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映画「帰れない山」

映画につられるように、文章もながくなってしまった。

この春は海にいってきたので、今度は山ですなあと見にいった映画。
視聴感が、登山に似ていたのはきっとわざとだろう。あらすじやエピソードどうこうというより、景色とプロセスの集積がじわじわ効いてくる。大画面でみれてよかった。

「ともだち」って恋人みたいに「付き合った!」「別れた!」が明瞭でないから、相手を両手で抱えるような距離感にはならないにせよ、息が長く、どちらかが沈んだらどちらかがすこしケアして、また逆もありつつ・・・と、のんびりのんびり各々が「あ〜、あの人はあのへんを歩いているらしいぞ〜」と確認し合ってホッとするような、そんなかんじだ。ちりぢりに伴走している。
まあだから、ぜんぜん会えてないだれかを「げんきに生きてるみたいだ〜」って思うだけで何とはなしにすくわれるんだから、わたしも生きてるだけでだれかの「ホッ」のひとつになってたりすんのかね、とも思う。
この頃、ふるい友達から「じつは『こんなヤツでも大丈夫なのか!』的な勇気もらってたわ〜」みたいな話をちょろちょろ聞かされるようになった。張本人としてはしょっちゅうヘンなヤツと言われて傷ついてましたが、思いがけない方向で人の役に立っていた(?)という驚愕の事実をしり、「まあそれならいいか・・・?」みたいに思えて、ちょっぴりラクになりました。

(ながい脱線ですが・・・「お前はふつうか?ふつうじゃないか?」とか「お前は女か?男か?」みたいなイジワルな問いかけって、おそらくカテゴライズできない気持ち悪さとか、出てる杭をとりあえず打っておきたい的な・・・要は得体の知れないモノを無理矢理カテゴライズして支配したいとか、牽制したいとか、そういうことだったんだろうな〜と大人になってから気づきました(いいかえると「社会参加しているにんげんか?」というチェックですね)。私はそれらの質問にどう答えたらよいか?と頭ひねりすぎて毎回傷ついてましたが(答えたいと思う質問じゃないので、その質問に違和感なく答えている人たちが気味悪いとすら思ってました)、アレは答えがほしくて聞いてたことじゃなかったんだよなあ。Q&Aじゃなくて、傷つけてパワーダウンさせるのが主眼だったんだよな。タイムスリップできたら「あれは、相手がわたしの存在にテンパって奇声をあげてるにほぼ等しい状態だからムシでOK」と教えてあげたい。「キャー」と迫害されるゴキブリがもしふかく傷ついてるんだとしたら、「ちゃんちゃらおかしい。あんなヤツらに心痛めんでよろしい」と思うが、まあゴキブリさまはおそらく傷ついてはおられぬでありましょう。師匠っすね。めざせゴキブリさんメンタル)

まあ、かといってだれかの「ホッ」をねらって生きていくわけじゃないけどね。ただ、自分の生きるハードルをむやみにあげない、という点においてはかなりつかえるな〜と思いました。
その理屈なら、凡人も変人も極悪人もなにかの役に立っていると言えそうだから。迫害や牽制をする人も、何かの役に立ってるのかなあ・・・?

(以下、ネタバレ)

すっかり「ザ・にんげん」であるこの世界を生き抜くふたりの男の生涯をおった映画でございましたが、「ザ・にんげん」に適応して生きながらえることがしあわせなのか、「ザ・にんげん」をかなぐり捨て、不適応によりはやめに死ぬのか?
ウワ〜どっちにもなりたくね〜!!・・・他に道はないのだろうか。世知辛い。
ああ、だからわたしは山にいきたいのだな〜という映画でした。

「ザ・にんげん」だけで生きていくのもムリだし、「非・にんげん」だけで生きていくのもムリそうなわたしにとっては、「ザ」と「非」を往還する登山はきっとちょうどいいのだろうな。

登山はかなり歴史がふるいレジャー(?)なんだろうから、そういう問題意識ないしニーズも、きっとかなりふるくからあったってことよね。
となると、私のこの悩みも、ふるくからある、わりとメジャーで平凡な悩みなんだろうな〜と思うと、何も解決はしていないんだけどすこしだけホッとするのである。

https://www.cetera.co.jp/theeightmountains/

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