見出し画像

あそどっぐインタビュー4日目 その4 「あそどっぐが相方に会ったさいごの日」

私は、あそさんを心底カッコいいと思った。
あそどっぐはどうやって今のあそどっぐになったのだろうか。
私たちは2016年に出会い、友人になった。手をつなぎ、デートもした。
飽き足らない私は、彼にインタビューをお願いすることにした。

あかほし(以下「ほし」):  写真家の幡野広志さんってご存じですか?(注1:文末参照)
あそどっぐ(以下「あそ」): 幡野さん?見たらわかるかなあ?
ほし: めちゃくちゃレアな病気にかかってる写真家さんなんですけど、それが遺伝性らしくて、お父さんもその病気だったらしい。骨がボロボロになって、激痛のなか亡くなったそうです。
あそ: え〜痛いのやだな。
ほし: その父親のさいごも見てるんですよ幡野さん。自分もその病気であることがわかって、ブログかなんかに病気のことを書いたそうな。そしたらなぜだか人生相談のようなメッセージが来るようになって・・・そのなかで印象的なやり取りをまとめた本(『ぼくたちが選べなかったことを、選びなおすために。』 )があって、私、それ読んでたら「生きてりゃいいってもんじゃねーよな」と思って。
あそ: うんうん。
ほし: だれかが死にそうになったとき、死んだら悲しいから治療を止めない(or延命をし続ける)こと、医者もそういう道筋を提示すること、家族もそういうふうになりがちであること。そういった周囲のプレッシャーが病気そのものよりよっぽどキツいという話が書いてあって、私もそうだろうなと思って。だから、私の知人が病気になったときも、聞いている私が「なんてことだ・・・」となるべく落ち込まないよう、知人は言葉を選んでくれているかんじがして。それが分かる気がするので、そういう風には考えまいと思ったんですよね。その人の人柄を思うに、絶対イヤだと思うんですよ。周囲の感傷を押しつけられて生きるっていうのは。
あそ: ああ、それはそうだろうな、うん。
ほし: しかし、それもむずかしいんだな。なんたって私がはじめてあそさんに会った時は「もう死んじゃうかもしれない」って勢いで話しかけてたから。(「「あまねさんの握手は・・・アツいよね」」)
あそ: すごかったもんね(笑)
ほし: だからなんかこう、生きるか死ぬかっていうことよりも、その人とやりたかったことをやってたかどうか。そっちの方がよっぽどたいせつな気がして。
あそ: うんうんうん。そりゃそうだ、うん。
ほし: ね。そういう「延命せずに死ぬことを引き受けることも、またポジティブでしょ」っていう話ってなかなかできない、人に。
あそ: うんうん。
ほし: そういう感覚を共有できないんだろうな〜という人には、とてもじゃないけど言えない世界で。「そんなこと言わずに生き延びてよ!」って言われちゃうだろうから。
あそ: そうだねえ、むずかしいよなあ。
ほし: じぶんに身近な人、だれが最初に死ぬんだろうと思ってたら・・・おじいちゃんだった。3.4年前に亡くなったんですけど、未だにねえ、ピンとこないっすよ。
あそ: うん、やっぱなんかね、死ぬのってふしぎだよね。すげえふしぎだよなあ。
ほし: 「あれ、居ないの?」ってなりましたね。
あそ: うん、そうなんだよね。ふしぎだよねえ。
ほし: 死んじゃった身体も見ていないから、なおさら。
あそ: ああそっかそっか。
ほし: 祖父が「いっぱい人を呼ぶと祖母が疲れるから」と遺言してたので、一緒に暮らしてた家族だけで集まって葬式をしたんですよね。私は祖父には会えずじまい。だから、なんというかなあ。ふしぎだ。
あそ: ふしぎだよなあ、死ぬって。
ほし: うん。亡くなった人の身体を見ないまんまだから今ひとつピンとこないのだけど・・・でも、衝撃はありました。
あそ: うんやっぱね、人が死ぬって言うのはそうだよね、うん。
ほし: なんだかなあ・・・
あそ: そうだなあ。うん。なんかねあれだろうねやっぱ・・・うん。あんま悔いがないかんじにしとくと引きずらないんだろうな。だから会いたい人に会っておくのは、いいよね、やっぱそういうのは。
ほし: うん、そうだね。
あそ: うん、いいよな、やっぱしいいなあ。それは見習いたいなあ。相方が死んだときがね、すごい後悔があったからねえ。だから引きずり感が半端なかったもんなあ。
ほし: そっかあ。
あそ: うん、だからやっぱり生きてるうちに後悔なく接するっていうのが、うん。今でもねなんかね、夢に出てくるのがね。あの、相方、高校で出会った時はすごく元気だったんだけど、障害が急激に悪くなって。二十歳ぐらいから急に障害が進み出して、どんどんどんどん悪くなっていって。
ほし: うん。
あそ: ぼくはまあ、ただ見てるしかできなくて。
ほし: うん。
あそ: でまあ、ぼくが熊本へ引っ越したっていうのもあって、ときどきしか会えんくなったんやけど、春・夏・冬は必ず会いにいってたんよ、相方の病棟まで。
ほし: うんうん。
あそ: で、春会ったら「つぎ夏来るわ」って言って帰って。で、夏会ったら「つぎ冬来るわ」って言って帰って。もうなんかね、ずーっと繰り返して、必ずそうやってたの。帰る時、ぼく。で、さいごに会ったのは冬だったんだけど、あの・・・「じゃあ、また春に来るわ」ってなんでか、言わなかったんだわ。うん。なんか死ぬんじゃないかなっていうのが、たぶんもう心の中でちょっとあったのかもしれんけど。で、「春来るわ」って言わずに帰ってしまったのが、うん、未だになんか、後悔。
ほし: うん。
あそ: うん。あとはただ弱っていくのを見てるしかできんかったのはすごい、後悔だったし。やりたいこともいっぱい聞いてたのに、なにもそこを実現する動きをぼくが出さなかったのも後悔だし。だからやっぱり、後悔ないようにするっていうのは、いいよなあ・・・て思ったな。
ほし: そうですね。
あそ: うん、そうだな。谷川さんとぼくが生きてるうちに、谷川さんに会おう。(注2)
ほし: 会って下さいよぜひ。そっかあ。なんか、不思議ですよね。どっちが死ぬか分かんないっすよね。そこの、なんだろう・・・
あそ: うん、そうなんだよね。うん、ね。ぜんぜんね、何があるかはホンットに分かんないからね。
ほし: ね。だから、なんか、「あっちが死ぬからやっとかなきゃ」って話でもなく、「こっちが死ぬからやっとかなきゃ」って話でもなく・・・
あそ: うんうん、そうそうそう。うん。
ほし: わたしも、亡くなった友人のこと、ピンチであることをほぼ確信してたにもかかわらず、なんもできなかったんですよね。
あそ: うん。
ほし: 思った通り大変なことになってた時の・・・ショックですよね。
あそ: そうなんだよね。なんかね、分かってて、何もしなかったことはすごい後に引きずるよね、うん。これは引きずるわ。よくないね。
ほし: うん、そうなんだよなあ。

ほし: すこし話変わるけど、ときどき、なんかすごいひどい事件を起こす人がいるじゃないですか。
あそ: うんうん。
ほし: あれを見てていつも思うのは、「犯人が悪い」みたいな話になりがちだけど、その人が生きてきたような過酷な環境を生きたら、そりゃくじけることもあるでしょうよって、思う。「だから犯罪を許せ」とまでは言えないのが、むずかしいところですが。
あそ: そうだよね、なんか理由があるはずだからね。そこまで、そうなってしまうまでに置かれた環境だよね。その人を作ってしまったね。
ほし: うん、そうそう。だからその人だけを悪者にするのは絶対に違うと思ってて。
あそ: そうそう、それはそうだと思う。
ほし: 犯罪者というか、加害者もむしろもともとは被害者というか・・・ちっちゃい悪意みたいなものがたまたまその人の所に集まってしまって、耐えきれなくなって暴発するっていうのは、すごく分かる気がするんですよ。「全ての加害者に不幸なバックグラウンドがある」とまでは言いませんが、裁く前に彼らのバックグラウンドへ目を向けるべきだと思うんです。たとえ刑の重さ自体は変わらなかったとしても、知ろうとする姿勢を放棄して排除するのは、またべつの悪だと思う。
あそ: うんうん。
ほし: なんか・・・やりきれんなあ。どの事件かはオトナの事情で割愛しますが、ある事件の犯人さんは「役に立ってるか立たないか」みたいなことを言ってたようだけど、その「役に立っているかどうか」という見方は、他ならぬ彼自身をずっと追い詰めてきたんじゃないかと思うんですよ。まあ本人に会ったわけじゃないから、それが本音かどうかも分からないし、断定はできないんですが。
あそ: うん。ちっちゃい頃からそれが基準で育ってきたんだろうね、たぶんね。
ほし: もし仮にそうであるならば、その人にそういう考えを抱かせてしまった人間こそ、ほんとうの加害者なんじゃないのかと、私は思う。だから加害者自身は無実であるべき、とまでは言えないし、自分がその「ほんとうの加害者」である可能性も否定はできません。
あそ: うん、そうやね。
ほし: でもその理屈で「コイツがほんとうの加害者なのでは」と追っかけていくと一体どこが始まりなんだか全然分かんないっすよね。
あそ: ああ、だれがっていうのはね。周りの人たちみんなのあれだよね。うん。
ほし: うん。
あそ: で、なんか巡り合わせで、運良くなんかいい人と出会えるみたいなのが、なかったんやろうな。
ほし: その不遇を本人だけに押しつけて、処罰しておしまい、というのはあまりにも救いがなさ過ぎる。
あそ: やっぱなんかね、大なり小なりみんなね、なんか抱えてるけど、そこをすっと救われるいい人に出会えなかったん・・・やろうね。うん。
ほし: なんか・・・一体どうしたらいいんだろうね?っていつも頭がボーッとします。敵がデカすぎて、なにしたらいいんだろうかと途方に暮れます。
あそ: なかなかね。うん。

ほし: いや〜しゃべりすぎたわ!毎回言ってる気がする。
あそ: (笑)
ほし: でも話せてよかった。わたし、日常生活のなかで、突然ヘンな顔をしたりとか、突然ヘンな動きをしたりとか、本当はしたいんですよ。
あそ: うんうんうんうん。
ほし: そういうのをガマンして暮らしてるから・・・それを年明けに演劇のワークショップで吐き出してきたんですよね。
あそ: それはいいね。それは出していかないとつらいよね。
ほし: うん、つらいつらい。いや〜でもありがたい。こういう風に、会いたいと思う人に会って、一緒にやりたいと思うことをやってれば、まだ地球で生きていけるなって気持ちになりますね。
あそ: うんうん。でもこれ・・・インタビューになってる(笑)?
ほし: そうですねえ・・・たとえできた記事が ”インタビュー” と呼べる代物にならなくたって、私が「あそさんとこういうことがあった」っていうので満足するモノが書ければ、それでいいんですよ。
あそ: なるほど。そうだそうだ。
ほし: それは書けると思う。毎回たのしくて時間を忘れるんで。いやあ〜どうも長い時間ありがとうございました。
あそ: あ、いえいえこちらこそたのしかったです。

注1:幡野広志。写真家。ひょんな縁で人生相談もしている。主な著書は『写真集』、『なんで僕に聞くんだろう。』。このインタビュー収録の翌年、2021年4月にバリバラ「死生観ラジオ」であそどっぐと共演することに。
注2:谷川俊太郎。詩人。〈障害(仮)〉展のトークイベントに訪れた谷川さんが「あそどっぐが気になる」とコメントしたらしい。「谷川さんとぼくが生きてるうちに、谷川さんに会おう」はそれを受けての言葉。

次回、番外編 「将棋、何かしらの賢治、そしてリカちゃん

あそどっぐ
1978年佐賀県生まれ。熊本在住。お笑い芸人。
あかほしあまね
1991年東京都生まれ。『コバガジン』のライター。

前回の記事はこちら 「「あまねさんの握手は・・・アツいよね」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?