だから憧れはやめられない

自分の憧れはなんだろう。大昔ボウリングのプロを見てカッコイイと思ったことが最初だったような気がする。よく覚えていないが新鮮で楽しい記憶のあったボウリングに対してその極地を見てみたいと思ったからなのかもしれない。詳しくは幼少期の自分に聞いて欲しい。
その次はプロ野球選手。特別野球が好きだった訳でもないが家で点いている野球中継の中で動いている一人一人にスポットライトが当たっているように輝いて見えて漠然と『あんな風になれたら』と思っていた。
小学生時代は友人からの誘いでソフトボールクラブに所属し、高学年の頃少しだけチームのエースを張っていたことがある。その時状況が変えられる力を持つことでの自信と興奮、期待と責任から来るプレッシャーを知った。それらが作り出す独特の緊張感が心地よく、マウンドに立って相手と勝負していた時とそれをイメージして投球を磨き続けていたあの瞬間は自分が生きていると実感できた。自分にスポットライトが当たっている、そう感じていた。
次いで中学生時代、流されるように野球部に入った。バッティングが偏差値55ぐらいな事とそこそこ足が速い事以外はまともに勝負で使えるレベルではなく卒団のその日まで能力をまともに評価されることは無かった。努力を怠ったと言えばそれまでだし根っからの野球好きな周りとインドアゲーム好きの自分の間には実際の努力量で大きな差があったのもまた事実だろう。それでも1チームのエースから一般控えどころかベンチにいる事すら危うい立場に追い込まれる経験からは今までのことがすべて夢幻で無かったことになってしまったようなショックを感じた。ライトが当たる対象は自分以外の同級生達で自分はただ外から観賞する側でしかないのだということを嫌になるほど味わった。気づけばプロ野球選手なんて憧れはさっぱり消えていた。
結局ゲームをして生きていたいと自分に正直になれたのは高校に入ってからのような気がする。高校受験の前から本当に自分の望む生き方とは何かと悩んでいたが直前に人生を懸けた勝負が待つ極限状態に置かれたために「ゲームをして生きる」という究極の憧れから逃げていた。直視するには余りにも眩しく感じる憧れ。だけど追う間は自分が照らされているようにも感じられて不思議と幸せに感じる。大学に入ってからは腰を据えて憧れに挑んでいて時間とお金を大量に溶かした。もう後戻りはできない。
憧れに照らされて心が充足していく、そんな生活も悪くないと思っているが照らされ過ぎると如何せん体がもたない。心はどこまでも憧れ続けられるが体は人として生きている以上物理的リソースの制約を受ける。心のままに動くといずれついていけなくなった体が壊れていってしまう。
それでも追うことでしか得られない快感を求めてしまう。自身の限界を否定し続ける緊張感と憧れから自身を照らす光に近づく興奮が合わさり得も言われぬ高揚感が身を包む。憧れがそういうものだと知ってしまったからにはもう戻れない。
足りない時間を補うためにバイトを辞め疲れ果てた体に鞭打って活動する、いつ破綻するかも分からない自転車操業を続けて今日も私は憧れを追う。



血肉とします