見出し画像

映画 「私のはなし 部落のはなし」

わたしが部落という言葉を知ったのは、というか聞いたのは、高校生か大学生のころ。
ひっそりと親から言い伝えられ、「そういうものがあるのか、歴史で習った『えた・ひにん』の文化ってまだ残ってるのか・・・」と、当時は今以上に、この世界のことを知らなかったので、すぐに親の言うことを鵜呑みにする気にもなれなかった。そんなバカバカしいことが、自分のすぐ近くで起こってると認めるのが、おそろしかったからかもしれない。どこかでウソなんじゃないか(ていうかそうであってくれ)と思って生きてきた。

ところがどっこい、大人になってみると世界がそんなバカバカしいことであふれかえってることに、イヤでも気づきはじめる。
じぶんが、そのバカバカしさを排除した箱の中で、すくすくと育ってきたことも。自分がダイレクトに加害したわけではないけど、構造としては、そのバカバカしさに加担してしまっているバカのひとりだということも。
親から聞いた話を鵜呑みにするわけにもいかないし、だからといってかんたんに切り込めるようなものでもないし、と逡巡していた私に、この映画はちょうどよかった。

「差別」と「部落」の、バカでかい穴ぼこみたいなものの輪郭を、ひとりひとりの語りが照らしていって、洞窟の全体像を想像させてくれる(だからこそ3時間と長尺)。
ネガ(個人)を描くことで、ポジ(差別)を可視化する、ルビンの壺みたいな映画。

「さて、これから自分はどうするか?」というのはそれぞれにまかせるとして、とりあえずすべての高校生などに見せるがよいのか?それとも部落という言葉すら忘れ、差別も忘れた・・・自然消滅を祈るべきなのか?そこはわたしにもよく分からない。
でもきっと部落をわすれても差別は消えないだろうから、鈍らせた当事者感覚(するにせよ、されるにせよ)をよびさます、よいきっかけをくれる映画のように、私には思えたけど・・・。

差別の厄介さって、する方にもされる方にも「じぶんで選んでやったわけではないのに、なんとなくそうしている(そうなっている)」という、見えない膜のようなものが、個人のなかにも、人々のあいだにも、集団のあいだにも発生することにあるとおもうんですよね。

まあともかく、私はすでに部落という言葉を知って、聞いてしまっていたから、この映画を見ました。これでぜんぶ分かったなんて思わないけど、見れてよかったです。

https://buraku-hanashi.jp/

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?