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個人的な話

  池田  小田君は、胃ガンが頭に転移して、頭を切っちゃったの。頭蓋骨の 上がないんですよ。頭頂部に薄皮が一枚ぺかぺかしてて、しょうがないからヘルメットみたいなのを被ってその上にカツラ被ってた。彼は半分は麻雀打ちで生活していたんですよ。打ってて、負けそうになるとヘルメットを取るんだよ。そうすると頭がないから、お客がビビるじゃない? その間に勝つんですって(笑)。「これがほんもののプロっていうんですよ」っていばってたけどね。麻雀以外は毎日虫採ってましたもんね。
 小田ちゃんが、死ぬちょっと前に現・日本翅学会副会長の露木さんたちと いっしょに済州島に虫を採りにいったんですよ。もう小田ちゃん死にそうだ し、本当はみんな連れて行きたくない。済州島へ虫採りに行って死んだりす ると正直言っていろいろ面倒じゃないですか。でも小田ちゃんは「死んでも 行きます」って言ったんで、みんな一瞬シーンとしちゃった。ガンの末期だ から、痛くてしょうがないんですよね。走って採れないから、彼は道を這っ て採ってたっていうんです。でも、そのときに珍しいカミキリを、小田ちゃ んが二匹採ってきたんです。「どうやって採ったの?」って聞いたら、「俺 が這ってたら目の前にカミキリが這ってきた」って(笑)。
養老 鬼気せまるね。
(『三人寄れば虫の知恵』養老孟司・奥本大三郎・池田清彦、洋泉社、1996年)



 
   このとんでもない三人の虫屋が集まっての鼎談には、実に信じがたい話が詰め込まれている。引用の部分はそのほんの一部でしかない。私はこの三人の本を以前にも数冊読んでいるけれど、この本の面白さは突き抜けている。
そして例によって面白さを解説する事ほど興ざめな行為はないと思うが、私が感じたこの本の面白さというものを「誰かに話したい」と感じた。それは「みんなは気づいていないだろうけど、この本にはこんな面白さが隠されているんだよ」という啓蒙主義的な発想からくる行動ではない。面白さの可能性を共有したいという子供地味た衝動である。つまり大抵こういう面白さを見つけた私は何かに書き留めておくという以上のことをしようとしている自分に途中か後で気がつくということになっている。勿論そういう行動は、滅多に受け入れられるものではない。でもこれはけして「個人的な話」なんかではないんだな。

    この「小田さんの話」にはさりげない前置きがある。後ろが強烈過ぎて、後でそのさりげなさに気がつくという仕掛けだが、実は池田氏は「僕が学生だったころ、六○年代の終わりから七○年代というのは、カミキリムシがものすごく流行ったんですよね」と前置きしている。その当時の目茶苦茶な虫屋の一人が小田義広さんということになる。正確には分からないが、この時代の学生というものが、流行り病に冒されていたらしいという噂を聞いたことがある。
 その時代背景については池田氏の口からより具体的に語られる。

池田 清野隆君なんていうのも、冬の間は左官をやってるんだよ。あとの半 年は虫採ってるんだけど、金がないから、野宿するか無人のお寺や神社に泊 まるんだよね。十日も泊まってると、近所の人が通報するじゃないですか。 そのころはちょうど連合赤軍の時代で、近所の人に「連合赤軍が来てる」っ て言われて、おまわりさんが来て「このナタはなんだ? このノコギリは?」 と聞かれるわけですよ。「カミキリ採ってる」なんて言ったって、何のこと かわからないじゃないですか。「お前、どこ入ってる?」って聞かれて「京浜昆虫同好会」って言っても、「何? 京浜安保共闘? 署まで来い」って 連れて行かれちゃった(笑)。

 この後の警察でのやり取りを想像してみると楽しい。恐らく警官も馬鹿ではないから、どこかで自分の過ちに気がつくだろうけれど、気がついたところで「この時代に呑気にカミキリなんぞ採っている若者」の存在というものに、一体どんな感情を持ったのだろうか。ほっとした余り「お前ももう少し世の中のことを考えんといかんぞ」なんて、つい安保闘争を指示するようなお説教を漏らしてしまった警官もいたのではないか、なんて考えてしまう。

 虫を採ることは完全な趣味で、殆どお金にならないらしい。純粋に変わった虫の標本を集めることを目的としていて、虫を集めてどうする、という発想がない。中国人には「薬にする」と説明すると一応理解されるが、実際には薬にする訳ではない。ただ集めて眺めるのである。『ぼくの大好きな青髭』という小説で、主人公の薫くんが虫捕り網を持って新宿は紀伊国屋の前に立っている時、彼は明らかに「安保闘争」のストレートさ、無力さを批判していた。だが、小田義広さんや清野隆さんは別に「安保闘争」なんてものはどうでも良くて、ただただカミキリが採りたかったのだ。こうした“本物"の話を読むと、薫くんの方法論の背伸び、軽薄さ、説得力のなさというものが改めて良く理解できるような気がする。(勿論作者は意図的に薫くんの背伸びと、軽薄さと、説得力のなさを演出していたのである。)

 他人に迷惑をかけなければ人はどう生きても構わないという主張にも、人は生きている限り必ず誰かに迷惑をかけているのだから、何もかも自分の好き勝手にはならないという反論が有り得る。社会での共同生活というものを全体にして考えれば、実際どんなにひっそりと暮らしていても他人に迷惑をかけていないということはないだろう。村上春樹さんは社会からドロップアウトして自分で畑を耕して茶碗を焼いているような人間を「ありがち」と批判したことがある。安保崩れの醜さというものは、全く救いようがない。自分の才能を過信し、その実競争に負けることを恐れ、世を拗ね、趣味に凝る人ばかりが醜いのではない。ペンションの親父や弱小出版社の編集者が醜いのではない。手のひらを返すようにして、大企業の管理職に出世した人間にせよ、公務員から政治家になった人間にせよ、やはり何か「いいわけがましい」ところが見えてしまう。自分のカチカンというものを全面に押し出して、人を脅迫しているようなところがある。

 私は謙虚な人間が好きだ。
 人間はまず謙虚でなくてはならない。例えば茶碗を焼き、髭を伸ばすことを何かの言い訳にしてはいけないと思う。自分がゴルフが好きになってゴルフをするのは構わない。しかし「ゴルフには人生の縮図がある。ゴルフの勝利者は、人生の勝利者でもある」なんて言う人間は馬鹿でしかないと思う。人間というものは、大抵縦も横も二メートルを超えない。それだけの存在でしかない。当然大抵の人は論理的に問い詰められたら答えに窮するような人生しか生きてはいない。後で理由を問われれば「たまたまそうした」「そうしたかったから、そうした」「いやあ、よく覚えていないなあ」と答えるしかない行動を執っていながら、その瞬間には必死であることも少なくはないだろう。カチカンの不統一を否定しているのではない。そもそもどのような価値観というものも、恣意的なものでしかない。つまり根本というものがない。一番最初にある前提を外せば、どんな理屈も成り立たない。この浮遊感というものに根差した価値体系というものが有り得るとしたら、その一つは虫屋の人生哲学であろう。

 清野さんが警察で、警官に説教をされたかも、と私が感じたのは、恐らく清野さんは警官に虫採りの素晴らしさを理解して貰おうとはしなかったのではないかな、と予測したからである。それは自分が社会の異端児であることを意識しているからではなく、自分の中に説明しがたいものを持っているからである。 つまり個人的なのである。
 余りこの『三人寄れば虫の知恵』が素晴らしいので、ついつい引用が続いてしまったが、池田氏の引用をもう一つ。

  自然物の中になんらかの同一性と差異性を措定することは、別言すればコトバを創ることと同じである。これは正しくは発見ではなくて発明である。 (p.138)

 では発明のどこが素晴らしいのか? なんて問いは当然可能だけれど、そういう方向の議論には何の意味もない。恐らく多くの科学者の生涯というものが、他人には理解しがたいものである。人間はみんな死んでしまう。死んでしまって構わない。みんな死ぬから、人生なんて無意味だとは言わない。例えば、意味を超えた何かが小田さんの話にはある。カミキリが這って来たのは当たり前である。小田さんが這っていたのも必然である。どこかの馬鹿なゴルフ好きの台詞ではないが、そこでカミキリに出会えるか出会えないかで、人生の勝利が問われるのではないかと私は思う。小田さんは人生に勝利した。人生とは床を這い、カミキリと出会うことである。そしてこれはけして「個人的な話」ではない。
 

 
 
 
 
 ※二十年前のメモから
 
 
 https://www.amazon.co.jp/dp/B09276369V

 


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