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映画 「整形水」

韓国の映画をみてて思うのは、邦画が「ま、ここらへんまでかな・・・」とおさめるポイントをはるか超えていくということ。「行くとこまで行ったれ!」といわんばかりの勢いで、臓物をすするような展開まで行ききる。
これって私のなかでは、キムチを食べた時の感覚とダブります。「からい!しーはー!」を超えたからこそのおいしさとか満足感ってありますよね。物語と食文化が、そんな身体感覚でつながってる気がするんです。

また別のはなし。
電車でしらないおっちゃんの肩をお借りして寝てしまったとき、舌打ちせんばかりの勢いで払いのけられたことがあります。こちらが先制攻撃(?)してるから仕方ないんだけど、身体感覚としてはたいへんショックだった。
で、そのショックをいなすために「わたしが絶世の美女だったらこんなことされなかったんだろうな(なんてイヤなおやじだろう!)」っていう、ひがみを持った。

そんなひがみを怪物級に育て上げたおばさんがこの物語の主人公です。
もともとは「だれかに愛されたい」というかわゆい感情からスタートした想いが、愛されにくい容貌ゆえ周りから「そこまでせんでも」な扱いをうけ、歪みまくり、一発逆転、"整形水"によってスーパー美少女になった主人公が、こんどは男をあさって値踏みしまくる・・・禍々しいラストまで、救いは一切ありません。

ブスに降り積もったプチ不幸が雪だるま式に大きくなっていく。
これ、まあ今回はたまたま「ブス」というモチーフだったけど「冴えない」とか、「存在感がいびつ」だとか、(まあべつにそういうオプションがなくても)社会におけるノンバーバルな弱者ならこういった冷遇は身に覚えがあるはず・・・っていう光景が描かれてると思うんですよね。
そんな弱者を"無限ゴミ箱"ぐらいにおもって、無関心に心のゴミをぽいぽい投げすてる。ゴミは弱者のところへ集中するから、とんでもない量になる。元気玉の要領ですよね。弱者ひとりで、バッドな元気玉をかわす方法はまあほぼないでしょう。そらなるわな、怪物に。
いざ怪物が事を起こしたとき、怪物だけの責任にするのはまちがってると思う。その境遇を一体だれが耐えられるっていうんだろう。その状況に耐えて"マトモでいいひと"のまま、大して楽しくもないまま生き続けろと? ひとを、安易に怪物にさせない努力が、まず先にくるべきだろうと思う。
たまたま不幸の依り代に選ばれて怪物となった人は、現代社会における生け贄なんじゃなかろうか。社会の毒を弱者に集めて、今度はその毒を、その人ごと、社会が"捨てる"というシステムの。

キレイ事とかじゃなく、シンプルに「怪物を育ててしまったら、怪物に襲われる可能性がある」ってことを分かってないノーテンキな加害者があまりに多いと思う。その加害者すら、すでに怪物なのかもしれないけど。ああ、今日も地球がこわい。

っていう、おっかねえ映画でした。

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