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「やり直しの近代文学」 

割引あり

 前書き それ本気で言ってます? よく調べましたか?

1 「一郎の三択」は存在しない

 「一郎の三択」は小宮豊隆、江藤淳、柄谷行人となし崩しに継承された
 存在するのは一択 マルクス思想に利用された「明治のインテリ批判」
 
2 『行人』は分裂したか

  縦糸はお貞の結婚 アンチトリックスター三沢 役に立たないお使い
  余ったネジ 梅は無意味 重箱の出どころ テレパシー

3 健三は捨て子か

 干支と九星のパズル 案外おばあさん 「三」の付く名前 それでも母はいる 年齢が合わない一郎、三四郎、「おれ」、「私」

4 『三四郎』は摩訶不思議

 野々宮の探し物 檜が不愉快 鼻緒の色が違うわけ 美味いと言わない三四郎 淀見軒はアールデコ 羊が二匹 三四郎は背が高い?

5 『坊っちゃん』はでたらめ

 延岡は海のそば 贔屓される兄 清実母説の不可能性 制裁は誤爆 不浄の地? 街鉄の技師になってから 『野分』での種明かし

6 『こころ』を読めないという根本的な問題

 「私」は何を書いているのか すがすがしい冒頭 不要領なのは何故か BL説の人は最後まで読み通していない Kは姓ではない Kのお祝い

7 いまさら読み返す『山月記』

 そもそも何故この題 虎が喋るのは誰も見ていない 此夕溪山對明月 若くして名を虎榜に連ねた李徴が虎になる 醉はねばならぬ 詩人ばかり?

8 『羅生門』について質問してもいいですか?

 なぜリストラ?  抜刀術はいつ身に着けた? 死体は誰がどうやって運んだ? 下に臭気は漏れないか? そもそもなぜ教科書に?

9 『あばばばば』で卒論の前に

 保吉物は回顧の形式で失われたものを描く 何故オランダ それは津波に飲み込まれた いつ妊娠? それは誰の子? 劣性遺伝 

10 ミスか狙いか

 お釈迦さまは悟っていない 「荘子」と「韓非子」の取り違え クリスマスはキリストの誕生日? 明治二十八年に陸軍一等主計はいない

11 愉快な太宰治

 わんわんの系譜 芥川にも遠慮がない 罵倒名人 実朝は面白いから好き 『人間失格』の笑いのツボ 三島由紀夫との因縁

12  しつこい鴎外 

『興津弥五右衛門の遺書』から『高瀬舟』まで 時空はゆがむ むなぐるまと極北の史伝文学 鴎外のユーモア

13  大谷崎ができるまで

 億兆の国民 南朝幻想 敢えて書かない・書けない 太ももはどうでもいい 緞帳芝居 何かが隠れている 『美しい星』が理解できる年寄り

14 岩波書店さん大丈夫ですか?

 二十三日の祝捷会は奉天占領祝捷会 天高海濶? 「君不相変らずやってるな」は「感投詞」ではない 

 あとがき 近代文学2.0のために

やり直しの近代文学」まえがき

それ本気で言ってます? よく調べました?

 江藤淳が間違っていることに気が付いたのはそんなに昔のことではない。そもそも間違っているかどうかというようなことなど考えず、ただ面白く読み流していたということか。しかし漱石没後百年を記念したムック本が次々刊行されていた時期にふと、「おや、この人は夏目漱石が読めていない。この人もだ」と気が付き、手に入る限りの夏目漱石論を図書館で取り寄せて片っ端から疑いの目で、間違っているかどうか確認してみた。
 結果として誰一人夏目漱石作品を正しく読めている人は見つけられなかった。
 しかしそもそも間違っているということはどういうことか。多様な解釈の可能性があるのではないかと自問しながら、その確認の作業はついに岩波書店の『定本 漱石全集』の註解を校正するという、いささかまともではない作業にまで至った。註解を校正するとはさすがに無理があるのではと思ったが、実際に註解は間違っていた。それ本気で言ってます? よく調べました? ということが平然と書かれている。

 当然漱石論者の中にも2019年版の『定本 漱石全集』の再読、精査に至って自著の書き直しを済ませた人も見受けられないことから、誰にケンカを売るという魂胆も何もなく、ただひたすらに意味のある作業として近代文学のやり直しを始めたいと思う。そもそもお前は何の資格があってそんなことを書いているのかと問われれば、いつも私の答えは同じだ。書く資格は、書いている文章そのものの中にある。

                       小林十之助

1 「一郎の三択」は存在しない

 「一郎の三択」は小宮豊隆、江藤淳、柄谷行人となし崩しに継承された
 存在するのは一択 マルクス思想に利用された「明治のインテリ批判」

 夏目漱石の『行人』はとくに「塵労」の章における長野一郎の苦悩を巡って様々に論じられてきた。その典型的な採り上げられ方が「一郎の三択」である。その原型は漱石の一番弟子、小宮豊隆によって作られた。

然も一郞は、そのあまりに過大な要求を抱いて、父に對し母に對し、弟に對し妻に對し、世の中に對した結果、「死ぬか、氣が違ふか、夫でなければ宗教に入るか。僕の前途には此三つのものしかない」といふ、ぎりぎりの所まで押し詰められて行くのである。

『漱石の芸術』(小宮豊隆 著岩波書店 1942年)

 これがその原型であるとして、まるで『行人』という作品を読み返しもしないで「一郎の三択」を継承した一人に江藤淳がいる。なんと書いているかは各々ご確認いただきたい。

 ぼく(柄谷)の説では、漱石の『こゝろ』で死ぬKは、(北村)透谷と西田(幾多郎)の二人に対応する。Kみたいな理想主義者は、すべてを自己に還元して、欲望を断とうとする。現世的なものを全部否定する。しかし、これは破れざるをえない。すると、漱石の『行人』の一郎が言うように、宗教か自殺か狂気しかない。これが明治のインテリの問題だった。

(『近代日本の批評・明治大正篇』福武書店、1992年 括弧内小林)

 これが殆ど柄谷の説ではなく、小宮豊隆から始まり、江藤淳によって固められた「一郎の三択」という見立てであることをあなた自身が確認したとき、その瞬間からしか「やり直しの近代文学」は起動しない。 

 確かに『行人』には、こういう台詞がある。

「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」
 兄さんははたしてこう云い出しました。その時兄さんの顔は、むしろ絶望の谷に赴く人のように見えました。

(夏目漱石『行人』)

 しかしその直後、引き続いて、 

「しかし宗教にはどうも這入れそうもない。死ぬのも未練に食いとめられそうだ。なればまあ気違だな。しかし未来の僕はさておいて、現在の僕は君正気なんだろうかな。もうすでにどうかなっているんじゃないかしら。僕は怖くてたまらない」

(夏目漱石『行人』)

 このようにすかさず選択肢が二つ消され、一つに絞られている。すかさずなのだ。これを無視して、まるでそこで一旦話が途切れたかのように、「漱石の『行人』の一郎が言うように、宗教か自殺か狂気しかない。」と切り取ってしまうのは単なる誤読に過ぎない。 

 一郎や漱石自身に明治のインテリを代表させる議論は山ほどある。

「彼岸過迄」には、明治末期のインテリゲンチア乃至主我的自由主義者の置かれた社會的な位置と、其處から感得させられた彼等の焦慮や苦悶が、隨分鮮かに摑み出されてゐる。

『近代日本の作家と作品』(片岡良一 著岩波書店 1948年)

  このインテリの苦悩という見立ては便利なもので社会的な位置づけとしてのインテリというものは、芥川に対してまで用いられた。

 沒落インテリゲンチヤの代表の感ある芥川龍之介も秘かに社會主義を研究して、之を肯定して居たのであります。これは「澄江堂日記」中火渡りの行者と題して次の如く述べて居るのでも判ります。

『校友会雑誌等の出版物に現れたる中等諸学校生徒の思想傾向』(文部省学生部 1932年)

  最終的に漱石は自殺も視察もせず、宗教にも入らず、気も狂わなかったので、都合よく自殺した芥川にインテリの責任が押し付けられたような話になってしまっている。

 いつか、公會堂の公開辯論會で、志賀は芥川龍之介の批判をやつた。
 インテリゲンチヤの苦惱と社會的矛盾を指摘して、いはゞ時代が課したかゝる自殺の必然性に觸れたものだつたが「かうした矛盾が止揚されない限り、今暫らくは第二、第三の芥川龍之介が續出するであらう」といつた時には、池の水面に石を投じたやうに、拍手が擴つた。

『南溟寮史 高知高等学校南溟寮々史』高知高等学校南溟寮々史編纂部 1933年

 こうしたマルクス思想にかぶれたような議論は本当に山ほどある。しかし元をたどればインテリゲンチヤの苦惱と社會的矛盾などそもそも一郎にはなく、ただ「正気なんだろうかな」という不安があるだけだ。ところが家族との関係における圧迫を前提にした小宮の「一郎の三択」が、社会に対するインテリの苦悩に置き換えられて、もっともらしく話がすり替えられた。そしていかにももっともらしい議論が山ほど出来上がり、そして現在でも素朴な一読者が何の悪気もなく「一郎の三択」を見出してしまうというおかしな現実がある。

 しかしシンプルな結論は先に書いてしまっている。「一郎の三択」はない。

2 『行人』は分裂したか

  縦糸はお貞の結婚 アンチトリックスター三沢 役に立たないお使い
  余ったネジ 梅は無意味 重箱の出どころ テレパシー

  夏目漱石作品に関しては、「読書メーター」などのウエブサイトを通じて、多くの一般人の感想も読んできた。実際に「一郎の三択」の見立てにそった感想も見られたが、最も多い『行人』の感想は、
①「塵労」に分裂を見出し
②哲学小説に主題が転じている

 ……という小宮豊隆の解説通りの見立てだ。

※以下この記事では、可能な限り有料記事部分を日々書き足していきます。noteの継続のためにも是非ご協力ください。

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