見出し画像

魚河岸や女にもあり棕梠帚 夏目漱石の俳句をどう読むか83

  想像を絶する虚無が目の前にある。

 無言の鑑賞にさらされる言葉たち。まるで言葉の監獄だ。網羅性をもって夏目漱石の俳句を並べれば少しは風流になるものだろうかと、ただデータを張り付ける。俳句がデータになっている。あるいはそれは昆虫標本でピン止めされた蝶のようなものだ。

 そうして夏目漱石が殺されていく。

此頃は女にもあり薬喰

薬喰夫より餅に取りかゝる

落付や疝気も一夜薬喰

 薬食いとは鹿や猪、すっぽんなどを食べること。明治に入って牛を食べることも薬食いと言われた。ここは牡丹鍋のようなものよりももう少し野趣のるものが食べられていた感じがする。「女にもあり」というくらいだから女はそうそう食べない肉が出てきたか。

 餅に先に取り掛かるくらいだから少々獣臭い肉なのかもしれない。疝気というところで下半身の衰えと見做せば鹿かすっぽんか。

 昔は男ばかりがやったものだが近頃は女も薬食いをやるようになったのだなあ、と思えばまずは餅を食べている。と観察があり、今度は自分のこととして、落ち着こう疝気も一夜限りのことだ薬食いをすればと詠んだか。
 河豚、アンコウと来たのでやはり丸鍋あたりか。あれはあれでなかなか勇気のいる食べ物だ。

 三島由紀夫もビフテキなんか食べないで、丸鍋を食べていればよかったのに。

乾鮭と並ぶや壁の棕梠箒

 ノールウェー産のサーモンがお刺身で食べられるように空輸されている今では考えられないことながら、昭和でさえ新巻鮭の塩っ辛いのしか食べられていなくて、明治時代に生のサーモンを食べていたのはアイヌかギリヤークくらいなものだろう。東京にはやむを得ず乾鮭が送られてきてぶら下がっていたというわけだ。
 ウイキペディアによれば江戸後期には新巻鮭が贈答品として用いられていたやに書かれているが、マルハニチロによれば新巻鮭は大正時代に発明されたということで、どちらかと言えばプロのマルハニチロの説をとりたい。

 鮭と箒がともにぶら下がる壁、これはやはり料理屋の壁であろうが、そんなものが当時の漱石にとっては珍しく滑稽な物であったのだろう。
 東京では蛸がぶら下がり、松山では鮭がぶら下がっていたということか。

 何にしても漱石は俳句においてはなかなかのグルメである。

魚河岸や乾鮭洗ふ水の音 


養蚕秘録 上 上垣守国 著有隣堂 1887年


明治四大家俳句集 秋冬 寒川鼠骨 編大学館 1906年

 乾鮭洗ふ、は余分な塩気や汚れを落とすためか。今は棒鱈も乾鮭も見ない。皆感想が嫌いなのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?