里神楽庭燎に寒き馬鹿の面 夏目漱石の俳句をどう読むか79
懇ろに雑炊たくや小夜時雨
懇ろとは特に男女が親しくなることである。懇には熱がこもっていておろそかではないという意味があるので、ここでは小夜時雨が降ってきて寒くなったのでじっくりと雑炊を炊くよというようにも読めなくはないが、やはりストレートに読めば、なにか男女が睦まじく夜雑炊を食べようとしているようなそういう感じがある。
こういう句で困るのはこれを漱石のプロフィールと付け合わせて私小説的に鑑賞していいのか迷うところである。当然そういうこともあったであろうし、何もなかったとも考えられないのだが、どちらかと言えばこれは私小説ではなく、なまじっか漱石のプロフィールを見過ぎている所為もあって妄想の句という感じがしてしまう。
漱石の私生活に関しては古い友人の何人かが漱石からの書簡を公開していないことから曖昧な点も多い。というより漱石程丹念に私生活を調べ尽くされている作家は外に無いのだが、それでもこの時代の漱石に関しては曖昧なところが多い。
だからこそというわけではないが、これは実景、これは私小説とむしろ私生活を暴いていくような句の鑑賞もいかがなものかと思うので、これはただ男女の睦ましい様子が詠まれた句として解釈することにする。男同士を懇ろにはすまい。
里神楽寒さにふるふ馬鹿の面
この「馬鹿の面」とは囃子の被る面のようで、舌を出したベッカンコーと呼ばれるものもあったようである。
どうやらもともと冬にやるものらしい。
こういうものとは別のかなり古い時代からある者らしい。
らしいらしいと続けるのはどうやらこれがかなり失われた文化らしく「馬鹿の面」も見つからない。そして腕が痛い。まあこれは里神楽で馬鹿の面を被っていた人が寒さでふるえていたよ、ウクライナにはもう関わらないで、という程度の意味の句であろう。
夜や更けん庭燎に寒き古社
解説に庭燎は「庭で焚くかがり火」とある。火事にならんのかな。CO2は?
というよりは里神楽の舞台装置としての照明のことなのではないか。つまりただ漫然と庭で火がたかれているわけではなく踊りは続いているのだ。古社に里神楽を見に行って、庭燎に照らされる馬鹿の面を見ていると。地球温暖化に関わらず寒いものは寒いと。そういう句だ。
え?
目録?
つまりかがり火そのものではなく?
庭燎採物韓神の歌って言われると全然話が変わってくるよね。
つまり、
夜や更けん庭燎に寒き古社
この句は「夜が更けてきた、庭燎の歌が歌われる寒い古社であることよ」という意味にも解せるということか。
岩波書店さん、ちゃんと調べた?
客僧の獅噛付たる火鉢かな
これは前の句と一つらなりとしてみれば、神社に坊主が招かれて神楽を見ているという、神仏分離の後の天皇を寺で例えようという平野啓一郎の「三島由紀夫論」みたいな混乱状態だ。
要するに天照大神を坊主が拝むのかという話になる。
古社に坊主がいるという滑稽、それが贅沢にもマイ火鉢をあてがわれてしがみついていると。寒さの恨みが皮肉に表れている。神楽を眺める坊主、それは釈迦に十字を切る「さん・せばすちあん」のように何かを企んではいまいか。
[余談]
真理。
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