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それこそが奇蹟だ 芥川龍之介の『誘惑』をどう読むか⑥

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 前の洞穴の内部。「さん・せばすちあん」は頭を垂れ、洞穴の中を歩いている。すると彼の頭の上へ円光が一つかがやきはじめる。同時に又洞穴の中も徐ろに明るくなりはじめる。彼はふとこの奇蹟に気がつき、洞穴のまん中に足を止める。始めは驚きの表情。それから徐ろに喜びの表情。彼は十字架の前にひれ伏し、もう一度熱心に祈りを捧げる。

(芥川龍之介『誘惑――或シナリオ――』)

 トランプは始まらない。彼等(誰?)が喫煙者かどうかも定かではない。よくよく考えてみればパイプならテエブルの上に灰皿がなくても構わないからだ。


 新着記事に一つだけスキをつけていく人は間違いなく記事を読んでいないことをどうして知らせたいのだろうか。そして人はどうして奇蹟を見出してしまうのだろうか。奇蹟といえばパイプが傾城になるのも奇蹟であろうし、洞穴の中に月の明かりが差し込むことも奇蹟であろうに。

 それにしてもこの「さん・せばすちあん」とはいったい何者なのであろうか。

 山の中の洞穴に一人でいるわけだから、公務員とか銀行員とか、そういうまともな人ではないことだけは確かだ。気になるのは布教する気のなさそうなところ。ただ十字架を拝んで満足するのなら、宗教家でもない。小説家でもなさそうだ。この人は一体何がしたいのだろうか。

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「さん・せばすちあん」の右の耳。耳たぶの中には樹木が一本累々と円い実をみのらせている。耳の穴の中は花の咲いた草原。草は皆そよ風に動いている。

(芥川龍之介『誘惑――或シナリオ――』)

 耳の穴の中は花の咲いた草原……。こちらは耳の穴にカメラが入って行くことで映像化が可能だが、

 耳たぶの中には樹木が一本……。

 こちらは映像化を拒んでいる。耳たぶの中というのが内部を示しているのだとしたら、例の「ポストはいつか透明になり、無数の手紙の折り重なった円筒の内部を現して見せる」というレントゲンのような絵になるが、ポストと違い耳たぶの中には通常空間はないので、茶髪にピアスの京大生以外で、耳たぶの中を持っているものはいないと思われるのだ。壷中の天にしてもやはり小さいなりの空間を前提にしているのだ。耳たぶの中には樹木が一本、それはとてもぐりぐりするだろうし、日光も当たらない。実がなっても食べにくる鳥がいない。

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 前の洞穴の内部。但し今度は外部に面している。円光を頂いた「さん・せばすちあん」は十字架の前から立ち上り、静かに洞穴の外へ歩いて行く。彼の姿の見えなくなった後、十字架はおのずから岩の上へ落ちる。同時に又水瓶の中から猿が一匹躍り出し、怖わ怖わ十字架に近づこうとする。それからすぐに又もう一匹。

(芥川龍之介『誘惑――或シナリオ――』)

 おそらくそろそろ皆猿のことは忘れただろうというタイミングで再び猿が出てくる。

 しかしここではカメラが立ち去るの「さん・せばすちあん」を見送り、再び洞穴内部の十字架を映し、その画面に猿が出てくるという絵面であることを確認しよう。水瓶の中から出てきた猿はビショビショに濡れていたとは書かれていない。

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 この洞穴の外部。「さん・せばすちあん」は月の光の中に次第にこちらへ歩いて来る。彼の影は左には勿論、右にももう一つ落ちている。しかもその又右の影は鍔の広い帽子をかぶり、長いマントルをまとっている。彼はその上半身に殆ど洞穴の外を塞いだ時、ちょっと立ち止まって空を見上げる。

(芥川龍之介『誘惑――或シナリオ――』)

 今度はカメラが待ち受けている。カメラから被写体に寄るのではなく被写体が近づく様子を捉えている。「洞穴の外を塞いだ時」ということは、洞穴の穴上部に対して段々近づいて来る人物の上半身の大きさが徐々に増して行って同じ大きさになったという理屈になるので、この人物がふりちんかどうかはまだ解らない。ここで「蟹股の股間の間から洞穴の穴が見えた」と書かれていればふりちんではなかろう。しかしそのことに気づかせないように「立ち止まって空を見上げる」と視線を上に向けさせる。

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 星ばかり点々とかがやいた空。突然大きい分度器が一つ上から大股に下って来る。それは次第に下るのに従い、やはり次第に股を縮め、とうとう両脚を揃えたと思うと、徐ろに霞んで消えてしまう。

(芥川龍之介『誘惑――或シナリオ――』)

 それは分度器ではなくコンパスなのではないか、分度器に股があるのかと意識をそちらに向けさせておいて、芥川は「星ばかり点々とかがやいた空」と書いてみる。

 月はどうした?

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 広い暗やみの中に懸った幾つかの太陽。それ等の太陽のまわりには地球が又幾つもまわっている。

(芥川龍之介『誘惑――或シナリオ――』)

 カメラはもう宇宙に飛び出し、太陽系……でもないような広大な世界を画面に収める。頭がおかしいわけではない。空想に制限がないのだ。ならば先ほどの分度器にも股があったのかもしれない。

 それは私がこれまで目にしたことのないような形の分度器で、ここに現れたいくつもの太陽と地球も、まだ私が目にしたことのないものなのだ。そんなものを芥川は目新しいラクトアイスのようにやすやすと提示して見せた。幾つもの太陽があるのにそこはあくまで暗やみの中なのだ。幾つもの地球にはたくさんの人間が住み、せんべいを食べたり、つまらないことで思い悩んだり、靴をなめたり、素通りしたりしているわけだ。

 そして私が「月はどうした?」と書いたとたんに太陽を持ち出してきたということは、芥川は単にチョンボで「星ばかり点々とかがやいた空」と書いたわけではないのだ。そう書いたからには確かに月は意識していて、月を飛ばして太陽を出してきたのだ。

 いくつもの太陽にいくつもの地球。

 そうか、「暗やみの中」とはそうしたものを「まわっている」と捉えられるほど引きの画で映していて、そこには本当に広大な、一つ一つの太陽では照らしきれない距離というものがあるということか。

 そんなスケールに意識を拡大させれば、水兵の死などもはやどうでもいいものに思えてくる。そしてふと思う。どの地球にも切支丹がいるのだろうかと。どの地球にもたのしんごはいるのかと。

 そう考えてみると現にここにこうして自分があることが奇蹟だ。

 そう気が付いたところで今日はここまで。


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