときに向つて斯る重大なる點を無視せりと云ふが如きは誠に道德現象の專攻者たる名譽に對して甚しき非禮たるを免かれず。而しながら是れ敢て氏の罪に非らずして過て講壇社會主義の誘惑に陷れるが爲めなり。講壇社會主義の純正社會主義に對抗しつヽある旗幟は實に『社會主義は餘りに多くを將來に期待する空想なり』と云ふ一語に在りとす。1あヽ空想ー社會主義は空想なりと云ふ先入思想の全社會に漫延せるは、實に吾人社會主義者に取りて政府の迫害よりも學者の讒誣よりも最も頑强なる敵なりとすべし。而して講壇社會主義なる者は此の先入思想に誤られて生し、此の先入思想に油を灑ぐことを以て任務とす。-吾人が講壇社會主義を以て純正社會主義の當面の敵として斷じて思想界より驅逐せんと欲する所以の者は實に此の社會主義は空想なりと云ふ旗幟の飜れるを以てなり思ふり空待來くり發社主は餘に多を將想先と想すになる期入云何をか憚からん-重力落下の原則が物理界に行はるゝ如く社會に行はるゝ〓とを信ぜば、何ぞ過ぐる一世紀間の進步は中世晴黑の一千年間に優ることを忘却するや胎兒の九ヶ月間は十億万年の生物進化の歷史を繰り返へし、文明國の兒童は二十才にして六千年の文明を經歷す。社會主義は過去無意識的進化の蠕動的進動に放任する者にあらず。吾人は明かに告げん、社會主義は實に驚くべき多くのことを社會進化の理法に隨ひて將來に期待する者なり。而して最も近き將來の期待は先づ『貧困』と『犯罪』との二事だけを社會より消滅せしむることに在りと。講壇社會主義を奉する經濟學者が講壇社會主義の爲めに誤られて貧困を人類と共に存する永遠不滅の者なりと信ずる如く、講壇社會主義を奉ずる樋口氏は其の倫理學を講壇社會主義の爲めに誤られて犯罪を地球の冷却するまで存する永遠不滅の者なりと解す。-由來講壇社會主義なる者は長皮を科學的〓究の名に飾りて根本思想は進化論以前の者なり。化會則下重のとの力進社原落
實に、進化論の思想によりて社會進化の跡を見よ。犯罪は數に於て尙殘るも質に於て消滅せし者多く、法律は漸時に其の範圍を道德に讓り、普通良心は社會の進化と共に進化せり。例せば、宗〓的信仰によりて社會の組織せられたる時代に於てはデユルクハイムの言へるが如く宗〓的犯罪は當時の社會の常態にして、今日の野蠻社會が吾人の社會に於て罪とならざる噴飯すべき偶像、愚を極めたる祭禮に對する些少の違非をも虐殺しつゝあるが如くなりき。樋口氏の擧示せしソクラテースガリレオ、ルーテルの如きが當時の社會良心より犯罪視せられたる如き是れなり。然るに今日は宗〓によりて社會の組織さるゝに非らざるが故に、デユルクハイムの謂へるが如く其の生體の根本的組織より發生する宗〓的犯罪は無くなれるにあらずや。而して宗〓的信仰に對する社會良心は大に進化して違警罪によりて制裁さるゝ婦祠邪〓を外にして異〓徒無宗〓者を直に犯罪者(法律上及び道德上)と認めざるに至れるに非らずや。强力が凡ての道德法律の源泉として社會の組化心社時犯關宗の會代罪す〓進良さのるに社織されたる時代に於ては强力者の意志に背反する〓とが犯罪なりき。佛國革命以前及び維新革命以前の階級國家時代(階級國家の意義につきて後の『所謂國體論の復古的革命主義』を見よ)に於て皇帝若しくは貴族の意志に反する〓とは直ちに社會良心より犯罪を以て目せられ、梟斬絞磔の刑罰を以て臨まれたるが如き是れなり。而しながら當時の貴族階級諸侯階級は全く存在の意義を異にせる痕跡となりて殘り、國土及び人民の所有者たりし各國皇帝も國家機關となりて內容を一變せる今日の公民國家に於ては(凡て後に說く所を見よ)、貴族諸侯の意志に反するを以て罪せられたるが如き犯罪は全く消滅し、其の存する不敬罪の刑法と雖も決して强者たる皇帝の權を維持するが爲めに非らずして國家の利益の爲めに國家が國家の機關を保護する制度として全く別意義の者となれるに非らずや。彼の獨乙皇帝が佛國革命の如く中世史と近世との裁然として區劃されざりしを倖ひとして自己の虛榮心の爲めに國家の制度を曲用し年々無數の不敬罪犯人を作りつゝあるも、獨乙國より進强者の東京都雞肉絲時代と曽及良·88化
化せる米佛等に於ては斯る强者の權に基く犯罪は存せざるに非らずや。而して社會良心も大に進化して强者の意志に背反する者あるも或る塲合を除きての外は決して犯罪者(法律上及び道德上)として遇せざるに至れるに非らずや。實に生體の根本的組織の革命さるゝ毎に其の或組織に伴ふ必然的現象たる犯罪は其の質を變じ行くこと斯くの如くなるを見ば、今日の經濟的階級國家が其の根本的組織を社會主義によりて革命されたる後に於て獨り今日の經濟的原因を中心とせる犯罪の消滅せざるの理あらんや。彼の『社會主義評論』の河上肇氏が今の社會主義者を評して人の經濟的慾望に限りある者なるかの如く速斷すとなして今日の經濟的犯罪の絕滅を期待する社會主義を難ぜる如きは、向上的生物たる傾向の鋒が現時の經濟的競爭の爲めに經濟的方面に現はれたるに過ぎざるを考へざる淺見なり。樋口氏の推論は尙維持さるべき餘地あり。即ち、犯罪は質に於て社會組織の革命と共に變ずとし、今日の經濟組織の革命されたる後に於化質犯革組根生の罪命織本體變のとの的質と數犯罪のて今日の經濟的犯罪は消滅すとするも、人は遺傳、體質、傾向、境遇、を異にするを以て皆一樣の良心を有する者に非ざるべく、從て其の良心に隨はざる所の犯罪者は永久に絕へさるべきを以て數に於て存すべしと云ふ〓となり。而しながら是れ社會良心の進化と云ふとを忘却せるが爲めなり。若し今の科學的社會主義にして個人主義の革命を承けて個人性の權威を尊重すべきを知らざる偏局的社會主義の如き者ならば、偏局的社會主義の社會良心によりて遺傳、體質、傾向、境遇、を異にせる個人は直に犯罪者として取扱はるべし。即ち宗〓革命の名に於て個人の權威が認められざりし以前の凡ての大思想家が迫害されたる如き是なり。今日宗〓的信仰に對する社會良心が大體に於て個人の自由を信仰に認むるに至れるを知れるならば、來るべき社會主義の時代に於て社會良心が退化して羅馬法王時代に逆倒するが如きとを想像し得べきや。特に樋口氏が社會良心の銳敏に進むとより誤解して、今日輕視されたる罪も銳敏になれる社會良心を以て今日よりは重く罰せらる良のお社頁の義社偏代主と會代皇的會心社
べしと云へる如き、單に理論としても、今日の銳敏ならざる社會良心を以てすら輕視する者を銳敏になれる社會良心が重刑を以て報復すと說くが如きは矛盾の甚しき者なるのみならず(是れ其思想中に報復主義の刑法論を混在す)、社會良心の銳敏になれるが爲めに刑罰を加ふるに堪へずして刑法の如き單に犯罪者を社會より隔離するに過ぎざるに至れる事實を無視する者也。例を死刑に取りて見るに、實に刑法學者の言ふが如く人を殺し得る凡ての方法を以てしたり。猛獸に喰はしめしもあり、鰐魚と鬪はしめて殺せしもあり、象に踏み殺さしめしもあり、羅馬の如きは數種の虎狼を飼養して犯罪者と鬪はしめ市民の最上の娛樂たりき。日本の如きも絞あり、斬あり、梟あり、鋸引あり、火責あり、水責あり、車裂あり、牛裂あり、釜煎あり、磔あり、火焙あり。其の磔の中にも手足を縛し直立せしめて殺すあり、逆倒して數日間弄殺するあり、板に橫臥せしめて大釘にて手足を打ち面を剝ぎて漸時に殺すあり。其の火焙の中にも二本の靑竹の上に魚の如く橫へて焙るあり、を刑主は機刑化心社との會死進良織田信長の吾妻踊と名けて歡べる雀躍して火中に死せしむるあり、其の火刑の火を罪人の妻子をして燃やさしめし殘忍もありき。體刑の如き今日支那と土耳古とを除きては各國凡て存せざる所なるに、眼をゑぐり耳を〓り、鼻をそぎ、陰部を去りし如き殘忍は近き以前まで平常の輕罪なりき。今日、怠納處分として濟むべきとも僅か一百年前の德川氏の貴族國時代に於ては、水籠、簀卷、木馬、等の苦痛を加へ嚴寒老親幼兒と共に一家凡て水牢に入れ膝を沒して立たしめし酷刑ありき。斯くの如きは一例に過ぎずと雖も、體刑の廢滅に歸し死刑も絞台若しくは電氣等の方法により可成的苦痛を去るに努めつゝあるに見ば樋口氏の如き推理は誠に原因結果を〓倒せる者なり。佛國にて一八一〇年に死刑たるべき罪百五十種ありしに今日は二十二種に减少し、英國にては一八七〇事に死刑たるべき罪二百七十種ありしも今日は最も重大なる者のみ三種を殘し、而も各國殆ど悉く特赦權を以て刑の執行をなすこと無くなれりと云ふに見よ。斯く身體に加ふる外部的苦痛なく、
其の自由を剝奪し、勞働を附課する刑罰も罪人に苦痛を與ふることが目的に非らずして社會より隔離せんが爲めにする餘儀なき方法なりと解せらるゝに至れるは社會良心の大に進化せる所以にして、外部的强迫力によりて道德を勵行せる法律の時代(即ち他律的道德時代)が漸時に道徳の維持を內部的强迫力即ち良心の制裁に移す道徳の時代(即ち自律的道德時代)に進化しつゝあることを示す所以なり。社會良心の進化して銳敏となることは吾人樋口氏と共に充分に認識する者なりと雖も、其の銳敏となれる。會良心は犯罪者に刑罰を加ふるに堪へざるに至るべしとして推論さるべく、今日棄却されたる報復主義の刑法論を以て犯罪者の上に銳敏に逆比例する酷刑を以て反擊すべしとは想像すべからざることなり。社會の進化を認め道德の進化を認むるならば普通良心の進化を認て其か個性の變異を尊重する所の普通良心たることを認めよ。二十世紀に實現さるべき社會主義の前に中世暗黑時代の社會專制國家萬能の偏局的社會主義の過ぎ去れる者を以て非難の矢を番ふと時道時法代德代律のとの個性雙形式週五る社會良心は個室蘭ずにす犯非る服は何事ぞ。樋口氏は只講壇社會主義の倫理的方面の代表者の如き觀あるが故に指定したるに過ぎずと雖も、斯る思想はダーキン以後の者にあらずして濱の砂の如く盡きじと云ひし石川五右衛門の哲學系統に屬する者なり。(尙「生物進化論と社會哲學』に於て死刑陶汰の刑法論及び生存競爭の意義を論じたる所を見よ)。吾人は信ず、今日の多くの犯罪は寧ろ各階級に各異なれる階級的良心と國家主義社會主義を理想とする良心との衝突なりと。之を以ての故に階級的社會に對する根本的革命の社會主義あり。法理的見解よりすれば佛蘭西革命以來、維新革命以來の國家は中世史までの如く階級國家にあらず、日本天皇と雖も國家の一分子たる點に於て他の分子たる國民と同樣に强盛なる愛國心を有し、愛國の良心に於ては階級的差等なし。而しながら之を經濟的方面より見れば國家の內容は階級的にして經濟的諸侯階級、經濟的武士の階級、經濟的土百姓突とる想金會國夏階なの各犯多今の利す理
の階級に分れ從て各階級各々異なれる階級的良心を以て相對立す。| -故に今日の犯罪は國家社會が國家社會の利益を害する良心及び行爲に對して命名しつゝある所にして、各階級より見れは階級的良心が國家主義社會主義の良心と相背馳すと云ふことなり。即ち、今日の經濟的原因を中心とせる上層階級及び下層階級の凡ての犯罪は其の經濟的階級國家なるが爲めに經濟的階級を異にせるより異なる各階級の階級的良心が國家社會の法律道德より犯罪として取扱はるゝなり。例せば國家の法律は貧民階級の强窃盗を犯罪として所罰しつゝありと雖も貧民階級の階級的良心は恰も貧民〓育に從事する者が强盜の罪惡なるを解せぎる兒童を發見すと云ふが如く然かく良心に背反せる罪惡にあらずとし、社會の道德は地主資本家階級の驕奢貧慾を背德として指彈しつゝありと雖も地主資本家の階級的良心は然かく良心に苛責さるべき非道とせざるが如き是れなり。由來、良心とは單に道德的判斷を意識する本體と云ふだけのことに作社內心成會容良的ののして其の内容は些少なる遺傳的傾向を除きて全く空虛なる者なり。即ち判斷する所の意識は先天的の者なりと雖も如何に判斷すべきやと云ふ內容は全く後天的の者なり。而して其內容は後天的に社會より受くる道德的訓誨、即ち父母の形に於て投射せられ摸倣さるゝ社會的慣習家庭、近隣、學校、交遊、書籍等を通じて現はるゝ社會的智識によりで形成せらるゝ者なり。即ち、個性の變異を外にして其の個人に影響するだけの社會的境遇に存する社會良心によりて凡ての良心は形成せらるゝなり。而して現今の社會國家は法律の上に於てのみ一社會一國家なりと雖も、經濟的實質に於ては無數の階級的層に割裂せるが爲めに、個人は各階級內の個人として存し、各階級內に存する階級的良心を以て其の良心となすの外なく。從て、國家主義社會主義の理想を行爲の上に規定しつゝある法律よりしては所刑するの理由ありと雖も、良心の背反を以て始めて罪惡とする道德の上よりしては其の階級が良心の背反したる塲合の外道德上の責任を責むる能はざるなり。故に國律行階法國電話律事令和元年第一も社會の道良階はむ心級德的は能貴
家主義社主會義の倫理的理想より見れば、彼の獨乙皇帝が朕と稱して噴飯すべき驕慢暴戾を極めたる壓制とは國家に對する叛逆にして社會の利益を害する罪惡なりと雖も、中世階級國家時代の階級的良心を隋力として繼承しつゝある者なりとせば其の行爲の如何に係らず彼の良心につきて道德的責任を問ふ能はず。何となれば空虛を以て產れたる彼の良心の內容には、皇帝は國家の利益の爲めに存すと云ふ愛國心なく、國家は皇帝一人の利己心を滿足さすべき手段として存すと云ふ中世時代の國家觀、朕は天なる神より蒼々たる朕の臣民を附與せられたる神聖不可侵なる者にして脫糞などを爲す人類以上の者なりと云ふ君主觀を注入せられ、便侫迎合の宮庭的慣習、奴隷的道德の社會良心より涌出する皇帝陛下万歳の聲と、及び官官的法律學者、假へばザイデルによりては國家とは國土及び人民の〓とにして君主は國家の外なる空中にぶら下り居る者なりと〓へられ、ボルンハツクによりては國家とは君主の別名にして國土及び人民は地球に存在する者に非らずと〓へ其時級帝獨心代國の乙の家階皇られ、全く其の良心を中世の者に形成せられたるが爲めに、近代の社會國家よりして其の良心に背反せざる行爲なるに係らず罪惡視せらるゝなり。資本家地主階級の經濟的貴族と雖も然り。彼等は中世史の貴族が凡ての土地と人民とを自己の目的の爲めに存する者と考へて誅求苛歛を恣にしたる如く、勞働者と小作人は黃金大名階級の榮華を築かんが爲めに世に產れたる人類以下の者なりと考ふるが故に餓孚の途に橫はるをも顧みずして掠奪を逞ふし。而して經濟的武士の階級とも云はるべき政治家務事員等の誠忠に奉戴せらるゝか爲めに恰も往年の土百姓を下等人種と考へたる如く一般階級の上に貴族として驕慢を極むるなり。故に彼等の行爲は國家社會の立塲より見て殘忍たり得べきも、良心の上より批判すべき道德的責任の點よりしては决しに不德にあらずと知らざるべからず。-人は肉體に於て裸體に生れて其の社會階級の種々の衣服を着せらるゝ如く、等しく裸體に生れたる良心も其の社會階級の異なるに從ひて種々異なれる衣服を着せらる。裸體に產れ心級貴經の族濟良階的的とる生課光臨風れた の
たる獨乙皇帝の肉體が一呎もある愚を極めたる冠と兒戯の甚しき勳章なる金屬の玩具を以て飾らるゝ如く、等しく、裸體に生れたる獨乙皇帝の良心にはカイゼル髯の寫眞は禮拜すべき者海軍擴張の演說はヒヤヒヤノー〓〓と云ふべがらざる勅語なりと云ふが如き中世時代の特權を以て野蠻人の如く入墨せらる。經濟的貴族等は其の裸體に生れたる肉體が勞働者の汗と涙とによりて織られたる錦繡に裝飾さるゝ如く、等しく裸體に生れたる其の良心は勞働者の血と骨とに餓へて猛獸の心臟の如くなれり。而して一般下層階級を見よー彼の幾千万の勞働者と小作人は裸體なる肉體に禰樓を着せらるゝが如く、裸體なる良心に着せらるゝ所の者は、種々の醜汚なる慣習、父母の殘忍なる家庭、餓へて犬の如くなれる四隣の境遇、賣〓の勸誘、犯罪の誘導、〓靡殘暴なる思想、實に世に存するあらゆる禰褸を以て其の良心の內容を形成せられつゝあるに非らずや。幸福なる者が充分に開發せられたる境遇に生れ、暖かき母の懷と感嚴ある父の手とに訓育せられ、古今の智識、書房屋源頭の狀態心作成世界の精神によりて良心の內容を形成せらるゝに係らず。斯くの如く不潔にして粗野なる動物の如き群集中に豚の如く產み落され、疾病によりて泣く時も生活に忙はしき母の毆打によりて沈壓せられ、只夕より外に相見ざるべき父は終日の勞苦と前途の絕望を自暴自棄の濁酒に傾け怒號して歸へる、智識も無く世界も無し。-吾人は此の意味に於て貧困即ち犯罪と云ふとを全き眞理として主張すべし。經濟的幸福に置かれて開發されたる良心を有する者、若しくは開發されたる良心に近く〓とによりて良心の開發せられたる者は、假令經濟的缺亡に投ずるととりりとも犯罪者たるが如き〓との無きは當然なり。故に空腹即ち犯罪と云ふ〓とを斯る塲合に推及する〓と皮相的見解の社會主義者の如くならば其は固より非科學的なり。而しながら經濟的缺亡の階級に生れ落ちて良心の開發せらるゝ時なぐ、又開發せられたる良心に近つく時な1き貧民階級に對して、其の階級內の階級的良心を以て批判するとなく直ちに國家主義社會主義の尊き理想を揭げて犯罪を以て呼はるとは何
たる獨斷ぞ。法理的見解を以て見れば今日の國家は一國家一社會なるを以て刑法は國家の國民、社會の會員に對して國家主義社會主義の良心を以て一樣の行爲を要求するを得べし、而しながら道德的立塲に立ちて考ふれは其の國民と會員とは各異なれる階級的良心に從ひて行動しつゝあるを以て一樣の國家主義社會主義の良心を挿で批判する能はざるなり。黑奴の嬰兒を遺葉する〓とが黑奴の部落に於て不道德にあら〓ざるを知れるならば、喰人族の人肉を喰ふ〓とが喰人族の部落に於て不道德に非らざるを知れるならば、貴族國時代の奴隷的服從が當時に於て不道德に非らざりしを知れるなら、ば、今日の民主的國家に於て自主獨立の行動を不道德に非らずとするに至りしを知れるならば、而して道德とは地方的に(即ち縱的に)又時代的に(即ち横的に)それ〓〓異なるを知れるならば、此の來るべき大革命前の混亂を極めたる現代に於て一樣の道德的批判を以て凡てを律せんとする〓との妄りなるは言を待たざるべし。黑奴の如き良心を有する貧民階級あり、喰人族の如き良心を-國家社會代方內ー的地域佛山小学院有する地主資本家階級あり、未だに貴族國時代の奴隷的服從を道德的義務とする良心あり、民主的國家の現代を强烈に意識して行動せんとする良心あり恰も一國家一社會の內に地方と時代とを異にせる數種の民族、數世紀間の祖先を混在しつゝあるが如し。實に今日の犯罪は犯罪本來の意味に於ける良心の背反と云はんよりも、甚しく相異せる階級的良心が國家社會の利益を理想とする良心によりて打擊せらるヽとなり。犯罪者の或者は固より自ら良心の命ずる所に反して惡を爲す者あるべしと雖も、其の良心の些少なる不德とする所が他の良心より重大なる惡とせられ、又其良心に從ひて善を爲せりと信じつゝ他の良心より犯罪とせられつゝあるなり。この故にこそ社會主義は革命主義となる現今の經濟的階級國家を打破して經濟上に於ても一國家一社會となし、以て國家社會の利益を道德的理想とする良心の下に現時の階級的良心を掃蕩せんとを計る。而して階級的良心の掃蕩によりて統一せられたる普通良心は偏局的社會主義時代の其の如く個性の發級義社會主は階的食こ金め事 しる義革爲掃
展を抑壓するが如き偏局の者ならず、社會國家の利益と共に個人の自由獨立を最も尊重する所の普通良心として進化すべし。斯く階級的良心の掃蕩せられて統一せられたる普通良心となり、而も其普通良心が個性の發展を尊重する所の者に進化せる社會主義の世界に於て罪惡の絕滅を信ずる〓とは果して空想なるか。(階級的良心の說明は後の階級鬪爭を說くに重要なり、階級鬪爭は單に階級的利益若しくは階級的感情のみに非らずして、實に階級的良心と階級的良心との衝突なればなり)。階級的良心と階級鬪爭『人はる人てに貝とのよ社なみり會ルゲマン曰く『人は只社會によりてのみ人たるを得』と。此の一語は實に社會主義が其の倫理的理想の實現を社會制度の革命によりて期待しつゝある所なり。ベルゲマンの社會的〓育學が我國に於ても三種の飜譯を有し、樋口氏の〓育學の基礎となれる如く、今日の科學的倫理學〓育學の根本原理は實に人は只社會によりてのみ人たるを得と云ふことにあり。蓮が沼澤に養はれて花さく如く、薔薇が日光に浴して芳倫理的生物と倫理的墳遇ふ如く、花園に於て胡蝶が舞ひ砂漠に於て獅子が吼ゆる如く、一切の生物は皆それ〓〓の境遇に置かれて其の種屬を成せし生物進化の原理によりて、倫理的生物は倫理的生物の生存に適する倫理的境遇を要す講壇社會主義に誤られたる樋口氏は社會主義の倫理的効果を殆ど全く解せざるかの如くなるに係らず、其の『國家社會主義新〓育學』に於て驚くべき事實を揭げ、以て個人が如何に社會によりて作らるゝかを示したりき。『一八五〇年の博物年報にムルヒゾン氏がスレーメン大佐より「フオルデリンデン」の「アウデ」地方に於て狼の群中に兒童の發見せられし五個の事實を報ぜり。曰はく「カウブール」「ルーナツク」地方には豺狼多くして幼兒を奪ひ去ること屢ありき。勿論其中の多數は喰ひ殺さるれども稀には哺乳養育せらるゝことあり。ある時憲兵等「アウデ」より「グツプツチエ」の岸に向ひて進みしに三個の動物の水飮みに來るあり。彼等馳せ行きて之を捕へしに焉ぞ圖らん二匹の乳兒と一個の小兒ならんとは。彼は裸體のまゝ四肢にで歩行し、肘と膝との皮膚は骨狀に硬化せり。のる退獸は狼事小化類れに例見せにて養
其の當に捕へられんとするに當りてや猛り怒りて人を嚙み、又搔かんとすること其の伴侶の如く、更に言語を知らず、其の理解力は恰も幼き犬兒に似たりと」。是れ獨乙の例のみに限らずテニソンのアーサー王の詩に『狼は時々人の子を盜みて之を食ひしも、自巳の子の失せ又は死したる時は其の恐ろしき乳頭を人間の子に借せたり。其の窟に住みたる子供は其の食する時にうなり、其の獸なる母の四足を擬ね、究極終に狼に優る狼の如き人と成長せり』とあるに見ても古來より幡有のことに非らざるなり斯の、人は獸類の境遇に置かるれば一代を以ても獸類の如く退化する變化性ありと云ふとは、直ちに是れ人は神の如き境遇に置かるれば取て一代を以てとは云はざるも神の如くにまで進化し得る變化性ありとの推理に來らしめずや。固より遺傳の事實の輕視すべからざるは論なく遠き以前の喰人族の風習が隔世遺傳の形に於て現はれ殺人罪を犯せし者ありと云へば、吾人が現今犯しつゝある無數の罪惡が或る特殊獻類の如く退化する道化性は神の如く進化す變化性遠藤さん蛋黃の境遇によりて遺傳として現はるゝとは考ふべからざるに、非らずと雖も而も斯くの如きは今日の刑法にて己に病的現象として明かに犯罪の外に置く者。且つ、遺傳とは其の遺傳的傾向の發現すべき境遇に於てのみ始めて發現すべき者なるを以て、社會主義の境遇に於て今日の個人主義時代の犯罪的遺傳が發現する機會多しとは思考さるべからず。(尙次ぎに說く『生物進化と社會哲學』に於て道德の本能化を論じたるを見よ)。實に、狼の社會に養はれたる人の子が獸類の步行を模倣して半獸半人の怪物となりしが如く、吾人は人類社會に養はれて父母の步行を模倣するが故に人類の形を得るなり。古來より人は理想を有する者なりと云ひ、傾向の生物なりと云へが如く、今日の科學的〓究も人は模倣性を有すと云ふことを以て確定せられたる事實とせり。斯の模倣性の爲めに吾人は母の膝に抱かれたる時よりして蕾の如き唇を動かして母と同一なる發音を爲さんには如何にすべきかと考へつゝあるが如き眺めを以て唇の進動を模倣しつゝあり。而して其の辛ふじて發音し得摸敏性の說明
るに至りては其の發音中に如何なる意味が含まるゝかも考へずして發音と共に發音の中に含まるゝ思想其者を善惡の取捨なくして模倣す。其の漸く長じて近憐の兒童と嬉戯するに至りても又等しく年長の侶伴の言語擧動を撰擇なく模倣す。而して學校に入るに至りて〓師朋友の其等を模倣し〓書册に揭げられたる古今人物の其等を模倣す。而して更に斯る間に於ける智識の發達は模倣の對象を撰擇せしむるの判斷を生じ、撰擇又撰擇の結果、模倣せる高き者の達せらるゝと共に又更に高き者を模倣して其の高き者に達し。其の高き者の達せらるゝや又更に高き者を模倣して其の高き者に達せんとす。斯く模倣の對象は始めは其の父母、家庭、近憐等にして漸時に學校となり、社會となり、書藉となり、古今の人物となり、世界の思想となる。而して是等先在の理想にして尙足らずとせられ更に一層の高き對象を求むるに至るや、玆に其の己に模倣して得たる先在の材料を基礎として、各個人の特質を以て更に高き者を內心に構造し、構造せられたる理想を模倣することによりて到達を努力す。此の特質と其の構造せられたるものゝ高貴偉大なる者が即ち英雄なり故に史上に足跡を殘したる英雄は其の特質に於て偉大高貴なる者ありしと雖も、其の特質を發輝せしむる基礎として材料を供給する社會的境遇に於て幸運なりしものならざるべからず。古今英雄の傳說は凡て之を證す。彼の戰陣の英雄が血痕の附着せる搖監中に眠り、革〓命の英雄が旋風前の陰暗なる黑雲中に產聲を擧げし如き是れなり。山河に悠遊することによりて詩人西行あり、石山寺の月を眺めて源氏物語は書かる。超然內閣と盲從議會とを以てはグラツドストーンの雄辯は產れず。ヂエフアーソンの獨立宣言書は國體論の材料を組立てゝ書かれたるものにあらず。人は只社會によりてのみ人となる吾人の如き明白なる野蠻人は今日の如き野蠻部落の如き未開なる社會組織を脫する能はざるが故に斯る野蠻人となれるなり。今日社會の大多數は獨乙の森林に發見せられし如く、蒸氣と電氣とを有する大都會の中央に於て實に獸類の手に養はれつゝあることを氣附は手て人現りつ養の凡の
かざるか。地主資本家階級の社會に見よ、神の如き發展を爲し得べき人類として生れたる嬰兒は、先づ摸倣すべき對象として眼前に現はるゝ者は實に狼の如く殘忍に拂々の如く嬉蕩なる父、四圍の迎合訶諛の爲めに絹服の豚に過ぎざる令夫人と稱せらるの母あり、嬉戯の間に摸做すべき對象としては便侫隱險なる乳母、〓靡野卑なる僕婢、競々として命是れ從ふ出入の子女のみ。斯くのごとき不幸なる境遇に人となれる彼等が、其の等しく人と云ふに係らず喰人族のごとき良心を有する人として作らるゝは何の怪しむべきことかあらむ。下層の貧民階級に至りては全く狼の手によりて狼として養はる。狼のごとく四肢を以て匍匐する〓とは〓へられざるも生作進退悉く獸類なり。爪を以て掻き牙を以て噛むことは學ばざるも小兒間の爭鬪が狼の父母によりて多く歡迎さるゝことは事實なり。此の餓鬼として睥睨する山の神が摸倣の理想として白紙の如き心情の奥に投射さるゝ時、ベランメーとして息卷く宿六が酒氣を吐きて蝶螺の如き鐵拳を未だ形成されざる灰白質の頭腦に加ふる時、其の子女が長じで黑奴の如き良心を有すると何の疑かある實に今日の上層階級も下層階級も法律と道德とが要求する國家在會の利益を目的とする良心は其の始めより胸裏に形成せられざるなり是の意味に於て空腹即ち犯罪なり、而して飽食亦即ち犯罪なり。人は只社會によりてのみ人となる。社會主義は倫理的生物か倫理的制度に於てのみ倫理的生物たり得べきことを發見して革命の手を社會の組織に降しつゝある者なり。空腹即ち犯罪とち飽云犯腹ふ罪即意味任人義社のと會責個主而しながら誤解すべからず、社會主義は社會の中に個人を溶解する者にあらず。倫理的制度によりて倫理的生物たると共に、倫理的生物が平等の物質的保護と個性の自由を尊重する社會良心の包容中に於て更に倫理的制度の進化に努力すべき責任を有することを要求す。社會主義の自由平等論とは即ち此の意味なり。(平等論の意義につきては前編の『社會主義の經濟的主義』に於て說けり)。偏局的社會主義時代の社會
良心は其の內包の甚だ狭隘にして個性の自由なる發展を許容せざりしが爲めに個人は全く社會の强力中に併呑せられ、ソクラテスもルーテルもガリレオも皆犯罪者として遇せられ爲めに社會の進化に於て誠に遲々たるの外なかりき。而しながら佛蘭西革命に至るまでの偏局的個人主義の如く思想上に於てのみ思考し得べき原子的個人を終局目的として、社會は單に個人の自由平等の爲めに存する機械的作成の者なりと獨斷せるが如き者に非らず。思想と雖も、信仰と雖も、決して個人の自由に非らず、思想信仰の上に於て個人の自由を尊重する所の自由なる社會良心あるが故に自由なり。故に社會良心が思想信仰の自由を許容せざりし時代に於てはソクラテスもガリレオもルーテルも悉く犯罪者なりき良心の社會的作成なるとと歸納せる科學は思想も信仰も或る個性の特異が發展する塲合を外にして全く社會に先在せる思想信仰を繼承して其の個人の思想信仰を成作する者なる〓とを論結せしむ。思想と信仰とは決して偏局的個人主義の獨斷するが如く始めより自由思想の獨立信目順番地仰る良るなり以あ會むを心社認てななる者に非らざるなり。社會專制國家萬能の偏局的社會主義時代の思想信仰を有する社會良心は個人の良心を作成して思想の獨立信仰の自由を認識せざる者とし、機械的社會觀を有する偏局的個人主義時代の社會良心は假令社會の利益を阻害するも思想の獨立信仰の自由は犯すべからずと云ふ思想信仰を以て個人の良心を作成す。-故に吾人の純正社會主義が社會進化の爲めに個人の自由を尊重すべしと云ふことは、思想信仰は原子的個人に先天的に獨立自由に存すと云ふ意味にあらずして、社會進化の爲めに個人の自由を尊重する所の社會良心を以て思想の獨立信仰の自由を許容すべしと云ことなり。社會進化の爲めに社會良心の内包は偏局的なるべからず、社會の進化を終局目的とすると共に其の目的を達せんが爲めに個性の自由なる發展を障害なからしむべし。純正社會主義は此の點に於て明らかに個人主義の進化を繼承す。個人主義!實に此の偏局的個人主義は中世史までの偏局的社會主社會主新聞抽選眞意義實に此の偏局的個人主義は中世史までの偏局的社會主
義と共に純正社會主義を築ける二大柱なり。個人主義が中世貴族階級の土地(當時に於ては經濟的源泉の凡て)を占有せるを否認して自由平等を叫びたる如く、純正社會主義は現代の經濟的貴族階級の經濟的源泉(即ち土地及び資本)の壟斷を公有にせんとするは、實に此の個人の自由平等にあり。經濟的に自由平等ならずしては他の凡てに自由平等なる能はず。吾人が先きに平等の分配とは物質的保護の平等によりて個性の自由なる發展を爲さしめんが爲めなりと云へる如く、個人主義の佛蘭西革命は其の個人の自由の爲めに經濟的に自由なるべく貴族階級の經濟的源泉の占有を否認して私有財產制を樹立したるなり。-純正社會主義は亦この點に於て明かに私有財產制の進化を繼承す。經濟的に獨立する者は政治的に道德的に獨立し、經濟的に從屬する者は政治的に道德的に從屬す。君主が土地及び人民を(經濟物として)占有せる時代に於ては人民は財產權の主體にあらず君主に經濟的從屬關係を有せしを以て政治的に道德的に從屬し、君主のみ經濟的に獨立せしを以て繼進主は會純承化義個主正すをの人義社縦進產私藝社本人物館が全球經濟上道上との及政獨び治立德上の獨立政治的に道德的に獨立したり。(日本に例せば鎌倉幕府以前までの如し)。而して貴族階級が土地を掠奪して經濟的に獨立するに至るや茲に君主に對抗して政治的に道德的に獨立し以て支配權を承認せず忠順の義務を拒絕したり。(日本にては維新以前までの貴族國時代の如し)。而して一般階級に於ては土百として土地と共に貴族の所有物にして財產權の主體たる人格にあらざるを以て其の經濟的從屬關係よりして政治的に道德的に無限の從屬に服し、彼の武士の如き下層階級に對しては絕大の權威を弄したりしと雖も其の經濟的從屬關係の爲めに貴族階級に對しては政治的に道德的に甞て獨立するとなかりき。(後の『所謂國體論然るに個人主義の思想は佛國革命の名に於の復古的革命主義』を見よ)。て貴族階級に獨占せられたる土地を全國民の勞働によりて獲得すべき私有財產制度の下に置き而して革命の波濤は橫ざまに東洋に波及して維新革命の民主々義を經濟上に現はして土地私有制を確立したるなり。然るに今や如何。歷史は恰も逆行せるかの如き形を以て世は再び經賞度財々とる高制有主義なの農私制度意民義
濟的貴族國時代となれり。否、冷靜に考ふれば經濟史の進行として經濟的公民國家に至るまでの過程として經濟的貴族國を經過しつゝあり。經濟的源泉たる土地と資本とは經濟的貴族階級の封建城廓となれり。經濟的貴族のみ政治的に道德的に無限の自由を有して國民は凡ての獨立を失ひて奴隷の如く服從を事とするに至れり。講壇社會主義者の田島博士が資本家と勞働者との關係を君臣の關係の如しと形容して讃美せるが如く、年俸月給によりて從屬する精神的勞働者も賃銀によりて從屬する肉體的勞働者も誠に往年の武士若しくは土百姓の如く專制の支配權を承認し奴隷の忠願を履行しつゝあり。貴族國時代の武士階級が其の下層に對しては虎の如く威を振ひたるに係らず馬鹿大名の前に平身匍匐し、其の經濟的從屬よりして自巳の身を大名の所有物と考へ、切腹を命ぜらるゝも御手討に逢ふも嘗て其の從はざるべからざる理由を疑ふこと無かりしが如く今の黃金大名に隷屬して經濟的武士の階級を作れる事務員政治業者の如きは其の下層階級に對しては抑壓侮辱を事とすと雖も、其の年俸月給を受くる經濟的從屬關係よりして政治的に道德的に些の獨立無く、假へ馬鹿大名の拜謁に於て如何に傲慢を以て迎へらるゝも一切を叩頭して猫の如く柔順に、而して自家が下層階級を制御する〓とによりて大名の玉坐が保たるゝことを考へずして却て自家が大名の恩惠によりて生存するかの如く信じ、减俸に逢ふも解雇に逢ふも唯々として一の疑問なしに此の奴隷的服從の義務を負擔しつゝあり。而して彼の勞働者と小作人の一般階級に至りては純然たるサ奴隷と土百姓なり、政治の自由なく道德の:獨立無し。-個人主義の根底たる所の私有財產制は今や社會の大多數に取りては貴族國時代の下層階級の如く經濟的貴族等の私有財產を使用して生活し得しべと云ふ意味に過ぎずなれり。己に貴族階級の下に經濟的に隷屬す、革命以前の其れの如く再び個人主義の革命を繰り返へさゞるべからざるほどに政治の自由道德の獨立なきは何をか怪まん。吾人が本書の始めに於て現社會を個人主義に於て辨護せんとする者ば個人主義の叛逆者なり會なをな產私個底其なのに現り以れな有人たのき自個社るく財のる根は由人て
と云へるは、實に社會の大多數に個人の私有財產が無くなるを以ての故なり。社會主義は固より社會の進化を修局目的として偏局的個人主義の如く機械的社會觀を以て社會を個人の手段として取扱ふ者に非らず、而しながら社會進化の目的の爲めに個人の自由獨立を唯一の手段とする點に於て個人主義の基礎を有する者なり。個人は個人相互の間一の個人が他の個人の爲めに政治の自由に於て經濟的從屬關係なし、を抑壓せられ、道德の獨立を侮辱せらるゝことなし。社會は階級的の層を爲さず、個人は上層階級の個人に經濟的從屬關係なきを以て上層階級の個人の權力に盲從する政治的義務なく、上層階級の個人の幸福を目的として努力すべき道德的義務無し。個人は他の如何なる個人にも經濟的從屬關係を有せず只社會の經濟的平等の保護の中に在り。故に他の個人に個人の自由を犯さるゝ〓となく、個人の自由を尊重する所の社會良心の廣豁なる內包中に於て社會の幸福進化を目的とすべき政治的道德的義務を個人の責任とするに至る。即ち貴族階級に經濟的にす會し屬人なの人に義社はは時會主他個代る如個何屬社ずも從屬せし維新以前に於ては貴族等の利益の爲めにする支配に服從すべき政治的義務を有し、貴族等の幸福の爲めに努力すべき道德的義務を有して-『忠君』を個人の責任とせしに反し、今日は法理上國家の土運及び資本(何となれば國家は國家の利益の爲めに個人の凡ての財產を數收すべき最高の所有權を有するを以て)に經濟的に從屬するを以て、國民は國家の利益の爲めにする支配に服從すべき政治的義務を有し、國家の幸福に努力すべき道德的義務を有して-『愛國』を個人の責任とするに至れる如し。只、社會主義は今日の法律の如く單に理想として止まらず、事實に於て國家社會の利益を個人の責任として意識するに至らしめんとする者なり。社會主義は個人主義の如く個人其者の爲めに個人が自己に對して責任を有すとする者に非らずして、社會國家の爲めに社會國家に對して個人の責任を要求す。而して吾人が前きに國家と社會とは社會主義によりて眞の秩序と安寧幸福とを得ざるべからずと云へるは、國家社會が其の法律的理想として有する最高の所有權を書籍と個人は學チキ社會に海鮮御守事會議院至すを的的き力化幸
行使して全國民全會員の上に經濟的源泉の本体として臨み、以て全國民全會員をして國家社會に對する責任ある個人たらんことを政治的に道德的に期待する者なりと考ふべし。今日吾人の社會主義を難ずるに個體責任論を以て對抗するが如きは、實に個人主義以前の偏局的社會主義時代の如く個人が上層階級に從屬して一個の責任體たらざりし其れと同一視する者なり。社會主義が徴兵的軍隊組織の勞働法を以て個人間の賣買關係を維持せんとする講壇社會主義を排するは亦理由の一をこゝに有す。固より單純なる經濟論として考ふるも、無數の商店、商人、店員、仲買人、取引所、ありて無用の資本と無用の勞力とを投じて相破壞し以て强大の浪費をなし、生產より直に消費に移らず交換と云ふ戰塲を通過して生產物の多くを破壞せられ軍事費を負擔せられて生產費に增倍せる價格として消費者の手に來ることは、人類の當然に棄却すべき愚劣なりと雖も。純正社會主義が特に徴兵的勞働組織の生產法を主張するは、經濟的從屬賣買廢止は亦この理由によ關係に於て社會と個人とを直接ならしめんとするに在り。即ち徴兵的勞働に於て生產せられたる貨物を凡て一たび社會の者となし更に社會より社會の貨物に對する平等の購買力を表示する紙片として分配せらるゝことは、個人をして社會の爲めに存する〓とを明確なる責任に於て自覺するに至るべきを以てなり。(前編の『社會主義の經濟的正義』に於て公共心の經濟的活動を論じたる所を見よ)。彼の武士の階級亡びて武士道滅び、卑劣なる利己心を中心とせる素町人道德が今日に跋扈する所以の者は其の武士道なる者の貴族階級に對して奴隷的服從の卑むべき要素を含むに係らず、經濟的從屬關係を有する主君の爲めに身を捨てゝ盡くす獻身的道德の高貴なるに反し、素町人道德は自己の經濟的努力によりて自己の維持さるゝを以て自己中心の卑むべき道德となり、而して今日は凡ての個人が社會國家に從屬する經濟的關係なく自己の經濟的努力によりて自己を維持しつゝありと信ぜらゝが故に素町人道德の個人主義を繼承しつゝあるなり。個人主義は社會主義の下に於て責に的はと的の素土健康獸差額已人と武道道任於關經の滋利町濟て傳を有すると有
尊とし。個人は社會其者の幸福進化に努力する良心と行爲とありて尊とし。個人其者の自由獨立の爲めに個人の自由獨立は價値なく、社會の幸福進化の爲めに個人の自由獨立は尊とし。故に貴族國時代の武士ナイト(キヤラター)道騎工氣質が其の經濟的從屬關係を有する貴族に對して獻身的道德を有したる如く、經濟的貴族國の打破せられて經濟的に一國家一社會となるに至るや、全國民全會員は其の經濟的從屬關係を有する國家社會に對して、獻身的道德を以て國家主義社會主義の倫理的理想を實現すし純正社會主義は個人の自由を個人其者の爲めに要求して社會國家の幸福進化を無視せんとする個人主義の革命論に非らず。社會國家の幸福進化を無視しつゝある個人主義の組織を革命して、社會が經濟的源泉の本體たる經濟上の事實を、國家を最高の所有權者となしつゝある今日の法律の理想に於て實現し、以て個人を社會國家の利益の爲めに自由に活動すべき道德的義務を有する責任體たらしめんとする者(經濟と道德法律との關係は後の『所謂國體論の復古的革命主義』に國家社電話M°C濟的從書籍廣に家より社會對す全體の場合は詳細に說けり、就きて見よ)。故に彼の社會主義者と稱する者の十に於て個人の自由を主張するに當り、或は『社會の各會員は自由なる發達を希望する者なれば政治上に於ける個人の自由は成るべく大にして社會の權力は成るべく小なるを要す、即ち社會の權力は社會の生存と發達との爲めにか或は各會員の自由の保證の爲め、必要なる程度を超ゆべからず』と云ひ、或は『思想と信仰とが全く自由にして他人若しくは社會の如何とも爲し得ざる所、之を發表し之を實行するに於て美術上にも宗〓上にも科學上にも政治上に於ても全然一切の覊範の外に立たざるべからざるは疑議の外なる根本法なり』と云ふ如き者ありと假定するも。そは單に結論の形式に於て社會主義に似たるだけにして全く個人主義の獨斷を繼承する思想なるは論なく、之を以ての故に罪を社會主義の上に及ぼすべからず。彼の社會主義に對する高等批評を以て任ずる樋口勘次郞氏が其の『國家社社會主義〓育學本論』に於て社會主義の自由平等論なりとして打擊を加義と社個人主會主義とを混同し奇觀
へたる所は實は個人主義にして社。會主義の受くべき失に非らざりし如き是れなり。從て其社會進化の理想に對する否難の如きも純然たる個人主義の學者を指定しつゝあり。曰く、「されぱルーソーの所謂共同の權力を以て各會員の生命財產を保護すれども各會員は自己に從ふとによりて此の權力の命令に一致し得る如き社會は一のユトピアに過ぎず。スペンサ、-の遠き理想とせる自己の意志の外、外來の壓抑なくして圓滿に運轉せらるゝ個人主義の社會の如きも、其遠きと云ふ形容辭に無限と云ふ複詞を附して無限に遠き即ち實現し難き理想とせざるを得ざるは勿論、矢野氏の想像せる訴訟なる者幾ど無く犯罪なる者殆ど無き、若しくは一層極言して訴訟沙汰の皆無となる新社會のごときは眞に一個の夢に過ぎざるなり。實に「新社會」は之を一個の見果てぬ夢として記載せられたれども「社會主義全集」に同氏の講話せらるゝ所に徵すれば夢に託して著者の社會主義を述べられたる者なるは明かなり。果して然らば氏も亦極樂式の社會主義を持する者に非るか』と。以て如何に相背¥馳する社會主義と偶人主義とが却て社會主義者にも非社會主義者にも混同せられつゝあるの甚しき奇觀を見るべし。遮莫。純正社會主義は極樂と云ひ天國と云ふ者を在來の哲學宗〓の如く死後の他世界に求むる者に非らずして、社會進化の將來に期待する者なり。而して人類社會は一の生物社會なり。故に社會哲學は生物進化論の一節たる社會進化論として論せざるべからず。
生物進化論と社會哲學第參編第五章生物進化論者と社會主義者との背馳-社會主義は生存競爭說の外に立つ能はずー-組織の皆無なる生物進化論-代表的學者として丘博士の『進化論講話』-其の社會主義評-今の生物進化論者は人類の生物界に於ける地位を獸類の階級に置く-滅亡すべき經過的生物『類神人』-生物進化論者は進化の跡を見て更に進化し行く後を見ず-獸類〓の迷信-優者適者强者の內容は生物種屬の階級に從ひて異なる-人類の優者と獸類の其れとを同一現す-生物進化論者は生存競爭の單位を定むるに個人主義を以てす-顯微鏡以前の個體の觀念-ヘツケルの個體の定義-個體の階級と社會有機體說-ヘツケルの生物學者大會の演說の奇怪--個人と社會とは同一異名の者なり-個人的利巳心と社會的利巳心- -社會的利巳心による社會單位の生存競爭-人類に於て特に社會性の重ぜらるゝ理由-クロポトキンの相互扶助による生存競爭-生物進化論は古來の漠然たる道徳的意識に科學的根據を與へたり-偏局的個人主義を顛覆せる生物學- -高等生物の生存競爭は社會單位の相互扶助なり-生物進化論の哲學史上の革命と社會に於ける社會主義の革命-單位たる個體の社會は生物種屬の進化するに從ひて高まるー丘博士は進化論と背馳する循環論の思想を有す-國家競爭人種競爭は歷史の進化に從ひて其の單位を大にし行く-丘
博士の帝國主義論は競爭の內容の進化し行くことを解せざるより起る-丘博士は帝國主義の空想を以て却て社會主義の者となす-帝國主義の歷史上の効果-同化作用し分化作用-社會主義は國家を認識し國家競爭を認識す-階級鬪爭と國家競爭-聯邦議會にて決する國家競爭-丘博士の論理の蕪雜-天地創造說の思想を以て人種競爭論を不靈殘惡ならしむ-吾人の文明人に作らるゝ所以-肉體的遺傳と社會的遺傳-肉體的遺傳其者も種屬的智識を維承する本能なり-下等人種の滅亡は社會進化の當然なり-人種競爭の內容の進化-社會主義は個人と人種の劣敗者の上に建てらる-正義の進化と驅逐殺戮による人種競爭論の困難ー-死刑陶汰の刑法論よりする驚くべき推論-一の分子若しくは分子の集合が他の分子を殺戮する權ありとせる偏局的社會主義時代の普通良心-道德的陶汰の生存競爭と社會的群集1の生物-原人時代は平和に菜食して漁獵遊牧にあらず-今日の野蠻人を以て文明人の原始に推及すべからず-漁獵遊牧の時代に入りて部落單位の生存競爭をなし意識的道德時代となる-社會單位の生存競爭時代と死刑陶汰-朕即ち國家の意義-同化作用による社會單位の擴大と分化的發展の個人主義時代-希獵羅馬の末年及び羅馬法王の下にて個人主義の興起したる事實-個人單位の生存競爭は遙かに後代の歷史過程なりー-社會民主々義-社會主義は個人の分化的發展の爲めに個人主義を繼承す-國家主義と個人主義とは共に現社會の經濟的貴族國に對して革命に出てざるべからず-個人の國家に對する犯罪と國家の世界に對する犯罪-個人の自由と國家の獨立の意義-國家の理想的獨立は世界聯邦によりて得られ個人の完全なる自由は萬國平和によりて得らる-偏局的社會主義の國家競爭の爲めに個人の
自由が蹂躙せられたる事例-人類の歷史に入りてより生存競爭の內容の進化-强力の優勝者たりし中世-勞働を優勝者とせる個人主義の理想-糞泥の上に產み著されたる優勝者-奴隷の境遇に適する奴隷の優勝者今日、社會主義に對する哲學的根據よりの非難は、社會主義は生存競爭を廢滅せんと企圖する者なるが故に生物進化論の原理に反する空想なりと云ふことに在り。是れ實に大問題なり。實に科學哲學の一切の基礎が生物進化論に在りて、而して生物進化論の根本原理が生存競爭說に在りとすれば社會主義と雖も此の外に立つ能はざるは論なきことなるべし。而じながら今日の生物進化論は單に生物種屬は進化によりて生ぜるものなりと云ふ事實の發見に過ぎずして、人類の生物界に於ける地位を誤まり。其の說明の理由として執られつゝある生存競爭說も誠に古今比類なき支離滅裂を極めたるもの生物進化論者と社會圭製作との背馳にして、個人主義を以て解釋しつゝあるものなり。此の故に生物進化論者は生存競爭說を揭げて社會主義を空想なり、非科學的なり、社會の進歩を停止せんとする不可行の計畫なりと難じ、社會主義者は亦生物進化論を廻避して、社會主義は生存競爭を廢滅せしむと雖も尙その外に名譽道德等の競爭ありと云ふが如き薄弱なる理論を築きて漸く對社會主義が若し生存競爭說と背馳する吾人は信ず、抗するに過ぎず。ならば誠に非科學的の空想に過ぎざるべく、自ら稱して科學的社會主義と云ふとも其は經濟學倫理學歷史學等の諸科學の上に於てのみ言はるべくして、其等諸科學の根底たる社會哲學の上よりしては如何にすともユトピアたるべきなり。社會主義とは人類と云ふ一種屬の生物社會の進化を理想として主義を樹つる者なり。然れば當然に人類と云ふ;生物種屬を包含せる生物進化論の原理たる生存競爭の外に逸する能はざるべく、若し此の原理を排斥するほどの有力なる根據なくして徒らに科學其者に對する罵倒を以て事とする如きは如何にすとも非科學的はつの能に說存義社
るを免かる能はず。-科學的社會主義は何處までも科學の嚴肅なる理論の上に築かれざるべからざるなり。只、今日の科學者の所謂生物進化論なる者は吾人の茲に潜越を以て生物學の範圍內に侵入して組織せざるべからざるほどに矛盾混亂を極めたる理論より外有せざる者なればなり。即ち、生物進化の事實を個人主義の獨斷的思想を以て解釋しつゝあること。人類の生物界に於ける地位を獸類の種屬中に包含しつゝあること。組織の皆無所天正面進化論吾人は茲に斯る生物進化論の日本に於ける代表的學者として帝國大學〓授理學博士丘淺次郞氏の『進化論講話』の社會主義評を指示すべし。吾人は氏の如き眞理其者の爲めに主張を爲す學者によりて社會主義の非難せられたるを深く惜しむ者なりと雖も、是れ決して氏の責任にあらずしてダーヴォン其人が生物進化論を獸類〓と化し生存競爭說を個人主義によりて解釋して傳へたるが爲めに、氏は單に其宣傳者として彼良好評重ねさ丘嵐士)·明治話論講b等の誤れる點を傳へたるに過ぎざる也。只吾人が特に氏を指定したるは、一般世人に生物進化論を普及せしむる目的を以て書かれたりと云へる『進化論講話』の大著が最後の暗黑なる頁を以て社會進化論の宣傳を阻害し、社會主義に對する誤妄を傳播するの驚くべき力あるを以てなり。而して其の暗黑なる頁の中に凡て獸類〓の生物進化論と個人主義の生存競爭說を遺憾なく發輝したるを以てなり。死刑陶汰の刑法論あり。歷史の進化を無視し革命の意義を解せざる社會循環論の思想あり。異人種間の殺戮的競爭を主張する積極的尊王攘夷論あり。人種の發展國家の强盛は其の人種內國家內の個人間の競爭にのみ基くと云ふ個人主義の生存競爭說あり。種屬維持としての生殖なることを解せざる人口論あり異人種異國家間には永久に戰爭は消滅せず世界一社會となる社會進化の將來を空想なりと云ふ蝶螺的國家學あり。否!未だ渾沌として組織なき生物進化論の祖述として『進化論講話』の全部を通じて、生存競爭の單位を定めず、生存競爭の目的を解せず、生存競爭の對敵
を誤まり、生物種屬の階級に伴ふ生存競爭の內容の進化を知らず、生物進化論に於ける食物競爭と雄雌競爭との地位を注意せず、人類種屬の今日の地位及び今後の進化を推及することなし。吾人をして其の社會主義評を左に揭げしめよ。『現今の社會の制度が完全無欠でないことは誰も認めなければならぬが、さて之を如何に改良すべきかと云ふ問題を議するに當りては常に進化論を基として實着に考へねば何の益も無い。社會改良家が幾通り出ても悉く痴人の夢を說く如くであるのは何ぜかと云ふに一は人間と云ふ者は如何なる者なるか充分に考へず猥りに高尙なる者と思ひ誤つて居ること、一は競爭は進步の唯一の源因で苟も生存して居る間は競爭の避くべからざることに氣附かぬに基くやうである。『異人種間の競爭の結果は各種族の盛衰榮枯であつて、同種族間の競爭の結果は其の種族の改良進歩であることは前にも說ひたが之を人間に當箝めても全く其の通りで、異人種間の生存競爭は各人種の盛衰存其の社會主義評亡の原因となり、同人種內の競爭は其の人種の改良進歩の原因となる。其れ故數多の人種の相對して存在して居る以上は異人種との競爭は避けられぬのみならず、同人種內の個人間の競爭も廢することは出來ぬc分布の區域が廣く個体の數の多き生物種族は必ず若干の變種に分れ後には互に相戰ふのであるが、人間は今日恰度その有樣に在る故異人種が或る方法によりて相戰ふは止むを得ない。而して人間の競爭に於ては進步の運き人種は到庭勝つ見込は無い故何れの人種も專ら自巳の改良進歩を圖らねばならぬが、其の爲め其の人種內の個人間の競爭が必要である。『社會の有樣に滿足せず大革命を起した例は歷史上幾らもあるか、何れも罪を社會の制度のみに歸し人間とは如何なる者なるかを忘れて、唯制度さへ改めれば黃金界になる者の如く考へてかゝる故、革命の濟だ後は只從來權威を振ふて居て人の落ちぶれたのを見て暫時愉快を感ずるの外には何の面白いことも無い世は相變らず澆季で競爭の烈しい
こ〓とは矢張り昔の通りである。今日社會主義を唱へる人々の中には往々突飛の改革談を說く者あるが、若し其の通り改めて見たならば矢張以上の如き結果を生ずるに違ひない。人間は生きて繁殖して行く間は競爭は免かれず、競爭があれば生活の苦しさは何日も同しである。『〓育の目的は自己の屬する人種の維持繁榮であることは巳に說いた通りであるが進化論から見れば社會改良も矢張り自巳の屬する人種の維持繁榮を目的とすべきである。世、間間には戰爭と云ふ者を全廢したいとか、文明が進めば世界中が一國になつてしもうと云ふやうな考へを以て居る人もあるが、是等は生物學上到底出來ないことで利害の相反する〓體の並び存する以上は其の間に或る種類の戰爭の起るは決して避けることは出來ぬ。而して世界中の人間が悉く利益の相反せぬ地位に立つことの出來ぬは固より明瞭である。數國外患なければ國は忽ち滅ぶると云ふ言葉の通り、敵國外患があるので國と云ふ者が纏つて居る譯故、假に一人種が他の人種に打勝つて世界を占領したとするヽ塲所々々によりて利害の關係が違へば忽ち爭が起つて數ケ國に分れてしまふ。僅かに一縣内の各地から撰ばれた議員等が集つてさへ、地方的利害の衝突の爲めに激しい爭の起るを見れば、今世界が一團となつて戰爭の絕へると云ふやうなことの望むべからざるは無論である。『若干の人種が相對して生存する以上は各人種は勉めて自巳の維持繁榮を圖らねばならぬが、他の人種に負けぬだけの速力で進步せなければ自巳の維持繁榮は望むことは出來ず、速かに進歩するには個人間の競爭による外は無い。されば現在生存する人間は敵である人種に滅ぼされぬ爲めには味方同志の競爭によりて常に進步する覺悟が必要で、味方同志の競爭を厭ふやうのことでは人種全體の進歩が涉らぬ爲めに敵である人種に負けてしまう。『今日の社會の制度には改良を要する點が澤山にあるが孰れに改めても競爭と云ふ點を到底避けることは出來ぬ。他の人類と交通もない所に閉ぢ籠つて一人種だけ生存し得る塲合には烈しい競爭にも及ばぬが
其の代り進步が甚た遲い故、後に至つて他人種に接する塲合には恰もニユーヂーランドの鴨駝鳥の如く忽ち亡ぼされてしもふ。世間には生活の苦しみは競爭の激しいことに基くので競爭の激しいのは人口の增加が原因である。それ故子を產む數を制限することが必要であると云ふやうな考へを以つて居る人もあるが、前きに述べた所によると此は決して得策と云はれぬ。今日の處で必要なことは競爭を止めることでなく、寧ろ自然陶汰の防害となるやうの制度を改めることであらう。人種生存の點から言へば腦力健康の劣等なるものを人爲的に生存せしめて人種全體の負擔の重くなるやうの仕組を成るべく減じ、腦力健康共に優等なる者が孰れの方面にも主として働けるやうの制度を成るべく完全にして個人間の競爭の結果、人種全體が速かに進步する方法を取ることが最も必要である。斯樣な世の間に產れて來た人間は唯生存競爭と心得て力のあらん限り競爭に勝つことを心掛くるより外に致し方はない。「人道を唱へたり、人權を重ずるとか、人格を尊ぶとか云ふて、紙上の空論を基とした誤た說が屢々出ることがある。例へば死刑を廢止すべしと云ふが如きは此の類で、人種依持の點より見れば毫も根據なき說であるのみならず明かに有害なるものである。雜草を刈り取らねば庭園の草が枯れてしまう通り、有害な分子を除くことは人種改良にも必要なことで之を廢しては到底改良の實は擧けられぬ。單に人種維持の上より言へば尙一層死刑を盛にして再三刑罰を加へても改心せぬやうな惡人は容赦なく除ひてしまう方が遙かに利益である』實に斯る魔界の人の如き暴言は固より法律學、歷史學、國家學、社會學に關する智識の缺亡に基くものなりと雖も、歸する所生物進化論其者が未だ組織なきを以てなり。-即ち第一に生物界に於ける人類の地位を他の獸類と同一階級に包含するを以てなり。ダーヴォンが『種の起原』の一版に於て基督〓の信仰と甚しく背馳するを慮りて人類の地位につきて說明することを避けれりし如く、今日の生物進化論者は基督置階獸地於物類者進の化生にのをるに生人論物今の位け界く級類
〓の『人類は神の子なり」と考へ來れる獨斷を打破するに急にして正確に人類の地位を定むるの暇なく、振子振動の方則によりて其の止まるべき點を通り越して等しく獨斷なる他の『人類は獸の類なり』と云ふ反對の極點に走れるなり。振子は永久に振動する者に非らず、吾人は此の振子を止まるべき點に止まらしめざるべからず。若し今日の學者によりて想像さるゝ如く、吾人の神と稱して人類より遙かに進化せる生物が他の遊星に生息するならば、而して吾人々類の生息しつゝある此の遊星が他の其れの如く進化しつゝあるならば、而して又進化に極點なく、人類が進化の極點に非らざるならば、吾人々類は將來に進化し行くべき神と過去に進化し來れる獸類との中間に位する經過的生物なり。今日、吾人々類は人類の猿猴類と分れたる時代の祖先の化石を發堀して類人猿と名くる者を見出すならば、吾人々類が類人猿として消滅せる如く更に人類として消滅せる後に於ては、吾人々類より分れて進化せる人類の子孫なる神の化石學者によりて『類神人』として發堀せらるべき神物過ベ滅的的き亡類生經す人.』半神半獸の或者なり。(此の說明は詳しく社會進化の理想に於て論ずべ능彼等生物進化論者にして、人類が類人猿より來り、類人猿が四足獸より來り、四足獸が鳥類と共に驚くべき形態を有せし玉蟲類より分れ來り、蚤蟲類が今日と全く形態を異にせる魚類より來りたりと云ひ、而して人類は一胎見の九ヶ月間に於て魚類よりの十億万年の生物進化の歷史を繰り返へすと云ひ、以て過去の回顧に於て大膽に推理力を發輝しつゝあるならば。其の推理力が人類今後の進化と云ふ將來の進行に至て全く挫折して働かざるは誠に以て抱腹すべき現象に非らずや。今日までの生物進化論は恰も人類を進化の終局なるかの如き獨斷の上に組織せらる。ダーヴォンの時代よりして生物進化論は人類を神によりて作られたる神の子なりと云ふ基督〓の信仰を破らんが爲めに全く人類の動物なることを更に他の諸科學の上より立證し、骨骼を比較し、筋肉を比較し、內臟を比較し、腦髓を比較し、發生の狀態を比較し、以て基督〓の科學的批評に堪へざる獨斷に過ぎざることを論ずる特典そのままず後しに見を行進て見く化更
に於て實に間然する所なし。吾人固より人類を以て全く神の子なりとなして他の生物と隔絕せる天空に置く〓との非科學的なる〓とを否む者に非らず。而しながら、骨骼も、筋肉も、內臟も、腦通も、發生の狀態も、發生して後も、決して他の獸類と全く同一に非らざるものを、獸類と全く同一にして異ならずと獨斷する彼等は、彼等の罵りて以て科學的批評に堪へずと爲す基督〓以上に科學的〓究に於て注意深き者に非らず。全く神の子なりと云ふことの非科學的なるならば、全く獸類に同じと云ふことも又等しく非科學的なり。-人類は動物の一種屬なり、而しながら動物の種屬中に於て獸類が鳥類若しくは魚類と階級を異にせる如く、獸類とは全く階級を異にせる人類と云ふ動物中の一種屬なり。今日生物進化論第一の誤謬は人類を獸類と同一階級に置くことに在り。彼等の打撃によりて崩壊せる基督〓が迷信〓なりしならば、彼等の生物進化論は明白なる迷信の獸類〓なり。而して社會の成る進化までの核子たりし神の迷信〓が終に無數の科學者を殺戮して社獸類〓の迷信會の進化を阻害せる如く、神の迷信〓を打破して社會の進化に盡くせし生物進化論は亦終に今日迷信の獸類〓となりて社會の進化を阻害しつゝあり。實に獸類〓徒の生物進化論者は今日思想の上にも社會の上にも純然たる羅馬〓僧侶として存す。神の迷信〓徒よりダーヴォン等の非難せられたる如く獸類〓の迷信者より社會主義の哲學宗〓が迫害されつゝあるは社會進化の常として如何ともするなし。實に、人類と云ふ一階級の生物種類を他の生物種屬たる獸類の階級に包含するが故に、今の生物進化論者は人類の生存競爭も獸類の生存競爭も其の內客に差等無き者となし。優勝劣敗と云ひ適者生存と云ふが如き文字を、獸類としての適者、人類としての優者として差等せず、獨斷の甚しき弱肉强食と云ふ戰慄すべき一語より一切の續繹を始じむ。若し其の所謂弱肉强食と云ふことが、牛は數に刺さるゝが故に弱肉にして人は蚤に喰はるゝが故に强の食なりとの意味ならば其の常經を逸異從階種はの者僅ないのお知らせ
したる文字の使用なるに係らず生物學上の事實としては充分に眞なるべしと雖も、斯る文字を使用する者に取りては多く强弱の標準を爪と牙とに求むる者なり。由來、適者生存と云ひ、優勝劣敗と云ひ、將た弱肉强食と云ふが如き文字は外包的の者にして內容の空虛なる言なり。即ち、單に其の生物種屬の境遇に適する者は優者として生存すとの意味に過ぎずして、其の內容に入るべき境遇の異なるに從ひて適者たり優者たり强者たる者を異にするなり。而して境遇は各生物種屬の各階級の異なるに從ひて異なる。彼の韓退之の蛟龍も陸梁すれば蟻螻に辱しめらると云ひしは、境遇による優者適者强者のそれ〓〓に異なることを最も明白に說明せる者に非らずや。〓帶の砂漠に於てのみ獅子は其の境遇の適者にして優者として生存するも、〓境遇の異なれる北極の氷雪中に於ては柔順なる馴鹿が遙かに適者にして强者として生存す。鷲は茫漠たる天空に翔ける境過に於ては適者たり優者たり强者たるも、之を簷端の鱸隙の境遇に持ち來らば實に燕雀よりは不適者たり劣敗者たり弱者たらざるべからず。土中を走ることに於て馬は嚴鼠よりも劣敗者にして、泥土に潜むこと於ては鯛は鰌よりも遙かに不適者たり。腐敗せる埃塵の中に埋まりては蚯蚓は社會主義者よりも境遇の適者に¥して、蛆は肥桶の樣に於ては生物學者よりも生存の優者なり。今の生物進化論者にして之を知らば、獸類の優者を以て全く境遇を異にせる人類の適者に類推して憚らざるは獨り何ぞや。若し精神の平調を失ひて、鰌が泥中の優者なるが故に鯛を泥中に投じて窒息せしむべく、嚴鼠が土中の優者なるが故に馬を穴に葬りて生埋めにすべしと云ひ、人類も亦駈蚓の如き蛆の如き境遇を求めて始めて適者たり優者たり强者たり得べしと云ふが如きに至らざるならば。境遇を全く異にして生存する人類と獸類とを一括して、爪と牙との四足獸の其れと混同するが如きは何たる沒論理ぞ。若し四足獸の境遇に於ける生存者を以て人類に擬すること生物進化論者の如くならば、道德家は牙なく智者は爪なきを以て生存競爭の劣敗者たるべく、最も殘忍暴逆なる者が適者たず同れ類者類視を其獸経人一
り優者たり强者たらざるべからず。而して丘氏の死刑陶汰の刑法論の如きは瓢簞より出づる駒なり。實に、人類の生在競爭は死刑を以て不道德の者を陶汰しゝある如く其の內容は全く道德的優者道德的强者の意義なり。說明の順序として先づ今の生物進化論が生存競爭の單位を定めざることより論ぜん。吾人は信ず、今の生物進化論は生存競爭の單位を定むるに個人主義の獨斷的先入思想を以てする者なりと。吾人は社會主義を生物進化論の發見したる種屬單位の生存競爭、即ち社會の生存進化を目的とする社會單位の生存競爭の事實に求むる者なり。此の說明は生存競爭の單位たる個體と云ふことの定義の確定さるゝを要す。而して吾人は生物學者間に採用さるゝ定義を信ぜんと欲す。即ちヘツケル(生物進化論と社會主義と背馳することを最も强く主唱せる學者にして其のミユーヘンの生物學者大會の演說は丘博士等の社會主義評の議論の骨子を爲せ專家電話 電話 遞 電 話 )聖書店家る者)等によりて〓へられたる個體の階級と云ふことなり。即ち顯微鏡以前に於て個體と云ふときには、個々離れ〓〓になりて中間に空間の存するものを一個體となすと定義し、或は一個の卵より生長したる者を一個體となすと定義するの外なかりしも。斯くしては單細胞の分裂によりて生ずるアミーバの如きは一個の卵子より生長せる者に非ざるを以て、又樹狀なして繁殖せる個々の生物が密着せる芽生々物の如きは中間に空間を存せざるを以て、一個體なるか、一個體の斷片なるか、個體の集合なるか、全く何れとも定むる能はずして不明瞭極まる觀念となる。即ち、個體の定義として中間の空間、或は一個の卵と云ふが如きを以て觀念の基礎とする〓とは顯微鏡以後に於ては全く維持すべからざる憶說として棄却さるゝに至れり。玆に於て個體の階級と云ふ說明によりて、一個の個體たる單細胞生物より分裂せる無數の單細胞生物はそれ〓〓に無數の個體と考ふるとを得ると共に、又始めの一個體の一部と云ふ點より見て分裂によりて生ぜる單細胞生物を空間を隔て以念體前顯のの微觀個から〓ル個義體定
ゝ分子とせる一個體と考ふることを得るなり。即ち、分裂によりて生ぜる單細胞生物は其の單細胞生物たる點に於て一個體たると共に、其の分裂によりて生ぜる單細胞生物を空間を隔てゝ分子とせる最初の單細胞生物は其の個體を大きくせる者と考ふることを得るなり。芽生々物の如きは其の大きくなれる個體が空間を隔つる分子とならずして密着せる分子其れ〓〓が生物として一個體たると共に、樹木の大きくなるが如く最初の生物は一個體として大きくなれる者なり。而して人類の如き高等生物も生殖の目的の爲めに陰陽の兩性に分れたる者なるを以て、是れを男子として或は女子として、又親として、子として、兄弟としてそれ〓〓一個體たると共に、中間に空間を隔てたる社會と云ふ一大個體の分子なり。今日の眞理に於て唱へられつゝある社會有機體說、國家有機體說は此の點より生れたる者なり。(此の說明は次編の『所謂國體論の復古的革命主義』に於て國家人格實在論を說くに重要なり)。丘博士の『進化論講話』中には生存競爭の單位たる個體の說明を爲さヾり個體の階級と社會有機說體しほどなるを以て社會主義を生物進化論によりて排擊するに至れるは止むを得ざることなりとするも、個體の階級を〓へたるヘツケルにし2.で社會主義が生存競爭說によりて維持すべからざるを論ぜる生物學者大會の演說ありとは奇怪とするの外なし。か生物界を通じて生存競爭の單位は彼等個人主義を以て解釋しつヽある者の如く小さき階級の個體のみに非らず。一個の生物は(人類に就きて云へば個人は)一個體として生存競爭の單位となり一種屬の生物は(人類につきて云へば社會は)亦一個體として生存競爭の單位となる。而して個體には個體としての意識を有す。-個人が一個體として意識する時に於て之を利己心と云ひ個人性と云ひ、社會が一個體として意識する時に於て公共心と云ひ社會性と云ふ。何となれば、個人とは空間を隔てたる社會の分子なるが故に而して社會とは分子たる個人の包括せれたる一個體なるが故に個人と社會とは同じき者なるを以てなり。即ち、個體の階級によりて、一個體は個人たる個體としての意識を有すると共に、社會の分子とし奇演大物ル~怪說會學のツのの者生者異は社區な名同會人りの一とと
て社會としての個體の意識を有す。更に換言すれば、吾人の意識が個人として働く塲合に於て個體の單位を個人に取り、社會として働く塲合に於て個體の單位を社會に取る、吾人が利己心と共に公共心を、個-即ち、公共心社會性と人性と共に社會性を有するは此の故なり。は社會と云ふ大個體の利巳心が社會の分子としての個人に意識せらるゝ塲合のことにして、分子たる個人が小個體として意識する塲合の利已心も其の小個體が社會の分子たる點に於て社會の利已心なり。故に利巳心利他心と對照して呼ふが如きは甚だ理由なきことにして寧ろ大我小我と云ふの遙かに適當なるを見る。今の生物進化論者にして個體につきて斯の科學的智識の欠亡せざるに非らざるならば、個人的利已心の小我をのみ認めて社會的利已心の大我を忘却し、個人間の生存競爭が個人的利已心による如く、實に社會的利已心による社會間の生存競爭の事實、社會間の生存競爭を行ふ社會的利巳心たる社會性公共心の存在することを忘却せりとは解すべからざるも甚だし。斯の個人的已會心的的と利個利社巳人心社會的利已心事業位の生存數等利己心も社會的利已心も共に等しく輕重あるべからず。而しながら其等の利已心が一は個人の者にして他は社會なるが爲めに、而して人類は特に社會的團結によりて他動物を凌駕し社會的團結を單位として他の單位たる其等と競爭し來りしが爲めに、社會的利已心のより多き必要よりして特更に公共心、社會性、道德的本能、神の心等と命名せられて特別に重き地位に置かるゝに至りしなり。肉食獸の如き獨居的生物は多く一動物としての利巳心による生存競爭によりて其の地位を保ち菜食獸の如き群居的生物は社會的利巳心によりて社會を單位としての生存競爭によりて其の地位を上進せしむ。生物學の全く開墾されざりし時代のホツブス、スピノーザならば個體を顯微鏡によりて考察するとなく、空間と卵との漠然たる思想より獨斷的個人主義を持するに至るも各むべきに非らずと雖も。生物學者其者が今に尙其の獨斷を繼承して幾んど個體の觀念につきて無智なる者の如く、個人的生存競爭のみを主張して社會性による生存競爭を忘却せりとは何たる事ぞ。類で性に於人にて特らの社重會、理由
實に、今の生物學者は玉を抱ひて瓦の如く考へつゝある者なり。生物進化論が人類に與へたる福音は、如何なる道德論も如何なる宗〓も及ばざる者なることを氣附かざるか。ダーヴォンによりて惡魔の聲の如く響きたる生存競爭說は、終にクロボトキンに至りて相互扶序の發見となれり。即ち是れ個體の高き階級たる社會を單位とせる生存競爭にして、古來の漠然たる道德的意識に明確なる科學的根據を與へたる者なり。古人は其の思辨的考察と、直覺的に社會的本能を認識することゝによりて、アリストーツルは人は政治的動物なりと云ひ、國家の外に在る者は神か然らざれは禽獸なりと云へり。氏の國家とは社會が常に政治的組織に於て發見せらるゝの故にして、實に人は天性よりして政治的組織をなし、共同生活をなして存在する動物なり。而して國家の外に在るものは神か然らざれは禽獸なりとは、亦實に人は社會によりてのみ人たるを得と云ふ今日の科學の結論を哲學史の〓論に於て書き始めたる者なり。シセロが蜂は其の巢を作る目的の爲めに群集を爲1タ1ポンか は存よ扶競る助爭生に道然來論物總たのは進たを的に的る漢古化生リ與根科意學識據すものに非らず、其の性群集に在るが故に巢を作るときに於て勞力を協同するのみ、而して人の社會を組織するは全く人の天性によるものにして共同の目的の爲めに勞力を恊同することは此の天性あるが爲めなりと云ひしは、が生物學によりて說明せる原理を羅馬の遠き昔に於て一個の公理として殘し置ける者なり。此の社會的利己心は社會單位の競爭の最も激烈なりし古代に於ては最も多く要求せられ、等しく重要なる個人的利巳心が全く壓伏せられ來りしを以て、社會單位の競爭の平靜なるに至るや個人的利巳心が必ず伴ひて頭をもた希臘の末年、羅馬の末年に於ける個人主義の源泉即ちこれにして中世基督〓の統一の下に於ける社會單位の競爭の杜絕と共に、思想信仰の自由となり、〓治經濟の獨立となり、個人の自由獨立は終に偏局的に要求せられて個人主義の思想は澎洋の大河となりて歐州の天地を洗ひ其の波濤の餘波を十九世紀の半ばにまで波うたせたり。されば此の個人主義の大河に浮びて流れつゝありしホツプス、ルーソーの徒が、
人類の社會的存在なることを解せずして或は契約前なりと云ふ自然の狀態を想像して各人の各入に對する戰闘と云ひ、或は各人皆神の如き自由獨立を有せりと云ひて其の上に社會契約說を建設せしとするも毫も怪むべきことに非らず。然るに生物學によりて、人類のみならず多くの動物が個々に生息せずして社會的群集にて存在する〓とを說きつゝある生物學者其者が、今尙彼等溺沒者の足にすがりて個人主義の流れに溺れつゝあるは何たる奇怪ぞ。十九世紀の半ばに書かれたるダーヴンの『種の起原』が偏局的個人主義の餘波を受けて生存競爭の單位を個人、或は個々の動物に置き、爲めに其の生存競爭說が道德的要求と背馳する方向に走れりとするも、彼は生物進化の事實の發見者として從來の天地創造說を破るに急に、爲めに其の事實の解釋たる理論にまで完からん〓とを要求する能はざればなり實に個人主義の今日に至て全く維持すべからざるに至りし所以の者は理論其者に於ても、例へば、人は元來詐り易き者なりと斷定して而も契約によりて社會を組織せりと云覆義個偏る生物學ふホツブスの如く、人は自然に自由獨立の主權を有すといひで而も壓制暴戾の社會を契約によりて組織せりと云ふルーソーの如く、自家擅着の甚しき者を根本思想とするによるのみならず、生物學の研究によりて事實として人が個々に存在せざりしとを指示さるゝに至りしを以てなり實に、今日の政治學經濟學等の社會的諸科學は、人は決して契約の如き方法によりて社會を作れる事實なく、人類の社會は他の動物の社會的群集を爲しつゝある如く社會的動物なるが故に始めより社會を爲して存したりと云ふ生物學の發見によりて、玆に從來の思辯的獨斷より目醒めて其科學の根底より組織を建て替へたるなり。而して其の人類は始めより各人の各人に對する爭鬪の者に非らず又各人悉く神の如き自由獨立の者に非らずして社會的動物としての社會的存在なりと云ふことは、更に社會的結合の大にして强きものは其の社會的利巳心即ち相互扶序による大個體を單位としての生存競爭に於て他の孤獨なる其等に打ち勝ちたりと云ふ進化の說明と結合して、個人主義の
諸科學を愈〓價値なきものとなし終れり。即ち、人は個々分立にして個人的利巳心のみなりと云ふ假定よりして、資本勞力の恊同よりも各々の相殺破壞が遙かに多き生產を來すと論ずる經濟學、契約以前は自由獨立の個々に於て存在せりと云ふ斷定より國家社會の如き結合〓結は止むを得ざる害物なりと說きつゝある政治學は、實に生物學の發見せる人類の万有に對して優勝者たるを得たるは其の社會的生物としての社會的利己心、即ち相互扶序に在りと云ふ事實によりて根底より覆がへされたればなり。團結は强力なりとは生物界を通じての原理なり。即ち、相互扶助による高級の個體を單位として生存競爭をなす菜食動物は、分立による下級の個體を單位とせる肉食動物に打ち勝ちて地球に蔓延せりと云ふとなり。敢て丘博士とのみ云はず、今の生物進化論者にして生存競爭を個人間或は個々の生物間のことのみと解するならば、個々としては遙かに弱き菜食動物が肉食動物に打ち勝ちたる所以も解せられざるべく、野馬が其の團結を亂さゞる間は一頭と雖も動相擧は存物り扶の會爭生生他の猛獸に奪はるゝこと無しと云ふが如き無數の現象を說明する能はざるべく牙と爪とを有せざる人類は原人時代の遠き昔に於て消滅したるべき理にあらずや。否-喰人族の野蠻人も其の喰ふ處の肉は個人間の闘爭によりて得るに非らずして、生存競爭の單位は少くも戰鬪の目的に於て協同せる部落なり。最も協同せざる肉喰動物と雖も生存競爭の單位は如何に少くも相互扶助の雌と子とを包含せる聊か高級の個體に於て行はれ、最下等の虫類たる蚯蚓の如きすら土中に冬籠る必要の爲めには二三相抱擁するが如き形に於て暖を取るの共同扶助を解すと云ふ。生物の高等なるに從ひて愈〓個體の階級を高くし、島類獸類の如き高等生物に至りては殆ど全く人類社會に於て見るが如き廣大强固なる社會的結合に於てのみ見出され、社會的結合の高き階級の個體を單位として生存競爭をなす。而して此の高き階級の個體を單位としての生存競爭は其の個體の利己心、即ち社會的利己心、更に言ひ換ふれば分子間の相互扶助によりてのみ行はれ、個體の最も大きく相互
扶助の最も强き生物が最も優勝者として生存競爭界に殘る。人類の如きは其の優勝者中の最も著しき者の例なり。實に生物學者は自家の貴きを顧みるを要す。社會單位の生存競爭と云ひ、少相互扶助による優勝劣敗と云ふことは基督よりも釋尊よりも遙かに〓〓高貴な福福なることを。生物進化論が此の福音を擧げて惡魔の智識を殘らず根底より〓覆せしが爲めに、單に政治學と經濟學とのみならず、倫理學の上にも〓育學の上にも心理學の上にも『社會主義』の金冠が加へられ、人類の思想史は全く新たなる光明界にむかつて流れ始めたるなり。實に生物進化論は哲學史上未曾有の大革命なりき。吾人が社會主義を生物進化論の上に建てゝ又等しく大々的革命を以て任ずる者、誠に生物學者の思想界に爲せる所を現實の社會に爲さんとするにあるを以てのみ。吾人·は個人主義の獨斷的假定を思想の根據として生物進化論を解釋しつゝある生物學者によりて虐待せらるゝとも、生物進化の事實は社會主義を待ちて始めて說明せられ得べきを見て歡喜に堪へざる者なり。上海鮮蝦專線學史會け會命革主るに命義社於吾人をして丘博士の迷妄を啓かしめよ。吾人は博士が屢〓人種競爭と云ひ國家競爭と云ふを見て必ずしも個人以上の或る高き單位の生存競爭の存するに考へ及ばざりしと信ずる者に非らず。而しながら博士は生存競爭の單位を定むべき根本點たる所の個體の定義をすら决定せざりしほどの不注意よりして、競爭の單位が生物種屬の進化に伴ひて擴大し行くことを全く解せざるかの如し。即ち以上說ける如く、下等動物の生存競爭の單位は最も低き階級の個體即ち個々の生物單獨の生存競爭なるに高等動物に進むに從ひ其の競爭の單位たる個體の階級を高くして社會と云ふ大個體を終局目的とする分子間の相互扶助による生存競爭に進化するを解せざると同樣に、此の單位の進化は人類に於ては特に(人類としての歷史の進行中に於て)其の進化と共に愈〓擴大し行くと云ふ『社會進化論』につきて些の考ふる所無きが如し。斯くて博士は歷史上の革命に對して無神經の冷笑をなし、來るべき革命によりて種はのる單位た個體階級屬生の物ひる進てに化高從す
得べき世界聯邦論を輕悔して不靈殘忍なる帝國主義の讃美者となれり。世人は生物學者たる丘博士に對して歷史的智識を要求せざるべし。而しながら吾人は生物進化論者たる博士として歷史の進化を輕視すること恰も宇宙循環論を爲すものゝ如くなるを怪しむ。循環〓と進化論と、是れ氷炭相納れざるものに非らずや。丘博士にして生物進化論を信じ、而して人類の歷史は人類と云ふ一生物種屬が進化せる跡なりのしての社會進化論を信ずるならば、歷史上の革命を以て單に一種と夢想より生ぜる擾亂の反覆なりと云ふが如き口吻は進化論者として有るまじき純然たる循環論の思想なり。而して現今の地理的に限定されたる社會、即ち國家を以て永久に生存競爭の單位となし、今日の進化の途上に於て生ぜる人種の差を以て永却まで相對抗すべき單位の競爭者なるかの如く斷ずるに至つては万有を靜的に考ふる者として愈〓以て進化論の思想と背馳す。若し丘博士にして、山腹或は沼澤に數十百人の小さき群をなし他の小さき群と無關係に若しくは爭鬪して生存しつ丘博士は進化論と背博覽會事おのりくヽありし原人部落より、併呑或は合併の途によりて漸時に歷史時代の人口の稀薄なる境域の小さき小圖家となり、更に種々の征服分裂の後今日の如き幾千万人数億万人を包容せる大國家として對立するに至れる進化の跡を顧みるならば。今日の大國家が、今日の大國家にまで進化し來れる原理を辿りて更に今後のより大なる國家にまで進化し行くべきことを推理せよ。現今の單位に於てする國家競爭、今日の差別に基きてする人種競爭を見て、直ちに今後の進化を想望して努力しつゝある社會主義に對抗を試むる如きは生物進化論を解せさる者なりと云ふの外無し。帝國主義の國家競爭に就きては後に說く。只、吾人は丘博士が其の生物學の上よりして帝國主義の裏書人となれる能度を見て、誠に世の導きたるべき科學者が却て世に隨伴を事とするの頗倒を遺憾とす。固より吾人は生物學上の事實として變種間に生存競爭あり、而して其の競爭を多く闘爭に訴へて決しつゝあるを否むものにあらず、而しなが行大單てにのは種競くに位其よ進歷競爭國しをのり化史學人家
ら是れ先きに言へる如ノ生物種屬の階級の進化するに隨ひて其の競爭の內容を進化せしむることを解せざるより來る。獸類が其の變種間に於て牙と爪とを以て生存競爭を爲しつゝあるは其れだけの事實にして、人類と云ふ他の生物種屬の階級の其れが亦等しく其の方法に於てせざるべからずと云ふことゝは別問題なり。而して又、人類の過去及び現在に於て異人種異國家間の生存競爭が戰鬪によりて行はれ來りしとするも〓は其れだけの事にして、人類の進化と共に人類の生存競爭の內容が更に進化して他の方法にて優勝を決するを至るべきや否やは別問題なり。社會主義の戰爭絕滅論は生物種屬は進化に伴ひて競爭の單位を擴大し行くと云ふ一の理由によりて人類種屬を生存競爭の單位として他の生物種屬に對して完き優勝者たらんが爲めなると共に(後に說く)人類單位の其れに到達するまでに生物種屬は進化に伴ひて競爭の內容を進化し行くと云ふ他の理由によりて國家競爭を聯邦議會の辯論に於て決するに至らしめんとする者なり。若し丘博士の如く利害の背反をのは主の丘の起る解こし直ちに戰爭の不滅に推及せしめんとして縣會議院内に於ける田紳閥諸君の雄辯を國際戰爭の山屍血河に比するが如き疎雜なる推論を爲さず、地方間の利害の背反が戰爭によりて決せられし者より進みて縣會の多數決に至りし如く、今日の國家間の利害の背反が亦今日の如き戰爭によらずして聯邦議會の決議にて決定するに至ると推論せば、生物進化論を揭げて社會主義を排するが如き失態なかるべかりしなり。丘博士は歷史の進化を無視して恰も相刺殺する進化論と循環論とを混在せしめつゝある如く、全く相納れざ〓社會主義と帝國主義とを混同しつゝ社會主義の戰爭絕滅は世界聯邦國の建設によりて期待し、帝國主義の終局なる夢想は一人種一國家が他の人種他の國家を併呑抑壓して對抗する能はざるに至らしむる平和にあり是れ歷史上多くの英雄に指導せられたる民族の爲せし所にして、甞て驕慢なる獨乙現皇帝の夢に入りし所のものなり(獨乙皇帝は他の國家の强大と國內の社會黨の勢力の爲めに今は世界統一の帝國主義を棄却したりと傳ふ)。然るにす者主て以空主は丘
丘博士たる者社會主義の萬國平和の理想に對して『假に一人種が他の人種に打ち勝ちて世界を占領したとするも塲所々々によりて利害の關係が違へば忽ち爭が起つて數ヶ國に分れてしもう』との非難は何たるとぞ。是れ帝國主義にして社會主義の力を極めて排斥しつゝある空想なり。固より循環論的思想を有する博士の如く歷史は繰り返へす者にあらず、從て征服による統一の跡に分裂の來るも、其の分裂は統一されざる以前よりより大なる單位に於て對立し、若しくはより大なる單位たらんが爲めに小單位に分裂す。歷史に意義なきものなし、斯の點に於て今日までに行はれたる國家競爭が征服併呑の形に於て社會を進化せしめたる-即ち社會學者の所謂同化作用によりて個體の階級を高めて今日までの大國家に進化せしめたるは固より事實なり。故に吾人は帝國主義を以て歷史上社會進化の最も力ありし道程たることを强烈に認識す。而しながら同化作用と共に分化作用あり、外部的强迫力によりて同化するより外なかりし國家競爭の進化は他の進化たる分化作用によ果上の國注·効史義帝歷同作品用と分化作用りて其の同化作用を阻害せられ、又外部よりの同化作用を强迫さるゝことの爲めに分化作用を壓迫せられて社會の進化に於て誠に遲々たりき。社會主義の世界聯邦國は國家人種の分化的發達の上に世界的同化作用を爲さんとする者なり。故に自國の獨立を脅かす者を排除すると共に、他の國家の上に自家の同化作用を强力によりて行はんとする侵畧を許容せず。-この點に於て社會主義は國家を認識し、從て國家競爭を認識す。吾人は生物進化論を唱へたるダー井ンと同時に於て社會進化論を說けるマークスの偉大を尊ぶものなりと雖も、彼等よりも進化せる現代の人として彼等の言を信仰個條とする者に非らず、階級競爭と共に國家競爭を事實のまゝに認むる者なり。階級は橫斷の社會にして、國家は縱斷の社會なればなり。而しながら同化作用によりて階級的隔絕の漸時に掃蕩せられ、小國家の對立が歷史の進化によりて消滅すると共に、即ち競爭の單位たる個體の階級を高めて進化すると共に、更に其の競爭の內容を進化せしむることを看過すべからずすを家識家義社認競しをは會認國主國識爭爭壓壓箱と國家事の
社會主義の世界聯邦論は斯の競爭の單位を世界の單位に進化せしむると共に、國家競爭の內容を聯邦議會の議決に進化せしめんとする者なbo階級闘爭が始めに競爭を決定すべき政治機關なかりしが爲めに常に反亂と暗殺の方法にて行はれ來りしもの、今日內容の進化して競爭の決定を投票に訴ふるに至りたる如く。現今の國家競爭が等しく未だ競爭を決定すべき政治機關なきが爲めに今尙外交の隱謀譎詐と砲火の殺戮の方法に於て行はるゝものを、今後は階級競爭の其れの如く投票によりて決せんが爲めに世界聯邦論あるなり。固より同化作用が階級間に行はるゝ如く國家間に行はれて階級闘爭の絕滅の如く、更に一段の進化によりて聯邦間の競爭は全く絕滅して人類一國の黃金〓に至り、全人類を同胞とする同化作用と共に障害なく發展する個性の分化作用によりて社會を進化せしむるに至るべしと雖も、社會主義の實現されたる當坐の近き時代に於ては聯邦議會內に於ける利害の全然一致すべきことは想像し得べからずとすべし。社會主義は帝國主義の如くユド"縣邦議會にて决する國家競爭丘博士の論理の蕪シネピア的世界統一主義の空想に非らさればなり。實に丘博士にして縣會議員の激論に對照せしめんと欲せば決して國際戰爭を以てすべからずして、此の聯邦議會內に於ける各國代表者の說述問答を以てすべく。利害の背反を直ちに戰爭不滅論に歸結せしめんと欲せば、縣會議事堂內の發砲拔劔を前提としての後なることを要す。由來、比喩の玩弄は科學者として謹愼なるべきなり。考ふるに。人種競爭論を殘忍不靈なる口吻に於て主張する者は多く文明人と野蠻人とを先天的に異なる者の如く信ずる先入思想を有する者なり。丘博士にして若し是れあらば是れ由々しき大事にしてダー非ンによりて打破せられたる天地創造說を執る者なり。實に後にも說く如く今の生物進化論者は特に多く天地創造說を無意識の間に繼承して思想の中樞を作りつゝあり。文明人は天地の始めより文明人にあらず野蠻人は地球の終局迄野蠻人として了るべく創造せられたる者にあらず野蠻人と雖も文明國の空氣中に育つれば文明國人に劣らず充分に發むな靈論種以思造天ら殘を競て想說地忍不爭人をの創
達し、文明國人と稱せらるゝものと雖も其の小兒を捉へて野蠻人の部落に置けば全く野蠻人として停滯すべし。『人は只社會によりてのみ人となる』。吾人が前編の倫理論に於で述べたる如く人は境遇によりて狼ともなる。されば人の圍繞せられたる社會的境遇によりて、其の文明社會なるときは文明人として作られ野蠻社會なるときは野蠻人として作らるゝは容易に想像せられ得べし。吾人は文明社會に育成せられ、原人の野蠻時代より今日に至るまでの十萬年間と計算さるゝ長き時日の積集せる智識を、二十才に至るまでに吸収し體得して以て文明人となれるなり。或る四圍の境遇によりて依然たる原人の狀態に止まれる、若しくは原人の狀態より吾人と異なれる方向に進化したる社會的境遇に圍まるゝが爲めに、野蠻人は死に至るまで何等吸收すべき智識の社會に存在せざるを以て常に野蠻人を繰り返へしつゝあるのみ。吾人の遠き祖先たる原人が火を發見するに如何に長き進化の後なるやも知るべからずと云ふに、吾人は母の乳房を含みつゝ驚くべき石油の發火と、作明人以るに文吾所ら人電氣の發光を眺めつゝあるにあらずや。十進數の如きは如何に遙か後代の發明なるやも知るべからず、而して此の發明の爲めに如何に人類の智識が整頓されしか圖るべからずと云ふに、吾人は五六才にして其れ以上の高等なる數學を知るにあらずや。吾人の生息する地球の動きつゝ太陽の周圍を繞ぐることを知り、圓形なることを事實において知りしは僅かに五六百年前、即ち原人の始めより計算すれば九萬九千五百年の後において漸く得たる智識なるも、吾人は十二三才の小學兒童にして明白に其の理由までも解しつゝあるにあらずや。船長とワツトの火夫を有する社會的歷史的智識を滿載せる大滊船が列-并ンを載せて世界漫遊の途に上りしが爲めに生物進化論は發見せられ、而して吾人は今この筆に於て斯の驚くべき智識を論議しつゝあるにあらずや。文明國人は文明國人としての肉體的遺傳の外に文明の智識の社會的遺傳によりて文明國人として作らるゝなり。吾人文明國人は生れながらの肉體に於て文明國人となれるに非らずして、此の肉體的遺計遺傳會傳的と
歷史的智識を遺傳しつゝある社會に置かれて、其の智識を受入るゝことによりて文明國人として作らるゝなり。野蠻部落の兒童が文明的〓育の下に於て殆ど文明人に比肩し得べき智識道德の發展を爲し得たる幾多の事例は、進化論を個人主義によりて解釋せる代表的學者とも云ソシアル、エボリユシヨンふべきベンヂヤミン、キツドの『社會進化論にてすら無數に引用せるを見よ。吾人は人は只社會によりてのみ人たるを得との〓とのみを以て、今日の程度にまで分れ來れる人種の分科的發達による遺傳の相違を輕視せんとする者にあらず。而しながら只一切を肉體的遺傳にのみ歸して社會的遺傳、即ち智識の歷史的積集を忘却し。南洋の或る土人が十以上の數を數ふるとき頭痛を起すと云ふが如き事例を擧げて反證せんとする者あらば、吾人は多大の尊敬を以て下の如く答ふ。そは年老ひて神經中樞の衰弱せるが爲めにして、博識の老ひたる野蠻人が獸類〓の生存競爭が如何に謬れるかを說き聞かさるゝも死に至るまで移るの期なきと同一の現象なりと。否〓遺傳其者が生物進化論によりて種肉體的選択(単)屬的智り本承を繼能するな屬的智識を繼承する本能なり。而しながら現今の如き野蠻人が永久に科學者の興味ある材料として地球〓に存すべきものに非らざるは論無し。吾人は社會主義者として人類同胞の理想と、同胞たる所の智識を人類一元論によりて有する者なり0然しながら事實を事實として人種の差等を認む。而して下等人種の消滅すべき運命なることをも認む。-誤解すべからず、吾人が下等人種の消滅を云ふは從來の如き驅逐或は殺戮の方法によりてする人種競爭にあらず、下等人種其れ自身が文明に進むことによりて野蠻人として消滅し、若しくは冷酷なる生存競爭律によりて野蠻人としての現狀を維持する能はずして消滅すべしと云ふことにあり。吾人は涙を以てする人道論とは無關係に、社會進化の理法と理想とによりて社會主義を說く者なり。進化は一に生存競爭による。社會進化の途上相亙扶助の道德なき無數の個人を劣敗者として陶汰しつゝある如く、文明の進行に併行して進む能はざる人種の滅亡しつゝあるは如何ともすべなの會亡種下り當進はの等然化社減人社
からず。人類と云ふ大社會は地理的小社會の上に超越して一大個體なbo小社會の進化が眞善美に於て劣れる個人の陶汰によりて得たる如く、大社會の進化に於て亦眞善美に於て劣れる人種が陶汰せらるゝは如何ともすべからず。而しながら野蠻人中の文明に進む能はざるものゝ野蠻人として消滅すべしと云ふことゝ、文明人が野蠻人を壓迫して滅亡せしむるの權利ありと云ふことゝは全く別問題なり。生存競爭の內容は生物種屬の階級の進化によりて進化する如く、人類、種屬の歷史の進化するに從ひて進化す。相互扶助の道徳なき個人が甞て死刑によりて陶汰せられしも進化して他の競爭の方法によりて滅亡しつゝある如く、驅逐或は殺戮の方法によらずして人種間の生存競爭は今日の正義の理想と背馳せざる方法によりて行はるべし。滅亡の名に戰慄する勿れ。個人として、又人種として社會性の缺亡せる者の陶汰さるゝなくば如何にして『類神人』が更に高き進化を得べきや。民族或は國家が小社會としての個體たり從て其の分子たる不適なる個人が陶汰さる化容爭人のの種進内競ゝも他の分子たる個人が適者として進化しつゝあるならば、其れ等を分子とせる社會と云ふ個體より見て滅亡にあらず進化なる如く。進化に隨伴する能はざる人種が消滅するも、他の人種が進化して神境に入るならば、是れを人種一元論による大個體と云ふ點より見て決して滅亡にあらず歡喜すべき進化なり。-個人主義の人道論を爲すものに取りて斯る斷言は冷酷に響くべし。然り冷酷なり。冷酷なる生存競爭律は『類神人』としての境遇に不適なる所の眞ならざる善ならざる美ならざる者は劣敗者として殘酷に陶汰す。玆に至つては社會主義なる者、恰も一基督の名の爲めに十字軍の犠牲を敢てしたる如く、限りなき個人と人種の屍の上に『神』を祭らんが爲めに幾萬の劣敗者を穴に葬る。而しながら更に後に說く如く個體は死するものにあらず、一元の人類と云ふ大個體は其の不適なる分子を陶汰すと雖も、他の分子によりて生き以て無限の天に進化し登る。即ち、分子自身の進化によりて眞となり善となり美となることによりて不眞不善不美なりし分子として消滅て上敗種人義社らに者のとは會る建の劣人個主
すると共に、又永久不眞不善不美にして進化する能はざる分子は他の眞善美の分子によりて生き以て其の進化を得。然るに斯の生存競爭と云ふ〓とを直ちに相互の殺戮と速斷するが故に丘博士の如き死刑陶汰の刑法論となり、不靈、殘忍なる人種競爭論となるなり。人類は其の歷史に入りてよりも生存競爭の內容を進化せしめ、從て正義の內容を進化せしめて止まず。若し今日の社會意識の甚しく銳敏となりて同類を窮迫する〓とに堪へざるまでに進化せる正義あるに拘らず、尙不靈殘忍なる人種競爭論を以て不幸なる彼等に壓迫を加ふべしとする學者あらば、吾人は實に問はん--人類は胎兒の九ケ月間において魚類の時代を經、獸類の時代を經、生れて人類となるも小兒の間は野蠻人なる原人時代を繰り返へしつゝあるを以て、墮胎の如きは魚を釣り獸を射ると同じきがゆえに死刑陶汰の刑法論の外に逸すべく、軍艦を用ひて熱帶の遠きに行かんよりも、何ぞ先づ爾が產みて爾の膝下に置く野蠻人より殺戮の手を下さゞるやと。野蠻人の極端なる者にてすら然かり、然るをの競る戮國進正國會人に至る (よ况んや單に皮膚の色を異にするを以て相殺戮するをや。死刑陶汰の刑法論と雖も亦然り。若し丘博士及び國家の刑罰權を生存競爭によりて解釋しつゝある刑法學者の如く改心の見込なきものは人種の改良進歩の爲めに死刑に處すべしと論ずることは、其の論理によりて恢復の望なき老親は毒藥を盛りて殺すも國家の刑法は處罰する能はざることゝなる人種の改良進步の爲めに再犯三犯の者は一層死刑を盛にして殺すべしと云はヾ、其の論理の進む所人種の改良進歩を最も阻害すべき肺病患者を收容せる病院內に斷頭臺を架設するの企に出でざるべからず。人種の改良進步の爲めに醜婦痴漢の如きは酌量減刑もなく死刑に處すべく、人種の改良進歩に害ある學者の如きは驢馬の如く繋ぎて刑塲に送るべし。人種の改良進歩は一に生存競爭に在ることは論なしと雖も、生存競爭が必ず死刑に於て行はれざるべからざるの理なし。-社會と云ふ一個體の中に於て其の中の一の分子の上法汰死論の刑刑よ刑陶き驚り推くす論へる
に、他の分子若しくは分子の集合が殺戮を加ふるとは偏局的社會主義時代の普通良心にして今日の正義に非らず。偉大なる分子が他の分子若しくは分子の集合の爲めに犯罪者として死刑に處せられたる著しき例は彼の。基督ソク、ラテースに在り。前編に述べたる如く犯罪とは普通良心に背反する〓とを云ふ。一時代の普通良心必ずしも次ぎの時代に於て普通良心たる者にあらず、次ぎの時代に於ける普通良心は多く一時代の普通良心によりて犯罪視せられたる特殊なる分子の先覺によりて作らる。今日偏局的社會主義時代の良心を以て一の分子の上に他の分子若しくは分子の集合が殺戮の權ありとの主張は、誠に羅馬法王の學者と學說に對する刑罰權を復活せしめんとする者にあらずや。ダー井ンをしてガリレオに代りて生れしめよ。『進化論講話』をして中世の伊太利に於て書かれしめよ、生物進化論者は自家の論理によりて絞殺臺に上らざるべからず。丘博士は刑法學につきて豊富なる智識を有せざるべし、然しながら万有進化の大權が何が故に特殊の個人の掌中に握ら心普時會局すあすをの合子く子一代主的るりる殺分がのは若のと權戮子他集分し分社偏義通良るゝかゞ疑はるべきにあらずや。遮莫、人類種屬の生存競爭は死刑陶汰の刑法論が今日殘る如く全く道德的內容の者なりき。是れ人類のみに限らず。菜食動物の如き群集を爲して生存し、社會單位の生存競爭に從ひつゝある凡ての生物に通ずる競爭なり。下等動物の如きは生存競爭の單位が最も下級の個體なるが爲めに其の內容は各個的利巳心の者にして、動物の高等に進むに從ひ其の單位が漸時に擴大して高級の個體なるが爲めに社會的利巳心、即ち社會性による道德的內容の生存競爭となるなり。故に各個的利巳心による肉食獸に於ては牙と爪とが優勝を決定するも、社會的群集をなす一般の菜食動物に於ては社會性の發達したる者が優者强者にして小我の利巳心のみによりて社會團結を害する者は陶汰さるゝ所の生存競爭の劣敗者なり。彼の象の如きは社會の安寧を害するものは放逐せらると云ひ、猿猴類にては姦通の如き最も嚴罰に處せらると云ひ、蟻蜂の社會に於ける道德的陶汰は何人も知れる所の如し。而して人類は電車製作品特製
故に道德的生存競爭は死最も大なる社會を組織せる道德的生物なり、故に道德的生存競爭は死刑を以て陶汰さるゝほどに强烈に行はる。實に人類は原人の遠き昔よりして道德的生物なりしなり。吾人は斯く斷定せんと欲す。個人主義時代の學者の契約前の狀態は各人の各人に對する闘爭なりと想像せしが如き虛妄は固より、原人とは殺戮のみを事とせる純然たる喰人族なりしと云ふが如き推定は最早棄却さるべき根像なき憶說に過ぎず。即ち、原人の最初の狀態を以て漁獵時代と想像して其の魚鳥を殺すことより喰人を學びたるべしと推論せしも、そは遙かに後のことなるべく漁獵に要する器具を發明するまで進化するに至らざる間は、豊饒無盡の沃野に天產物を採りて平和に生活せりと云ふことは遙かに合理的の推測なりと信ず。若し原人が喰人族なりしならば彼の原人時代を短かき年月中に繰り返へす所の小兒が、其の足の裏を合せて獸類の坐する時に爲す如く爲すと同樣に、一たび必ず猛惡なる性情を表はさヾるべからず。然るに事實は全く正反對にしてら牧漁食和代原ずに獵しには人時て榮遊て菜平神の笑ひと稱せらるゝ如く最も平和に最も怯懦なるにあらずや。而して此の小兒の平和と怯懦とは、原人の平和なる生活と、雷鳴風雨猛獸鬼神暗黑等に對する無數の恐怖を抱きし原人の怯懦を說明する者なりと見らるべし。吾人は信ず、根本の誤謬は今日の野蠻人を直ちに原人と名けて吾人の原始時代に推及することにありと。爭鬪と喰人とは饅餓の民族と氣候の爲めに荒びたる性情を有する民族のみに限る。今日の野蠻人の中に爭鬪喰人の風盛なるものあればとて、全く境遇の異なれる幸福に置かれて天淵の懸隔ある發達を爲せる今の文明人の原始に維及することは、人種の分科的發達を認むる者の爲すべからざる所なり人類は今日肉食も半ばしつゝありと雖もそは亦等しく遙かに後代8のことなるべく、今日の猿猴類と共に類人猿より分岐せる原人の當時に於ては純然たる菜食動物として豊饒なる平·野に社會的群集を爲して存せしなるべし。何となれば社會的群集をなす菜食動物は獨居的生活をなす肉食動物に打ち勝ちて今日の如く地球に蔓延せりと云ふことがらすにの文を野今すべ推原明以養日か及始人て人の
生物學上の事實にして人類が今日の猿猴類よりも虎の如き猫屬に近き血系の者なりと信せざる限りは、原人が猿の如く平和に群集せずして虎の如く相殺戮せりと云ふが如き想像は根據なきことなり。否、虎と雖も虎と虎との間に於ては猥りに相殺戮せず、後に食物競爭につきて說く如く生存競爭の意識的なる對敵は食物にせんとする生物種屬と食物たる生物種屬との異種屬間の競爭にして、間接に無意識的に行はるヽ同一種屬の食物に對する同種屬間の個々の競爭の如きは、食物の僅少なるが爲めに重複せる慾望の衝突の塲合より外起るものにあらさるを以てなり。果して然らば虎の如き牙と爪とを有する肉食獸すら食物の充分なるときに於て相爭はざるならば、豊饒なる天產物の中に置かれたりと推定さるゝ原始人が虎にしてすら相爭はざる所の餘りある食物の爲めに爭鬪喰人を事とせし非社會的生物なりしとは誠に思考し得べからざることなり。堯舜の時代とは斯る原始時代を云ふ。然るに、人口の增殖と共に豊饒なる沃野の狹隘を來し、或者は漁獵漁獵遊牧の時時代に入り、或者は遊牧時代に進み、以て其の漁塲と牧塲との爲めに烈しき生存競爭を開始したり而してこの競爭は部落を單位とせる、即ち小社會單位の生存競爭にして部落の各員の相互扶助を最も强盛に要求せられたり。各員の獨立自由は一切無視せられて部落の生存發達が素朴なる彼等の頭腦に人生の終局目的として意識せらるゝに至れり。斯の意識は是れ原人の無爲にして化すと云はるゝ無意識的本能的社會性が、生存競爭の社會進化によりて實に覺醒したる道德的意識として喚び起されたる者に非ずや。漁獵時代遊牧時代の殺伐なる爭鬪を以て道德なき狀態なりと速斷する如きは幼稱極まる思想にして、部落間の爭鬪の爲めに吾人は始めて社會的存在なることを意識するを得たるなり是れ即ち偏局的社會主義時代の古代にして社會單位の生存競爭の爲めに個人の自由獨立は全く蹂關せられ、社會の名に於てする社會の一分子若しくは分子の集合の意志によりて當時の普通良心に不道德なりと認められたる者は實に輕卒にして殘忍なる方法による死と德識な競の落り代し爭生單てに入位部意を存な時的道る代會陶と爭生單小汰死時存位社刑代競の
刑を以て陶汰せられたりき。彼の偏局的社會主義時代のルヰ十四世が朕即ち國家なりと云ひしは、皇帝其人が社會の分子たると共に社會の其皇帝なる一分子をのみ國家なりとし凡てたりしを以ての故にして、て他の凡ての國家の分子は國家なる皇帝の利益の爲めに存在し、而して其の存在の爲めに忠順の道德的義務が愛國の其れと一致し、皇帝に不忠なる者が即ち國家に對する叛逆者として取扱はるゝに至りしなり此の偏局的社會主義による道德的陶汰は原人の時代より歷史時代の中世史の終りまで續き、又現今に於て眼前に行はれつゝあり。希臘羅馬の建國當時に於ては民族單位の偏局的社會主義が隆盛を極めて彼のソクラテースをも毒殺し(而して其の民主國なりしが故にルヰ十四世の如く一分子即ち國家にあらずして分子の集合意志即ち國家の意志なりき)。中世暗黑時代の封建的區劃を單位としての生存競爭の激烈なりしが爲めに貴族階級を組織せる分子の意志に反する者は即ち社會の叛逆者として最も輕卒にして殘忍なる死刑の方法によりて陶汰せられ、自由獨朕即ち國人口意義立を持てる者は社會の意志を表示すと云ふ君主若しくは貴族の階級のみにして、下層階級の個人は全く其權利を認識せられざりき。彼の敵國外患なければ國即ち亡ぶと云ふ素朴なる歷史哲學は誠に古代及ひ中世を通じて民族或は地理的區劃の小社會を單位として生存競爭をなし、其の生存競爭の單位たる所の國家の爲めに(事實論としては國家の意志の宿る所たる社會の一分子若しくは分子の集合の爲めに)、個人が存在しつゝあることを示すものにして。佛國革命前後の個人主義の獨斷的假定を以て生存競爭を解釋しては人類種屬の歷史、即ち社會進化論を全く說明する能はず。(此の說明は後に國家の本質及び國家の意志を說くに重要なり、『所謂國體論の復古的革命主義』を見よ。)而しながら社會の進化は同化作用と共に分化作用による。小社會の單位に分化して衝突競爭せる社會單位の生存競爭は、衝突競爭の結果として征服併呑の途によりて同化せられ、而して同化によりて社會の單位の擴大するや、更に個人の分化によりて個人間の生存競爭となり、同作作人民幣代主の的藥價等分 30
人類の歷史は個人主義の時代に入る。彼の希臘羅馬の末年に於ける個人主義萠芽は實に其征服併呑による同化作用に依りて社會の單位が擴張せると共に社會單位の生存競爭の沈靜せるを以て、覺醒せる競爭の分化的發展の要求にして。其偶〓社會單位の生存競爭を爲しつゝありしゲルマン蠻族に亡ぼされて偏局的社會主義の中世史を暗黑に經過せしと雖も。更に、其の封建的區劃の小社會單位に於てする生存競爭が羅馬法王の〓權の下に同化せらるゝや、玆に個人主義の大潮流となりて個人の分化作用を以て社會を進化せしむる時代に至りしなり。而して波狀形の進動を以てする社會進化の方則によりて、恰も天地創造說が人類の地位を神の子なりとせしに對して生物進化論が獸類の屬なりとせる如く、社會の一分子たる個人が他の分子たる國王貴族の爲めに犧牲たりし階級國家の打破の爲めに個人の價値が終局目的として認識せられ、社會國家の如きは個人の自由獨立の爲めに組織せられ個人の意志によりて解散するを得べき機械的作成の者なりとするに至れり。實た興主ての馬及馬希すしの人に生む本当 たまま本大 正式表示個人は目的なり手段たるべからずとは個人主義の精神なりき。井ンの生存競爭が全く個人單位の生存競爭のみの者となりしは此の偏局的個人主義の餘波に漂はされたるが爲めにして、丘博士及び一般の生物進化論者は其の今日に於て主張しつゝある所の生存競爭とは遙がに後代の歷史的過程の者なるを知ることを要す。實に斯の社會單位の生存競爭と個人單位の生存競爭とは社會進化論を偏局的社會主義と偏局的個人主義との二大柱となりて建設する者なり。而して斯の二大柱の或は長くなり或は短かくなることによりて動搖しつゝ與へられ來りし社會進化は、此の二大柱を併行して建てたる社會民主々義の理想によりて始めて健確なる急調を以て進化すべし。社會民主々義は社會の利益を終局目的とすると共に個人の權威を强烈に主張す。個人と云ふは社會の一分子にして社會とは其の分子其のことなるを以て個人即ち社會なり。之れを偏局的個人主義時代の機械的社會觀の如く個人のみ實在のものにして社會とは其の個人の集合せる或るな的のには存位個リ過歷後遙蔵の人程史代か爭生單代史社會民主々義
關係若しくは狀態なりと解しては、個人は目的たるべし手段たるべからずの言は意義なしと雖も、個人が社會の分子として社會其者たる以上は個人の目的は即ち社會の目的たるべきなり。-社會主義は此意味に於て個人主義を繼承す。然しながら分子たる個人は其死と共に滅亡す、故に分子たる個人其者を終局目的としては目的は五十年の後に終局して意義なし。故に個人の自由獨立は社會進化の終局目的の下に於て嚴肅なり。又、偏局的社會主義の如く社會の分子たる個人の自由獨立が他の分子若くは分子の集合の下に蹂躙せられては、君主若くは貴族等の權力階級の意志が絕對不可侵なるを以て、個人の分化作用を以てする個人間の生存競爭によりて社會良心の内包を豊富ならしむる能はず、從て社會の生存を終局目的とすと雖も社會の進化に於て誠に遲々たるの外なし。即ち、社會は社會全分子の上に幸福進化を來らしむる能はずして、社會の或る階級の分子のみ自由獨立に其他の下層階級は其等の分子の榮華幸福を築かんが爲に全く礎石たるに過ぎず。社すを人め展化人義社編主にの的のは會承義個爲發分個主會の進化は同化作用と共に分化作用による。分化作用を完全に行はしむるに欠く可らざる個人の自由獨立が君主(君主國時代に於ては)若くは貴族階級(貴族國時代に於ては)の少數に限られ時代の進化に急なる能はざりしは止むを得ざる〓とにして。之を今日及び今後の民主國時代の如く全國民悉く自由獨立を認識せられて分化作用を大多數に於て行ふに至りて社會の驚くべき勢を以て進化し始めたるは·亦當然也。實に社會主義は個人主義なくして高貴なる能はず。感謝すべきは個人主義なり。希くは今の個人主義者と國家主義者と、實に現社會の狀態につきで一觀する所あるべし。經濟的貴族等が各地方(地主ならば)各職業(資本家ならば)に群雄諸侯の如く割據して國家の經濟的源泉を掠奪し、彼等が國家の分子として國家の幸福の爲めに努力すべき義務あることを忘却し宛として國家を手段の如く取扱ふ。國家主義者なるもの斯くて甘ずるを得るや。經濟的貴族のみ其の經濟的獨立よりして個人の自由を放誕に主張しつゝありと雖も、經濟的武士の階級も經濟的土百性の總統一五金八號關ずって命と國的の項
階級も只管に奴隷的服從を事として佛國革命以前の如く個人の權威なるもの地を掃つて去れり。一個人主義者なる者斯くて何の疑問をも剌激せられざるや。吾人は慷慨と涕泣を以て社會主義を說くものにあらずして、科學的宿命論の上に理論のみを主張す。故に今日までの經濟的貴族國時代を以て罪惡となし誤謬となすが如きものにあらずして、社會進化の當然なる道程として、社會全分子の幸福に浴する能はざるが爲めに或る階級の分子のみ先づ經濟的獨立よりして政治的道德的自由を得たるものなることを認識す。然しながらこは一過程のことにして固より永遠のものにあらず、甞て武力を以てせる貴族が他の分子の犠牲の上に權威を築きたる者の、社會の進化と共に犠牲の分子たりし下層階級が自由獨立を得て社會の全分子に法律上は政治道德の自由平等を普及せしめたる如く經濟史進行中の一過程として今の經濟的貴族階級のみ經濟的進化に浴しつゝありと雖も、更に土地資本の公有による建演的是化と甚に今日の義性なる下属附然の變濟的武工經濟的百性等は經濟的自由平等による政治的道德的獨立を得べし。-個人主義者なる者何が故に再び佛國革命を繰り返へさずして、國家主義者なる者亦何が故に維新革命を繰り返さざるや。貴族政治の經濟的階級國家の現代なることを嚴格に解せよ、階級國家を〓覆せる維新革命の國家主義は『其の最高の所有權』を振つて經濟的貴族等の土地資本を國家の手に移すべく、貴族政治を掃蕩して民主的立法を與へたる佛國革命の個人主義は其の自由平等論を叫びて經濟的貴族等の生產の專制權を民主的合議制に來すべし。國家と個人の名を以て吾人の純正社會主義を迫害すとは何事ぞ。實に、國家主義と個人主義は社會主義によりて其の完き理想の實現を得べき者なり國家が個人の分子を包容して一個體たると共に、世界は國家を包容して其の個體の分子となす。故に個人が其れ自身を最善ならしむるは國家及び社會に對する最も高貴なる道德的義務なる如國家は其の包含する分子たる個人と分子として包容せらるゝ世界個人の對する國家に犯罪と國家のろに
の爲めに國家自身を最善ならしむる道德的義務を有す。此の義務を果個ことによりて國家はルーテルの言へる如く倫理的制度たり。然るに、す人が其の小我を終局目的として國家の利益を害するならば國家の大我より見て犯罪なる如く、國家にして若し-否!今日の如く世界の大我を忘却し國家の小我を中心として凡ての行動を執りつゝあること帝國主義者の讃美しつゝある如くなるは、實に倫理的制度たるを無視せる國家の犯罪なり。個人の自由が他の大なる我の爲めに意義ある如く、國家の獨立は世界の大我の爲めに嚴肅なる意義を有して存す。故に偏局的個人主義の如く個人の利益の爲めに國家を手段として取扱ふことは國家の大我よりして不道德なる如く、偏局的社會主義の如く小我の國家を終局目的として世界の凡ての國家と民族との分化的發展を無視することは世界の大我よりして許容すべからざる不道德なり。個人の自由が害用せられて罪惡たる如く、害用せられたる國家の獨立は戰慄すべき無數の罪惡を敢てす。-社會主義の世界主義たる所以煮獨國自個義立家由人とのは茲に在り。個人の自由を認識する如く國家の獨立を尊重す、而も其の個人の自由の爲めに國家の大我を忘却し、其の國家の獨立の爲めに更に世界のより大なる大我を忘却することを排斥するなり。否、小社會を單位とせる偏局的社會主義時代の國家は其の國家競爭の爲めに個人の自由を蹂躙し、個人の自由が蹂躙せらるゝ國家は世界の人文に功果なく、從て國家單位の生存競爭に於て劣敗者なり。-故に倫理的制度としての國家の理想的獨立は社會主義の世界聯邦によりて實現せられ、個人の完き自由は小社會單位に於てする偏局的の社會競爭なき社會主義の萬國平和によりて實現せらるべし。彼の個人主義の佛國革命が其の自由平等論の實現の爲めに爲されたりと云ふに拘らず、終に四境の同盟軍に對して國家單位の生存競爭を開始するに至るや、個人の自由は全く蹂躙せられてローランド夫人を斷頭臺に送り、王黨の自由を悉く剝奪して慘殺したりし如き、如何に個人主義の理想が國家競爭の下に於て一の夢に過ぎざるかを見るべく、又彼の日露戰爭の時に國家の理想的獨立は世界聯自然人民生活佛國る完らり和るーム 牛例たせがのにの家義社編るら蹂自個爲競の會局事れ關由人め爭國主的
於て非戰論を喝道せる者が其の凡ての自由を擧國一致と云ふ偏局的社會主義の爲めに剝奪せられたる如き實に社會主義の萬國平和の理想が一は個人主義の理想の爲めに唱へられざるべからざるを見るべし。社會主義を以て小社會單位の國家万能時代の偏局的社會主義と同一視して個人を社會の中に溶解すべしと難ずるが如きは誠に思考の淺き者なりと云ふの外なし。而して萬國平和の實現によりて國家競爭は滅亡の愛なき聯邦議會の演擅に於て行はれて世界の人文の爲めに倫理的制度となり、個人の自由は或は國家を通じて若しくは國家を超越して世界の人文に對して道德的義務を果すべし。而して今日議院內の演壇によりて鬪はれつゝある階級鬪爭が全く消滅して橫の隔絕なき一社會となる如く今後聯邦議會內に於て爭はるべき國家競爭が更に全く消滅して縱の障害なき一國家となるに至らば-あゝ是れ實に黃金〓にして世界を單位とせる大社會の同化作用と障害なく發展する人性の分化作用とによりて『類神人』は翼を生じて進化し行くべし。國家主義と個人主義とは社會民主々義に包容せられて始めて其の理想とせる所の完き實現を得べし。吾人をして生存競爭說の說明に歸へられしめよ。以上說く如く人類の生存競爭は凡ての生物種屬に通じて社會單位と個人單位との者なりき而して人類は更に高き生物にまで進化し行くべき經過的生物として、同化作用によりて小さき單位の社會たりしものより漸時に其の單位を大社會となし。又分化作用によりて最初には部落若しくは家族〓體の如き個人より大なる單位に分化したるものが、更に小さく分化して個人を單位となして愈々精微に分化的競爭をなすに至れり。然しながら斯く生存競爭の單位に於て同化と分化とを進めたると共に、更に其の同化によりて擴大せる社會單位の生存競爭と分化によりて精微になれる個人單位の生存競爭とは、其の競爭の內容を進化せしむ。即ち漁獵遊〓時代より社會單位の生存競爭は全く戰鬪によりて行はれ、又人類の入壓進の存よ化內產生產
個人單位の其れも等しく然りして以て。武力に於て勝れたる國家從て武力に於て勝れたる個人は或は曾長となり(漁獵遊牧時代に於て)、或は國王貴族武士となり(歷史時代に入りて中世史までの如く)、以て生存競爭の優勝者として存したりき。然るに今日に於ては武力に訴ふる生存競爭は社會單位の其れの或る塲合にのみ限られたるを以て軍人階級は其れだけの範圍內に於て生存競爭の優勝者なりと雖も、國家內の個人間の生存競爭には中世史以前の貴族武士の如く腕力による强者の認識せられざるに至りしこと恰も彼の武士の習ひとせる切取强盜が死刑若しくは他の重刑を以て陶汰せらるゝ如し。實に國內に於ける生存競爭は佛蘭西革命以後(日本に於ては維新革命以後)に及で全く其の內容を一變し、經濟的活動の能力勝れたる者が優勝者となるに至れり。然しながら革命以前の上層階級と雖も强力が凡ての所有權の基礎たりしを以〓て强力に於て優れたる者は經濟的活動の能力者なりし如く。今日の經濟的活動の能力者と雖も理想としては個人主義の勞働說によりて權利優强世り勝力の者中た勞の人せ勝働理主る者を想義個と優の說明とせられつゝあるに拘らず、其の經濟的戰爭の優勝者は占有說の古代思想を繼承して經濟的貴族となることに在り。若し中世の武力階級の占有を打破せる佛國革命の勞働說にして蒸滊電氣の發明なく平坦なる平等の上に行はるゝ個人的競爭の世に行はれ來りしとせば、最もよく勞働する所の個人は生存競爭の優勝者たるべかりしなり。然しながら是れ理想に過ぎざりき。機械と云ふ封建城廓に經濟的貴族階級の立籠るや、生存競爭の最上の優者は其の城廓中に產み落されたる嬰兒にして、恰も糞坭の上に產み落されたる蠅の卵が蠅の優勝者として生存するが如くなれり。-あゝ讃美さるべき優勝者よ。適者生存と云ひ、優勝劣敗と云ひ、弱肉强食と云ふが如き文字は外包的の者に止まり、生物種屬の境遇の異なるに從ひて適者たり優者たり强者たる者を異にすと云へるは此の意味にして、斯る經濟的貴族國の境遇に產れては如何なる哲學者も、如何なる科學者も、如何なる詩人も、階級等の馬事の前に叱咤さるべき生存競爭の劣敗者なり。而して經濟的群雄上に產壹起あみ落さ優勝者
割據の時代に於て最も奸惡なる敏慧なる殘忍なる平沼氏喜八郞氏の如きが優勝者たりしが如く、ツラストの經濟的封建制度の時代には純然たる馬鹿大名を以て最も優れたる適者優者强者となす。-讃美を繰り返へさしめよ、政府と學者とは斯る生存競爭の世を維持せんが爲めに社會主義を迫害しつゝあるなり。斯の經濟的貴族國の時代に於て經濟的武士の階級を作れる事務員學者の優者は最も奴隷的服從に誠忠な1る正成ノ三大よしの心を以て心よする者にして經濟的主百性の階級於て劣敗者たりながらも尙僅かに解雇を免かれて衣食しつゝある優勝者は權利の何者たるを解せざる精神なき完き意味の奴隷なり。社會主義の時代には斯る優者適者强者は當然に陶汰さるべき生存競爭の劣敗者なりとす。優奴適墳奴勝隷す遇隷者のるに第六章社會主義の世に於て固より生存競爭あり-個人單位の生存競爭即ち雌雄競爭個體の延長-靈肉の不死不滅-食物競爭と雌雄競爭との生物學に於ける地位-食物競爭による進化と雌雄競爭による進化-天地一切の美は雌雄競爭による進化なり-詩人の直覺と吾人の科學的〓究-生物進化論に對する組織組み替への要求萬有進化の大權を社會全分子の手に屬せしむ生存競爭の劣敗者たる失戀者-食物競爭は雌雄競爭に先だつ-現實と現想-下等生物にては食物競爭の優勝者が同時に雌雄競爭の優勝者たる者多し-人類に於て食物競爭の優勝者が雌雄競爭の優勝者たる過去及び現在-臀下の權利と男色奴隷-積極的賣始の男子階級-女子を購賣するの權利と男子を購賣するの自由-男女女權論は私有財產制と
共に實現せられたりー-貧富同權論と云ふのみ-『福神』が結びの神となれり--雄競爭によりて理想を實現すと云ふ理由- -雌雄同數ならざる下等動物の雌雄競爭と同數なる人類の進化家庭單位の食物競爭と理想の實現に非らずして單に現實の繼承に止まる-社會の進化と戀愛の理想の進化-現今の戀愛の理想-理想の爲めに現實を犠牲とする下等生物-戀愛の理想の進化と自由戀愛論-舊思想の壓迫を排除すとの意味に於てする自由戀愛論-戀愛の自由は先天的に非らず-社會主義の自由戀愛論は革命の爲めに唱へらる-詩人の直覺せる饒と戀の二大鐵槌-戀の要求の最も充たされざる蟻蜂の社會全分子戀愛を要求する人類は全分子理想を有する故なり戀愛と平等主義-悲慘なる家庭論-金井博士の家庭論よりする社會主義の非難-私有財產制度は民主々義を確立し女子を開放せり一般階級には再び私有財產なくなれり-自由戀愛論と女權問題とは無關係なり--個人主義時代の男女同權論の誤謬を繼承する所謂社會主義者-分化的進化をなせる個人としての男子と女子とは同等にあらず-自由戀愛論とは社會の全分子たる男女の理想とする所を自由に實現にして社會を進化せしめんとする戀愛方面に於ける自由平等論なり-經濟上の獨立による戀愛の自由-女學生の墮落とは女子の經濟的獨立による貞順の奴隷的義務の拒絕なり茲に於て當然の疑問は起らん。社會主義の世に於ては死刑による陶汰なく腕力による陶汰、經濟上の競爭による陶汰なく、國家間人種間の戰爭による陶汰なし。然るを如何ぞ生存競爭によりて陶汰さるべき劣敗者と云ふやと誠に然り、社會主義は社會の一分子たる個人の手に萬有進化の大權を掌握せしめ等しく分子たる所の他の個人の權威を蹂躙するの甚しき社會主爭生固に義り競りて世
死刑陶汰の如き社會の進化を阻害する生存競爭を廢滅せしめんとする者なり高尙なる理想の實現に向つて努力しつゝある經過的生物として食物競爭の爲めに相搏嚙する野蠻殘虐なる生存競爭を絕滅せしめんとする者なり。等しく一元の人類より分れたる大なる個體の一分子たりながら國家を異にし人種を同ふせずと云ふか如きことよりして相殺戮する生存競爭を世界聯邦により地球より掃蕩せんとする者なり。而も尙大なる單位の社會競爭と完全に行はるゝ小單位の個人競爭なからんや。先づ個人單位の生存競爭より說く。實に斯る當然に似たる疑問の起るは亦等しく個體の思想に於て顯微鏡以前の者を取るが故なり。即ち個體の延長と云ふことを解せざるが爲めなり社會主義時代の個人單位の生存競爭は、斯の個體の延長の爲めにする生存競爭- -即ち雌雄競爭のことなり。實に個體を竹生個人單宝坻即ち雌雄競爭橫に擴大したる點より見れば現在生存する凡ての人類は一大個體にして、之を縱に延長したる點より考ふれば原人よりの十萬年間の歷史は一大個體の長命なる傳記なり横に見られたる兄弟が各〓別個體に非ざる如く縱に考へられたる親と子とは又各〓別個體にあらず、一は大きくなれるものにして一は長くなれる者に過ぎざればなり。アミーバが無數に分裂して繁殖する如く親は其の親自身の一部分を分裂せしめて是れを子と名けて抱けるのみ。一個のアミーバより分裂ぜる無數のアミーが各々一個のアミーバたると同時に空間を隔てたる分子として本の一個のアミーバの大きくなれるものと見るを得べきが如く。一個體の分裂せる親と子とは各〓一個體たると同時に親の生命の長くなれるものと考ふることを得べし。吾人はワイズマンの生殖細胞不死の假說が多くの困難なる非難に對して維持する能はざるを知るを以て敢て彼に據らずとも。單に、親の細胞が子に傳はり、子の細胞が孫に傳はり、孫の細胞が曾孫に傳はり、而して其の細胞は傳へたる親の肉會比心延長
體の一部なりと云ふのみの事實によりて、吾人に永遠の生命ありとは即ち肉體其者が永遠に死せずして生くとの意味に取る者なり。即ち、一個のアミーバが分裂し其の分裂せる或る部分が死するとも、他の部分が生きて分裂を續けで繁殖しつゝあるならば本のアミーバは繁殖せるアミーバによりて明かに不死不滅なる如く。分裂せる親の舊き部分が苑して新らしき親の部分が子となりて分裂し孫どなりて分裂して繁殖しつゝあるならば、元との親は繁殖せる子孫其者となりて明かに存在し肉體に於ても不死の精神に於ても不滅なり。即ち其死したりしと見らるゝ親は恰も爪の落ち髪の拔け表皮の脫落すると同一に、子と云ふ親の部分の生存進化の爲めに親自身が親自身の用なくなれる部分を去ることなり科學は一元論となり、宗〓に歸へれり。唯心論の要求たる精神の不滅は唯物論の說明たる物質の不死によりて滿たされ物心もとより一元にして人は肉體に於ても精神に於ても不死不滅の者なり。斯く生存競爭の單位を定むるには個體の擴大と云ふこと要80減不深いを知ると共に、又實に個體の延長と云ふことを解するを要す。雌雄競爭による生存競爭とは斯の個體の延長と云ふことを解してのみ解せらるゝを得べし。生物とは生存の慾望ありて生存しつゝあるものなり、生物は生存の慾望の爲めに生存競爭を爲さヾるべからず。即ち生物たる以上は生存競爭は免かるべからざるものなり。故に生物。は現在の生存の爲めに生存競爭を爲しつゝあると共に、永遠の生存の爲めに更に激烈なる生存競爭を爲さゞるべからず。-即ち食物競爭と雌雄競爭とは生物界を通ずる生存競爭の二大柱なり。而して斯の生殖の目的の爲めにする雌雄競爭とは、アミーバの如く雌雄の別もなく分裂によりて生殖するものや、油蟲の如く雌のみによりて無數に生殖するものや、蛙の如く一疋にて陰陽兩具を有し他の如何なる一疋にても會すれば足ると云ふ生殖の者には無き所の者なり。競爭は進化なり、凡ての進化は競爭によりて得たる者なり。故に他の進化ある高等の生物に至りて種屬對種屬の生存競爭たる食物競爭の激烈なると共に、種食物競爭と峰維競爭との生物學に於けるる地位
屬內個ノの生存競爭たる雌雄競爭は更に愈々激烈を加へて、食物競爭の其れよりも更に遙かに生物を進化せしめたる生存競爭なり。是れダー并ンの混沌たる組織なき生物進化論に於ても事實としては無數に羅列せられたるものにして、吾は生存競爭の中に於ける〓物競爭と雌雄競爭とを左の如く考ふ。-食物競爭は種屬對種屬のものにして同種屬間の個々が他種屬たる其れに對する競爭は間接に無意識的なり、雌雄競爭は同種屬個々のものにして他種屬とは無關係に同種屬の個々が個々を競爭者として直接に意識的にする生存競爭なりと。實に、天地一切の美と稱せらるゝ渾べての美は殆ど悉く此の永き命の爲めにする生存競爭の結果にあらざるはなし。固より或る虫類の美をなせる保護色の如きは其れを食物とせんとする他の鳥類に對する種屬對種屬の食物競爭による進化にして、獅子の牙、鷲の嘴、牛の角、馬の足、皆其れ〓〓に食物競爭による進化なりと雖も。其の直接に、意識的に、個々對個々の生存競爭たる點に於て雌雄競爭に及はざるこ書食物競います。この數は、擊よる進化と遠し。雪の頂より待たるゝ鷲の初音は雌を喚ぶ雌雄競爭によりて進化せる者にして、一聲を詩人の窓に落して雲に消ゆる杜鵑の戀歌は永き命の爲めに爭へる生存競爭の陶汰なり。柔和なる小鳩の白き翼に舞も雌雄競爭の進化にして、剛健なる雄難の蹴爪と雞冠とによりて鬪ふも永き命の爲めに爭へる競爭の陶汰なり。鴛鴦の雄の美、鳩雀の雄鳥の麗、一夫一婦と一妻多婦との差あるも共に雌の愛を集めんための雌雄競爭による進化なり。獸類に「於ても然り。獅子の髪々として長き鬣は決して食物の爲めにあらず、獸王の威嚴を示して牝の愛を得んが爲めの雌雄競爭による陶汰にして、食物の目的の爲めには不便を極むる鹿雄の角も雌雄競爭の故に爭ふ激烈なる競爭の進化なり。昆虫類の美色美音に至つてば僅少の保護色を除きて凡て此の雌雄競爭による進化なり。胡蝶と名くる裝飾を極めたる春の舞踏家なくば新綠の春野も砂漢に等しかるべく、切々の哀音を奏づる鈴虫松虫と云ふ秋の音樂家なくしては秋夜の月も一塊の銅板に過ぎず。實に彼等戀愛の可憐なる競天地一よりは温 380化なり
爭者の爲めに春は戀に舞ひ秋は戀に歌ふ。只に動物のみに非らず、彼の虫媒植物と名けられたる虫類の媒介によりて雄蕋と雌蕋とを接せしむる所の植物に至りては其の戀の文使を招かんが爲めに如何に花の顏を飾りて待つぞ。櫻花の爛漫たるも是れが爲めなり。牡丹の濃艶なるも是れが爲めなり。春草の薦たげなるも、秋花のしとやかなるも、實に一切花の美はしき者は悉く雌雄競爭による進化ならざるものなし。然るに今の獸類〓徒は其の生物進化論を講ずるに必ず嘲罵の餘沫を詩人の上に飛ばし、彼の詩人の如きは努めて天地の美を歌ふも宇宙は彼等の考ふる如きものにあらず、蝶の舞ふを雀がねらひ、雀のねらふを鷲がうかゞび、其の鷲を又獵夫が射んとす、天地の樂しきを歌ふ詩人等は愚なるかなと、詩人は天地の美を直覺し、吾人は其の直覺を科學的〓究に於て確實ならしむ。宇宙の美は戀によりて作られたる者なり、戀によりて作られたる凡てが宇宙の美なり。生物進化論に於て雌雄競爭の占むべき地位を解せず、徒らにダーキンを反響して此の大なる天研科書直詩光學人覺人的則を附錄的に持て餘しつヽある獸類〓徒が詩人を解せざるは當然にして生物進化論を揭て他を侮弄するは潜越の極なり。實に吾人は力を極めて斷言する者なり、直接に意識的に同種屬間の個々對個々の生存競爭は雌雄競爭のみにして、而も其の直接に意識的に個々對個々の者なるが故に最も生物進化に與りて力ありし者なりと。而して此の斷言は誠に今の生物進化論の組織其者に對する組み替への要求なり。社會主義時代に於ける個人單位の生存競爭とは斯の永き命の爲めにする雌雄競爭のことなり。即ち現在の生命を維持する爲めの食物競爭が個人間に行はれざるが爲めに、雌雄競爭は驚くべき强盛に行はれ驚くべき速力を以て社會を進化せしめん。換言すれば萬有進化の大權を特殊の個人に屬せしめずして社會の全分子の自由競爭に任じ、全分子が自由なる戀愛の競爭の間に於て眞ならざる善ならざる美ならざるものを失戀者として陶汰するに至るべしと云ふことなり。自然は快樂に對照せしめんが爲めに苦痛を與ふ。今日社會主義を讒誣する者が、生物進のみ組對化要替織す論1:へ組る束萬有進子會權化會む屬
社會主義は人生より苦痛を除き去らんとする空想なりと云ふが如き矢を番へつゝありと雖も、是れ實は社會主義の効果を稱揚するに過ぐるものにして彼等は今日巳に社會主義者の或者によりて唱へられつゝある自由戀愛論の叫聲に耳を傾くるを要す。斯の自由戀愛論は雌雄陶汰律の發動の自由と云ふことにして、この生存競爭によりて陶汰さるゝ失戀者は社會主義の如何ともする能はざる所の者なり。斯くの如きは個人主義時代の獨斷的人道論を以て見れば歎くべきことなりと雖も、社會進化の原理は涕泣を以て阻み得べきものにあらず。人類は一生物屬種なり、一生物種屬としての人類の進化に努力しつゝある社會主義は當然に生物進化論の凡ての法則の外に逸する能はずして、社會進化論は生物進化論の卷末の一節なり。故に社會主義は第一の主張として人は高尙なる傾向を有する者なりと雖も其の生物たる點に於て先づ生物として生存すべき物質的資料としての食物競爭あることを認識し(食物競爭の眞意義につきては後に說く)、人類社會は最も高き進化の先登生存競季の劣る失戀敗者た者にあるものなりと雖も等しく生物なるが故に、生物進化の重大なる天則たる雌雄競爭によりて社會を進化せしむべしと云ふ。而して、其の雌雄競爭の生存競爭とは恰も食物競爭の其れの如く、生物種屬の階級を異にするによりて其の內容を異にするを以て。蟲類の其れが鳥類と異なり、鳥類の其れが獸類の其れと異なる如く、獸類と生物種屬の階級を異にせる人類の雌雄競爭の內容は全く『類神人』として戀なり。而しながら、『戀は滿腹の後なり』。凡ての生物種屬を通じて雌雄競爭は食物競爭に壓伏せられ、食物競爭の優勝者を以て雌雄競爭の優勝者を決定するの條件となす。理想とは實現の滿足されたる上に將來に到達すべき更に高き現實なり。雌雄競爭は其の將來の命の爲めに爭ふ者なるが故に其の優者勝者を理想に對照して求め、食物競爭は其の現在の命の爲めに聞ふものなるが故に其の優者勝者を現實の狀態に得て甘す。理想は現實の後に來るべき現實なり。故に他種屬に對して現實の生存を維持するより外なき生物種屬に於ては理想を其の子孫たる永き競つに雄爭食先競け物雌だ爭
命に於て實現せしむる所の雌雄競爭無く。前きに引例せし蛭、油蟲の如き下等生物は單に種屬對種屬の綾慢なる生存競爭に止まる。而して更に高等なる生物と雖も、尙其の種屬を食物とせんとする種屬及び其の種屬が食物とせんとする種屬との間に行はるゝ食物競爭の困難の爲めに、現實の命を維持することのみに急にして理想の實現を雌雄競爭に著しき例は彼よりて其の子孫たる永き命に期待すること强烈ならず。の肉食獸の雌雄競爭の優勝者が同時に食物競爭に於て優勝者たる所の强猛なる者の如き是れにして、雞が闘爭に勝利を得て多くの牝雞を率ひつゝあるは人の知る所なり。人類と雖も亦この例に洩れず。現在の命を維持せんが爲めの食物競爭が理想を實現すべき永き命の爲めにする雌雄競爭を壓伏し、若しくは其の一條件としつゝあるは歷史の始より今日までを通じて事實なり。部落單位に於て食物競爭をなし而も其れが戰鬪によりて決せられし漁獵遊牧時代より、封建的區劃を單位として食物競爭(即ち土地の爭奪)を現實と理想多た優競にが優競は物下しる勝爭雄同勝爭食に等者者の雄時者の物て生なし而も其れが武力によりて決せられし中世史時代に至るまで、會長若しくは國王貴族が食物競爭の優勝者たる武力を以て同時に雌雄競爭今日食物競爭の土地爭奪が其の優勝を武力に訴へての優勝者たりき決しつゝある國際間に於ては其の優勝者たる軍人階級が同時に其の食物競爭の優勝者たる所以を以て雌雄競爭の優勝者となりつゝあるが如し斯の意味に於て今日自ら稱して文明人となす吾人は、恰もアイオー洲のスウ土人が人頭を得て始めて頭上に羽毛を飾り結婚を要求すべき資格を備ふと云ふと大に異ならず。否!今日の文明人は其の野蠻なる食物競爭の方法を國際間にのみ止めて國內の食物競爭は個人主義の勞働說を以て理想とするに至れり。而しながら前きに屢〓說ける如く其の單に理想に止まりて依然として武力時代の占有說を繼承し、而して機械の發明の爲めに純然たる經濟的貴族國となれるが爲めに。雌雄競爭は全く食物競爭の經濟的優者に壓伏せられ(下層階級より賣られて上層の妻妾となる如く)、又食物競爭の經濟的優者を以て雌雄競爭の一び過者の雄者の物於人現金な國際的總統大學教育大學 (電話本館)雌及
條件となすに至れり(財產の多寡を以て結婚の條件となしつゝある者の如し)。斯の意味に於て今日の文明人は恰もチユラデルヒーゴの土人が女子の父母に財產或は勞働を拂ひて妻を購賣すと云ふと誠に差なし。理想よりも現實なり。食物競爭は雌雄競爭に先だつの。個人主義の勞働說は娼婦の〓を賣ることを勞働なりと說けり。吾人はこの尊敬すべき勞働說を認めて決して男子が金錢を以て娼妓を强姦し、其の巡娼と云ふが如きは單に地位を〓換せるに過ぎざる輪姦なりとは云はず、是れ雌雄競爭が食物競爭に壓伏せられたる最も著しき事實なればなり。而して彼の財產の多少を以て結婚の條件となす所の上層階級に至つては實に食物競爭の優者を以て雌雄競爭の條件となしつゝある興味ある事實として認識するの外なく。彼等賣〓的令夫人は御酒肴附一夜五十錢と云ふ下層階級の賣始者よりも甚だ廉價に、丸髷附一生ロハと云ふに過ぎざるなり。令夫人の或者は言はん、旦那樣の如きは臀の下なりと。旦那樣の如きは臀の下なりと。是れ決して笑ふべきことにあらずして充分に主張せられたる權利の聲なり。固より斯る令夫人階級に於ては其の稱する旦那樣なるものゝ國家の爲めに行ふ政治的會合が如何なる機密を有するやは察し得べからずとするも、臀の下の一語は今日の男子階級の大部分が又等しく雌雄撰擇權の喪失者となれるものなることを宣告する侮辱に非らずや。吾人は社會主義者なり然しながら男子なり、吾人は女子の階級に容吻するの越權よりも吾人自身の悲惨なる醜態に省みざるべからず。藝娼妓を醜業婦なりどし、夫君の勞働を扶けて貪に苦しめる尊き主婦を眼下に見下して行く令夫人の丸髷附賣〓者の輕蔑すべき極なるは固よりなるべし。而しながら街頭馬車を驅て道行く人を叱咤しつゝある男娼的政治家學者の如何に驕慢に漲ぎれる微笑を湛へて行くよ。娘を賣る親あり、婿を買ふ親あり、天下の女子が白粉と絹服とを以て裝飾を畫くし、海老茶袴を穿ち女學校の卒業證書を得て金箔を附くることが、目的とする所ダイヤモンド入指環の價格にて高く賣らんが爲なる如く。今日男子の多臀下の〓男權色利奴と
くがハイカラーを着くるも、水白粉を塗るも、政治學經濟學を脩むるも、早稻田大學帝國大學の肩書なかるべからずと云ふも、歸する所令孃なる者の持參金の多額に存するなり。吾人は實に問ふ--今日の男子にして一切階級の虛飾を剝奪せる裸體の女子を諸手に抱きて、吾れは爾の美に向つて二世を契るべしと廣言し得るもの果して幾人ありや。女子は消極的にして男子は積極的なり。故に下層階級が生活の爲めに消極的に犯罪者となり、上層階級が積極的に高尙なる生活の爲めに犯罪者となる如く。女子の賣〓は令夫人階級を除きては多く生活の爲めにする消極的の者にして、男子は高尙なる生活の爲めに積極的に賣搖す。否-吾人が前編に少しく述べたる如く經濟上に獨立せざる者は政治の上にも道德の上にも自由なし。徃年男女同權なる能はざりし時代は女子が財產權の主體たる能はずして男子の殺活贈與するを得べき經濟物たりしが爲めなる如く、今日權利を抱て其の實質たる財產なき男子階級が土層階級の女子の爲めに臀下の抑壓を受くるは誠に科學的德郞酒FEA三十五級方則なりと云ふの外なし。權利を主張し得ざる者は奴隷なり。然らば吾人は無數の賣色奴隷たる女子を認むると共に戀愛の權利を剝奪せられたる凡ての政治家學者を人格ある自由民なりと辯護する能はず。奴隷なり-奴隷の意志が國家の意志なりとせられ、吾人は其の下に呼吸しつゝあり)。而して奴隷より自由民が光榮なるならば、俳優買の令夫人と臀下の權利を主張する令孃とは其の奉待する男色奴隷より遙かに光榮なるべきは羅馬法の遠きよりして認められたるべき權利にして上官の恩賜の妻君に低頭して昨夜の外泊を辯解しつゝある政治家や、妾宅に行き度きを忍びて恰も情郞ある藝妓の旦那の勤めをなす如く成り上り者の實業家より神輿を奉ぜし醜怪至極の令夫人の氣嫌を取りつゝある學者よりも、福原の銅像を以て名を後世に埀るべき伊藤博文氏お鯉なる者のことを以て有名なる桂太郞君の如きは此の嚴蕭なる權利を極度まで主張せる雅典の古代に見るべき自由民なり。實に自由民と奴隷とは經濟的基礎によりて分る。伊藤氏桂君の如きが女子を玩弄す女子を購賣する權利と男子を購賣自由
るの權利あるは-然り吾人は權利と云ふ恰も資本家階級の女子が堂々として待合に出入し以て吾人男子階級の者を怪樂の犠牲として取扱ひつゝあることの如き自由なるが如し。藝娼妓を購買して家妻たらしむることは些の不道德にあらず、男子自身が購賣されて始を賣りつゝあるは輕蔑すべき限りの罪惡なり。娘を賣る親あり、婿を買ふ親あり、親に賣られたる女子は藝娼妓となり親に買はれたる男子は政治家學者となる。男女同權論の必要にして意義ありし時代は個人主義の革命による私有財產制度の確立と共に過ぎ去れり。然るに今や經濟的貴族國の世となりて社會の大多數は權利の基礎たる財產なきを以て、令夫人と妾とを購賣するを得べき男子と政治家學者と俳優とを購賣するを得べき女子とに戀愛の權利は與へられて、他の階級の女子と男子とは往年の女子の如く全く奴隷となれり。男子のみが經濟的獨立を有せし時代に於て無權利の奴隷たりし女子の悲惨なりし如く、悲慘なる哉經済的獨立を失へる男子は今や上層階級の女子に玩弄せらるべき奴隷となれ現共產私權男たせに制有論女同りら實と財ら實れり。只貧富同權論と云へ、意義無くなれる男女同權論を今日に於て唱ふるは直譯的反響も甚し。誠に斯くの如し。今日雌雄競爭律の行はるべき撰擇權は全く男子にも非らず又女子にも非らず。明かに言へば永き命に於て實現すべき理想に對する愛に非らずして、光輝ある物質の流通する所畜積する所に從ひて雌雄競爭律の中心點が移動するなり。即ち所謂男女の緣なる者、今や出雲の神の興論にて決する共和的合議制にあらずして獨裁專制の福神が結びの神となれり。『福神』の像は婚禮の床に置かるべからず、社會主義は社會進化の理想の爲めに此の像を驅逐せんとして自由戀愛論となれり。アミーバの如き無性生殖、油虫の如き單性生殖よりして雌雄兩性に分れて相競爭するに至れる高等動物は、殆ど全く此の競爭によりてのみ高等にまで進化せるものにして實に進化律の特寵を受くるものなり。理想の實現は雌雄競爭による。生物は斯の雌雄競爭の爲めに異性の中より自巳の最も善にして最も美なりとする者を撰擇して意義無くなれる男女同權論を今日に於てみ云權食ふ論富のと同〓福神れ神結りとび
獲んと望み、而して其の望を達せんが爲めに同性中に於て自巳を最も其善く最も美ならしめて他の競爭者に打勝たんとするの努力を生じ。の努力の爲めに異性各〓自巳をより善により美ならしめて、其の生れたる子なる新らしき自巳を遺傳と出生後の〓育とによりてより善なるより美なる自巳となす。實に宇宙は斯の雌雄競爭に依りて櫻花となり牡丹となり胡蝶となり秋蛋となり鳴禽となり、以て其の解すべからざる絕對的理想の實現に努力しつゝあるかの如し。『類神人』は斯の理想の或る部分を實現すべき任務を帶びて-即ち人類としての進化の程度に於て解し得たるだけの相對的理想に向つて進化しつゝある者なり。而して其の進化に於て最も先登に立つ者なるが故に他の高等生物の與へられざる進化律の特寵を最も多く被る。即ち他の動物にては雄性の者が雌性に比して甚だ多數なるに反して人類は雌雄殆ど同數なることなり。故に他の生物に於て進化せるは(食物競爭による進化を除きて、)雄性のみなるに反し人類は雄性の外に雄性の美は特に著し。彼等の多雌雄競爭にりて理源氏真現すと由3MHzくは恰も一の雌蝶に對して百の雄蝶が競爭する割合なりと云ふほどに雌雄の數が甚しく相違し其の殆ど同數なるものと雖も一夫が多くの妻を有する關係よりして、爲めに雌は雄の如く相競爭せずとも自由に多數の雄の中より撰擇するを得べく且つ產卵の任務よりして美色美音の如きは他動物の注意を引き易くして危險なりと云ふ他の食物競爭の爲めに、雄の進化に併行する能はずして凡て皆甚しき懸隔ある下級の狀態に止まる。斯く彼等の中の雌が雌雄競爭律の外に立ちて傍觀者となりて受動的の態度を執れるは、是れ即ち進化律の慈愛より排斥せられたる者にして進化律の繼承なり。然るに進化の先登に立てる人類に至りては雌雄悉く同數なるを以て共に此の慈母の懷に入り相携へて駈けりつゝある特別なる寵兒なり。即ち男女同數と云ふことは、女は女との競爭によりて其の嬌笑と優美とを進化せしめ、男は男との競爭によりて其の威嚴と智識とを進化せしめたる者なり。然るに今や如何の狀ぞ。愛の爲めに綻ぶべき嬌笑中には經濟的要求籠り、優美なるべき雌動るな雄等 ざ數下ら同物の雌雄のる同競類爭なと進人化類
肩に重荷を負擔せしむ。老孃の皺よれる額と近服鏡とは決して女子の美に非らざるべく、鐵の如くなれる腕骨と白の如き臀とはツマル土人を除きては如何なる野蠻人に見するも醜と云ふべし。如何にシルクハツトを戴くとも其の頭盖骨の中に平坦なる一塊の物質より外有せざる寄生虫屬の增加は決して男子の進化して智識の發達せる者と云ふ能はざるべく、同一なる社會の分子たりながら經濟的君主貴族の前に匍匐して忠順の奴隷的服從を强ひられつゝある政治家學者は、如何に髯を嚴めしくて馬車に身を飾るとも、動章を帶ぶるとも、大禮服を着たるとも、大臣となるとも、決して進化せる男子の威嚴と云ふ能はず。吾人は敢て今日の食物競爭が單純なる個人單位の者なりとは云はず、實は其の永き命たる子孫が食物競爭の劣敗者たらざんとするよりの家庭單位の者なりとす。即ち食物競爭と云ひ雌雄競爭と云ひ、一は現在の我を一は永き命の我を維持する努力たる點に於て生命維持の物質的資料を得べき經濟的競爭たるは論なし。即ち今日の雌雄競爭は男女各々ま承實單ずにのは物位家し非實理競の膳ら現想爭食單現止繼が自巳をより善くより美にして永き命たる子孫を進化せじむと云ふよりも、單に永き命たる子孫が其の命を維持すれば足るとして各〓の理想とする所の男若しくは女を撰擇することを第二に置くが故に、其の子孫は自己よりも進化する能はずして理想の實現たるべき子孫は單に現實の繼承者たるに過ぎざるなり否、理想の男と云ひ理想の女と云ふは今日全く經濟的優者たるなり。即ち理想の内容には光輝ある物質を以て充塞せらる。天下の男と女とは黃金を持てること其事が天下の女と男とに理想の戀人として戀せらるゝなり。社會の進化に一の不合理なることなし。人類種屬が種屬の維持進化の爲めに腕力に訴て生存競爭を爲せる初期に於ては、腕力の優れたる者が社會の維持進化に最も利益ありしを以て同時に雌雄競爭の優勝者となり、其の時代の女子は最も剛健克く闘ふものを理想として戀し、其の理想の男子が亦其の當時に於ける理想の女を撰擇して、玆に社會の中に於て最も理想に近き男女の結合を得、其の子孫が社會の中に於ける最も理想的なる其等の社會の進理搬進化想愛化
遺傳を受けて剛健克く鬪ふものとなり、以て社會の理想を實現しつゝ進み來れり。而して今日は腕力による經濟戰爭にあらずして勞働若しくは智識を以てする經濟戰爭なり。故に腕力を以て他の經濟物を掠奪する者は刑罰に問はるゝと共に離婚請求の理由たるほどに雌雄競爭の敗者として理想の內容を全く一變し、勞働若くは智識によりて經濟的優者たるものを戀愛の理想となすに至れり。社會の進化とは經濟的進化なり、故に勞働若しくは智識を以て經濟的優者たるものを雌雄競爭の理想としつゝあることは、懶惰なる若しくは魯鈍なる分子を陶汰し最もよく勞働し最も多く智識あるものが子孫を得、其の子孫が社會の中に於ける最も理想的なる其等の遺傳を受けて最もよく勞働し最も多く智識あるものとなり、以て社會の理想を實現して社會の經濟的進化を來しつゝ進み來れり。而しながら誤解すべからず、社會の進化は純然たる段落を劃せらるべきものにあらず。今日の勞働と智識とを以てする經濟的優者は尙腕力に訴へたる生存競爭時代の思想を繼承して其の勞働と智識とは全く經濟的資料たる所の他種屬の上に向はずして同族間の、即ち吾人同胞間の闘爭に用ひられつゝあるなり。即ち第一編の『社會主義の經濟的正義』に於て述へたる經濟的戰國と云ふもの是れにして、上層階級の用ふる智識と下層階級の設らるゝ勞働とは全く他の其等の智識と勞働とを打消さんが爲めに過ぎざるなり。此の殘虐醜惡なる經濟的戰國に於ては個人維持の生存競爭たる食物競爭の優勝者か殘虐醜惡なる者なる如く、子孫進化の生存競爭たる雌雄競爭の優勝者は亦誠に殘虐醜惡なる者ならざるべからず。闘爭に勝てる鬪鷄が數十羽の牝雞を率ふる如く倖運なる黃金大名階級の勝利者は一夫一婦論者を睨視して無數の雌雞を妾宅に畜ひ置くにあらずや。杜鵑の血に鳴く如き失戀の詩人ありとも鳥類と競爭の內容を異にせる人類の雌は其の羽毛を黃金に裝飾せんが爲めに懇愛神聖論者を嘲笑して老狒の前に群をなして集まるにあらずや。ボルネヲの土人が人頭を持ち來りて結婚の資格を示す如く、同胞の血に塗られて輝やくダイヤモンドの指現戀想愛今理
環を贈らざれば婚姻の資格に於て缺亡を感ずるに非らずや。野蠻部落の婦女が最も猛惡にして殘忍なる者を撰で其の身を任すと異なるなく蒸滊と電氣とを有する野蠻部落は黃金戰爭の虐殺に於て最も猛惡殘忍に働きたるものゝみ婦女を得るなり。實に黃金なきものは家庭を作る能はず、作られたる家庭も破壞せらる。家庭は實に雌雄競爭によりて得たる理想の男女が遺傳と〓育とによりて其の子女に理想を實現せんとする社會進化の唯一の聖塲なり。然るに依然として今日の如き經濟的戰國を維持して(固より維持すべ。からずと雖も)、斯る雌雄競爭が數代に涉りて行はるとせよ。人類は果して如何なる方向に其の進行を轉ずべきぞ婦人の嬌笑と優美とは男性化の學問と男子的勞働とによりて奴隷的服從の經濟的武士土百姓と寄生蟲維持せらるゝものに非らず、の階級とによりては男子の威嚴と智識とは進化すべきものにあらず。高尙なる現實(即ち理想)の爲めには昇進の現實の犠牲とさるゝことは高等生物の凡てに在り。彼の虫類の美色美音が甚だ其の對敵たる鳥類の爲めに理想の等す携現生る性實物下とを注意を引きて個々の虫類としての維持生存には不適極まるに係らず、尙其の雄性のみは遙かに雌に優る多數を以て多くの犠牲を供しつゝ、以て其の音樂の妙音と舞蹈の晴衣とを進化せしむるに餘念なきを見よ。生物は只に種屬の維持を以て足れりとする者に非らず、更に進化せる種屬たらんが爲めに雌雄競爭をなし、雌雄競爭の進化の爲めに無數の犧牲を食物競爭の中より出して平然たり。人類は種屬對種屬の食物競爭に於ては他の凡ての生物種屬の上に最も强き優勝者たるを以て(固より未だ黴菌の如き種屬には全く打ち勝つ能はずと雖も)、雌雄競爭を爲すに當て他の生物種屬の如く食物競爭に防害せらるゝの憂遙かに少なし、故に彼の虫類の雌が他種屬の食とならんことを恐るゝ食物競爭の爲めに雄虫の如く雌雄競爭をなす能はずして進化に遲るゝが如くならず、女子は男子と同數を以て男子の其れの如く女子間の雌雄競爭によりて健確なる急調を以て進化しつゝある者なり。男女を同數に產み落して人類にのみ偏寵を示せる進化律は雌雄競爭の撰擇權を男女凡ての愛自進理戀戀とのの
手より奪ひて不靈冷血なる『福神』の絕對無限なる陶汰權の下に置かんが爲めならんや。土人部落に於ても命を的の戀路はあり、今日の經濟的戰國の中に於て尙且つ智識廣く道德高く容姿美はしき男女が戀愛の理想とせられつゝあるは實に社會進化の理想を社會の全分子たる男女の凡てが其の子孫に於て實現せんとしつゝある所の要求にして玆に社會主義の自由戀愛論あるなり。故に社會主義の自由戀愛論が事實に現はるゝの世は食物競爭が今日の如く個人若しくは家庭若しくは經濟團體若しくば國家を單位として同種屬が競爭の對手たる〓との無くなれる-即ち經濟的方面に於て社會主義が實現せられ人類を單位としての對他種屬の食物競爭に入りし時ならざるべからず。自由戀愛論が舊思想を抱ける親の壓迫を排除すとの意味に於て、即ち自已が新らしき自已の利益の爲めに自巳の舊き一部より脫却せんとすとの要求に於て唱へらるゝ〓とも固より大に意義あり。是れ即ち社會の舊き分子と新しき分子との衝突にして社會とは오전세舊單價怒る於意すを愛自て味と排論由すにの除新分子が舊分子に代ることによりて(即ち舊分子自身が死滅することによりて、若しくは新分子の爲めに地位を奪はるゝことによりで)進化する者なるを以てなり。而しながら始めより人は自由なるものに非らず、其の自由なるを得るは人の自由を認識する所の社會良心あるが故に其の範圍內に於て自由なるものなりと前編に說明せる如く、戀愛の自由と雖も父母の良心の包容外に出でゝ先天的に自由なりと云ふに非らず、父母によりて作られたる良心に甘ぜざるまでに子女の良心が進化せる塲合に於ては進化せる良心に從て行動すべしと云ふことなり。故に子女が父母の意志の下にありて其の良心を作られつゝある間に於ては父母は自己の良心を以て其の戀愛を禁限する權力を有すべく、子女は自己の良心を以て父母の良心を排除するの値ありと認識せざる間は戀愛の自由なし。社會主義の自由戀愛論は斯ることの外に當面の意義を有す。即ち單に父母の舊思想を排除すとの意味ならば社會主義に待たずとも其れ自身の途あり。即ち月下に相抱て叫けば可なり。社會主ずに先自戀非天由愛ら的はの
〓三二〇『政治家が議論しつ義の自由戀愛論とは現社會〓覆の爲めに唱へらる。社會主義者は詩人の直覺を科學ゝある間に饒と戀とは世界を支配す』。今の上層階級が政府を作り議會を作りて的根據に於て明確に把持し、此の『饒』と『戀』との二大鐵槌を振つて社會の議論に日を送りつゝある時、根底より組織を立て替へんが爲めなり。生物に於て現實の要求は食物斯の嚴肅なる人生の要,求-社會の維にして理想の要求は戀愛なり、持と進化との要求が無視せられ壓伏せらるヽの社會は一打擊を以て覆斯の要求が社會の一部にのみ充たさへるべき浮ける基礎の社會なり。例は彼の蟻れて他の凡ての分子が純然たる犧牲として存する著しき。と蜂の社會に在り。(上層階級の學者は努めて蟻蜂の其れを以て人類の社會に比し其の蜂に女王あるを以て無用になれる故英女皇或は今の和蘭女皇の存在を辯護し、蟻の雄虫のみ勞働せずして存するを以て貴族而も生殖後無用となれる其等を勞働蜂の集等の〓蕩に權利を附與す、然しながら最もまりて嚙み殺すに比することあらば秩序紊亂と云ふ)。命論由義社のは戀の會爲革愛自主る唱大戀る直詩鐵の饒覺人槌二とせの本拠最要高溫度る蟻蜂の社會全分子戀愛を要求す美好小金子Tal冷房る故な高等なる生物たる人類は男女凡て理想を有し、理想の實現を社會全分子の競爭によりて得たる者なり。一の理想は實現せられて更に高き理想は踵を接して現はる。人類は其の進化するに從ひて即ち理想を實現することを重ぬるに從ひて理想を高くし、從て戀愛の要求を大膽華麗ならしむ在原業平をして今日の獨乙宮庭に產れしめよ、人類は大に其の美を進化せしめてカイゼル鬚の醜貌は人類より陶汰さるべし。戀に上下がある者かと言ひし(吾人は此の大膽なる平等主義の英雄の名を忘れたるを恥づ)女子をして獨乙皇太子の傍に在らしめよ、球玉を飾りたる蝦蟇は雌雄競爭の劣敗者として人類は大に其の美を進化せしむべしoあゝ『饒』と『戀』!饒へたる者が何の故に一片の麵麭だもなきが、戀せる者が何の故に其の戀せる另と女とを奪はるるか。斯の解決が社會全分子の手に答案として與へもれたるとき-即ち經濟的貴族國が地震の如き轟きを以て崩壞するの時なりー語を寄す、羊の如き可憐なる家庭論者よ。戀女房と一人の愛兒とのみなる間は僅少の月給は其義平戀等愛主
の家庭の城壁たり得べし。而しながら愛兒の二人となり三人となるに至らば是れ誠に城内に內應者の出でたるものにして、又そのすがりつゝある資本家の胃險、會社の破產、或は解雇等によりて夫君の破靴と腰辨當とが用なくなれる時爾の兵糧はよく幾日を支へ得べきぞ。この小さき城壁を維持し兵糧を畜へんが爲めに羊の如き天亶の主人は狼の如くなりて世に戰ひ、昔日の希望に輝ける活氣は失せて三十にして老者の如く衰へ、ヲ薄鬚の下に湛へたりし微笑は石の如く閉されたる陰暗の唇となる。海老茶の袴に花の如く笑まひ小鳥の如く囀りし小女は一瞬に去りて、其の豐類は生活の苦難の爲めに落ちて亦笑まず。愛の光たるべき小兒の小さき手は母の瘦せたる胸の骨を更に削らんとするものなるかの如く其の乳房を探ぐる家庭論とは悲慘の中より落つる淚の笑まひに非らずや。家庭の窓を開きて怒號して押し寄する海嘯の何處より流れ來るかを見よ。金井博士の『社會経濟學』が社會主義を誹りて『私有財產制度の廢止は道德上並に經濟上の利益にとりて必要欠くべか悲惨なる家庭論金井博難義社り庭士の會す論の非主るよ家らざる家庭の神聖を毀傷し家族制度を打破するに至らん』と云ひし如き、誠に人類に通せざる意志の表白と云ふの外なし。家庭論者よ、家庭の神聖は個人主義の革命を以て論理上の事實となれり。即ち貴族階級のみ土地を所有して一般階級には單に小作權をのみより有せざりし時代の如くならず、又男子のみ所有權の主體にして女子には其の獨立を維持すべき何等の經濟的基礎なき時代の如くならず、誠に經濟的幸福に圍繞せられたる女子は却て男子を玩弄するの自由あるほどになれる時代なり實に私有財產制度に感謝すべきものは其れによりて確立せられたる民主々義と、而して此の女子の開放にして、戀愛神聖と云ひ一夫一婦と云ひて家庭論を爲すものに取りては私有財產制の打破を叫ぶ社會主義の敵なるが如きは一見然るかの如し。而しながら見よ、家庭の維持、男男の獨立に欠くべからざる私有財產とは往年の其れの如く經濟的貴族階級のみの者にして小作人の土百姓、裏長屋の勞働者は固より可憐なる家庭論者の如きは只月末に與へられて味噌屋に拂ふまで放子立義民制有財產私磁々はせをしを主度女
の私有財產に過ぎざるに非らずや。若し今日ありて明日なき月給、朝得て夕に消ゆる賃銀が私有財產制度なりと云はヾ、一年間の期限を以て平等の購賣力として分配さるゝ社會主義の私有財產は寧ろ世襲財產の名あつて然りとすべし。家庭論を口にして男子の樂むべき平和なる世は遠き將來なり。武力時代に於て男子が最も戰闘の義務を負擔せる如く、來るべき大革命の前に於て最も戰闘に堪ふる所の男子が小天地に閉息して兒女子の安逸に耽る如きは男女の分化的發達を忘却する者なり。女子はこの殘虐なる失叫びの達せざる所に置きて月桂冠を作るの任務に服せしめよ、革命戰爭の中に其の纎細なる手を捉へて躍り入る〓とは是れ落城の時を慮るものにして社會主義は巴御前の出馬によりて戰ふほどに望なきものに非らず。社會主義の自由戀愛論は個人主義時代の女權問題とは自ら無關係なり實に今の時に於て家庭論を爲して社會の傍觀者たる者の如き、其の羊の如きところは以て憐むべしとするも單に經濟的貴族等の大規模に爲しつゝある利巳的行動を貧弱た般階れな有再級一く財びに産私はなり自由戀な無題女愛リる狀態に行はんとする消極的利巳の者に過ぎず。世に輕蔑すべきは家庭論の流行なり誠に斯くの如し。故に自由戀愛論に伴ふ所の男女同權論とは、個人主義時代の其れの如く男子たる個人と女子たる個人とを比較して精神上の能力若しくは肉體的活動に於て同等の力ありと云ふが如き事實を無視せる獨斷に論慷を置くものにあらずして(個人主義の獨斷を維承して自ら社會主義者と稱するものに斯の失態多し)、社會の進化の爲めに最も生物進化に力ある雌雄競爭を自由ならしめんが爲めに男女に平等の撰擇權を與へよとの意味に解すべし。自由平等論は、何處までも社會進化の利益の下に唱へられざるべからず。女子は其の月脛、姙娠、分娩、哺乳の大なる犠牲の爲めにエナーヂーを消耗する〓と甚しく、爲めに特殊の男性的なる者か、或は雨性的の者か、若しくは老孃(多く後には女性たる所を失ふと云ふ)かに非らずしては決して男子と精神的肉體的競爭に於て對等に立つ能はざる者なればなり。實に個人主義の獨斷的平世に輕蔑すべきは家植男時人論女代主主謂すをの同の義個
等論の如く思想上に於てのみ思考し得べき原子的個人を假定して凡での個人と個人とを比較する〓とによりて男女同權論の基礎とするは恰も個人たる大人と小兒とを比較して精神的肉體的能力に於て同一なりと社會主義は科學的基礎によりて大人と小兒との異な云ふと異ならずる如く、分化的進化をなせる男子と女子とが斷じて同一の者に非らざるとを認む。然しながら科學的基礎によりて社會の舊き分子と新らしき分子との自由なる競爭によりて、即ち前代の理想を實現して之を維持せんとする現代の舊き分子と現代の理想を實現して後代の進化に到達せんとする新らしき分子との自由なる競爭によりて社會の進化するを認むる如く。社會の雄性の分子と雌性の分子とが各其の自巳の理想とする所の(即ち其の理想の大部分は其の時代の社會の理想にして更に其の各の個性を以て特殊にぜる所の理想の)實現を永き命たる子孫に於て得んとし、其の時代に於ける社會の理想を最もよく體得せる男女が雌雄競爭の中心となることによりてのみ社會は進化するを得べしと主分化的表彰個人とずには女男子あ同子ら等と化會しにをす理男子のは愛自·自のる分をて實進社現張する者なり。即ち男女同權論とは戀愛方面に於ける自由平等論なり。而して凡ての個人の自由平等が經濟的從屬關係なき平等の平面の上に立ちてのみ自由なる如く。男女戀愛の自由平等論は女子が私有財產權の主體たる能はずして男子に經濟的從屬をなせし時代、及び經濟的活動の能力に於て男子に劣るが爲に事實に於て全く經濟的從屬關係に在る現代、否、現代の如く財產の多くを有する女子に男子の却て經濟的從屬關係に在る者の多き如き社會進化の過程にては遠き理想に過ぎず。(この點に於ても經濟上の獨立は凡てに通ずる獨立なり、故に彼の土地の掠奪によりて經濟上に獨立せる貴族等が君主に對する忠順の義務を拒絕して凡てに獨立を得たる如く、元祿時代の永き平和の爲めに一般階級が經濟的基礎を作ると共に更に其の貴族等に對して忠順の義務を拒絕して維新革命の民主々義を立てたる如く、今の稱して女學生の墮落と云ふは其の經濟的獨立より男子に對する奴隷的服從(即ち彼に在ては二君に仕へずと云ふ忠順の義務、此れに在ては兩夫に見へずと云ふ於方くんけ面燃るに愛自由平書館經濟上立愛よ獨自然に由との女學生隨落付近計の額濟的獨立奴隷なの的義務り拒絕
貞順の義務)を拒絕して自由平等の曙光を得たる者なり。而して往年の貴族が君主より亂臣賊子と云はれたる如く、維新革命の民主々義者が貴族より亦等しく亂臣賊子と稱せられたる如く、女子が男子の放縱なる戀愛と同等なる戀愛を放縱に行ふに至りしを見て男子階級より墮落なりと云はるゝは恰も社會進化の跡なる歷史が進化の當然として平等觀の發展擴張するを却て世の澆季なりとして慷慨すると同一なる野蠻人なり。墮落せよ、男子が墮落しつゝある間何處までも平等に平行線をなして隋落せよ。女學生の墮落や實は進化にして誠に以て讃美すべしとせん、讃美すべきかな)。社會主義時代に於ける個人單位の生存競爭とは万有進化の大權を社會全分子の手に置き、理想實現の唯一の途たる雌雄競爭の自由平等に行はるゝことを云ふ。第七章戀愛の自由なると共に人口過多に至ると云ふマルサス論は社會單位の生存競爭たる食物競爭によりて說明さるべしー可ルサス論を現在の狀態と社會の將來との二樣に解す-個人主義の人口論を以て上層階級より解する者と下層階級より解する者マルサス論は個人主義の立脚地よりするも價値なし-算術求數と幾何求數と云ふ獨斷より統計の取扱ひを誤まる-人口も食物も算術求數に增加する者に非らず又幾何求數に增加するものに非らず-マルサスは時勢の致す所の外に價値なき凡物なり-マルサス論を以て社會進化論に對抗する金井博士の醜態-今の學者階級は社會進化論を解す
る頭腦を有せず-マルサス論とは「人口』對『食物』の問題なりー-經濟學の範圍內にて『食物』を論ず-食物の種類の進化と食物の生產方法の進化-食物の種類は漁獵時代牧畜時代農業時代と社會の進化するに從ひて進化せり食物の生產方法の進化- -人智を以て食物たるべき生物種屬を繁殖せしむと云ふ意味の生產方法の進化-生物種屬を人類の口にまで持ち來る間に於て更に人智を加ふる經濟的活動の意味に於ける生產方法の進化-一切の生產は原始的生產より工業的生產に進む-煮燒の僅少なる工業的生產行爲-原始的生產より工業的生產に進化せる住居及び衣服-蒸氣と電氣とを有する胃腸の工業的消化時代-科學の一元論と化學的調合の食物時代ルサスの獨斷論よりも科學者の實驗に從はん-「人口』を生物學によりて說く-ダー并ンの大過失はマルサスの人口論を凡ての生物種屬に擴充して生存競爭說を立てたるに在り-ツクスレーは食物競爭が種屬對種屬のものなるとを正當に解せり-ハツクスレーの不備の點-食物競爭は凡ての生物種屬を通じて同種屬間の個々對個々の者にあらず生存競爭の優者適者强者の意義-今の生物進化論は生存競爭の對敵と結果とを混同す-社會主義時代に於ける社會單位の生存競爭とは種屬單位の最も廣き意味に於ける大個體の生存競爭なり-ダー井ンの偉大は生物種屬は其の種屬の生存進化の爲に必要なるだけの子を產むと云ふ生物學よりの歸納に在り-目的論の哲學系統は生物進化論によりて科學的に決定せられたり- -凡ての生物種屬は生存進化の目的の爲に必要の形を執る如く必要の子を產む-社會主義は凡て生物學の基礎に立つダー井ンの二大功績-人口論は人類種屬を包含せる生物學の斷案によりて解せらる- -種屬の生存進化に困難なる下等生物は最も多く子を產み困
難の减少と共に高等生物は產子の數を减少す-今日マルサス論は社會進化論に延長せられたる如し-今の生物學者も或る程度迄ダー井ンを解す-ダーガンの目的論を執りてマルサス論を社會進化論の否定に用ふる滑稽なる矛盾-今日の人口過多は生存競爭の劣敗者あるが故に必要なる天則なり人口過多は貧民階級其れ自身の爲めにも必要なり- 1生殖慾と歷史の進化-貧困の劣敗者去ると共に下等生物の方法にて種屬を維持する必要去る-戰爭の劣敗者が亦下層階級より出づるが爲めの人口過多-社會の必要に應じて人口の增減する歷史上の事實-日本今日の人口增加は貧困と戰爭との權續の爲めなり-人口の捌口を滿韓に求めたるに非らず-戰爭を理想とする國家なるが故に人口は其の必要の爲めに增加す-社會主義が思想其者の革命を要する理由- -皮想を解釋せるに過ぎざる主戰論者と非戰論者--上層階級より個人主義を以て貧民の生殖慾に道德的責任を負擔せしむる能はざる如く下層階級より個人主義を以て上層階級の貪慾非道に基く貧困なりとして道德的責任を問ふ能はず今の社會主義者と名くる者に個人主義者多し-下層階級は上層階級の犠牲たらんが爲めに人口過多なり-社會と云ふ大個體の今日の進化の程度は下等生物の如く個體の一部を缺損して生存する犠牲の方法なり下層階級の人口過多は政治的單位の個體及び經濟的單位の個體の缺損すべき部分として補缺の爲めなりー-人口過多なければ人類は巳に消滅したるべし-人日過多の恐怖さるべきは過多の子を犠牲とするに堪へざるに至れる愛の進化なり犠牲として多くの子を產みつゝありしことを知らざりし奴隷農奴の時代-社會の進化は同類意識の深く廣くなることに在り-人口論の解釋が近代に至りて要求さるゝに至りし理由-同類意識の進化と
佛蘭西革命-天則の挑發する下層階級の。生殖慾革命は愛の滿足を求めて起る-上層階級は人口過多の聲を革命の意味に恐怖せよ-社會主義の世に於て人口增加は恐怖の意味にあらず社會主義時代に人口增加に苦しむと云ふは恰も個體を缺損して生存する生物を見て人類の手足が幾何求數に增加したりと云ふと等し-日本の學者は通辯なるが故に責任の負擔者に非らず-ダー井ンに混ぜる個人主義と社會主義-人類の進化は其の過大の繁殖力によりて相競爭する故なりと云ふ彼の過失を繼承せるキツドの『社會進化論』-ヰツドの理論ならば人類は滅亡して蠅と蟻虫の文明國時代なるべし-キツドは兒童なり-丘博士の『進化論講話』はマルサス論の擴充に過ぎずして理論なし-社會主義時代に生存競爭ありとの斷案人る自慢慢口共なの京都港府論は社會單位のです當下る食物競爭に說明さるぺしにの將社狀現ス|マ解二來會熊在論 ルをのす樣とのと茲に於て必ず起る問題あり。即ち人口論なり。男女の自由なる戀愛に放任すれば人口の增加を如何にすべきやと云ふマルサスの人口論なり。吾人は茲に社會主義時代に於ける社會單位の生存競爭と云へる食物競爭を說くべき機會に到達せり。若し、個人主義の經濟學者ミルが解釋したる如く、マルサスの人口論とは社會の前途に橫はれる鐵壁と云ふ意味にあらずして現在の社會の下に敷かれたる網なりとの義ならば、是れ或る程度までの事實なり。何となれば彼等は斯の社會を解釋するに個人の集合せる關係若しくは狀態と解する個人主義者なればなり。即ち、社會を以て社會其れ自身が其れ自身の目的の爲めに進化し其の過程として幾多の現象を呈すとして解せず、貧民階級の貧困なる所以を貧民自身の個人として道德的責任となし、爾等が子を產み過ぐるか故の自業自得なりと云ふに過ぎざる也。露骨に言へば、資本家階級の〓蕩逸樂は富有なる個人の權利にして、貧乏人は貧困に伴ふ生殖行爲を抑制するの個人的義務を忘却
するが故なりと云ふに過ぎざるなり。吾人は今日の勞働者階級が他の高雅なる精神的快樂なきか爲めに、又幼少より肉慾を挑發さるべき境遇に置かるゝが故に、多く生殖行爲を惧樂として取扱ひ其の行爲の累積はラマルクの用不用說によりて其の生殖慾を甚しく昂進せしめたる者なることを否む者に非らず。而しながら不幸なる境遇によりて不幸になされたる彼等に一切貧困の責任を負擔せしむるならば、吾人は實に等しく不幸なる境遇によりて不幸になされたる資本家階級の婦荒を寬過しつゝあるの寛大を止めざるべからず。斯れが人面を備へたる者の口にすべきとか、掠奪は〓荒の權利を作り貧困は生物として缺くべからざる義務を消滅せしむと云ふ。統計は明かに示めす、即ち今日の如く增加せる人口あるが故に、增加せる機械を運轉し增加せる新發見地を開懇し、以て今日の如く增加せる富の資本家階級を作り上げたるなり。貧民の生殖〓が熾烈なるを以てこそ今日の經濟的貴族は維持せらる。僧侶の身を以て人の闇中にまで容啄すとは何事ぞ。層以口義個54十七番と下層階級よ解する者而しながら吾人は理論を語る者の恥づべき威情論に陷る〓とを避けざるべからず。彼れマルサスの如き個人主義時代の古人に對して斯る態度を以て怒罵しつヽある社會主義者と稱するものゝあるも、そは亦等しく個人主義を以て貧民階級の傍より人口論を解釋しつゝあるものに止まりて社會主義は自ら論據を異にす。杏、單にマルサスと等しく個人主義に脚を立てて彼の人口論を考ふるも價値なきの甚しき獨斷論に過ぎざるなり。ルサスの人口論は獨斷の一點より續繹を始め、其の獨斷を先入思想として獨斷に適合すべく統計を解釋し、其歸納より如何にも科學的〓究なるかの如き眺めを以て再び出發點の獨斷に歸り來れり。人口論の空中樓閣は實に「算術求數』と『幾何求數」と云ふ二語の夢よ乃書かる。而してこれが誠に全部根據なき獨斷なり。即ち、マルサスは、食物は算術求數即ち一二三四の割合を以て增加するに人口は二、四、八十六の速度を以て增加する幾何求數の者なるが政に貧困は先づ以て人生の永遠に伴ふ運命なりと獨斷せり、-而して此の夢より個ス|人論主は義の立脚地よ6價値
も驚くべき獨斷が人口論の全部を組織し、今の學者階級がこの獨斷に疑を捜まずして彼を權威として奉戴しつゝありとは解すべからざるも甚し。彼は固より統計を揭げて論じつゝあり、而しながら彼の平凡なる腦中には已に算術求數と幾何求數と云ふ獨斷が統計の歸納より先きに凝結して存せしが爲めに、統計の按排の上に常に此の獨斷が君臨す。例を擧ぐれば、彼が二十五年毎に人口が二倍するものなるに食物の增加は遙かに僅少なりと歸結するに當て、全く比較すべからざる別種の者を比較したる如き是れにして。彼の根據とする二十五年毎に二倍する人口の增加と云ふ統計の計算は北米の未開時代の〓とにして當時の北米にては人口の增加と共に食物は其れと同一の幾何求數を以て增加しつゝありし天然として存したる者なるを顧みざるなり。然るに彼は北米に於ける人口の幾何求數を同しく北米に於ける食物の幾何求數に對照せしめすして、北米の人口のものゝみを抱て空中を飛行して歐州の食物の上に來り、見よ人口は幾何求數を以て增加する者なるに食物はと何數第小鉢·小鉢·大阪·大阪まひのり獨斷統計るを取誤扱算術求數の增加に非らずやと、全く別種の統計を指したるなり。斯る統計の取扱ひによりて聊か歸納せられたるかの如き跡を有すとも、其根本點たる算術求數と幾何求數とに何等の力を加ふる者ぞ。由來、食物も人口も決して算術求數によりて增加するものにあらず、又幾何求數によりて增加する者にもあらず。人類に今日食物として取られつゝある動植物も生物種屬にして、其れを食物として取りつゝある人類も生物種屬の一なり。-實に今の學者なるものは恥ぢよ!一粒萬倍に非らずとも一粒より出でたる米の莖に算術求數の增加を以て二粒の米より外なき穂の稻ありや。鼠は幾何求數を以て產るべき割合なりとせらる、而しながらそは單に產まるべき割合と云ふだけのとにして、其の內の大部分が物質的危難、或は猫の如き、ペスト屬の如き他の生物種屬との生存競爭に於て劣敗者となり、第二の幾何求數を割り出すべき產兒前に死するが故に決して增加する時に於て幾何求數に非らず。今のマルサスを合掌禮拜しつゝある經濟學者の神棚には鼠が一年一疋電話番台電腦上海市南京區小路る增非も加ずに
の母より、八千疋殖加する所の割合を以て幾何求數の山をなしつゝありや。マルサスは論なく平凡以下なり、若し平凡の人としての誤謬ならば、寧ろ人類の食物とせらるゝ下等なる生物種屬は之を食物とする人類に比して、數十倍の子を產み、數百倍の果實を結び數萬倍の卵を產む者なるが故に、却て『食物は幾何求數を以て增加し人口は算術求數を以て增加す』と云ふ獨斷ながらも顛倒すべかりしなり。固よりマルサスの時代は人口增加を國家競爭の爲に過度に奬勵せるメルカンタイシステムの反動たりしことは事實なり。又漸く悲慘なる現象を呈しつゝ始まれる英國の工業革命の爲めに判斷の冷靜を保つ能はざりしことも事實なり。又工業革命の初期にして經濟的土豪の時代なりしが爲めに、恰も幕末に至りて漸く諸侯掠奪の跡を發見したりし如く、彼の時に何人の出つるもカールマークスたる能はざるは社會進化の程度として固より事實なり。而しながら算術求數と幾何求數と云ふ如き、野蠻人よりも數の觀念の不明確なるは誠に劣等なる頭腦なりと云ふの利本勢の致ず所の外に價値な凡物な外なく。爾來一百年の長き間無數の學者によりて繼承せられイ一種の經典の如くなり、權力階級に執られては殘忍暴戾なる壓虐となりて下層階級に臨み來れりとは人類の靈智も怪むべき者なるかな。而も今尙ルサスより幾何求數の勢を以て增加し來れる靈智ある經濟學者、特に靈智ある金井博士の如きは曰く『地球全體を開懇すとも人類は三階五階の家を建てゝ空中にまで增加するが故に人口增加は避くべからず」と。人類の靈智も極まるかな然しながら、如何なる下等なる學者と雖も輕蔑を以て經過すべからす。彼等の下等なる者に於ては眞理を語るよりも單に當時の大勢の後へに附隨して大勢たるものを反響する者なり。大勢ならば如何に價値なき者と雖も充分に惑を解かざるかべらず。而してマルサスの人口論は下等ならざる貴き金井博士の今尙以て社會主義に對抗しつゝある最後の城砦となしつゝあるに見れば全く大勢なることは看過すべからざるなり。曰く、飢餓を餘儀なくされつヽある下層階級の無くならば全
社會を擧けて人口の增加を來して全社會の餓死を來すべき論理にあらずやと。是れマルサスの人口論をミルの其れの如く現社會の下に敷かれたる網なりとの意味に解せずして、社會進化の前面に立てる鐵壁と考ふる者なり。社會主義の根據は誠に社會進化論に存するを以て、社會主義は社會進化の將來につきて嚴肅なる智識を要す。故に若し社會哲學の上に經濟學を築きて社會主義に對抗するならば社會主義の非難者として堂々たる者なるべしと雖も、兒童すらも言ふを敢てせざる三階四階の家などの建つべきを北極より南極まで想像して其の上に幾何求數のマルサスを祭る如きに至つて只以て醜くしと云ふの外なし。斯る學者の多くは自ら社會主義者と區別せんが爲めに愛國者を以て居り學者は千年後の後世を洞見するを要すと任じつゝあるが故に。地球冷却後の大日本帝國を如何すべきかと云ふ大々的問題と共に、此の一千年後の人口論は路傍の餓孚を外にしても必ず論議せざるべからざる緊急問題なるべく、社會主義者は常に斯る學者の前に講釋を要求せられ態士金抗議會以ス!マ非する。の醜ゝあり吾人は公言す、斯る學者に對する最もよき答辨は輕蔑を表示する沈默なりと。經濟學は社會の物質的基礎を論ずるものなるを以て社會學の智識を要し、而して社會學は人類と云ふ一生物社會の生存進化の理法を〓究する者なるが故に凡ての生物種屬の生存進化を〓究する生物學の一章たり。從て經濟學者が今日誠に狭少なる甲殻中に窒居して盲動的に研究しつゝある人口論の如き全く生物學の智識に要めざるべからざる者なり。而しながら今の經濟學者なる者は、生物學以前、社會學以前の糟粕を豫じめ先入思想として頭腦を組織せる者なるが故に、假令彼等に向つて社會學によりて新社會を論じ、生物學によりて新社會の人口を說くとも、其の効果なきことに於て石地像と語るが如きなり。否!彼等が今日經濟學の對象としつゝある食物の無限と云ふことにつきて語り、北米の平野のみを開墾すとも尙三十五億人を入るゝことを得と云ひ、海と名けられたる地球三分の二の牧塲ありと云ふとも、全地球を開墾したる上尙其の表面の凡てに三階五階の家が建今の學者階級は社會製作お好きずなる有頭せ腦
つと云ふほどに豊富なる詩人的想像力を持てる彼等のことなれは必ず千年後洞見の明を以て百億千億に增加せば如何と窮追すべく、若し又將來の食物は化學的調合によりて得らるべしと云へば亦必ず其の丸藥を一服見せざるに於ては經驗的科學に非らずと答ふべし。吾人は禮儀に抅泥する能はず、『生物進化論と社會哲學』は憐むべき頭蓋骨の陳列されたる今の學者階級に向つて語りつゝあるものに非らざることを〓示す。否、マルサスの人口論とは人口對食物の問題なるが故に、吾人は生物學によりて『人口』を論究するより先きに單に經濟學の今の範圍內にて『食物』を考ふるも、マルサス論を社會進化の將來に立てる鐵壁と解釋して恐怖することは理由なしと信ず。經濟學者は食物の進化と云ふことを知らざるや。實に、彼等は食物の種類及び食物の生產方法が社會の進化と共に進化し來り、又進化し行くべきことを知らざるが故に。即ち今日の米麥魚鳥の如き食物の種類、及び今日の原始的の者と大差な人サなの對はロストり問食人論の題物經濟學の範圍內にて食物を論ずき煮燒の生物の生產方法より進化すべきことを知らざるがゆゑに。幾何求數と云ふ獨斷に構造せられたる頭腦を以て直に人口の增加を推論し、社會全員の餓死か然らずんば社會主義の夢想と云ふ笑ふべきデレマを設くるなり。若し今の經濟學者にして進化論を否定せず社會を現狀に停滯する者若しくは循環する者と考へざるならば、吾人は先づ首を回らして今日の食物の種類と食物の生產方法とが今日にまで進化し來れる經濟的進化を顧みることを要す。固より未だ誠に微々たる者なることは論なし、而しながら社會の進化が漁獵時代に入り牧畜時代に入り農業時代に入るに從ひて食物の種類が其れ〓〓に進化したるとは注意すべき事實なり。光榮ある農學博士仁渡邊稻造氏が其の『農業本論」に於て佛蘭人フオアサツク氏の言なりとして引用せる所によれば、農業と牧畜とは同面積を以て養ふべき人口の差は二十倍乃至三十倍にしで更に其の牧畜と農業とは同し面積を以て養ふべき人口の差亦凡そ二十倍なりと云ひ。ゼオガヤストの言なりとして農業にては五反乃至一町化類物權食食進物の生の産進方化法
步にて一人を支ふるを得るも收畜にては五十町步乃至七十町步にて辛ふじて一人を養ふを得べしと云ひ。而して牧畜が多くの土地を要する例なりとして露西亞にて男子一人を養ふに八十町步乃至百町步の放牧地を要し、濠州のクヰンスランドにては羊一頭每に一方哩を要すと云へり。是れ即ち、食物の種類が野生の魚鳥と云ふ純然たる原始的生產物を以て主要なるものとせし漁獵時代は、其の原始的食物の存する地球の部分のみより外生產に用ふる能はざるを以て人類の稀薄なりしと共に食物の欠亡せし理由にして。社會の進化して聊か人類の智能を生產の上に現はし原始的に存在する牛羊を人爲を以て繁殖せしめ得るに至るや生產に用ひらるべき地球の部分は人智を以て擴大せられ人口の增加と共に食物の增加を來し。更に社會の進化して食物の種類が多く米麥となるに至るや、植物は動物よりも繁殖する生物種屬なるを以て生產に用ひらるべき地球の部分は更に大に擴大せられ人口の增加を共に食物の增加を來したる〓とを示す者にあらずや。漁獵時代に『魚鳥の種食時代牧獲類物業時代流代農畜時はの農り進從すのと化ひる進社せてに化會サス」出でず、牧畜時代に『牛羊のマルサス』出でず、而も獨り農業時代の食物に進化してのみ『米麥のマルサス』と其の迷信者の擾々たりとは何ぞ。社會は食物の進化と共に更に食物の生產方法を進化せしむ。最初は原始的に放任したるものが、漸時に人智を以て食物となるべき生物種屬(即ち牧畜時代ならば牛羊、農業時代ならば米麥)を繁殖せしむることなり。農業に例せば、マルサスが北米に得たる統計の人口は二十五年毎に二倍すと云ふと正比例をなして、デルブリユックは獨乙の農學の發達によりて百年間に四倍の生產を得たりと云ひ。マルサス宗徒は耕地一定の限度と云ふことを以て凝結するも、農學者は陸海軍が外國に領地を擴張する如く科學を以て國內の土地を侵畧し三四倍大に大きくしたり。即ち、人類の食物の種類が農業時代の米麥に進化せる間、米麥の生產方法は又等しく進化したるなり。而しながら吾人が玆に食物の生產方法と云ふ『生產』の文字は經濟學上の術語に於て用ふるものなり。化法生食物のの產進方物以人たて智る食をべき生物種屬繁殖の画味意との方化法生方
即ち、食物たるべき生物種屬を繁殖せしむる方法が生產方法の一たると共に、其の生物種屬を人類の口にまで持ち來る間に於て更に人智を加ふる經濟的活動を意味す。言ひ換ふれば、羊毛を取らんが爲めに人智を以て羊を繁殖せしむることが生產行爲たると共に、羊毛に人智を加へて紡織することが亦等しく生產行爲たる如く。家を建てんが爲めに人智を以て松柏を繁殖せしむることが生產行爲たると共に、松柏に人智を加へて切削することが亦等しく生產行爲たる如く。人智を以て食物たるべき生物種族を繁殖せしむる農牧か生產行爲たると共に、更に其の動植物に人智を加ふる煮燒は經濟學上の生產行爲なり。-吾人は實に此の意味に於ける食物の生產方法が進化すべきことを忘却せる經濟學者を怪しむ。一切の生產が原始的生產より工業的生產に進化するは經濟學上の事實なり。即ち社會の原始時代に於ては原始的存在のまゝに衣食住の用に供せられたるものが、社會の進化と共に人智を以て原始的存在を變形若しくは變質したる後衣食住に用ふと云ふこと進方るにの的るをに於る持に類馬生化法生於意活經加人で間ちまのを物の產け味動濟ふ智更に來て口人種口智更に三進生工産始產切に的り生原生的む産業なり。然るに食物のみに於ては未だ原始的存在のまゝの者を用ゆること原始人と大差なきが故に、今日吾人は其の取りつゝある食物の大部分を消化せしむる能はずして體外に排泄す。即ち、只僅かに火食を知れりと云ふ點に於て原始人よりは食物の工業的生產をなしつゝありと云ふを得べきも。麥を麵麭に燒く、米を飯に炊ぐ、魚鳥獸肉を煮若しくはあぶると云ふ其れだけのことにして、衣服住居の如く正確なる智識によらず殆ど全く本能の嗜好に從て只舌に適する方法を執りつゝあるに過ぎざるなり。住居の原始的なる者は樹上に巣くひ山腹に穴居することなりき。而も其れが原始的に存在するまゝに木石を用ゆる〓とより拙劣なる工業的生產行爲を加へて小屋を作ることに進み、更に今日の如く大都會に五階十階の工業的生產行爲を爲すに至りしが爲めに。今日の經濟學者は「住居のマルサス』となりて、皆生殖を謹愼せよ、世界の樹上と山腹には限りありて巢を作くり穴居する能はず、人類は平原の洪水に溺死すべし(禹水を治むるまでは支那にても皆巢居穴居なりし行的る傾煮爲生工少燒産業なの
と云ふ)とは云はざるに非らずや。衣服の原始的なる者は一方哩の牧塲を要する一疋の羊よりして只一領の皮衣を得る〓とにありき。而も其れが今日牧畜時代の如き原始的存在のまゝの衣服を去りて、羊色をのみ年々に刈り取る紡織の工業的生產をなすに至りしを以て現今の經濟學者は亦『衣服のマルサス』となりて、爾等生殖を防制せよ、世界の牧塲には限りありて爾等は凍死すべしと說かざるに非らずや。-住居の生產方法の進化によりて住居の溺死なく、衣服の生產方法の進化によりて衣服の凍死なく、然るを如何ぞ獨り貪物の生產方法をのみ現今の原始的生產に止まりて進化なきものと考へ、『食物のマルサス』のみ跋扈して食物の餓死を叫びつゝありや。吾人が今日生穀を噛み生肉を喰ひし原人時代より今日の火〓にまで進みしは火と庖丁との僅少なる工業的生產行爲が食物の上に加へられたるものなり。若しこの工業的生產行爲の僅少にして而も盲動的に過ぎざるものと雖も、其れが爲めに同量の食物を取りながら生食の野蠻人よりも其れだけ多く消化しつゝある的な牛肉老厨方法院業電動公園ならば、口中より送られて單に醜怪なる物質として其の大部分が排泄さるゝ(呵〓、今の獨乙皇帝もこの進化的生物たるを免かれず)今日の原始的食物が、科學者の分析によつて見る滋養分を全部消化し吸收し得べき工業的生產行爲の加はると推想せよ。今日直に食物とされつゝある所の者は單に原料となるに至り玆に數十百倍する人口をも優に維持し得べきことを推想すべし。繰り返へして云ふ、吾人は下等なる頭腦の學者階級に向つて語りつゝあるものにあらず。吾人は只、今日にまで進化せる方則が更に將來の進化に至るべき方則なりと云ふことゝ、凡ての生產は原始的生產より工業的生產に進むと云ふ經濟學の原則とによりて、今日の原始的生產のまゝの食物が又等しく工業的生產時代に入るべき〓とを確信するものなり。而して、斯の工業的食物時代の到來すべきを確信するが故に、今日科學者が折々其の實驗室の窓を開きて告ぐる、人類は將來化學的調合によりて食物を得るの時來るべしとの豫言を俯伏して傾聽しつゝある者なり。-即ち、人類の生存進化
を維持するに要する營養物が原始的生物種屬を胃膓の工塲にて生產することより進化して、蒸滊と電氣とを有する大なる胃膓によりて生產する工業的消化時代となり、更に營養物其れ自身を原始的生物種屬に求めずして人爲的生物種屬に得るの時至るべしと云ふことなり。詩人は天國を指し、科學者は天國に至るべき梯を造る。科學が一元論となり無機物有機物の別かなくなりて萬有凡て生物種屬なりとの實驗による斷案は、人類の手によりて在來の生なき者となしたる無機物より有機物を造るに至れり。例せば、一八五四年化學者ペテルローはグリセリンと酸とを以て天然物と全く異ならざる脂肪油類を合成し、更に簡單に炭化水素より之を化成するを得だりと云ひ、而して今日糖分も亦化學者の實驗室內に於て合成せられ、剩す所は蛋白質のみなりと云ひ、甚しきは未だ精確なる報導なきも或る學者は化學室に於て全く一個の生物を作りしと云ふ如きこれなり。而して是れ實に所謂無機物を有機物が喰ひ、植物を動物が喰ひ、更に其の動植物を人類が喰ふと云ふが一個の一一〇七番海鮮丼味代如き重複と殘忍とを去りて、人類が直ちに本原の無機物有機物(實は無差別なる原々素)に食物を求むるものにして。推論の走る所驚くべき遼遠のものなりと雖も、『類神人』の消滅後に來るべき『神類』の時を想像せば然かく哲學的思辨のものに非らず。(後に說く社會進化の理想を見よ)。マルサスは實に一百年以前の古人にして新派經濟學者の嘲笑する舊派の者なるのみならず、ダー并ンの『種の起原』より五十年以前の者なり。吾人は斯る平凡なる古人を迷信して經濟學の上にノアの洪水を說くよりも、過去の進化の跡に顧みて科學者の愼重なる實驗に從はんと欲する者なり断ス|んにの料上げ從實擧り『人口』を生物平原リン酸く吾人は茲に『人口』を生物學によりて說かざるべからず。是れ、吾人が種屬對種屬の生存競爭と云へる食物競爭の生物學上に於ける地位の決定なり。實に、ダー井ン彼れ自身の自白によれば、其生存競爭說がマルサスダー井ン彼れ自身の自白によれば、其生存競爭說がマルサス
の人口論より考へつきし者なりと云ふを以て、生物學の上より更にマルサスを確かむるかの如き現今の狀態なり。而しながら是れ誠にダーガンの曲々しぎ不注意にして、是れあるが爲めに彼の『種の起原』は單に生物種屬は天地創造說の如く神の作成せし者にあらず進化によりて成れる者なりと云ふ事實の發見以上に何等の理論を提供せざりし所以なり0ルサスが其の所謂幾何求數を以て生るゝ人が算術求數を以て增加する食物の上に競爭をなすと云へることよりして、ダー并ンは其れを凡ての生物種屬の上に擴充して以て其の生存競爭說の理論となせるなめ。マルサスが十八世紀末の個人主義の空氣によりて養はれて人口增加の意義深き天則を解する能はざりしが如く、ダー并ンは社會主義の科學的。基礎たるべき生物進化の事實を解するに尙個人主義の餘波に漂はされたるが爲めに生物進化論に於て占むべき食物競爭の地位につきて遺憾なる過失に陷りたり即ち彼れに取りては生存競爭とは同じ食物の上に重複する同種屬間の生物個々の要求が衝突して、其の競爭ン|ダー井の大優先の ルりる立爭生充馬生凡口スマ論のを人說存しに物てて擴種競在たの優勝者が生存すと云ふことに過ぎず。誠に惜むべきことなり。若しダー光ンにして當時己にカール、クスの出でしほどに進める社會主義の風潮を取り入れたるならば、少くも個人主義の獨斷論より脫却し得たりしならば、生存競爭を同種屬個々の競爭と解するが如き過失なかるべきなり。此の點に於て最も正當なる見解を有したる者は彼と同時代のハツクスレーなり。彼は同種屬間の生存競爭とは間接にして無意識なるも、異種屬間即ち食物にする者と食物にせらるゝ者との間に於ける生存競爭は直接にして意識的なることを明かに表白せり。言ふまでもなく、ハツクスレーの間接にして無意識的なる同種屬間の生存競爭とは狭義に解せられたる食物競爭のことにして吾人の廣義に用ひたる生存競爭、即ち長き命に於て理想を實現せんとする最も直接にして意識的なる雌雄競爭を除外せる者にして。又、食物競爭を異種屬間の生存競爭と云ふも吾人の如く明かに競爭の單位を決定しでのことに非ざるは論なし。何となれば異種族種競はス爭食レ1物對屬種ミを正當一級り
間の生存競爭たる食物競爭が異種族間に於て直接に意識的なると共に、同一の食物たるべき生物種屬の上に同種屬が或る單位にて(即ち遊牧時代には部落の單位にて、現代には國家若しくは階級の單位にて、〓饉饉の如き塲合には純然たる家族若しくは個人の單位にて)直接に意識的に生存競爭をなすを以てなり。而しながら同種屬間の直接に意識的に食物競爭をなすと云ふも、其の競爭は食物たるべき異種屬に對して直接に意識的に生存競爭の優勝者たらんが爲めに同屬を排除すと云ふだけのことにして。同種屬を除排するの要なきほどに食物たるべき異種屬の豊富なる所(人類に例せば堯舜の原人時代の如き)、若しくは同種屬を排除するの努力を轉じて協同に團結せる大なる單位にて他の生物種屬の上に完き優勝者となり以て異種屬を豊富ならしめたる所(例せば社會主義の理想が實現せられたる時代の如き)、にては直接に意識的なる食物競爭は種屬對種屬のものなり。若し個人主義を以て生物進化の事實を解釋せるダー并ンの如く、生存競爭とはマルサスの人口論が凡ての點不レ1備生物種屬に行はるゝことゝ解しては、即ち同種屬間の個々の生物が個々の生物に對する生存競爭と解しては、彼の虫類の保護色の如き最も解し易き事實は如何にして說明さるゝや。この保護色とは其の虫類を捕へて食物とする所の鳥類と云ふ他種屬に對して生存を保護せんが爲めにして、有毒を表示する色や木葉花辨に擬する色によりて、等しく其等の保護色を有する同種屬の他の生物を恐怖せしめ或は欺きて食物を爭奪すとの意味にあらざるは何人も知れる所の如し。斯く虫類の保護色の如き例を以てすれば生存競爭の對敵が明かに他種屬なることを見るを得べしと雖も、皮想的見解者の眼前に犬が屢〓相爭ひ猫が時に相噛むを以て肉食獸の如きは個々の生物が他の個々に對して各々競爭の對敵なるかの如く速斷す。而しながら彼等は單に協同せざる非社會的生物なりと云ふだけのことにして、肉食獸の牙と爪とは決して同種屬の肉を目的として磨かれたるものにあらず、其の食物たるべき肉の他種屬に對する生存競爭の優勝者たらんが爲めなり。實に同種屬間の間てを物て爭食ずにの對の同通種のは物屬生凡競々あも個偶屬の々
個々の生物が他の個々の其れに對して對敵として存在するならば、彼等は食物たるべき他種屬の乏しからずして慾望の重複せざる塲合と雖も、直接に意識的に食物競爭をなして同種屬の肉其者が競爭の勝利者の爪と牙とに來らざるべからず。而してこれ實に狼の如き肉食獸が食物たるべき他種屬の豊富なる西比利亞の廣野にては數千頭の群をなして存すと云ふ如き生物界の現象は謎語として持て餘すより外なく、數千頭の肉は決して數千頭の食に非らざるなり。否.今のダー并ンを偶像として崇拜する生物進化論者にして尙其個人主義の生存競爭を維持せんと欲せば、吾人は實に問はざるべからず。アミーバはアミーを喰びて生存しつゝありや。芽生々物は芽生々物を喰ひて珊瑚樹を作りつゝありや。牛は牛を喰ひ馬は馬を喰ひ、燕は燕を、鳩は鳩を、胡蝶は胡蝶を喰ひて其の生存競爭をなしつゝありや。稻は稻を喰ひ、芋は芋を喰ひ、松の木は松の木を喰ひて其の生存競爭をなしつゝありや。吾人は茲に生存競爭の優者適者强者の意義を繰り返へして說かざる生存競爭の優者適者强者の意義べからず。即ち所謂生存競爭の優勝者とは他種屬との生存競爭に於て同屬の中最も優れたる點を有するものが其の優れたる點を維持して生存すと云ふことにして、+生存競爭の對敵とは別意義なる結果なり。繰り返へして言へば、同屬の中の優者適者强者とは同屬の劣者不適者弱者を對敵どしての其れに非らず、其の優劣と云ひ適不適と云ひ强弱と云ふは生存競爭の對敵たる他種屬に對してのことにして其の他種屬に對して優者たり適者たり强者たる同屬の者が生き殘ると云ふ〓とは生存競爭の結果なり。例へば、玆に各〓一軍〓を以て戰ふとせよ、戰爭の結果として戰爭後に殘るものは其の軍團中の優者適者强者なりと雖も、戰爭の對敵は固より敵の軍團として自巳の軍團內の各員が各員に對する戰闘をなして優者適者强者の意義か決定さるゝには非ざる如し。實に、馬の進化せる四足は同屬相蹴らんが爲めに非らずして他種屬たる競爭者より遁來し得たる優者の結果なり。猫虎の如き猫屬の犬齒は同屬相噛まんが爲めに非らず他種屬たる競爭者に打ち勝ち得たる强者の第499號 第499年四天皇帝国の墓
結果なり。毛虫が毛を、針鼠が針を皮膚に有するは同屬相刺さんが爲めに非らずして、鼬の遁走の時に臭氣を放つは他種屬たる競爭者を擊退し得たる適者の結果なり。生存競爭の結果と對敵との斯くまでに見易き事理なるに係らず同屬が或る特殊の塲合に直接に意識的に爭ふを以て生存競爭の優勝者とは同屬間個々を對敵としての者なるかの如く信じ、飢餓の喰人族が他部落の同屬の肉を食となす特殊の現象を凡ての生物界の通則として當箝めんとするに至つては妄も亦甚い哉。り並の大於意も位種爭生單るに義社歷となる場合は、き最爭生個け味廣のな存體るに誠に斯くの如し。生物界を通ずる食物競爭とは食物にせんとする種屬と食物とさるゝ種屬との間に於ける生存競爭にして、種屬單位即ち最も廣き意味に於ける社會單位の生存競爭なり。社會主義は社會の單位を此の最も廣き意味に於ける人類種屬に於て他種屬の上に生存競爭の優勝者たらんとする者なり。從て社會主義の時代に於ては先きに說ける理想實現の競爭たる雌雄競爭の個人單位の者あると共に、此の社會單位の現實維持の競爭たる食物競爭は固より他種屬を對敵として存するは論なし。然らば社會主義時代に於ける食物競爭に係はる人口論は如何に考ふべきや。吾人は玆に於て生物學が誠に高貴ある光を放つを見ると共に、并ンの偉大が雲を突きて高きを仰ぐ。彼は曰く-『生物種屬は其の種屬の生存進化のために必要なるだけの子を產む』。哲學史の〓論よりして宇宙に目的あるとは思辨によりて解釋せられんことを要求せられつゝありき。而してダー非ンによりて著しく發展したる生物學は宇宙一切の者の目的を有する〓とを科學的〓究の歸納として說明す。鶯は囀らんと欲するが故に美音ありや、美音あるが故に囀らんと欲するや。胡蝶は舞はんと欲するが故に麗翅ありや、麗翅あるが故に舞はんと欲するや。獅子は肉を喰はんと欲するが故に牙ありや、牙あるが故に肉を喰はんと欲するや。斯くの如きは是れ實に古今哲學上の大題目にして、天地創造說を取り若しくは舊式の唯物論を取りて宇宙に目的なしとの11井子だ要め化生種は物大ン!ダのる必爲進ののる必産むと云學よりふ生物の歸納在り目も洗っりゃん おつ き や き や き の り の )科よ化生系の學
見解を持する者は、鶯は美音あるが故に、胡蝶は麗翅あるが故に、獅子は牙あるが故に、歌ひ舞ひ猛ける者となせり。然るに生物學は嚴肅なる事實より歸納して天地創造說を覆へし舊式の唯物を破り論万有進化の宇宙目的論を確立したり。路傍一莖の野花より、雲聳の松柏より、地上に匐ふ昆虫より、花間を飛ぶ小鳥より、海浪に嘯く鯨鯢より、豁谷を涉る蛇龍より、犬より、猫より、馬より、猿より、紅流るゝ東天にあこがれて期翔の翼を科學者の發明に待ちつゝある人類にいたるまで、宇宙万有を擧げて生存進化の慾望の結果として生じたる者なる〓とを歸納したり。宇宙は經過的生物たる人類の解すべからざる永遠の目的相對的存在たる人類の考ふべからざる絕對の理想あり。この目的と理想とあるが故に、凡ての生物は其れ〓〓の目的を達し、其れ〓〓の理想を實現せんが爲めに、歌はんとする目的ある者は美音を進化せしめて歌ひ、舞はんとする理想ある者は麗翅を進化せしめて舞ふ。哲學史ありて以來の雨系統の對戰は生物學の嚴肅公正なる判官によつて證據調べの上明白に決定せられたり。(今の生物學者の多くが斯る金冠を戴ける判官たらずして死刑執行者の賤業に甘じつゝあるは憐むべし)。人口論も亦實に此の宇宙目的論の生物學によりて解せる。即ち、凡ての生物種屬が其生存の維持若しくは進化の爲に境遇(競爭者たる他の生物種屬をも含みて)に適應せんとして其れ〓〓必要の形を執りて其れ〓〓の生物種屬に進化せる如く、亦等しく生存進化の目的の爲に其れ其れ必要なるだけの子を產む。この凡ての生物種屬は生存進化の目的を有すと云ふ〓とは實に人類と云ふ一生物種屬を生存進化せしめんとする社會主義の據て立つ處にして。生物種屬は生存進化の目的の爲めに必要なるだけの子を產むと云ふとよりして、社會主義は今日の如き驚くべき人口は決してマルサスの如く恐怖すべき者にあらず是れなくしては人類の滅亡し若しくは進化する能はざるよりの必要に伴ふ結果なることを信ず。生物學は凡てに於て社會主義の基礎なり。食物競爭が同種屬間の個々の生物を對敵とする、若しくは對敵たる他種屬に對會臺灣金庫を要如つ礎學て義社立基物凡主
する競爭者とするに於ても競爭の單位が個々の生物なりとするが如きは、誠に偏局的個人主義の思辨的獨斷論に誤まられたる者なりと雖も、ダー非ンの偉大を以てマルサス輩の水平線以上に突出せる大なる點を蔽ふが如きは天才を知るの途に非らず。即ち、生物種屬は其の生存進化の爲めに必要なるだけの子を產むと云ふ社會主義の科學的基礎これなり。(故にミユーヘンの生物學者大會に於て生物進化論は社會主義に至ると恐怖して排擊に努めたる者のありしは執るに足らざる愚妄なりと雖も、生物進化論が社會主義に至ることを或る不明確なる觀念にて考へ及ばせしと稱すべしとす)。吾人はダー并ンを研究する者に向つて只二つの注意を要む、即ち、ダー并ンは生物進化の事實を確めたることゝ其の說明として不貫徹を極めたりとは云へ生存競爭說の〓を開きしと云ふ點とに於て偉大ならしめよと云ふ〓と。而して他の一は宇宙目的論の歸納に導きて凡ての生物種屬は其の生存進化の目的の爲めに其れ〓〓の形を執りて其れ〓〓の種屬に進化し、其の目的の爲めに必要ダー井ンの二大功績なるだけの子を產むと云ふ嚴肅なる事實を示したる點に於て萬世不朽ならしめよと云ふこと。實に、人口論はダー非ンの與へたる斷案の上に立ちてのみ解せらるべく、生物進化論以前の過ぎ去れる智識を繼承して甘ずる今の經濟學者輩の千言萬語は一の價値なき蛙鳴に過ぎず。彼に依れば種屬の生存進化の爲に必要なる產子は下等なる階級の生物種屬より高等なる階級例せば、ルサスの幾何求數との其れに進むに從ひて减少すと云ふ。云ひ、世俗の鼠算と云ふ彼の鼠の產兒數は一年一母より八千疋に增加すべき割合の產兒數にして。蜂は一年五六万疋を產み、蠅は一疋二十万の卵を一度に產み十五日間にて生成し一週間每に百万倍に增加すべき割合なりと云ひ。鱈は其の袋に一千万の卵を有し、蝶虫は一節に一億万の卵を有して百五十節あり。油虫は數年間にして全地球を蔽ふべツクスレーの計算によれば殖物の殆ど凡ては八九年にて蔽ひ盡くすべき割合の產子なりと云ふ。然るに高等なる階級の生物種屬に進人口論は人類包含せ理馬をる生物せり案學る解よ斷解
むに從ひて其數を減じ鳥類若しくは獸類の如きに至つては何人も知る如く誠に僅少なる者となる。ダー井ンは斯くの如き無數の事實によりて『凡ての生物種屬は其種屬の生存進化の目的の爲めに必要なるたけの子を產む』と云ふ斷案に歸納したり。即ち、凡ての生物種屬は(人類につきて云へば人類社會は)其種屬の生存進化の爲めに(人類につきて云へば人類社會の生存進化の爲めに)、必要なる子を產む者にして(人類に於ては即ち人口の多少は社會の必要にして)、若し、必要なる漠大の產子なぐしては下等生物の如き忽ち其の種屬の滅亡を來す。二十万疋の蠅は各〓同屬の二十万疋)弱肉强食となり、百五十萬億の蝶虫が各〓同屬の百五十億万に對して生存競爭を爲さんが爲めに非らさるなり。即ち、產子の最も多き植物に於ては其種子を風若しくは虫、鳥等によりて偶然に持ち運ばれ偶然に善き境遇に置かれ、偶然に他の生物の食物とな帶れるを免かれし僅少なる僥倖者によりて其の種屬を維持せざるべからざる必要の爲めに全地球をも蔽ふべき多くの種子を產する所以にして。すを子物高とのみ子も物下難化生種多摩登堡により発くなる難蝶虫の如き一節一億万の卵を有する百五十節によりて、其中の偶然に水中に入り、更に偶然に魚に喰はれ、而も其の魚は偶然に會すべき特定の魚にして、而して更に偶然に其の內に入り、又更に偶然に其の肉の人に喰はれ、喰はるゝ時も亦偶然に生肉として喰ふときに於てのみ始めて人の膓に入り以て漸く其の種屬を維持し得るが故なり。實に食物の生存競爭とは目的が種屬に在り單位が種屬に在り對敵が他の種屬に在り從て、種屬對種屬の競爭に於て多くの劣敗者を有する下等なる生物種屬は、多くの劣敗者の幟牲あるも其種屬を維持するに足るだけの、否寧ろ種屬を維持するに足るだけの分子を生存せしめん爲に多くの犠牲たるべき劣敗者として夥多の產卵をなすなり。然るに生物の高等なる階級に進むに從ひて產子の數の夥しく減少するは、等しく種屬生存の目的に於て對他種屬との競爭の劣敗者を多く出さゞる迄に進化せる者なるが故に、必要の去れるよりの減少にして、凡ての生物種屬の中に於て人類種屬の最も產子少さきは其の必要の最も少なき迄に
最も進化せる生物種屬なるを以てなり。ダー井ンは誠にマルサスに誤られて其生存競爭が如何に激烈に生物界を通じて行はるゝかを實驗に於て證據立てんが爲めに他の生物種屬の侵入を禦ぎて植物の驚くべき繁殖の速度を驗せし如きありて。爲めに生存競爭とは同種屬の夥多なる分子が各々其れ自身の生存の目的の爲めに他の同種屬の其等を排斥せんとする競爭なりとの意味に取られてダー并ンはマルサスの人口論を凡ての生物種屬に擴充して進化論の上より確めたる如くなりき。是即ち個人が其れ自身の目的を有すと云ふ個人主義なり。故にダー并ンによりて確められたるマルサスとは經濟學者中の少しく智識廣き者に取りては社會主義に對する最も堅固なる城砦にして、マルサスの人口論は今日殆ど社會進化論の上にまで延長せられたる狀態となれり。然しながら偉大なる思想史の革命家は些少なる浮雲によりて全部の光輝を蔽はるゝものに非らず、今の擾々たる生物進化論者の輩は彼の全き御恣を拜するを得ずと雖も其の雲間より投げらるゝ光は彼等の眼を射今日可社スル會論サ進はスるら延化如れ長論今の生物學者も或る國際大井ンを解すて明かなり。丘博士が如何なる理由に基きて特に『人種』とのみ限りしかは解すべからずと雖も-何となれば、國家もあり、民族もあり、甞ては固き團結なりし宗〓團體もあり、今日は大なる聯合をなせる階級もあり、又人類と云ふ他種族に對して一體をなせる社會もあるを以て-一切の不靈殘忍なる暴論が人種の生存進化の爲にと云ふ權威より續繹されしに見るも、決してダー并ンの導ける宇宙目的論の外に逸出せる者に非ざるを知るべし。經濟學者にして若し生物種屬は種屬としての生存進化の目的を有すと云ふ〓とを認識して而も尙且つ人口論を社〓會進化の面前に橫ふる乎、誠に以て野蠻人と云ふの外なし。種屬の生存進化の目的の爲めに劣敗者を餘儀なくせられて今日多くの子を產みつゝある人類と云ふ生物種屬が、社會主義の實現によりて食物競爭の劣敗者が少なくなると共に(無くなるとは云はず、後に說く)、種屬生存の爲めに必要なる產子が即ち人口が幾何求數を以て三階四階まで增加し、其增加によつて全社會の餓死となり却て生存の爲めにせし人類種ン|タ| ,井の目中村、滑用否化社ス論稽ふ定論會なるにを進る序盾
屬の滅亡となるとは!實に博士と云ひドクトルと云ふはアメリカンインデアンに鼻眼鏡を掛けたる者なり。吾人は繰り返へして斷言す、今日驚くべき人口は人類種屬の未だ低度の進化なるが爲めに他種屬との競爭に於て劣敗者の絕へざることよりして種屬生存の爲めの必要に伴ふ天則なりと。生物學以前の經濟學者ならば知らず、凡ての社會的諸科學に根底を賦與すべき最も重大なる任務を帶ぶる所の生物學者までが-あゝ丘博士よ-偉大なるダー井ンを一介の凡物マルサス輩の足下に蹂躙せしめて恬として恥ぢずとは何事ぞ。マルサスが生兒中四分の三は嬰兒にて死するか、或は四分の一の壽命にて死するかの二なりと云ひしは、實に未だ人類の進化到らずして四分の一にて人類種屬の生存進化をなし、絕へず四分の三の劣敗者を餘儀なくさるゝ所以なりと考へよ。天然の物質的欠亡、或は母の遺棄放任等によりて(動物の多くは然かり)最も種屬生存の困難なる野蠻人は最も多く子を產し、掠奪階級の壓力下に生存の困難最も多き今日の下層階級は所謂貧乏人〓日の合肥お客様への德寳99元/新·30 (昭和三)必要な天ぷりの子澤山の必要あり。何事も天則なり。彼等は多くの子の中より僥倖の機會によりて自巳を生存し(即ち現實を依持し)、進化せしむる(即ち永き命に於て理想を實現せしむる)者を得。他の多くはマルサスの言へる如く四分の三まで嬰兒にて營養不良と腐敗せる空氣の裏長屋中にて死し、其長ぜる者も過度の勞働と低度の生活の爲めに四分の一の壽命を以てラサールの言へる漸時的に餓死するなり。吾人は貧民階級の所謂彼等は人口過多を以て貧民階級其れ自身の爲めに必要となす者なり。其の子澤山なくんば遠き以前に於て永き命は絕たれたるべく、即ち生存競爭の完き劣敗者として滅亡したりしなり。口、進化律は平等の愛を以て彼等の生殖慾を驚くべく昂進せしめたるが爲めに、彼等は多くの劣敗者あるに係らず尙辛ふじて永き命に於て生存し進化するを得たるなりとす。生殖慾の〓進が愛なりとの語に向つて君子の輕蔑を表はすなかれ。〓は決して今の不幸なる勞働者階級のみにあらず。吾人日本人は現に雄畧天皇のころまで母子兄妹の間は個より、馬姦、雞姦、身其民多人のれ階は日過自級賞爲必要な3M生殖慾
〓姦と云ふ驚くべき禽獸との生殖關係が、刑罰によりて禁止せられ若しくは稜をなして神に謝したりと云ふほどに强盛なる生殖慾を有したる者なることを顧みよ。日本のみならず、モーゼの律法にては婦人は牛馬の前に立ちて交はるなかれ犯す者あるときは死すべしとして嚴罰を以て禁止せられたるほどなりき。斯る刑法と斯る强盛なる生殖慾とは今日にまで進化せる吾人を以ては想像だも能はずる所なりと雖も、種屬生存の最も困難にして多くの劣敗者を餘儀なくせられたる古代に於ては人類社會の生存進化の爲めに欠くべからざる重大の慾望なりしなり。天則に誤謬と無用なし。今日の强烈なる生殖慾は宇宙進化の大目的の爲めにする神の命じ給ふ所と云ふべし。-果して然らば、今日全社會の〓蕩荒亂は是れを社會主義の世に至つて顧みる、將に今日の吾人がモーゼの律法を見雄畧崩御の秡を見るが如くならずとせんや。社會進化論の前にマルサスの骸骨を橫へて何の權威ぞ。社會主義は衣食の劣敗者たる貧困を去り子孫の生存を下等生物の方法に於て維持す敗依貧ある のると共に下等此處の要すをて方去る維種法る必持屬にる多數の出產を不要ならしむる者なり。又、下層階級の人口過多と云ふ理由は貧困の外に戰爭の劣敗者が悉く下層社會より出づるが爲めなり-即ち、彼等は橫の階級競爭に於て多くの犠牲を餘儀なくさるゝ如く、竪の國家競爭に於て常に劣敗者となる。即ち貧困よりの餘儀なき子澤山ある如く、戰爭の爲めに必例せば、今日の佛蘭西は人要なる結果として人口過多の聲あるなり。口の平率を保ち居るが爲めに國際競爭に堪へずマルサス〓徒と正反對に人口過少は國を亡ばすとして敢て帝國主義者に限らず凡ての者を通じて憂慮せられつゝありと雖も、ルヰ十四世の下に侵畧を事としナポレオンを擁して全歐州を戰亂に落しつゝありし時代に於ては人口の增殖は驚くべき者なりき。中世史の戰國時代に於ては等しく其の必要よりしてメルカンタイル「システムが思想界に於ても亦實際政策の上に於ても人口增殖を以て第一の目的となし其の增殖せる人口を戰亂の劣敗者とし其の中の僅少なる部分の生存者によりて下層階級は維持せら戰爭の新春層階級より出爲めの人口過多裁判所に誌の濃さ人口の增减す上品質る歷史實
れたりき。日本の今日に於て年々五十万の率を以て增加しつゝある人口は、群雄戰國の中世史の始めより德川の貴族階級の下に掠奪せられ即ち戰爭と貧困との長き繼續と共に。し終末と共に、更に經濟的貴族國の下に依然たる貧困を繼續し、維新戰爭十年戰爭、日〓戰爭、日露戰爭と絕へず戰爭を繼續せしを以て、日本民族としての生存を依持せんが爲めの必要に伴ふ人口にして。戰爭は人口の捌口を滿韓に求めたるにあらず、未開時代の國家競爭を要求する國民の思想の爲めに、戰爭及び戰爭に伴ふ貧困による劣敗者として多くの人口を生じたるなり。即ち、先きに鶯は美音あるが故に歌ふに非らず胡蝶は麗翅あるが故に舞ふに非らずして、歌はんとする目的舞はんとする理想あるが故に美音と麗翅とを生したるなりと云へる如く。生物進化の宇宙目的論によして日本今日の過多なる人口は、人口過多なるが故に戰爭生ずるに非らず、戰爭を目的とする中世的思想の國民、戰爭によりて優勝者たらんとする野蠻なる、理想の國家なるが故に增殖しつゝある天則なり。天電量增の本爭困加人今め續ととは口日日なののり爲繼ずにめ韓口日らる求滿捌人1-非た則は噛まんことを目的とする蛇に毒を賜ひ、·喰はんことを理想とする〓狼に牙を賜ふ。國民と國家とが此の蛇の如き目的と狼の如き理想とよ日本民族は永久に下等動物の天則を被りて人口過り脫却せざる間は、多に苦むべし。而して階級的感情を超越して言へば、今の下層階級は上層の者と等しくこの低度なる進化の途にあり。故に社會主義は國際戰爭に導き易き專制の制度を去り、資本家の貿易戰爭をなしつゝある產業的專制制度を〓覆すると共に一層深く國民國家の目的とする所理想とする所より革命せんとする者なり。進化律が鶯に毒を與へ胡蝶に牙を與へざる如く、世界聯邦の下に万國平和を目的とし理想とする社會主義時代に於て何の人口過多あらんや。(故に彼の日露戰爭に於て主戰論を取れる帝國主義者と稱する者が人口の捌口を要すと云ふを理由とせる如き、又非戰論を唱へたる社會主義者が其の意氣の壯なりしに係らず未だ誠に無勢力なる二三子の資本家の爲めに戰爭の戰はれしと解したる如き、價値なき皮想の說明に止まりしを遺憾とす)。戰爭を。る國が家す却人妻も人水道館(鐵)想其者の革命を要する理由皮相を解釋せ過主義者財務省
上層階(義個級任德慾の清德る能はさい四ツネ層階級5歳〓〓〓を以て上層階に熱級非の道貧基く一丁目は問責道と德 し能を的ずふ任吾人は純正社會〓主義者として凡ての階級的感情若しくは利益の上に超越して科學的〓究の態度を汚辱すべからず。即ち人口論を資本家階級の傍より個人主義を以て解釋して個人としての貧民に道德的責任を負擔せしむることの誤謬なると同樣に、下層階級の傍より個人主義を以て人口論を拒絕し資本家が貧慾非道なるが故の貧困なりと論ずることの誠に社會主義と少しも聯絡なき獨斷論の者なりと云ふ〓となり。| -明かに言へば下層階級の夥多なる人口は上層階級の犧牲たるべき社會進化の一過程なり。更に具體的に言へば、一將の功を成さしめんとして萬骨の枯るゝことの爲に、一人の榮華を築かんとして數千の小作串人と幾千の工夫とが貧困に世を終り凍餓に倒れん〓との爲に多くの人口を要し來り又要しつゝあるなり。吾人が始めに下層階級の道德的謹愼、即ちマルサスの所謂防制と云ふを逆倒して、下層階級の强盛なる生殖慾なくば今日の富の階級なしと斷定し置けるものこの意味なり。個人主義の思想を以て見れば貧民の生殖慾が卑しむべきが如く、吾人のかゝる斷定は下層階級の個人としての權利を無視するの言としての響くべきは論なし。社會主義者は如何にすとも個人主義者たる能はず。若し社會主義の名の下に貧民階級の個人としての幸福を主張するを以て足れりとする慈善家あらば、鐵よりも冷たき科學によりて一切の理論を行る吾人は社會主義の忠僕たらんが爲めに斯る慈善家を輕蔑すべLo自巳一身の不平に導かれて社會主義の大傘の下に集まりたる者、若しくは一百年前の佛蘭西革命時代の個人主義を繼承して獨斷論の暗鬪に耽りつゝある者は今の下層階級の貧困を以て上層の罪惡に歸し、上層の者を見るに凡て犯罪人を以て目す。進化律の天則に不合理なることなし。然るに斯る獨斷論の上に社會主義の旗織を建つるが故に、其の人格の高潔にして主張の〓烈なるものあるに係らず、然らば神のは偏頗にして其の能は全からざる歓亡の者なるかと反擊せられ。社會主義を以て嫉妬の凝結せるものと慷慨業者の巢〓なるかの如く誤らし今の社マ多主にく者會義個ると主者名者人者名義
むるにいたる。人類社會は渾然として一個體なり。貧民と云ひ富豪と云ひ各々社會と云ふ一個體の部分なり。即ち個人とは社會のことにして、貧民と云ふ個人が今日犠牲となりつゝきたれるは富豪と云ふ他の個人の罪惡の爲めにあらず、社會の進化の爲めに社會の自身が社會自身の或る部分を先づ進化せしむる必要によりて社會自身の他の部分を犧牲としつゝあるなり。ゆゑに今日幸福に置かるゝ所の富豪も貧民の肉體の一部なり、犠牲に投せられつゝある貧民も富豪の其れの一部なて、獨乙皇帝も路傍の乞食の一部にして、柳蔭の娼婦も和蘭女王の一部なり。憐むべきマルサスも吾人の一部にして、更に笑ふべき博士ドクトルの輩も釋尊基督の一部なり。人類は個人主義時代の假說の如く契約以前若しくは征服併呑以前は個々に存在せる者にあらず、生物進化論の科學的基礎によりて證明せる如く、一元の人類よりアミーバの如く分裂せる一個體の部分たるに過ぎざるなり。個體は個體どしての生存進化の目的を有す、この目的を達せんが爲めに其れ〓〓其の目的の電撃工業階り、大、8.5り過に多なに適應する形を執る。即ち、人類社會と云ふ一個體の生物-人類を空間を隔てゝ分子とせる一個體の生物は其の生存進化の目的の爲めに其の目的に適應する形を其れ〓〓進化の過程に於て執る。吾人はこの說明の爲めに暫く人類と云ふ大個體を下等生物の一疋としての個體と比較すべし。固より單に比喩の玩弄に過ぎざる生物學以前の舊き社會有機體說(後の『所謂國體論の復古的革命主義』に說く)に比して社會を首足胴腹ある一疋と解すべきに非らざるは論なしと雖も、今日の人類社會に於て下層階級を犠牲として取扱ひつゝある所以は、全くこの大個體下の進化の程度が純然たる下等生物の其れの如き者なるを以てなり。等生物は物質的危難、或は他の生物種屬の爲めに常に生存の困難なる進化の程度にあるが故に、一疋としての個體の或る一部を犠牲にして走り其の犠牲にされたる部分は忽ちに補欠せられ原形のまゝの生物としての生存の目的を達す。蚯蚓、蛭の如き通走する能はざるものは身體の一部を切斷せらるゝも忽ち原形のまゝを補欠し、蟹は其の鋏を失東京都港事業大学附近地く個鐘なの存しをのり方すて欠一法る生損
ふも間もなく小さき鋏を生じて原形のまゝに補欠し、蝶螈が其の四肢を失ひ、蜥蝪が其の尾を切られて遁走するも又忽ち其れ〓〓に補欠して原形に返へるは、皆斯る犠牲の方法によりて生存の目的を達するより外なき必要に基く者なり。人類社會と云ふ大個體の進化の程度も今日の狀態にては斯る下等なる犧牲の方法なり。即ち、地震洪水風浪の如き物質的危難は漸く避くるを得、食物とすべき動植物の如き他の生物種屬との生存競爭及び食物とせらるべき他生物黴菌の如き者との生存。競爭に於ても亦漸時に優勝なる地位に進みつゝありと雖も、尙小さき政治的單位即ち國家、或は小さき經濟的單位即ち會社ツラストが激烈なる生存競爭をなしつゝあるが爲めに、其れ〓〓の單位としての個體の生存を維持せんが爲めに其の單位たる個體の欠損する一部を絕ヘず補欠するの必要あり。詳しく云へば、國家の下層階級即ち萬骨として枯るべき階級は國家の欠損すべき一部として人口過多を以て補欠し、會社ツラストの下層階級即ち掠奪されて貧困に捉へられたる勞働者階體位濟及の的は口級トき損り爲補と〓欠し級は其の經濟社會の欠損すべき一部として人口過多を以て補欠するな-人口增加は恐怖すべきものに非らずして是れなかりしならばり。貧困と戰爭との爲めに人類は遠き以前に於て地球より跡を絕つべかりしなり。然り、人口增加は恐怖すべきものに非らず、只恐怖すべきは下層階級が、何の故に徒らに死滅するに過ぎざる子の多くを產むやを疑ひ始めたること是れなり。-而じて彼等は疑問に對する答案を科學者に俟たずして、殆ど獅子の髭を振ふが如き憤怒を以て犠牲の義務を拒絕し始めたり。おゝ讃美すべき天則よー彼等は甞て其の豚の如く產み落せる多くの子が奴隷として使役せられ、土百姓として誅求せられ、以て涕泣して他界の淨土に慰安を求めつゝ機牲たりしことを知ら今日亦尙知らずして小作人と賃銀奴隷とは其の多くの子を抱ざりき。き、負ひ、撫でゝ吐息す-おゝ子等よ、〓爾等は如何にしてこの行路難の世に立ち得るやと。社會の進化は同類意識の深く廣くなるとなハ。古代に於ては親子兄弟の間の同類意識も淺く他の部落國家は固より會した消はばな口け過しに類れ多人人巳る減輕大學で炒めん 大きくる堪す犠のはるり発売記念日機牲として多くの子を産みあとを知cm煮込め時代
長君主に對しても解すべからざる何者かの如く考へて同類意識は狹かりき。然るに社會の進化と共に同類意識を廣く國家の凡て世界の凡てに迄及ぼし、同時に深く親子兄弟を自巳と同一若しくは同一以上に愛するに至らしめたり。人口論の解釋が要求されたるはこの愛の滿足を求めんが爲めなり。マルサスの時に至つて人口が增加したるに非らず經濟學が講義せられて日本の出產數が五十萬となりしに非らず。近代よりも中世は中世よりも古代は更に遙かに人口の率は多かりしなり。只、過去に於ては其の淺き狹き同情を以て其の子の死滅を痛切に感せず又自由に生長しつゝある上層階級につきて疑ふ所なかりしのみ。然しながら天則は淳滯する者に非らず、現代の深厚廣況なる同類意識は決して奴隷土百姓の犧牲に甘ぜし時代のものに非らず。斯くて同類意識は人類を進化律のレールに乘せて佛蘭西革命を起さしめ麵麭と憲法の要求を叫びて國王貴族を〓覆したり。麵麭は與へられずして投げられたる憲法の上に新貴族は再び麭麵の掠奪を始めたり。父と母とは油社會進化は同樣金識ノ深く廣くとに在り口論しにさ、てにがの人理至る要至近解由りヽ求り代釋ヽ求り命蘭化畿同西との類革佛進意よりも濃き愛の滴りを頑是なきうたゝねの種子の顏に落して依然たる行路難を泣く。マルサスは信服の袖を振つて冷酷にも貧民に道德的責任を問ふ。而しながら天則は彼等の手より智識を奪ひ彼等の目より美術を奪ひ、彼等の耳より音樂を奪ひ、彼等の袖を引きて肉慾の街に誘ひ、彼等の唇を開きて濁酒を注ぎ、彼等の夜具までも奪ひて夫妻を平恰も娼婦の客を醉はしむる如く生殖慾の挑發を事と常の同衾に包み、す。子は產まる。膝に抱かる。-子の愛に於て聖母と吾人の母と何子の愛の爲めには燒野に鳴く雉子は鷲の如くなりて鼬にの擇ぶ所ぞ。向ふ。マルセーユ城に突擊せし先鋒は誠に繊細の女子なりしことを記臆せよ。-革命は愛の滿足を求めて起る。マルサスは欺かれたる貧民の行くと云ふなる極樂に赴きて更に昇天者過多の人口論を唱へよ。深くなれる同類意識の父母が其の膝に眠れる多子を眺めて前途に憂へつゝありし眼を擧げて上層階級を眺むるの時!玆に廣くなれる同類意識は洪水の如き勢を以て馬車を〓覆しダイヤモンドを飛ばし肉の食天地D電力〒〓鹿島生殖慾るめ足愛革てをの命滿起求滿は
卓を打破し舞踏會の玻璃窓を破り、玆に革命となる。-人口過多は社會の必要にして上層階級はこの意味に於て恐怖せよ。只斯くの如きのみ。失丸に裂かれたる社會主義の赤旗が博物舘に置かれて、平和と平等の國民の物語りとなるの世に於て人口の增加が恐(社會主義の世に怖の意味に於て增殖すと考ふるは理由なきことなり。於ける人口は更に後に說く)。人類は他の生物種屬の中にて最も進化せる者なるが故に最も犠牲たる劣敗者の少なく從て最も出產數の少なき生物種屬なり。而して更に他の高き生。物種屬にまで進化すべき經過的生物として更に犠牲たる劣敗者を少なくし從て更に出產數を少なくすべき生物種屬なり。今日の人類が更に進化して社會主義の實現せられたる後、即ち犠牲たるべき劣敗者の少なくなれる後、出產數の少なくならずして却て幾何求數となり以て人類を擧りての餓死か(若しくは實現せられたる社會主義の破壞せられて進化論以前の思想の如く社會が循環するに至るか)と考ふるは。恰も、蝶螈が其の四肢の欠損の必要よ革の口級上命聲過は層多人のを多人階意味に恐怖せ社會主5味怖加人に義ずにのは口於の恐增て世あ意書生恵比苦增にし加人むに日云ふて欠個はと生損艦恰存しをもりして補欠するを見て、四肢を犠牲にして生存を全ふするの要なき迄に進化せる人類の手足に推及し、人類は少しも四肢を欠損せざるを以て吾人の手は八本となり十六本となり三十二本となり幾何求數を以て增加したり云ふと等しき事實の無視なり-爾等の手を開き見よ。蝶螈社會の大學〓授と雖も斯る推論をなしつゝありとは想像し得ず。固より通辯の用に存する日本の學者等は斯るとの責任體にあらざるは論なく、實に我がダー井ンなり。彼はマルサスの獨斷をヒントして受取れるが爲めに、事實の歸納としては『生物種屬は其の種屬の生存進化の爲めに必要なるだけの子を產む』と云ふ社會主義の基礎を與へながら、他の點に於ては是れを全く打ち消すべき『人類の進化は其の過大の繁殖力によりて相競爭するが故なり』と云ふ意味の個人主義の裏書を爲したり。この言が彼のベンジヤミンキツドに取られて『種の起原』以後の大更に其れが今の學者階級に反響著なりと云はるゝ『社會進化論』となり、せられて社會退化論か滅亡論か解すべからざる者となれり。人類の過三八五增求がのて物すしふり加數歳手人をるとしに伺足類見生等云たら者のにる通學日ずに負責が辯者本任故なはの非指主と人せンダ義社主るに會義個混 非のの化類大其進人繁過はの
大の繁殖力は相競爭せんが爲めにあらず、他の生物種屬との生存競爭單に繁殖力の大なる者が個々に於て種屬を生存せしめんが爲めなり。對個々の生存競爭を激甚ならしめて最もよく生物種屬を進化せしむるならば、-經蔑すべき推理力よ!蠅の如きは二十万の卵を產み一週間每に一億万となるほどの過大の生殖力を有するが故に、人類の文明に二十万倍し一億万倍せる進化をなし吾人の滅亡せる屍の上に黑山の如くたかりて其の文明國を建設しつゝあるべく。蝶虫は百五十億万の卵を產む過大の生殖力を有するが故に、人類よりも百五十億万倍も高等なる進化的生物として世は蠟虫の第二十世紀に入り蝶虫のキツド君が蝶虫進化論を著はして蠅の如き學者階級の崇拜を集めつゝあるの時ならざるべからず。マルサスを合掌禮拜しつゝある如き今の學者等に取りては彼れキツドの如きは金光の頭腦なるべし、吾人を以て見る數言の侮弄にて足る三尺の兒童なり吾人は西人の言に筆を馳せて日本の代表的學者なりとして指定した殖力にの云なす相過ふりる競失彼と故爭ドる繼キ|承『社會進化論しばば想ドる時文蝶て滅人なのキべ代明虫蠅亡類ら推ツしな國のとは兒童る理學博士丘淺次郞氏の『進化論講話』を忘却したり。曰く『世間には生活の苦しみは競爭の激しいことに基くので競爭の激しいのは人口の增加が原因である、それ故子を產む數を制限することが必要であると云ふやうな考へを持つて居る人もあるが前きに述へた所によると此は決して得策とは云はれぬ〓と。吾人は固より新マルサス派の社會改良策が無目的の盲動なりしことを博士と共に知る。而しながら博土が其の結論に於て顧みて『前きに述べたる所』と云ひし『進化論講話』の全部は混沌として只事實を羅列せるのみにして一の理論もなく、同屬間個々の生存競爭によりて凡ての生物種屬は進化せるものなるが故に過大の繁殖力を有する人類の進化はマルサスの人口論によると云ふ意味の說明なり。而しながら是れ亦等しく今の生物進化論其者の組織なきが爲めにして吾人が〓究に忠實なる丘博士を特に指定したるは日本の代表的學者なりとの理由にして博士一人の責任を負ふべき過失なりとの意味にあらず。話化の丘ト 論 博進士は講し理ずにの
社會主義は進化論の外に逸出して生存競爭を禁遏若しくは緩慢ならしめんとする者に非らずとは以上說く如し。即ち、他の生物種屬に對して全人類の大社會單位に於てする現實維持の食物競爭あり。而して前きに說ける同屬間の個々に對して個人單位に於てする理想實現の雌雄競爭あり。社會主書きに北上海夢ちよNo.28斷案第八章今日まで生物進化論に結論なし-進化の意識は宇宙絕對の意識なり-社會主義の世に於て人口は出產と死亡と平率を保つと云ふ推論-猛獸に對する生存競爭をなせし原人と黴菌屬に對して生存競爭をなしつゝある現代-人口は更に增加すべしとの推論-人口增加は今日と雖も歡喜すべき天則なり-凡ての生物種屬は生存の目的の爲めの產子以上に進化の理想の爲めの多產あり-人口增加は二樣の意義を有す生死平均との推論は一面の解釋に過ぎず-生物學より見たる君主國貴族國民主國の三時代-法律の進化を解せざる所謂社會主義者- -恐怖の意味に非らざる人口增加-上層階級の多產が懽喜なる如く今の下層が凡て上層に進化せる社會主義時代の人口增加-人口增加は雌雄競爭をなさんが爲めに多くの卓越せる個性を要するゆゑなり-一元のアダム、イヴの雌雄競爭なき時代より十億に增加せる現代の進化- =今日の失戀者を以て社會主義時代を想像すべからず-大體の事實として上層は全社會の理想なり-片思をも絕望せる失戀者の下層階級-階級內の戀愛競爭の現代と全人類の
大を看客とする釋尊とマリアとの戀-階級的善と階級的眞-『氏』の階級的定型の遺傳と『育ち』の階級的定型-階級によりて作らるゝ容貌即ち階級的美-何が故に戀の理想たる上層を要求する能はざるかと云ふ積極的自覺-雌雄競爭による眞善美の進化、天才の世界-個人主義の高貴なる理想と萬有進化の大權-若き男女の握れる手と手は羅馬法王の絕對無限權を有すべし-社會主義と個人主義との理想の合致-講壇社會主義には何の理想なし-社會主義は個人主義と異なりて社會の進化を終局の理想とす-、卑近なる科學者の態度を以て最も近き社會の將來を想像せしめよ-社會主義時代に於ける社會進化の速力-『類神人』の遺傳の累積は本能を異にするに至り從て別種の生物種屬『神類』として分類せらるべし-『善』の本能化は一世紀間にて來る--個人主義の倫理學は社會性の満足の爲めなる道德を解せず-意志自由論と意志必致論とは合致すべし-今日に於て犯罪者若しくは消極的善人のみなる理由-現社會は法律の上においても道德の上においても社會主義を理想としつゝあり-道德法律の理想と現實の道德法律-偏局的個人主義の歐米と偏局的社會主義の日本-中世的蠻風の社會性と私有財產制の日本-社會主義の世は無道德の世界と云ふべし-今日の本能を固定的なりと考ふるは天地創造說の思想なり-人爲陶汰による本能の急速なる變化-今日の利已心の强盛なる本能は私有財產制度に入りしよりのことなり-豚が二三代にて野猪に返へる如く二三代にて堯舜時代の蕾を爛熳たらしむべし-『眞』の進化-人類はカンガルーと等しき有袋動物なり-體外の袋に在るカンガルーの九ヶ月が生殖作用の一部なる如く社會の袋に〓育さるべき二十才までは生殖作用の一部なり-獨斷的不平等論の最後の呼吸-生殖作用とは種屬
的經驗智識を肉體的に遺傳する〓育にして〓育作用とは社會的に遺傳する生殖なり-社會主義を下層的平等と解する『平民主義』の惡しき命名-個人の絕對的自由は先づ社會の一分子に實現せられて君主國となる-其實現の少數階級に擴張せる貴族國時代-タルドの摸倣による平等-戰國時代とは個人の權威の衝突なり-革命以後の日本の法律は社會民主々義なり-今の世に平民なし-衆愚主義に非らず全社會の天才主義なり-社會主義は先づ天才の發展すべき自由の沃土たる點に於て天才主義なり-社會主義は更に天才を培養する所の豊富なる肥料を有することに於て益々天才主義なり-天才と社會との關係-天才の定義-自由の沃土なき時代の天才-豊富の肥料なき時代の天才-社會精神とは過去の個性の精神なりと云ふ點に於て社會主義と個人主義の合致-人類は腦隨及び神經々統を進化せしめて本能を異にするに至る-『美』の進化-凡ての眞善美は進化的なり圓滿なる美の理想たる天人天女の容貌は二三代にして實現さる-人類は排泄作用を去るを得べし-凡ての生物種屬は其目的理想の爲に凡ての器官を進化せしめ退化せしむ- -人類の器官の進化せる部分と退化せる部分-人類の今日迄の消化器の退化と其理由-食物の進化に併行する消化器の退化は工業的食物時代に入りて愈〓退化し化學的調合に至て全く排泄作用を去る-戀人の脫糞獨乙皇帝の放屁-問題は何が故に脫糞放屁を恥辱と感ずるかの理由の根本に存す-更に其れを恥辱と感する〓と小兒よりも大人に野蠻人よりも文明人に甚しきかといふ感情の進化が問題なり-目的論の哲學と生物進化論は凡ての說明なり-凡べて眞善美に係はる恥辱の感情は理想に對照されたる現實の不滿なり-排泄作用を恥づるに至れるは大なる進化なり-理想の低級な
る下等動物と其排泄物-理想の進化と排泄作用に對する感情の進化-社會進化の原則によりて獨乙皇帝は放屁を塗り附ける理由あり-進化とは理想實現の聯續なり-物質文明を讃美せん-人類は交接作用をも廢止すべし-戀愛と肉慾とを分離せんとする要求は人類の進化的生物たるより發する理想なり-一元論の化學-凡べての生物は兩性抱擁の生殖方法に限らず--人類は魚類の如き方法にいたる能はざるか-助骨の一片と實驗室中の小さき生物-油虫の單性生殖と男性なくして英雄を產める歷史上の事實-兩性生殖も進化の一過程なり-生物進化論は大釋尊の哲學宗〓に歸着せり-生殖作用が理想實現の方法たる點において獨身の聖者は大なる生殖をなせり-社會とは空間なき密着の大個體なり-小体個腹中の〓育と大個體腹中の生殖-無我絕對の愛の世-人類の滅亡は胸轟くべきの歡喜なり- 1個主人義の哲學宗〓は棄却さるべし-天國は人類の滅亡せる『神類』の地球なり- -科學的宗〓-無我絕對の愛を說くは『神類』に致らざる人類に向つては癲狂なると恰も類人猿の如く蝋虫類の如くなれと云ふと同一なり-社會民主々義の哲學宗〓は社會單位の食物競爭と個人單位の雌雄競爭を社會民主々義の名に於て主張する生存進化の科學なり-基督〓は一夫一婦論を要求して絕對の愛に非らず又佛〓は他生物の小我を承認するを以て無我の愛に非らず-基督釋尊は吾人と等しく人類社會の一分子として『神類』を理想としたるのみ-社會民主々義の天國に至るべき途は階級鬪爭にあり個性發展に在り伏能啓發にあり自由戀愛にあり科學に在り-吾人社會民主々義者は『人類』と『神類』とを繋ぐ鐵橋工事に服しつゝある一工夫なり-發狂漢は鐵橋工事を解せず-以上の歸結、今の生物進化論は凡て悉くその力を極めて俳擊したる天地創造說
を先入思想として生物進化の事實を解釋しつゝあり-宇宙目的論の哲學と生物進化論の科學とは茲に始めて合致し相互に歸納となり纖繹となりて科學的宗〓となる-『類神人』の語は生物進化論の結論なり吾人は茲に人類の消滅すべき經過的生物なることを說かん。即ち生物進化論の結論なり。今日まで生物進化論は結論なし。人類の今日までに達したる智識にては、天地万有悉く進化しつゝありと云ふことなり、而して一切の進化は生存競爭に在りと云ふことなり吾人々類種屬の如く、明確なる意識に於て進化に努力しつゝある者に非らずと考へらるゝ、下級の獸類鳥類より昆虫魚介に至るまで、其の生物として生存せんとする慾望其の事が進化なり。而して其の意生存の慾望識と云ふは進化の程度を異にするよりの程度の差にして、-從て進化の意識は宇宙絕對の意識なり。吾人は餘りに哲學的思辨即ち生道で今生日物結化論論進化の濃なの識り意は畿對を事とすべからず、兎に角吾人々類種屬が生物として生存せんとする慾望あり、其の慾望の爲めに生存競爭あらば、人類の更に進化すべき經過的生物なることは、進化論其者に對して懷疑的態度を執る者に非らざるよりは充分に肯定すべし。吾人は先きの人口論を繼續して語らざるべからず。即ち、社會主義の世に入りて社會單位の生存競爭と云へる人類と云ふ一大個體を單位として他の生物種屬に對する生存競爭、及び人類個々を單位として他の個々の人類に對する生存競爭は如何になり行くやと云ふことなり。推論は二樣に導かるべし。其の一は、社會主義の實現によりて生存競爭の劣敗者が少なくなると共に出產數と死亡數と平均を保つべしと考ふることなり。斯く推論せんとする者に取りては其者の自由にして誠に生物學の事實と理論とに適合せるは論なし。固より、蒸滊と電氣との生產機關によりて-恰も虎に取りて牙が生產機關たり、鷲に取りて翼が生產機關たる如く-人類の食物とすべき生物種屬との生存論云保平死出人に義社ふつ卒亡產口於の會推とをととはて世主
競爭に於ては完き優勝者たるを得べきは社會主義の實現後直ちに來るべき可能なりと雖も。人類を食物とせんとする生物種屬即ち黴菌屬に對して尙完き優勝者たる能はざるべく、從て疾病の劣敗者を犠牲として出すも人類種屬の生存進化に支障なきだけの多くの人口を要するは明かなり。叉、地震、火山、洪水、風浪等の物質的危難しあり。而しながら、今日の野蠻人が猛獸に對する生存競爭に忙はしく、又原人が其れに對する生存競爭の爲めに湖上に家を建て或は樹上に眠りしと云ふ如き狀態より進化して今日の吾人に達し終に猛獸に對しては全き勝利に歸したる如く。醫學の進歩によりて猛獸よりも困難なる競爭者たる黴菌屬に對しても猛獸との其れの如く完き勝利の來るべきは疑ひなかるべく、從て疾病によりて欠損する部分を補欠する必要の爲めの人口も必要の去ると共に減少すべしと考へらるべし。自ら稱して經驗的なりと云ふ學者階級に取りては眼前に野蠻人の狀態を見るが如く發堀せられたる原人の遺跡を見るが如くならざれば斯る推論に對して恐く代あし爭生對菌人ぜ爭生對猛獸にるつを存し屬さしを存す原な競てに黴現いな競は『空想』の慣用語を放つて嘲けるべしと雖も。若し彼等にして其の遺跡と狀態とを見て今日の文明にまで進化し來れる原理を推論するの腦力あらば、更に今日にまで進化し來れる原理を辿りて今日より進化し行くべき或る狀態が等しき推理力によりて書かれざるべからざるの理なり實に、病死者(今日は社會的原因の者多し)なきに至るべしとの推論は、今日の文明人が猛獸に喰はるゝことなしと云ふ今日までの進化が更に將來に向つて進化せるものと解せば可なりとす。今日發堀せらるゝ湖上の家、若しくは樹上の巢居が獸類種屬との生存競爭に努力しつゝありし原始時代に奇怪に非らざりしが如く今日少しも奇怪とも考へ及ばざる病院の如き建築物が『類神人』の遺骨と共に發堀せられて遺跡たる時代に於ては黴菌屬との生存競爭に努力しつヽありし時代として大に『神類』の興味を喚起すべしとせん。而して今日除々に除去しつゝある物質的危難の如き亦進化と共に去るべく、從て出產數と死亡數と平均を保つとの推理は正當なり。
他の一の推論は吾人の主張せんとする所にして人口は更に增加すべしとの見解なり。即ち、人類は原人の時代より他種屬との生存競爭に於て無數の劣敗者を出しつゝ來りしに係らず、尙他種屬との其れに於て優勝の地位に進むに伴ひて人口を增加せるを以て。社會主義の實現によりてさらに地位を優勝に進むるに至らば更に尙人口の增加を見るに至るべしとの推理なり。吾人が先きに社會主義の時代に於て人口が恐怖の意味にて增加する者に非らずとして、人口の增加が他の意味に於て想像せられ得べき〓とを語る餘地を剰し置けるはこの故なり。固より天則は如何なる者と雖も恐怖すべきに非らず、今日の人口增加が恐怖さるゝは上層階級の階級的利益の見地よりのとにして、社會の生存進化の上より見るに】於ては缺くべからざる天の設計なりとす。吾人は社會主義の時代に入りて人口の更に大に增加すべき〓とを無限の歡喜を以て信ず。-經濟學者は吻を容れて云ふべし、然らば再び生存競爭の激烈を繰り返へすべしと。吾人は斯る小さき貝殻より外知らざる〔甲推し加更人論とすに口のべ增は人口增り天すも日加べ歡とはき喜難今則な般類に向つて語りつゝあるものに非らず。-凡ての生物種屬は單に種屬の生存を維持する目的の爲めに努力するのみならず、種屬を進化せしめんとする理想に向つてさらに强烈なる活動をなす。ダー井ンが植物にて實驗せる如く、凡ての生物種屬が其の種屬の敵たる他の生物種屬の排除さるゝときに於て無限の繁殖をなすは、固より他の敵たる生物種屬の下に無數の劣敗者を出しつゝありし生存の方法の障害なく發展せるものなりと雖も、凡ての生物種屬が生存の維持以上に更に繁殖して進化せんとしつゝあることは生物學上の事實なり。即ち、一元より今日の十億萬に繁殖せる人類は、種屬生存の意味に於て劣敗者の補欠として多くの人口を繁殖しつゝありしことの上に。更に人類自身の進化によりてダー并ンの植物に爲せる如く人類の敵たる猛獸又は黴菌の如き他の生物種屬を排除し、若しくは人類を敵とする他の生物種屬たる動植物を牧畜又は農業の方法にて征服し若しくは奴隷として繁殖せしめ、以て今日の如き人口にまで增加し今目の進化にまで到達し凡てのあのののに干め的存 周生り多爲理進以のののは物產め想化上產爲目生種
たるなり。-故に人口の增加は二樣の意義を有すと考へらるべし、一は他種屬との生存競爭に於て劣敗者を補缺するが爲めの現實維持の目的よりする種屬〓存存の結果として。他の一は他種屬との生存競爭に於て劣敗者の少なくなり行くか爲めに理想實現の目的よりする種屬進化の結果として。即ち、吾人は社會主義の時代に入りて生產數と生亡數と平均すと云ふ第一の推論より以上に出でゝ、社會主義の時代に入ると共に更に大に人口の增加を來すべしとの推論を爲さんと欲する者なり。一は凡ての生物種屬を以て單に種屬生存の目的より外になしと考ふる消極的見地なり、一は凡ての生物種屬は種屬生存の目的を達すると共に更に種屬進化の理想を實現せんとする者なりと云ふ積極的見地なり。若し種屬が單に其の生存を維持するを以て足れりとする者なりと考ふるならぼ、先づ何よりも解すべからざることは一元の人類より十億萬に繁殖せる社會進化の事實なり。具體的に云へば、古代の君主國時代に於て、社會の一分子たる君主の生存の爲めに他の凡ての分す義樣加人面論と死のはの平過解一推均生ぎ釋にず子が忠順の義務を負擔して種屬生存の爲めに犧牲となりしことより。中世の貴族國時代に進みて、社會の少數分子たる貴族階級の生存の爲めに他の武士平民の階級の多くの分子が忠順の義務を負擔して種屬生存の爲めに犠牲となりしことに至り、さらに現代の民主國に至りて社會の全分子が悉く生存して種屬を生存せしめんとするまでに進化せる社會進化の事實と沮格する推理なるを以てなり。斯く、一人によりて種屬を生存せしめたるものより、少數階級によりて種屬を生存せしむることに進み、更に凡ての階級なき全國民によりて種屬を生存せしめんことを理想とするに至れるは、生存競爭の勝利を得る每に生存すべき人口の繁殖することを法律の理想に於て表白せる者なり。(法律の理想は社會の理想なり、法律の理想たる正義が君主國、貴族國、民主國と進化せるは人類社會と云ふ生物の理想が進化せるを以てなり。社會主義者中の皮想的見解者の如く法律を以て徒らに掠奪階級の罪惡を働かんが爲めに作られたるかの如く解するは無智の極なり)。從てこの警告してものの三主族主よ調味の法律の義社る解進者會所せ化謂ざを主
ぎ去れる社會の進化を認むるならば、社會主義の實現によりて人類の對他種屬の生存競爭が更に優勝の地位に進むと共に、人類種屬進化の意味に於て人口の大に增加すべきを推論するは困難に非らず。今日の人口增加が恐怖の意味に受取られつゝあるは、下層階級にとりて其の子女の犠牲として死しつゝあることを憂ふる深厚の同類意識の堪ふべからざるまでに進化せることゝ、其の進化が社會の進化にして今の上層階級が社會進化の方法たる革命を恐怖するよりのことにして。等しく種屬生存以上に種屬進化の意味に於て增加せる人口なりと雖も、社會主義時代の人口增加は恐怖の意味に非らざる社會進化の增加なり。例へば上層階級の人口增加が其の階級にとりては恐怖に非らず却て軟喜なるが如し。社會主義は人類社會を一個體と見て生物界に於ける君主々義なり、人類を個々に見て生物界に於ける貴族主義なり。-今の君主貴族が現實維持の生存競爭に於て最も優れたる優勝者となれるを以て、更に進化せんが爲めに多くの子を產みて而も悉く生存進化し增る非意恐加人ら味怖口ざにの數上限定歡······························如く今の下層が凡て上層に口代主る進增の義社化加人時會せつゝある如く。社會主義の實現によりて全社會が擧りて生物界の上に君主となり貴族となりて完き優勝者たるに至らば、人口增加は理想實現の爲めに無限の歡喜を以て增殖し而して悉く生存すべし。(吾人が第一編の『社會主義の經濟的正義』に於て社會主義は上層階級を下層に引き下ぐるに非らず、下層階級が上層に昇ることによりて階級の掃蕩さるヽ社會の進化なりと云へるはこれなり。故に社會主義は所謂世の『平民主義』に非らざるは論なし)。然り、吾人は斯く推論して人口の增殖すべきことを信ぜんと欲す。而して社會の進化は增加せる人口の爲めに個性發展の競爭を激烈ならしめ、人口の多きだけ其れだけ卓越せる個性の多きを以て其の速力は想像し得べからざるものなるべし。この競爭の優劣を決すべきものは社會の全分子たる男女の雌雄競爭なり。男女の全分子は各〓其の理想とする所の男女を獲んと競爭する〓とによりて、獲たる理想の男女の結によりて社會の理想を其の永き命たる子孫に於て實現しつゝ、社會は故要個越くめんを雄加人なず性せのにがな競は口なる卓多爲さ爭畦增さ爭爲多卓
進化すべし。即ち、吾人が人類社會が食物競爭の完き優勝者たると共に人口の增加すべきを想像するは、人類は更に進化すべき經過的生物なりと云ふ生物進化論の上よりして、雌雄競爭なきアダム、イヴの時よりも十億万人の男女が雌雄競爭をなす今日が遙かに進化の速かなる如く、十億万人の少なき人口の今日よりも更に多き人口の男女が雌雄競爭をなすことは更に遙かに進化の速力に於て大なるべしと信ずるを以てなり。に 一ITA 1雄雌競化代せにり時爭代よ億のる增十進現加故に、社會主義の世に於て失戀者の多きことは如何ともすべからず。現實の苦痛たる食物競爭なきが爲めに、理想に憧憬して而も其の實現を得ざる雌雄競爭の劣敗者は、是れ社會進化の天則にして吾人社會主義者の阻み得べき所にあらず又阻まんと望想する所にもあらす。理想高きに至て到らざる現實の苦痛愈〓大なり。『類神人』は『神類』に進化せんが爲めに激烈なる雌雄競爭をなす。然しながら、吾人は今日の社會に於ける雌雄競爭(前きに說ける所を見よ)を以て社會主義時代の失戀者を想像すべからざるは論なし。今日の戀愛は皆階級に阻害せられ。而して單に階級によりて相思の者の阻害さるゝのみならず、階級の隔絕の爲めに多くは所謂片思と稱する戀愛の最も悲慘なる征失を負ふ。固より社會主義時代に於ては相思の者の阻害さるる〓となくして、其失戀者とは斯の片思の者なることは論なLo何となれば最も眞なる最も善なる最も美なる所の、即ち最も『神類』に近き所の個性を有する男子及び女子が全社會の戀愛の中心點たるべく從てこの『神類』に近き所の者を獲るは他の『神類』に近き異性にして及ばざる多くの失戀者は片思の苦痛を甞むべきを以てなり。而しながら今日に於ける片思の失戀者は不幸なる階級に其の眞と善と美とを作成せられたるが爲めに、理想とする異性に向つて進で戀愛を要求すべき道德智識容貌を有せざるなり。明かに言へば下層階級の者は上層の異性に對して相思を求めて得ざる片思の苦痛よりも、片思を爲すこと其らすを義社を失今ずべ想時會以戀日像代主て者の,
社會は其多くの分子を犠牲にして先づ上層のことをも絕望せるなり。の分子より漸時に理想を實現し、以て全分子に其實現を及ぼす。(社會學者の或者は之を指して模倣にとる同化作用と云ふ)。故に大體の事實として上層階級の智識道德容貌は其の階級の理想たると共に全社會の模倣して到達せんとするとに於て全社會の理想なるなり。故に一介の田舎娘と雖も哲學者の頭腦に戀せざるに非らず、媱を鬻きて生活する娼婦も嚴めしき道學者の鬚髯に戀せざるに非らず、塵埃を浴びて走る車夫も深窓を洩るゝ瑟の音に戀せざるに非らず。只、彼等に片思の失戀なきは巳に絕望せるを以てなり。彼等は『雲に掛け橋』として己に戀するも達せざる〓とを絕望して戀の心を動かさざるなり。-何たる悲慘ぞ!單に自由競爭が經濟的方面に於て階級間に限られたるのみならず、(第一幅の『社會主義の經濟的正義』に於て自由競爭の二大分類を說ける所を見よ)、戀愛の自由競爭は階級的城壁內の小天地に局限せられて其の間級間の理想するに止まる低き程度の緩慢なる競爭となれり。乞り理社層し事大想會はて實體全上との片思をお金Kan丁舞戀者の級食は乞食を、勞働者は勞働者を、小作人は小作人を、藝妓は俳優を、間の拔けたる合夫人は長芋の若樣を、宿六は山の神を、泥棒火附の男斯る小社會の內に限られて斯る低き理想の異性子は窃盜スリの女を。を得て足れりとする今日、何の社會進化あらんや。社會主義が實現せられて、即ち今の下層階級が上層階級に進みて全人類が天地万有の上に君主となり貴族となるの時。戀の天地は九尺二間にあらず待合に非らず、戀の理想は藝妓に非らず長芋に非らず外イヤモンドに非らず、全人類の大を看客として釋尊とマリアとの戀なり。實に戀の理想は社會の理想なり。社會の理想が社會の全分子たる男女に戀せらることによりて、社會は其の理想を永き命たる所の子孫によりて實現し以て進化す。理想として今日の男女に問へ、釋尊基督のごとき眞善美、マ,〓觀觀音音の如き眞善美は必ず戀の理想たるべし。而して是れ社會の實現すべき理想なり。然るに、今日に於ては社會の未だ進化到らずして階級的割裂にあるが爲めに、凡ての智識も、凡ての道德も、凡ての容看の全現競の階人代爭態級內との愛類客大とをする驛のリ尊戀アととマ
貌も、階級的理想によりて階級的に作成せられたる階級的の眞善美に止まる。吾人が前編『社會主義の倫理的理想』に於て述べたる如く今日の良心は階級的善なり。而して智識の多くも階級的眞なる〓とは下層階級の宗〓が多く鰯の頭にして其哲學が亦多く狐狸の司どる運命なるが如し(幸ひに階級を超越することを得たる吾人が今打擊を加へつゝある上層の學者階級の智識の亦階級によりて憫むべく作られたる如き等しく然かり)。即ち、凡ての者が社會的作成なる〓とによりて、道德的判斷も智識的判斷も各々其の社會的階級によりて作成せられて階級的善となり階級的眞となる。容貌と雖も然り。階級的美と云ふの外なし。『氏より育ち』と云ふ如く今日の美人と云ふも醜夫と云ふも僅少なる個性の變異を外にして全く階級によりて作られたる階級的定型なり。而して其の『氏』と云ふも階級的定型の遺傳たるに過ぎず。彼の刑事人類學者が社會的階級によりて容貌の作らるゝことを知らざりしが爲めに、犯罪階級の定型的容貌を有するを見て悉く天禀なりと斷定したる如く(固より階級的善と階級的眞『氏』の二遺定階傳型級との的育ち』の焼き肉食事の其の天禀なる者あるは犯罪階級の社會的作成の遺傳たる『氏』なりと雖후上層階級の容貌も下層階級の其れも皆悉く育ちなりと云ふ社會的作成と氏なりと云へる父祖の社會的作成の遺傳なるなり。資本家階級の唇に殘忍なる冷笑あるは〓貪に甘ずる者の如く素朴率直なる能はずして譎詐謀畧を餘儀なくさるゝが爲めの社會的作成にして、其の丸髷が驕慢に空向げる鼻を有するは高潔なる禮讓を以て相敬する平等を知らず常に諂諛に圍繞せらるゝ爲めの社會的作成なり。若樣なるものゝ長芋と云ふ興味ある代名辭を有するは其の人を愚呆ならしむる畑に墾やさるゝよりの階級的定型にして、愛嬌も引力もなき定型的容貌の令夫人は間の拔けたる奧座敷に封ぜられて作成さるが爲めにして藝妓との雌雄競爭に於て劣敗者となるは決して嘲笑すべき〓とに非らず。一元の人類より分れたる吾人が風土氣候等の地理的境遇によりて赤白黃黑の數人種となり又歷史的境遇によりて數十の民族となりて其れ〓〓の定型を有する如く、階級的境遇によりて亦其れ〓〓の階級的定型を作階級に作的ち容ら美階親る級即ヽ
成せられたるなり勞働者の醜惡なる顏、粗野なる手足、卑屈なる態度と雖も然り。其社會的作成と父祖の社會的作成の遺傳とによる階級的定型なり。生活の困難の爲めに成り上り者の實業家と稱する者の持てる有福の相もなく、運命の寵兒なる政治家等の有する嚴めしき髯もなし。其皮膚は暑〓風雪に冐せされて黑奴の如く、智識もなく趣味もなく高尙なる道念もなく一個の機械として運轉するに過ぎざるを以て骨格の如き純然たる野蠻人なり。斯くの如き彼等が、纎き絹の如き指と白〓薇の如き頰とを持てる上層階級に戀の心をだも起さゞるは當然にして、英國王女等の路行くに逢ふも秋波を送る能はずして徒らに警官の叱咤を蒙りて惶走し、獨乙皇帝が日本に漫遊して其の馬車が偶々傾斜の街に入る時ありともチヨイト〓〓と呼びて招く能はざるなり。美人と美男とは年若き凡ての社會に戀せらる。只、彼等下層階級の男女が上層の美なる者を見るも戀の苦痛なきは、一介の工夫が三井岩崎たらんと欲するの苦痛なきが如く誠に絕望の爲めなり。彼等は戀心の的ふかはすなる理に何自積とざる要上想戀が覺極云る能求層たの故云動かざる如く絕望をも意識せざるべし。而しながら、吾人は何が故に斯くまでに饒ゆるやと云ふ消極的自覺と共に、彼等は何が故に彼れほどに富めりやと云ふ自覺が積極的に來りつゝある如く。吾人の戀する男と女とが何が故に親に賣られ親に買はして斯く迄に戀を失へるやと云ふ潰極的自覺と共に、彼等は何が故に彼ればどに美にして醜なる吾人の戀する能はざるやと云ふ積極的の自覺が來る。是れ革命が大膽華麗なる步調を以て地平線に現はるゝ時にして、革命の成就と共に斯る意味に於ける戀の絕望は去るべし。敢て美の一面に限らず、社會の全分子は平等の物質的保護と自由の精神的開發とによりて、智識を好む者は智識廣き者を戀し、道德を慕ふ者は道德高き者を戀し、美貌を愛する者は美人美男を戀するの完き自由を得べし。而して其自由にして競爭者の多きが爲めに、男は男と、女は女との雌雄競爭によりて各〓其の眞善美を進化せしめ、其の進化せる中の最も眞なる善なる美なる者が最も眞なる善なる美なる異性を得て其の眞善美を子孫に遺傳し以界才化美る爭雄雌競進善よ世天
て社會の理想を實現すべし。即ち廣き意味に於げる天才の世なり、天の眞なる個性、天の善なる個性、天の美なる個性は、戀愛の中心となりて全社會の崇敬を集むるの世なり。是に至つては社會主義の極致にして個人主義の理想と抱合す。個人主義の大潮流は羅馬法王の絕對無限權を排除し思想の自由を呼號することによりて流れ始めたり。社會の一分子たるに過ぎざる羅馬法王が他の凡ての分子の上に眞と善との決定權を有すべからざるは論一派の學說たる『國體論』が個性の自由なる發展を壓伏して、思想界の上に羅馬法王として其の眞とし善とする所を强制するの權なきは亦論なく『福神』が其の醜くき手を延べて男女の間を離合せしむるの結びの神として、美の判決をなすの權力は亦實に何者よりも許容すべからず。凡ての進化は生存競爭なり。生存競爭の決定權は万有進化の大權にして基督と雖も有すべからず。如何なる者が善として、眞として、美として生存するやは社會全分子の多數決によるの外なく。而して一權化万理貴義個の有想なの人る高主大進と時代の多數決は「其時代の眞善美に過ぎずと雖も、次ぎの時代は更に次きの時代の多數決を以て眞善美を決定すべく、而して多數決の最も多數にして僞りなき投票は、議會の討論にあらず新聞紙の輿論に非らず、又直接立法に非らず、社會の全分子を擧れる男女の理想とさるゝ所なり只、今日の社會は階級的層をなせるが爲に戀の理想は宿六となり長芋となり藝妓となり空向ける鼻の令夫人となりて甚しく低級の者なりと雖も、社會の進化と共に理想は進化し、階級の掃蕩と共に理想は廣き高き者となるべし。社會の全分子たる男女に平等の物質的保護と自由の精神的開發が擴張するの時、-若き男女の握れる手と手は羅馬法王の絕對無限權を有すべし。是れ個人の絕對的自由の世に非らずや社會の一分子たる法王若しくは皇帝の意志によりて眞善美の決定さるゝ〓とに怒りて起てる個人主義なる者、寧ろ社會主義の實現によりて其の理想を實現せらるべし。故に吾人は個大主義者を排せず、又個人主義の思想を繼承して社會主義者と稱しつゝある今の社會革命家のす權對王羅とれ女若べを無の馬手るのきし有限絕法は手握男
多くを排せず。個人と社會とは小個體たる點より見たると大個體たる點より見たるとの立脚地の相違にして、社會主義の極致は社會の一部分たる法王皇帝等が其意志によりて絶對の自由を以て眞善美を判決したる如く、社會の全部分たる男女の意志によりて凡ての兵善美を判決するの自由を絶對に得べきことを理想とするを以てなり。實にプラトーの『部分は全部に先だゝず全部は部分に先だゝず』と云へる如く個人は社會の一部分にして社會は個人の全部なるを以てなり。只、講壇社會主義と名くる者に至ては社會の進化を解せず何等の理想だも無し(前篇の樋口氏が失野氏の理想を空想なりと云へる如き一例とすべし)。一言にして評すれば盲動者の島合なり。實に個人主義の要求は社會主義の下に於て滿足せらると云ふべし。而しなから社會主義は社會主義にして社會の生存進化が終局目的なり、然らば社會主義の實現によりて社會は如何に進化すべきや。義個主致想と人義社のの主と會合理藥產生白菜し理は想何な整理、海鮮、人主義と異なりて社會の進想局化す理終而しながら、吾人はこの社會進化の將來につきて語るべく其の推理力は甚だ乏しくして筆亦貧し。吾人は時に一種の宗〓的歡喜に全身の戰慄を覺ゆ。唯、吾人をして最も卑近なる科學者の態度を持して最も近き將來の社會を想像せしめよ。-先づ貧困と犯罪とは去る。生活の苦悶惡戰の爲に作成せられたる殘忍なる良心と醜惡なる容貌とは去る物質的文明の進化は全社會に平等に普及し、更に平等に普及せる全社會の精神的開發によりて智識藝術は大に其水平線を高む。經濟的結婚と奴隷道德とは去り、社會の全分子は神の如き獨立を得て個性の發展は殆ど絕對の自由となる。自我の要求は其れ自身道德的意義を有して社會の進化となり、社會性の發展は非倫理的社會組織と道德的義務の衝突なくして不用意の道徳となる。水平線の高まる〓とによりて社會の全分子は天才の個性を解するの能力を開發せられ、天の眞善美なる男女は老いたる社會の分子によりては崇尊せられ若き分子よりは戀愛を以て報酬せらる。男子は其理想の眞善美とする女子を得んが爲に度者も串をの科近以盤學な僕來會近てことの速進るに義社力化社於時會の會け代主
愈〓其眞善美を磨き、女子は其理想の眞善美とする男子を得んが爲に又益·其眞善美を如ふ。而して社會の中に於て眞善美の最も優れたる個性が雌雄競爭によりて子女を更に優れたる眞善美に遺傳して殘し、遺傳よりて加へられたる眞善美の子女の更に最も眞善美に於て優れたる個性が、雌雄競爭によりて又更に眞善美を加へ又更に之を遺傳し行く。あゝ、『類神人』はこの累積して止まざる所の眞善美の遺傳によりて終に何者に進化せんとするや。生物學によれば本能とは遺傳の累積にして、單細胞生物より無數の種屬に進化して其れ〓〓の本能を有するは實に遺傳の累積なりと云ふことなり。故に『類神人』が其の完全に行はるゝ男女の愛の競爭によりて今日の理想とする神を遺傳の累積によりて實現し得るの時來らば、玆に人類は消滅して『神類』の世となるべし。而して人類が猿類と其の種屬を異にして本能を異にする如く、人類と本能の異なる神類は神類の生物學者によりて種屬を異にせる最も進化せる生物として分類せらるべし。〓類のの人る類 と 期間生列りる景未累達神異本果種のて至すをは〓'-ら分と神第一に想像せらるべき本能の變化は『善』の上に來る。即ち、社會主義の實現後二三代にして(即ち一世紀間にして)道德は本能化すべし。或る倫理學者によれば、道德的行爲とは苦痛に打ち勝つ所の努力と克巳とにありて、本能に從ひ若しくは快樂に導かれてなす行爲は少くも非道德的なりと云ふ。固より個人主義の倫理學としてこの說明の上に出づる能はざるべしと雖も、誠に人類がアミーバの如く分裂せる一大個體としての社會的存在なることを解せざるよりの價値なき說明なり。若し、吾人が自巳に不利なることを目的として又は不快なる導きによりて一の行爲にてもなすとせば生物界を離れたる奇異なる動物と云ふべきなり。即ち、生物とは別なる神の子なりとの天地創造說の假定を取り入れずしては解すべからざる議論なり。道德的行爲とは社會の生存進化の爲めに要求せらるゝ社會性の發動なり。生物學の發達以前に於て、個體と云ふことの見解が單に空間を隔てたる動物と云ひ、一つの卵より長生せる生物と云ふ如き漠然たる考へより外なかりし時代に於替』のて紀は本來間一能。ろに世化
ては。この小さき我其者を以て一個體と考へしが爲めに、大なる個體の分子としての社會的利巳心によりて小さき個體としての個人的利巳心が壓伏せらるゝ時、利巳心の小さきものヽ感ずる苦痛と不利とのみを見て、其の行爲が實は其の苦痛と不利とに打ち勝ちて働らく所の社會性の滿足による快樂と利益とに存することを解し得ざりしなり。若し、克巳の努力によりて始めて道德的評價を附せらるとせば、好で妻を愛し友を愛し社會國家を愛する如きは道德的行爲とさるゝ價値無かるべく、母が自身の身よりも子を愛する〓とは苦痛にもあらず又克巳にもあらず努力にも非らざるを以て些の道德的なりと云はるゝ理由なし。又、君主の所謂七十にして心の欲する所に從ひて規を超へすと云へるごとき習慣化せる道德的行爲は其の苦痛なく努力なく克巳なきに至るを以て、習慣化せざる時代よりも大に道徳的價値に於て下落せざるべからざる筈なるべく。父祖の遺傳によりて道德的傾向を繼承せるものゝ行爲の如きは全く努力なきを以て市塲に於ける道德的價格は無代價なりと論せざるべからず。而も是れマークスの價格論の誤謬にして吾人は天產物なりとて價値其れ自身に代價を拂ひつゝある如く、所謂天品の仙骨のごとき最も尊重せらるゝに非らずや。-而しながら如何なる價値ある者も空氣の如く存すれば價格なし。價値の少なき者も需要に應する能はざる少數の者は價値以上の價格を表はす。今日『道德』が無限の價格を表はれつゝあるは其の要求の甚しくして、而も天產物として存する聖の天なる者がダイヤモンドよりも少なく、又非倫理的社會組織の中に於ては徒らに努力多くして人造の寶石が得られざるの故なり。人は個人の立脚點より見ての利已心を有すると共に、社會の立脚點より見ての社會的利巳心を有す。故に、彼の意志自由論と云ひ、意志必致論と云ひ、顯微鏡以後の個體の科學的基礎より考ふれば少し意志自由論は意志の自由とは最も多き內も論爭すべきことに非らず。心の必致なりと云ふ點に於て意志必致論と合致し、意志必致論は亦等しく意志の必致とは最も多き內心の自由なりと云ふ點に於て意志自由會學の人主せ線なのの社理義個倫性すをる爲満解道め足意志自由論と其中心致
論と合致す。即ち、吾人が道德を行ふは最も多き內心の必致に驅られたるにて、吾人の罪惡を犯すは最も多き內心の自由に從ひたるなり。人は內心に於て社會性と個人性とを有す。內心に於て社會性が最も强盛にして他の個人性を壓して働くときに於ては人は其の最も多き社會性の必致に驅られて道德をなし社會性は茲に自由を感じて意志自由論となる。而しながら壓伏せられたる個人性は其の自由を失ふが故にこの意味に於て意志必致論なり。是れと同じく、其の內心に於て個人性が最も强盛にして他の社會性を壓して現はるゝ時に於ては人は最も多き個人性の自由に打ち勝たれて社會性は必致を感じ意志必致論となる。而しながら、打ち勝ちたる個人性は其の自由を得たるが故にこの意味に於て意志自由論なり。只意志必致論を以て人類の上に存する神の命する所に從ひて意志すとの意味に於てする古代宗〓の宿命論として唱ヘ、意志自由論をルーテル以後の個人主義の獨斷の如く人は先天的に自由なる意志を有すとの意味にて唱ふることの謬なるは論なし。而して此の社會性と個人性とは其の强弱の度に於て各個人が先天的に異なるのみならず、今日の如き雲泥の懸隔ある社會組織の下に於ては階級的差等に從ひて後天的に雲泥の如く異なる。先天的に强盛なる社會性を有する者、即ち父祖の社會的境遇によりて强盛にせられたる社會性を遺傳せられたる者、若しくは後天的に〓育ある階級の空氣によりて强盛にせられたる社會性を有する者は、其の强盛なる社會性の必致に驅らるゝ意志の自由を以て平易に道德を行ふ。而して是れ今日に於ては殆ど曉星よりも乏し。然るに社會の大多數は先天的に、即ち父祖の社會的境遇の遺傳によりて甚だ薄弱なる社會性を有し、又後天的に我利我慾を以て爭鬪を事とし。つゝある各々の階級に培養せらるゝを以て個人性のみ强烈を極めて、其强盛なる個人性の自由に打ち勝たれて必致に犯罪者となり。然らざる者も漸く抵抗し得て敗殘の社會性を大なる努力によりて維持し、以て僅かに犯罪を犯さゞれば足ると云ふ一般の消極的善人となるに止まる。道德とは社會性が吾人に社會の分子と今日に於て犯罪者若消極的善人の理由
して社會の生存進化の爲めに活動せんことを要求することなり。故に吾人が吾人自身を社會の一分子として(小我を目的としてに非らず)より高くせんと努力することが充分に道德的行爲たると共に。多くは他の分子若しくは將來の分子の爲めに、即ち大我の爲めに小なる我を沒却して行動することをより多く道德的行爲として要求せらる。彼の大我の生存進化を無視して小我の名譽榮達を要むる行爲が不道德とせらるヽのみならず、小我の利益其事を目的としての(社會の一分子としてに非らず)行爲が假令偶々社會の利益に歸することありとも一般に道德的行爲とされざるはこの故なり。-實に、現社會は法律の上に於ても道德の上に於ても社會主義を理想としつゝある者と云ふの外なし。然るに社會の現實は、個人主義と其の根底たる私有財產制度の爲めに、事實に於ては經濟的貴族國となりて個人の私有すべき財產なく從て個人主義も消へ去りつゝありと雖も、個人の凡ての努力は多くの私有財產を獲得して多くの自由を個人其者の利益の爲めに待望しつゝあるの現社會鮮蝦上於ても理もとを會て上道由 らつて理法實想律道のとの德道現德法律狀態なり。我が日本の如き歐州の大革命の如く一たび國家萬能社會專制の偏局的社會主義を打破して個人の權威を絕對に要求せず、維新革命と雖も甚だ微溫的なりしを以て。個人の自由獨立の爲に國家社會が手段よして存するかの如く考ふる機械的社會觀が凡ての法律道德の上に規定さるゝ〓と歐米の如くならず、從て、國家が法律を以て强制しつゝある所も、社會が道德を以て要求しつゝある所も、偏局的社會主義を繼承して個人の權威を無視するは社會主義の許容せざる所なるに係らず社會性を最高權威となしつゝある點に於て社會主義の理想を朧げなからも想望しつゝある者なり。(故に歐米に於て土地資本の公有を唱ふることは個人主義によりて建てられたる法律より見て秩序紊亂たり得べしと雖も、國家萬能の偏局的社會主義を繼承する日本の法律は法律に背反すとなして處罰するの理由なし。從て、彼の社會主義者と稱して個人主義の自由平等論をなせる者が國家其者の否定を公言するは日本の法律は所罰すべき權利ありて歐米の法律は秩序紊亂を以て壓迫の會局米義個偏日主的との人局社偏歌主的本義
するの理由なし)。而しながら、日本の法律が偏局的社會主義を繼承すと雖も、單に國家が最高の所有權者たることを法律の理想に於て表白するに止まり、事實は個人主義を產むべき私有財產制度なり。固より極度まで主張せられたる個人主義の歐米と雖も理論を以て事實を左右する能はず、引力なくして天體の秩序が保たれざる如く社會性なくして社會國家の一日も存在し得べき者に非らざるは論なしと雖も。而して日本に於ても維新革命と共に個人が私有財產權の主體となり明治六年の地租條例に於て更に國家の最高の所有權の下に土地所有權を得て、玆に個人主義の根底を築きたるに係らず、尙『愛國』の聲に於て中世的蠻風の社會性が喚び起さるゝ如くなりと雖も。其の微にして存する社會性が私有財產制度の個人主義的社會組織の爲めに壓伏せられ破壞せられて、獨り個人性のみ四圍の個人主義的空氣を呼吸し個人主義的思想の階級に培養せられて以て枝を張り根を擴け實に牢乎として拔くべからざる大木となれるなり。斯くの如く、個人性のみ繁茂して社會性のの財と社變中早期準備品 附加上の性萠芽にて摘み去らるゝ如き社會組織の下に於て、社會性の摘み去られて個人性のみ强盛になれる吾人が、個人性の必致に驅られて犯罪を犯し若しくは大なる努力と克已とを以て漸く犯罪を犯さゞれば足ると云ふ消極的善人となりて甘ずるの外なきは論なきことなり。今の法律道德の理想が社會主義によりて實現せられたるの世は然らずっ道德に努力なく克巳なし。人は悉く社會性の自由に從ひて必致的に道德に從ふ。故に道德的行爲を以て克巳と努力とに在りとせば、社會主義の世には道德家と稱せらるゝ者なく、其最も必要なるものなるに係らず人は空氣の如く無代價に感ずべし。-是に於ては道德世界と云ふも不可なく無道德の世と云ふも可なり。今日に於ても盜賊と貧困者に取りては殺さず盜まずと云ふことが大なる努力と克巳とによりて達らるべき道德なるに係らず、恒產と恒心とあるものには單に其れだけにて何の尊きことを加へざる平常の無意識に非らずや。今日の如く黃金と權力との社會組織に於てこそ、吝〓ならずとか、賂賄を貪らふ界德は義社ぺとの無の會主し云世道世
ずとか、買収されずとか、權力を濫用せずとか、云ふに過ぎざる消極的の道德行爲も、大度なる實業家と云はれ〓廉なる官吏と云はれ高潔なる議員と云はれ賢良なる大臣と云はるゝなり。而して是れ大なる努力と克巳とによりて不德に抵抗し得たる僅少の人格にして、其の多く要求せられて誠に少なきダイヤモンドの如くなるを以て燦爛たる光輝を放ちつゝあるなり。而しながら、黄金と權力との社會組織の去れる社會主義の世に於ては、恰も盜賊と貧困者が大なる努力と克巳とによりて達する殺さず盜まずと云ふ道德の如く誠に價値なき平凡のことゝなる。凡ての個人は社會に經濟的從屬關係を有するを以て大我其者の一分子たることを意識して猷身的道德を生ず。(第二編『社會主義の倫理的理想』及び第四編『所謂國體論の復古的革命主義』に於て經濟と道德法律の關係を說けるを見よ)。社會は社會性の自由に活動すべく社會の利益を目的として凡ての制度を組織せるを以て、社會性の他に壓伏せられて其の自由の東縛を感ずることなく。個人性は個人自身が社會の一分子としての發展として其の自由を尊重せられ、自我の發展其れ自身が道德的意義を有すべし。斯くのごとくならは意志自由論もなく意志必致論もなく各人の恣なる行動それ自身が道徳的行爲となるべし。而して悉なる行動が凡て道德的行爲ならば是れ誠に無道徳の世なり。而して、社會性を培養する所の社會組織によりて强盛にせられたる社會性は、雌雄競爭によりて累積せられて遺傳し更に强き社會的本能となる本能とは遺傳の累積なり。即ち後天的の社會的境遇によりて强盛にせられたる社會性は、其社會的境遇の强盛を遺傳して先天的に社會性の强盛なるものを有する、所謂聖の天なるものとなる。若し、是の道德の本能化を否むものあらば、是れ實に天地創造說を信するものにしてダーデン以後の人に非らず。天地の始めより各々の生物種屬が其れ〓〓に裁然と存在したりと云ふ思想に非らずしては、本能の固定的なるを今日に主張する能はざるを以てなり。言ひ換ふれば、各々の生物種屬が各々本能を異にして其れ〓〓の階級を形くれるは、其れ〓〓なの創は考な固本今り思造天ふり定能日就地ると的をのと想
の生物種屬の境遇による種屬的經驗の遺傳的累積にして、人類の本能の今日あるは類人猿以後の種屬としての經驗を遺傳によりて累積したる者なり。人類今後の進化を想像し得ざる今の生物進化論者に取りては人類の本能の今後に變化すべきとを推論するの困難を感すべし。而も、是れ等しく人類を天地の始めより固定的に創造せられたる者と考ふべからざる如く、遺傳の累積によりて作られたる今日の本能を固定的に考ふる〓とは純然たる天地創造說なり。否〓生物進化論の供結する無數の材料は吾人をして道德の本能化が實に社會主義實現後の二三代に來るべきとを斷言せしむ!彼の人爲陶汰によりて二三代にて全く異なる種屬を作るはこの本能の變化の容易なるが爲めにして、野鴨より家鴨を作るに二三代の間迄は飛び去らんとする野鴨の本能を有すと雖も終に境遇の力によりて全く本能の異なれる家鴨として作り上げらるゝ如き著しき事實なり。若し、斯る明白なる事實を他の生物種屬に於て見るならば、等しく生物種屬の一たる吾人々類の本能が社會主化なのる汰人る急本に爲變速能よ陶義の境遇によりて二三代の後社會性の强盛なる本能に變化すべきを疑ふの要あらんや。吾人は信ず、今日吾人の如き特殊に强盛なる小我の利巳心を有するは等しく本能の變化にして、原人より歷史時代の私有財產制(固より此の私有財產制とは個人主義の革命以後の如く個人凡てが財產權の主體たる者に非らずして國王或は貴族等の私有なり。更に後に說く)に入る間の九方五千年間は堯舜の如き無爲にして化する道德世界として强盛なる社會性を有せしなるべしと。是の例として他の生物種屬には、例へば豚の如き其の人に畜養せられて野猪の本能を失ひしと雖も之を野に放つこと二三代ならば又野の境遇に適應する本能を得て再び野猪となると云ふが如し。實に吾人は無限の歡喜を以て信ず、今日の强盛なる利已的本能は人類進化の一過程にして社會主義の世に進化せば其の境遇に適應する强盛の社會的本能を有すること、恰も野鴨が家鴨となり豚が野猪に返へるが如くなるべしと。而して是れ花の雷なりし堯瞬の世が爛熳たる櫻花として開く神の時代なりとす。よ入制有能なの利今りり度財はる强巳日のしに産私本盛心のの舜に二るにて三豚し熳奮時て三如返野代がたを代堯代くへ猪に二堯代くべら爛む
·86進化更に『眞』に於て進化すべし。吾人は玆に於て更に生物學の上より獨斷的不平等論を打破して全く其の呼吸を止めざるべからず。吾人は屢々『人は只社會によりてのみ人となる』と云ふベルゲマンの語を引用して、『社會主義の倫理的理想』に於ては下層階級の誠に低級なる階級的善に止まる所以を說き、又本編に於て野蠻人の野蠻人に作らるゝ所以の理を說きたり。吾人は更に進で斷言せん、-「人類はカンガルしと等しき有袋動物なり』と。是れ決して比喩に非らず、生物學上の嚴肅なる事實として人類は誠にカンガルーと少しも異ならざる有袋動物なるなり。何人も知れる如く、カンガルーは一寸ほどの大さにて一週間にて母の體外に出で後の九ヶ月を母の袋の中に養はれて始めて完全なるカンガルーとして獨立す。即ち、他の胎生動物にはこの袋が母の內部に在りて其の子は出生までの全き九ヶ月を體內の袋に送りて出づるに反し、カンガルーに於ては其の袋が母の體外に在りて兒は體外の袋に九ヶ月人類はと等しき有袋電気のを送るなり。獨斷的不平等論者は一寸のカンガルーと九ケ月後のカンガルーとを比較し、元來カンガルーは不平等なる者なりと論じつゝあるに非らざるか。-生れたるまゝの人は一寸の大さを以て一過間にて世に出てたるカンガルーなり、少くも二十才迄を社會の袋に〓育せられて始めて獨立なるカンガルーとして世に立つべき者なり。生物學の高貴なる〓訓を見よ、〓育とは生殖作用の一部(補缺と云はんよりも實に一部)なりと云ふとなり。他の胎生動物が體內に於て完成する所の九ヶ月の生殖作用を體外に於てする所のカンガルーに取りては、體外の九ヶ月が生殖作用の一部なる如く、二十才迄の〓育期間は人類にとりては社會と云ふ母の體外の袋に養はるべき生殖作用の一部なり。生物の下等なる階級の者に至つては分娩其事にて生殖作用は完成せらるヽを以て、分娩後は全く〓育なくとも完全なる一生物として獨立す。然るに高等なる生物に至つては分娩のみにては生殖作用の完成せられざるを以て、〓育と云ふ生殖作用を爲す。例へば、猫の如きは絕へず體外の袋に在一作がれる〓のくなの殖月の生人會發動する。二十オ部用生まなのに て
其の尾を敏速に振ひ小猫に之を捕ふる〓とを慣れしめて鼠に對する〓育をなし、虎は噛み殺したる動物の頭に小虎の小さき齒痕を附けしめて餌を捕ふることを〓育するが如し。然らば最も高き階級の人類に於ては最も長き間の綿密精練なる〓育を要するは、不完全を極めたる生殖作用の一部として缺くべからざる重大なる生殖作用なり。現今の如く殆ど〓育なき下層階級を以て六千年の智識を以て充たされたる袋に養はるゝ上層に比するは、殆ど人の形を爲さゞる胎兒と分娩後の小兒とを比するが如き沒理なり。人類は分娩迄の九ヶ月間に於て人類に至る迄の生物進化の歷史を經過し、分娩後より二十才に至るまでの間に於て更に原人よりの十万年間の生物進化の歷史を經過す。若し、胎兒と小兒とを比較して不平等論を唱へ一は獸類時代にして一は人類時代なることを忘却せざるならば、原人の野蠻時代と十万年後の文明時代とを比較して不平等論を說くとは何事ぞ。實に今の下層階級は數百千年以前の智識に止まるが故に、憐むべき學者等よりして『人は元來不平等吸後論不獨のの平断呼最等的なり』と云はれつゝあるなり。而して斯くの如き不平等論は一切の時間を無視して、二十世紀の兒童が蒸滊と電氣とを解するを以てブラトーアリストーツルの上に置き六千年の歷史の遠き古代に不平等論を逆進せしむる者なり。分娩のまゝに非らず固より〓育さるべし、而しながら小猫の鼠を捕ふる如く食物を得る爲めの外人類の文明時代として受くべき十万年間の智識的累積の袋に入らざれば決して文明人として完成せられたる分娩に非らざるなり。又固より智識的〓育を受けずとは云はず、而しながら辛ふじて宮本武勇傳の講談を讀み得る智識と三十才まで古今內外の累積せる智識に養はれたる者とは、生殖作用の完全の程度に於て恰もカンガルーの袋より三週間にて取り出せしものと九ケ月後に出でたる者との如き懸隔あることを記憶せざるべからず。〓に階級的隔絕の現時に於て凡ての智識が階級的眞となりて、今尙佛蘭西革命時代の獨斷的平等論を繼承しつゝある無智の階級も、又階級的隔絕によりて誤謬にされたる智識によりて養はるゝ〓とによりて獨斷的
不平等論を揭げて他を輕侮しつゝある今の學者階級も、其の袋の異なるより生ぜる變種のカンガルーなりとす)。生殖作用を娛樂として取扱ひつゝある者にとりては〓育が生殖作用の一部なりと云ふ如きは了解に困難なるべし。而しながら生物哲學の上より見る時に於ては、生殖作用は種屬的經驗智識を肉體に於て即ち本能として遺傳する方法なり、〓育とは其の本能の上に社會的に遺傳したる六千年の經驗智識を精神に於て遺傳する方法なり。故に、爛燈影暗き閨房は一夜にして十萬年の課目を〓育する講壇にして、獨身の基督が野に立ちての〓へは一千九百年間の子々孫々が父と仰く如く幾万限りなき子を產める大なる生殖作用なり。家庭も學校なり。圖書館も閨房なり。論語も戀の言葉な00紅筆の玉章も聖書なり。社會凡てが產褥なり。〓社會主義の要求は社會の全分子が四疊半と待合との講壇を去りて、論語と聖書とを戀の言葉とし玉章として社會の產褥に於て產聲を擧げんことを第一とす。而して社會の全分子たる凡ての個人が平等に之を用生屬と殖的は作種經驗智識を肉齡的に遺傳す〓育社用〓はる會と青し的は作殖すになる遺り生傳非正一好評家等と解9平民義きの主命惡名要することに於て個人の權威を絕對に認むる所の個人主義と合致す。社會主義か〓貪に停滯する下層的平等と解せらるゝが爲めに、而して社會主義者の多くが單に皇帝を〓覆し貴族を打破して平民階級にまで上層を引き下ぐれは可なるかの如く考へて『平民主義』の命名をさへ生ずるに至りしが爲めに、古來の大皇帝若しくは剛健なる貴族等が振へる個性の權威を無視するかの如く誤られて徒らに劣敗者の鳴號なるかの如く取らる。若し社會主義とは斯くの如き者とせば吾人は、今この走らしつゝある筆を折りてむしろ君主々義貴族主義を唱ふと云はん。個性の權威は單に多數なるの理由を以て犯すべからず。社會主義とは最大多數の最大幸福と云ふとにあらず。神聖不可浸なる絕對無限權の皇帝が其の一個性の權威を以て全社會を擧れる大多數をも壓抑したる如き『個人の自由』なくして何の社會主義あらんや。而しながら社會の進化は凡てのことに於て直ちに全分子に及ばざる如く、個人の自由につきて先づ其の一分子たる皇帝をのみ進化せしめて君主國となり。更に其先自絕個づ由對人は的社
の進化を少數分子に擴張せしめて玆に貴族階級に及びて貴族國となり、貴族等は其の武士農奴の上に君主として(彼等は皇帝と等しく君主なりき)對絕の自由を有し、他の自由を得たる無數の君主等と權威の衝突する塲合に於ては乃ち强力の決定なりき。如何に貴族國時代に於てこの個人の自由の決定が强力によりしかは後に說く『所謂國體論の復古的革命主義』に於て日本の例に見よ。日本の皇室は歷史の始め其强力によりて絕對の自由を個人の權威に於て表白したり。貴族階級たる群雄諸侯の多くの君主は(皇室も君主なりき)又等しく其强力によりて自由の衝突を決定し、其の强力が他の其れを壓倒して働らく時に於ては絕對無限の自由を振つて他の多くの君主の頭上に白刄を閃かしたりき(而して皇室も君主なりき)。斯くの如く、個人の權威の爲めには如何なる多數を以ても敵として敢然たるべしとの自由主義は、誠に社會が君主國時代よりの理想として揭けたる所の者なり。社會主義が社會進化の理法に背きて鳴號さるゝ時に、思想界に於ては空想の亂失を蒙りて戰死し實と君ら實分會な主れ現子の一る國てせに代族せに數現其國る擴階のの實少數級貴時貴張際界に於ては暴民の動亂として忽ち沈壓せらる。社會の一分子が金冠の下に爛々たる眼を光らして社會の大多數を威壓したるの時は、是れ個人の權威は絕對無限なるべしとの理想が先づ社會の一分子によりて實現せられたるの時なり。社會の進化は下層階級が上層を理想として到達せんとする摸做による。(タールドの摸倣說は倫理學に於て同一の說明をなして合致せる者ある如く凡て當れり)。而して摸倣の結果は夕ルドの言へる如く平等なり。群雄諸侯の貴族階級の君主等は平等觀を血ぬられたる及に揭けて君主と同一なる個人の絕對的自由を得んとを摸做し始ためり。其の最高權威たる天下を取らんとの理想は富の爲めに非らず名の爲めに非らず、自已の自由を防くる凡ての者を抑壓して個人の權威を主張せんが爲めのみ!而して其等の君主の中に於て其の理想を實現すべき强力を持てる者は或は後醍醐天皇となりて他の君主たる北條氏を滅ぼし、或は德川氏となりて他の君主たる多くの天皇諸侯等に壓迫を加へ以て其個人の權威を全社會の上に振ひ、而して强の摸倣Linh平等り衝權個代戰突威人と國なののは時
力に於て乏しかりし諸候階級の君主等は武士農奴の下級に向つて其の自由を絕對に發現したり。社會の進化は平等觀の擴張にあり。個人の權威が始めは社會の一分子に實現せられたる者より平等觀の擴張によりて少數の分子に實現を及ぼし、更に平等觀を全社會の分子に擴張せしめて玆に佛蘭西革命となり維新革命となり、『個人の自由は他の如何なる個人と雖も犯す能はず』と云へる民主々義の世となれり。故に現今一の個人の利益の爲めに他の個人はの法律は誠に社會民々主義なり。犠牲たるべからずと云ふ民主々義と共に、其の個人の犧牲たる塲合は社會の利益にして幟牲を要求する所の者は個人たりと雖も(軍隊の長官の如き、裁判官の如き)そは個人としてにあらず國家の利益を主張する國家の代表者としてなり。法律の理想は誠に社會民主々義なり。只經濟的貴族國の爲めに對他種屬との生存競爭に於て、又社會單位の生存競爭に於て、貧困と戰爭の劣敗者を生しつゝあるが爲めに全人類を擧りて未だ生物界の上に君主たり貴族たる能はざるなり。吾人は繰り返會律水後輩主社法日以々義なへして斷言す、社會主義は君主を〓覆し貴族を打破して上層階級を下層的平等の內に溶解する『平民主義』に非らず、社會の全分子が往年の君主國時代の一分子の實現せる所を凡てに實現せんとする個人の絕對的權威にありと。今の法律を見よ。德川時代の平民なく、戰國時代の貴族なく、勇畧仁德時代の君主なし。只、國家と國民(天皇も廣義の國民なり)とあり。而して國家は大個體の點より見られたるが故に社會主義なり、國民は小個體の立脚點より考へられたるを以て民主々義なり。(尙『所謂國體論の復古的革命主義』を見よ)。この說明を解するならば、社會主義は衆愚が多數を挾て天才を壓迫すること雅典市民がソクラテースに於けるが如くなるべしとの非難の理由なきを見るべし。-社會主義は天才主義なり。而も全社會の天才主義なり。(故に吾人は今の社會主義者の或者が『凡人社』と名くるを代へて天才社となさんことを望む、先覺者は決して凡人に非らず)。天才とは衆愚の壓迫に打ち勝ちて個性の變異を發輝し得たる權威ある個人今し平の民世義天社ら義衆な才會ずに最り主の全非主
なり。故に天才の多くは衆愚を排して個人の權威を振へる大なる意志の君主貴族(固より數代の後には退化して他の權威に代はらる)と、其君主貴族に對して個人の權威を主張したる大なる頭腦に在り。而しながら、過去の天才に於ては其の個性の變異を發輝せんが爲めに個人の權威を無視する所の狹少なる社會良心と鬪ふことの爲めに、其の大なる意志と大なる頭腦とは個性の發輝よりも發輝を自由ならしめんとする努力の爲めに多くを消耗せらる。社會主義の世は然らず。古代君主國の一分子が實現して示したるほどの絕對無限なる個人の自由が社會の全分子に實現を擴張せるを以て、天才は自由其事の爲めに努力するの要なく凡ての努力は與へられたる個性の發揮に注ぐ。實に天才の種は無數に地に落ちたるなり而も今日までの世は天才の培養さるべき自由なる沃土に非らざりしが爲めに多く無名の英雄として腐朽し、或は土質を異にせる階級に播かれて多く倚形の天才となり與へられたる一部若しくは變質の或る部分を發露するに止まる。-社會主義は先づ發天は會展才先主な才於る沃自すのづ義社り主て點上由べ義天にたのき天才の發展すべき自由の沃土たる點に於て天才主義なり。而して更に天才を培養する所の豊富なる肥料を有することに於て益〓天才主義なりとすべし。凡て種子にとりて發育を自由ならしめざる防害あるべからざると共に、發育すべき肥料を要す。天才とは社會より肥料を吸收して開き芳ふ社會の花なり。大詩人も之を野蠻部落に置かば十才の兒童の有する如き僅少なる言語を以て何を歌ひ得べき、思想の根も巳に存在する社會の其れに材料を取り天地を見るの瞼も社會の母の手によりて開かる。大釋迦をして波羅門の哲學と衣食に不自由なき印度に產れしめずして終生を營々たる氷雪の下に哲學の芽もなきエスキモー部落に置けば實に少さき偶像〓の開祖たるに過ぎず。基督が未だ世界的眼光なくして只學者とパリサイ人とを對手とせしは猶太以外に足跡の及ばざりしが爲めにして、ポーロによりて始めて世界に汎濫せる思想となりしは基督の思想を抱て世界に翼を張れる羅馬に入れるを以てなり義經が鵯、越の武將たるに過ぎざるは其の個性を發揮すべき境遇のなのすをに義社すな才益にるをる豊る培天は會り主々於こ有肥富所養才更主肥と義天てとす料天才と社會との關係
一島國なるが爲めにして、ハンニバルのアルプスは其の舞臺の大陸なるを以てなり。噴飯すべき朕と稱する獨乙皇帝が一たび全地球の上に君主たらんと夢想せしは其の十九世紀なるが故にして、シーザーの大と雖も池中海沿岸を征服して世界玆に盡くとして甘ずるの外なかりき。コロンプスが地球圓形の意見を述へしとき、當時の學者等は忽ち說破して然らば吾々の足下に當れる世界の裏は草木も倒まに生へ居るべく人類鳥獸皆奈落の底に落ち行かざるべからずと言ひて爭ひぬ、而も是れ引力說なき時代に生れたるが爲めにして其の多くの中には卓越せる個性もありしなるべしと雖も電信と鐵道とを以て小女が手球をかゞるごとく地球を弄びつゝあるを見る今日の小學生徒にも劣りしなり。大建築には多くの材料を要す、如何なる天才と雖も思想上の大建築をなすに其の材料たるべき思想を先づ社會より吸收せざれば其の建築的個性を示す能はず。而して大建築には亦前人の建築術を見るを要す。南洋の土人部落に二十層の家屋が建たず、希獵羅馬の建築術、中世基督〓の寺院、印度支那の佛寺伽藍が歷史的發達を有すと云ふも是れにして、十進數なき原人部落より今日の天文學は傳はりたるものに非らず、アリストーツルの續繹法のみにては今日の科學的研究は起るものに非らず。天才とは其の時代までの社會的遺傳の智識即ち社會精神を一たび一身に吸入し、吸入したる材料を其の變異なる構造力によりて自巳個性の模型に之を構造し之を後代の社會精神として社會の上に放射す。凡ての天才が其の思想に於て時代的彩色を帶ぶと云ふはこの理由にして、哲學史が連續せる思想系によりて編まるゝも是れなり。天才が社會的生物なりと云ふとは凡ての眞理に非らずと雖も、天才が社會の土と肥料とによりて培養されたる花なりとは動かすべからさる事實なり。然るに人類の今目までの歷史は如何。天才の種は植物の種子の風に吹かるゝ如く人生に落つるも、·自由なき磽确の爲めに芽も出でず、芽ばえたるものも君主貴族の馬蹄に蹂躙せられたりき。而して其の僅少なる種子が自由を得たる上層階級に落ち、若くは上層階級の手によりて定義天才ののき沃自オ代
自由の土地に移し植へらるゝとも、社會の進化せざる時代として肥料の貧しきが爲めに開く所の花も誠に野花に過ぎず。斯くの如くなれば、史上の天才なるものゝ眞に百代を隔てゝ望むは論なく、而して其の光も時代を隔つるに從て微かに消へ行くなり。古人と今人も母體を出づるときは同一なる原始人なり。其の天才も原始人の部落に於て原始人の天才たるべき個性の變異なり。只、社會の床に於て社會的累積の智識を遺傳せしめるゝ生殖作用によりて、古人は古人となり今人は今人となる。基督は天國を星の遠き彼方に指したりき、而しながら彼れよりも智識ある今日の吾人は近き將來の地球に樂園の在ることを認めて步を運びつゝあり。釋尊は結迦跌坐して宇宙循環說の外に出つる能はさりき、而しながら彼れよりも研究の積める今日の吾人は宇宙人生の進化しつゝあることを明かに解し得たり。アリストーツルは明哲なりき、而しながら吾人を以て見れば神童たる〓とを免かれず。ダー非ンは生物進化論の大成者なるが如くなりき、而しながら彼の遺傳を受けて豊富の天時料のき肥代彼の白髯よりも年老いたる吾人は二十三才にして彼れ以上の思想を有す。あゝ斯くの如く無限に累積し無涯に遺傳して止まざる『類神人』の眞個性は社會精神を特殊にするものにして社會は其の特殊にせられたる個性の精神を受取りて普偏にし以て社會の精神として後代に遺傳するものなり而して個性の社會精神を特殊にせんとして吸収するは其の社會が遺傳して普偏に存在せしむる先代無數の個性の精神を吸収すと云ふことなり。社會と個人とは單に大我と小我との立脚地の相達なり。然らば何ぞ個人の自由を絕對に尊重する社會主義を以て衆愚萬能主義と解するや。社會主義が物質的保護の平等と共に精神的開發の普及を無上の要求となしつゝあるは、如何なる天才の個性と雖も社會の水平線が餘りに下級にしては其特殊にしたる精神も貧しく又其の精神を受取りて後代に遺傳する社會精神となし能はず、爲に天才が無名にして腐つると共に社會の進化が、遲々たるを以てなり。くれ〓〓も知るべきは社會主義と個入主義との理想の合致なり。社會全分子の(即合主と會於ふり精個過神社致義個主て點と神性去と會の人義社に云なののは精
ち凡ての個人の)あらゆる歷史的社會的智識を以て開發せられたる自由平等は、全分子全個人が其れ自身誠に天才の如く輝やくと共に、更に其の中の最も優れたる滿天星の如き天才の精神を凡て悉く普偏にして其の社會精神を大にし、更に後代のより大なる天才に基礎を與ふ。のより大なる天才はより大にせられたる基礎の上に立ちでより大にせられたる社會精神をより大なる天才を以て特殊にして之を社會に放射し、より大にせられたる社會精神は其のより大にせられたる精神を受取り之を更に後代のより大なる天才のより大なる基礎として普偏にし行く人類は玆に至て『眞』の爲めに其の本能を變化すべし。即ち類人猿より分れたる人類が其の社會的生殖作用の爲めに腦髓及び神經々統を他の生物種屬の對比すべからざるぼどに進化せしめたる如く、『神類』に進化すべき類神人は靈能の驚くべき透哲明敏なる本能を有するに至るべし。書き出て 大きな人るよりになる場合には吾人は從來の多くの宗〓の用ひ來れる神と云ふ語の意味する思想と區別せんが爲めに『神類』の文字を用ひ來れり。吾人は更に人類が如何に『美』に於て進化すべきやを想像すべし。固より凡ての眞善美は進化的のものなるを以て、一の時代若くは一の地方に於て眞とし善とする所を以て凡ての時代と地方との其等に推及する能はざる如く、美に於ても亦時代的に地方的に其れ〓〓異なるは論なし。是を地方につきて云へば、或る野蠻人は頭臚の極端に圓錐形なるを美とし鼻の扁平にして厚唇に入墨せるものが最も戀慕せられ、多くの黑色人種間にては白色の男女は醜なりとして多く配遇を得す。又ダー井ンが大膽に形容せるソマル美人の臀の如きが其部落にては美の絕項とせられ、支那人は顏の平坦にして類圓く眉淡き足の小さきを美とし、歐州は胸張りて脊高く顏面の曲線の明瞭なるを美とし、日本人は臀細く髦黑き卵子に目鼻を以て美とする如し。又時代につきても社會の進化し理想の進化するに從ひて美の理想を進化せしめ、上薦の美進化、的は運凡な進善て美り化美の
眉墨となり、馬上の英姿となり、元綠の丹次郞となり、更に胸間の動章となり、演說家の髯となり、小說家の瘠頰となり、角帽となり、海老茶袴となれるが如ぎ是れなり。斯くの如くなれば一の進化的過程に過ぎざる所の今日の美の理想を以て永久を律する能はざるは論なきことなりと雖も、而しながら今日の理想として仰ひて以て到達せんと努力しつゝある所は、男子としては基督釋迦の如き女子としては觀世音マリアの如きものなるべし。是れ實に眞善美を體現せる容貌の圓滿なる相として、現世に求むべからずとして斷念しつゝ而も憧憬しつゝある美の頂上とさるゝものなり。而しながら是れ疑ひもなく社會主義の實現後二三代を以て實現され得べき美の理想なるは先きに說ける所によりて解せらるべし。只如何せん、人類の神と仰き佛と仰く所の理想(實在の彼等に非らず)の美に於ては排泄作用なきに、吾人にはこの醜怪極まるものあり。凡ての理想は凡て實現さるゝ者なり。この醜怪を維持しては神の美に非らざるは論なし。而して吾人は亦目的論の哲學と營業交換公園公開局報·重いしてて代べる用排人しをを泄類得去作は生物進化の事實によりて、人類がこの排泄作用より脫し得べきことを確信す。吾人は依然として科學的基礎を保つ。生物進化論に從へば、凡ての生物は其の生存進化の目的理想の爲めに、境遇に應じて或る器官は著しく進化し或る罪官は着しく退化して以て今日の如き無數の生物種屬に作られたりと云ふことなり。同しく弧虫類より分れたる者なりと雖も、鳥類に於ては其の前肢の驚くべく進化して羽翼となり、獸類に分れて四肢を有するに至れるものも、其の水中に入れるものは又更に海鰮の如く四肢半ば尾に退化し鯨の如く全く尾となれる如し。人類も亦然り。人類としての境遇に適應して生存せんとする目的進化せんとする理想の爲めに或る器官は著しく進化し或る器官は著しく退化したり。一切の工業的生產をなすに必要なる前肢の指の自由なる運動(猿猴類にては拇指が特殊なる働ぎをなさず他の動物は單に歩行の用に供せらるゝに過ぎず)、腦隨及び神經々統の比類なき發達(是れ人類が猿猴類と別人類がこの排泄作用より脫し得べきことを氏んて生物し退せをのにの的其種"text "〓 〓 〓 〓 〓 〓 〓 〓 〓 〓 〓 〓分せとる進器人る選部化官類部化分せのの
種の階級に分類されざるべからざる理由なり)、の如きは器官の進化せる部分にして。全身の毛の脫落せる(猿猴類にては眼の周圍と尻の赤き部分のみ脫落し他の獸類は進化して毛深かし)、耳の運動する能はざる<(猿猴類の多くは自由に動かし兎の如きは進化して著しく入きくなれり)、齒の少さくして减少せる(猿猴類は人類より大にして多く肉獸食は大に進化せり)、尾の胎兒にのみ見られて分娩後は尾觝角の體內に陰れて縮少せる(猿猴類は凡て尾を有し他の獸類は多く著しく進化せり)、如きは皆器官の退化せる部分なり。若し舊式の唯物論を取り若しくは天地創造說を取りて、天地の始めより神の作造によりて若しくは何の理由もなく單に、牙ある者、翅ある者、直立する者、匍匐する者、尾ある者、毛ある者として存在したりしと信ぜざるならば。吾人が目的論の哲學と生物進化論とによりて、人類の理想とする所に從ひて凡ての器官が進化し若しくは退化すべしとの推論を否定する理由なし。否ー人類の今日迄に如何に消化器の退化せるかを見よ。口に於て著しく退化せり0獸類に共通なる三つ口の如きも人類にては偶然の倚形にのみ見らるべきほどに退化せり。齒に於ても猛獸の如き犬齒は固より、草食獸の如き大なる臼齒もなく、又數に於て猿より進化し、文明人は更に野蠻人より退化し、第三白齒の如きは全然飮亡し、文明人中の都會人は田舎人に比して上側門齒の早く脫落すと云ふほどに退化せり。胃膓に至つても其菜食をなすが爲めに純然たる肉食獸よりは比較的に長しと雖も、他の純然たる草食獸に比して驚くべく退化し、文明人は野蠻人の腹部より更に小さく退化せり。彼の虫樣垂と稱せらるゝ膓の上部に位して附着せる者の如きは他動物に於て消化作用をなすも人類に至つて甚しく退化したる結果、疾病の爲めに切り去らるゝも支障なきほどに無用のものとなれりと云ふ。是の消化器の退化の事實はラマルクの用不用說の如く使用せざる器官は漸時に退化すと云ふ〓とを示したる者なり。即ち反蒭類の三つの胃と長き膓とを有するは最も消化に困難なる食物を食ふが爲めなり。鳥類の胃壁が石の如く堅く胃中に又石を有由其退化で今人の
すと云ふは食物を粉碎せずして送る必要より胃中に摺鉢を置くものなり。野蠻人の齒が文明人の其れよりも多くして大に田舍人の門齒が都會人よりも健全なりと云ふは食物を切りきざまずして口に投するが爲めに口中にて庖丁を要する故なり。野蠻人が文明人よりも胃膓の長大なりと云ふは外界に於て食物を消化する煮燒を知らざるが爲めに其の膨脹せる腹中には鍋釜を入れたるが故に大なるなり。-人類は胃中に摺鉢を置かざる如く口中より庖丁を取り去る能はざるか。消化器の或る部分を虫樣埀たらしめたる如く鍋釜の凡てを取り出す能はざるか。三つ口が人類に取りて倚形なる如く肛門を有することが倚形たるに至吾人は科學的〓究の名譽に掛けて斷言す、人類らしむる能はさるか。の今日迄の消化器の退化が食物の進化によると云ふ凡ての生物進化論者が科學者の推理なる如く、吾人は科學者としての推理に從ひて更に人類今後の食物の進化は同じき生物進化論によりて人類の消化器を全く退化せしむべしと。而して食物の進化は一百年前のマルサスの枯骨業化器る併進食強上の稅的化粧化退てに物學化愈入時調し々り代く至る用排て合を潰全に去作を合掌しつゝある經濟學者に非らざれば充分に期待すべく。今日の野蠻人と大差なき原始的食物が近き將來に於て食物の工業的生產時代となり、今日の如く腹中の鍋釜、臍のある小工塲によりて消化せられつゝあるを、蒸滊と電氣とを有する大消化器によりて消化するに至らばラマルク說によりて漸時に退化し始むべし。而して更に遠き將來に於て今日の化學者が實驗室の窓より豫言しつゝある如く化學的調合の食物時代に入らば、是れ古來よりの理想たりし所謂仙藥なり。人口は茲に消化器の凡てを退化せしめ(若しくは痕跡に止まらしめ)て三つ口の如く尾低角の如く全身の毛の如くならしむべし。是れ臺所の用を務めたる胃が大工塲に移されて膓の水道が下水を流さゞるの時なり。下水の糟粕に眞玉手を汚しつゝありしお三どんの肛門が化學者を家僕として菊花の一つ紋を着けたる令夫人となるの時なり。排泄作用の要なくなれる時なり。『美』の理想は斯くて完たじ。理想とは來るべき高き現實なり。進化


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