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映画「ふたつの部屋、ふたりの暮らし」

おばあちゃんレズビアンカップルのお話。@フランス
ふたりの少女がかくれんぼ(?)をして遊ぶ声を、カラスの声がかき消す冒頭のシーンが印象的。

先日、電動車イスの女性がひとり、ホームで電車を待っていた。
乗車用のスロープをもった駅員さんの姿がない。彼女は約束よりも早くホームについたのだろうか?
と思うか思わないかで電車がきた。ふと振り返ると、その女性はわたしとは別の乗り口へ向かうが、一旦とおざかり、それから急発進してひとりで乗り上げようとした。が、勢いが足らず、バランスをくずし、乗り上がり切れなかった。
近くに居た人(こちらがメイン)といっしょに、手助けをして、電車にはぶじ乗ることができた。
彼女が電車にむかって助走をつけたときの表情が忘れられない。
ルールから機械的に言えば、「きちんと駅員さん呼んでスロープ使うべき」とか「ケガしたらどうすんの」とかいろいろあるのかもしれないけど、それらのルールをいちいち守っていたら、彼女が出かける機会は単純にへるのだろうし(ルールのなかでやるとなにかと煩雑になるだろうし、手続きのたび自由も、気楽さも失われていくだろうから)、そもそもルールが彼女の幸福を無視してつくられていることを、重々理解しているからこその、単独突破だったんだと思う。ルール及び状況への諦念をかかえたからこその意志というか、凍えるような決意のようなものを感じて切なくなりました。
わたしも「このルールのなかじゃあたしは幸せになれねえんだよ。しるか!」と思うことはよくあるので、他人事とは思えませんでしたね・・・。
この件、じぶんはどうすればよかったんだろうな、と電車のなかで頭をひねりました。

会いたい人に会えなくなって、行きたいところに行けなくなったら、きっとわたしは生きてるのイヤになるだろうなーと思うんですが、「その自由がないと生きてるのイヤになっちゃうよね」という認識が、すくなくとも母国にはある感じがしません。老人ホームや養護学校で「それができなくなるとイヤだわー」とか「イヤなんだろうね」とか、聞いたことない。
むしろ「まあ、そんなもん」という諦念のなかにうずもれて、そういうものを求めていることすら忘れて、ついには忘れてることも忘れているような印象を受けます。だから、むしろこのままほっといてほしい領域なのかしら、と思うとなおのこと口に出しにくい。
利用者や提供側当事者にそういう葛藤があるのかどうかすら、分からずじまいです(そういう部分に関心のある友人が多いので、彼らからそういう葛藤は聞きますが、わたしのもともとの知人でない人から、そういう話を聞けたことは一度もありません)。
それこそ、そういう葛藤を抱え続けること自体が苦しいことなのかもしれないけど、「むずかしいから黙る」と「むずかしいけど言っておく」は、やはりすごくちがうことのように思います。主に本人にとって。

こういう「いのちの硬直」を自覚できるか、だれかの「いのちの硬直」に敏感になれるか。言葉にできるか。行動できるか。ちっこいけどすんごい大事なことな気がしております。まあ私だってかんぺきにそれができているとは思わないけど・・・。
まあともかく、この映画はそういうお話でもありました。フランスの恋物語はクレイジーながらもまっとう、勇敢かつ健康的だと思います。

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