歴史の悲劇ではない 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む41
結局問題は夏目漱石作品が読めない程度の国語力の問題なのではなかろうか。そして自身の国語力の欠如に気がつかず、生涯を終えてしまう。
天才作家平野啓一郎は「22 「文化意志」としての清顕」でこう述べて、自身の国語力の欠如をさらけ出してしまう。昨日明らかにしたような蓼科の策略を確認してみれば、それがけして「歴史の悲劇」などというものではありえないことが明らかであろう。
蓼科の視点から眺めると宮様も清顕も復讐のだしに過ぎない。清顕の純粋な愛に基づく行動と見ていた本多の観察によらず、清顕自身の恋は禁忌を犯すという条件下に沸き上がった不可能への目的のない突撃だった。この誤解に関しては平野は観察者の本質として十分理解している。しかし蓼科の視点がないのは、それが清顕の行動に、本人の意図とは無関係に当てはめられた意味だからと見做しているからなのであろうか。
例えば三島由紀夫と行動を共にした森田必勝と三島由紀夫自身の意図は、同じ行動ではあるのに別々のものであるように見える。しかし意図などというものは本来誰にも見えないものであり、行動は形式である。では清顕の行動を形式と見做した時、それはどのようなものだと定義付けられるだろうか。
昨日の記事を読んでもまだ気がついていない人がいるかもしれない。清顕の行動は蓼科に操られたものであり、復讐は単なる解釈ではないのだ。
清顕が言う通り、確かに蓼科が余計なことをして問題はこじれた。余計な手紙を書いた清顕が悪い、という点を棚上げすると、トリックスターは蓼科なのである。
雪の朝の誘い、接吻のなりゆきに蓼科の手ほどきがなかったと考えるのは無理がある。そして霞町の下宿に聡子を送り出す前には、二人にこんな会話がなくてはならない。
「よろしいですか、もし万が一若様がそのようなことをなさろうとされた時には最初は身体を固くして少し拒むようになさいませ。それでも若様が無理になさろうとされましたら、その時は若様の手を払うようにして少しずつ帯を緩めて差し上げなさいませ」
「それからいよいよとなった時には、若様の御宝物をそっと導いて差し上げ遊ばせ。その位置の見定めは初めてではなかなか難しゅうございます。若様はあのとおりのかたでございますから、あっちかなこっちかなとまごまごさせて恥をかかせてはなりません。」
「それからいざことが始まりましたら、若様の動きに合わせて最初は可愛らしい声で、あんあん、と言うのです。そしてだんだん激しくなったら、これまで若様の前で一度も出されたことのないような低い声で唸るのです。若様はそう長くはもちますまいから、若様がお行きになる瞬間には、タイミングを合わせてキュッと締めながら、いぐーあへあへあへとおっしゃいませ。いぐーあへあへあへでございますよ。決してお忘れになりませんように。懐紙はお持ちですね。では参りませうか……」
セックスは共同作業である。蓼科のコーチなしに清顕の「恋」は成立しなかった。「閨のことにかけては博士のやう」な蓼科に避妊の知恵が全くなかったとも思えない。そう気がついてみると、形式的には聡子は蓼科に孕まされたのだと、そういってもおかしくないように見えてこないものであろうか。
三島由紀夫は『豊饒の海』の中で、この「一つの行動が様々な意味を持ちうる」というテーマを繰り返し展開する。『奔馬』における飯沼勲の死は、自己正当化の死でもあり、焼けバチの八つ当たりの死でもある。清顕の恋が綾倉伯爵の、そして蓼科の復讐でもあることは三島由紀夫が書こうとした『春の雪』の基本構造である。
ここ、つまりトリックスター蓼科の事前準備が見えていないと『春の雪』を読んだことにはならない。
そこが解っていなかった人は先ず私の本を読んで少しは勉強した方がよいだろう。遅すぎるということはない。今日はあなたの残りの人生の最初の日だ。
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