なき母の命は五文河豚汁 夏目漱石の俳句をどう読むか82
賭けにせん命は五文河豚汁
このように多くのサイトが「河豚汁」を「ふぐじる」と読んでいるが「ふぐとじる」が正しい。
こうした細かいところを疎かにして偉そうなことを書いていてはみっともない。文学とは所詮文字なので文字が読めないと話にならない。偉そうにしていなければいい。しかし人にものを教える立場で間違えば責任が問われるべきだ。
河豚汁と死の危険性とは最もありふれた取り合わせというよりは、まず切り離せない取り合わせであり、河豚汁と詠まれた以上はその死の危険性を如何に新しく、珍しく、意外の感に仕立てるかの勝負となろう。
河豚汁の解禁は明治二十一年。明治初期には「文」の単位を使う風習が残っていたとして「五文」は賭けの値段としても河豚汁の値段としても安すぎる。
ここは漱石が河豚汁という古めかしい江戸の食べ物を詠み込むのにワザと江戸めかして「命は五文」としたのではなかろうか。
賭けにせん命は三ペソ河豚汁
と言った滑稽が狙いであろう。
夕日寒く紫の雲崩れけり
誰が亡くなったのか「悼亡」とある。続けて、
亡骸に冷え尽くしたる煖甫哉
とある。解説に煖甫は湯湯婆とある。この句はやはり漱石の、
亡き母の湯婆や冷めて十二年
この句と合わせて読まねばならないだろう。漱石の実母は明治14年1月9日に亡くなっているので明治二十八年から振り返ると丁度十四年前……。
二年勘定が合わない。
これはもしや真面目な句に見せかけて、
賭けにせん命は五文河豚汁
からの流れで、
河豚汁紫の雲崩れけり
亡骸に冷え尽くしたる河豚汁
亡き母の河豚汁や冷めて十二年
と笑わせに来てはいないだろうか。
まあ、真面目に受け止めると年勘定もできないくらい遠い昔に母を亡くしたんだなあと読むべきではあろうか。それとも母の死を少しでも近くに置いていたいという甘えと読むべきか。
あんこうや孕み女の釣るし斬り
あんこうは釣るす魚なり縄簾
料理の鉄人で道場六三郎がアンコウを捌く場面を見るまで私は「釣るし斬り」を知らなかった。実が柔らかいので釣るして口から水を注ぎ入れて、体を膨らませておいて削ぐように捌いていた。なかなか壮観なものだった。
その壮観なさまを言葉のリズムも勇ましく「孕み女の釣るし斬り」と詠んで見せるのはさすが。
あんこうや孕み女に腹裂かれ
という洒落も入って行よう。裂かれるアンコウも雌である。
あんこうは釣るす魚なり縄簾
この「縄簾」というのが本当に縄簾にアンコウを吊るしたものか、吊るされたアンコウを変わった縄簾だなと茶化したのかは判然としない。むしろ先ほどの河豚汁からの流れで、高給取りの漱石が食道楽で料理屋の梯子をしてそれを縄簾と詠んでいるような感じがある。
まあ「釣るし斬り」など料理屋でしかやらないだろうし。
[余談]
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