映画CATSで魂が二つに分裂した話

【この映画は劇場で見る価値がある】

 映画『CATS』の評価をググると、ホラーだとか玉ねぎだとかFBIが踏み込んでくるだとか、悲惨な評価が次々と目に飛び込んでくる。この記事を読んでいる人々に、今更それを紹介する必要はないだろう。

 ぶっちゃけてしまえば、私もその気持ちは超よくわかった

 私はこの映画を見ながら完全に躁鬱状態だった。
「このミュージカルに何の文句があるんだ!? ブラボーブラボー一生見てたい!」と心の中で叫んだ十分後に「だ……っせぇ……」と唖然とする。

 私はこの映画を楽しみにしていた。
 劇団四季の『CATS』と、Amazonで見られる海外版の『CATS』を一回ずつ見た程度なので、CATSは好きだけどオタクってほどじゃない。
 その視点で言わせてもらえば「この映画には劇場でお金を払って五回くらい見る価値が絶対にある」と言える。

ただしこの映画は人を選ぶ。
そして選ばれなかった人にとっては悪夢になる。

詳しく説明していこう。

【君は舞台のCATSを知っているか?】

 CATSはそもそもブロードウェイミュージカルだ。このミュージカルにも原作があるようなので「そもそも」というのが正しいのかはわからないが、私はそこまでCATSに詳しくないのでこの背景は割愛する。
 CATSとは元々舞台ミュージカルであり、そのミュージカルには「シナリオと呼べるものがほぼない」ことだけ知っていてほしい。

「猫が夜に集まって”新しい命に再生する猫”を選ぶべく歌い狂ってたら悪い猫が乱入したけどなんとかなって選ばれるべき猫が選ばれる」

 これだけ。
 しかもこの部分はさして重要じゃない。「黒幕は誰だろう」とか「この猫どうなっちゃうの!?」とかいうシナリオ上の起伏はCATSには存在しない。「悪い猫の乱入」も悪い猫の見せ場(歌とダンス)のため、「なんとかする」のも猫の歌とダンスのための筋書きでしかない。
 この舞台は徹頭徹尾「猫の歌とダンスのため」に存在する。
 ばちくそヤバイ超絶技巧を持つダンサーたちが、歌い踊り狂いながら演じる「猫の魅力」を全身でひたひたに浴びる。
 それがCATSの楽しみ方の十割と言ってもいい。

「じゃあシナリオいらないじゃん」と思うかもしれないけれど、そうではない。このシナリオは猫の歌とダンスを最大限に楽しむため、「なぜこの猫たちが歌い踊っているのか」を理解するために必要な、本当にギリギリの最低限のラインを私たちに提供してくれている。

 物語を楽しむためのシナリオじゃない。歌とダンスを楽しむにあたって、猫を好きになるにあたって、無駄な疑問を生じさせないための「神がかり的な塩のひとふり」なのだ。

 作中、猫たちは「ジェリクルキャッツ」を自称し、ジェリクルキャッツとは何なのかを説明してくれるけれど、ぶっちゃけ我々人間はそれを理解できない。理解できなくていい。私たちは人間だから。
 だけど猫たちは理解している。「猫たちが人間には理解できない価値基準において、素晴らしい歌とダンスを披露しているのを、偶然通りかかった我々人間が見ている」そういう空間が舞台におけるCATSだと私は理解している。

 だから舞台版のCATSも楽しめない人は実はけっこういる。「物語がなくて猫たちが突然飛び出してきて歌い踊り狂うこれは一体?」という人は一定数いる。
 それの映画化だ。
 評価がわれないわけがない。

「じゃあCATSに合わなかった人たちが叩いてるだけで、実は名作なの? 嫌がらせのために新種のポルノだとかたまねぎとか言われるの?」

 そう思う人もいるかもしれない。
 けどCATSを酷評している人たちの主張は、前述の通り私もよく理解できる。私も「確かにFBIが摘発のために途中で踏み込んでこないか心配になるな」って思ったシーンは多々あった。
 猫がそもそも性的な象徴として使われがちな生物だとしても「それはやりすぎだよ監督!」と思うシーンはたしかにあった。

 CATSというコンテンツは「キャストの歌と踊りを何度でも楽しめる系統のターテイメント」なので、実際に見なければその魅力は伝わらない。だから私はネタバレを恐れずにこの先に進もうと思う。

【ゴキブリの功罪】

「映画CATSってゴキブリ人間が躍るんでしょ?」

 この質問を何人かにされた。
 私はゴキブリ人間の情報は事前に仕入れずに映画を見に行ったけれど、正直大騒ぎするようなシーンではない。
 ただまあ、私はそもそもホラー耐性が限界突破している人間なので、無理な人には無理なシーンであることも否定はしない。

 ジェニエニドッツという猫がいる。
 この猫はふとったおばさん猫で、いつも窓辺でごろごろしている。だけど日が暮れると大活躍! ネズミやゴキブリに仕事を教えたり、芸を仕込んだりしているのだ!

 というナンバー。
 なぜ「ナンバー」と表現するのかと言えば、CATSは「猫の生きざまを歌とダンスで表現する」というコンテンツだ。だからジェニエニドッツというキャラを説明するときは、どうしてもジェニエニドッツの歌とダンスの話になる。

 実を言うと「ポルノ」と言われるのも「ホラー」と言われるのも、六割くらいはこのジェニエニドッツのナンバーのせいだと思う。
 ざっくり説明すると、この「猫の毛皮のCGをかぶった、顔が人間のだるだるボディのおばさん猫」が、いきなり大股開きして股間をボリボリとかくシーンを見せられる。

 この瞬間私は「FBIがくる」と思った。

 さらにまずいことに、この映画の中で猫たちは「服を着ている個体」と「着てない個体」がいる。
 それだけならまだ「個性かな?」で済ませられるけど、こいつらあろうことか着ている服を脱ぐのだ。

 このせいで「全裸の猫が躍ってる」という、言い知れぬ居心地の悪さを我々は植え付けられることになるのだ。
 ジェニエニドッツに至っては「毛皮を脱ぐと服を着ている」という、正直「誰がその演出考えた??」と言わざるを得ないような狂気の行動に出る。

 そんな毛皮を脱いでドレスをまとった太っちょおばさん猫が、全身の肉を揺らしながら踊り狂い、人間の顔を持ったゴキブリ人間をばりばりと食い散らかす。

 よりによって、このふとっちょおばさん猫のナンバーが「一番最初の猫紹介」なのだ。初めてCATSに触れる人々は、普段目にすることのないこの特殊性癖の海におぼれて、しょっぱなから息ができなくなっていることは想像に難くない。

 もちろん舞台でもゴキブリやネズミはでてくるけど、まあ、そこは舞台だ。限界がある。
 しかし映画CATSは限界を超えて、リアルなゴキブリのボディに人間の顔をつけて隊列を組ませて躍らせた
 そりゃ叩かれる。そりゃ悲鳴も上がる。

 まあ私はこのナンバーも好きだけど。

 ジェニエニドッツのナンバーはコメディアスでにぎやかでカラフルでパワフルだ。見慣れぬ性癖の洪水であることに目をつぶれば、そこには純然たるエンターテイメントがある。ゴキブリがリアルでさえなければ、ふとっちょ猫おばさんが最初からずっと服を着てさえいれば、映画CATSの評価はまた違っていたんじゃないかとすら思う。
 ワンエッセンスの狂気。「普通それはやらんやろ」ということを躊躇なく全力でやった。
 このジェニエニドッツのナンバーによって、今まで不穏な性癖にさらされることのなかった穏やかな感性をバリバリとかきむしられ、血まみれの心を抱いたまま映画CATSを先に進むことになる。
 そりゃホラーとも言われるわ。繰り返すけど私は好きである。

【人体の神秘とCGの進化】

 さてこのCATSだけれど、CGによってキャストに猫の毛皮をかぶせ、猫耳と尻尾をつけている。
 ってことは演者たちは全身ピチピチの緑スーツで演じてるのかな?
 CG技術の進化には目をみはるばかりだ。

 耳はひくひくと感情に合わせて動くし、尻尾の動きもリアリティがある。「服と毛皮の親和性がいまいちかなちょっと浮いてるように見える」という瞬間もあったけれど、それもほんの一瞬だ。

「猫のビジュアルが気持ち悪くて無理」
 
 こういう意見も目にするけれど、それは予告で散々ビジュアルが出てるんだから覚悟のうえで見てほしい。ぶっちゃけ慣れる
 劇団四季の全身タイツと猫メーキャップだってかなり強烈だけど、見終わったころには慣れてるし。特殊メイクってそういうものよ。
 ただ問題が一つある。

 CGのすごさを感じる代わりに人体のすごさが見えなくなった。

 映画CATSを見ていてずっと感じていた違和感は、私は多分これだと思う。人間の体にCGをかぶせてしまったせいで、本来その下に見えるはずの筋肉の躍動が完全に隠されてしまっているのだ。
 そのせいで全体的に「偽物っぽさ」がにじみ出てしまっている。

  舞台版CATSのすごさのひとつに「人間が演じてるのに猫の見える」というのがあった。
 どーしたって猫には見えないぴたぴたの全身タイツなのに、それがひとたび四つん這いになると「ふぁ!猫!?」となる。人間の体の持つ表現の幅の広さに驚愕する。そういう驚きがCATSにあった。
 けれどその人間にCGの皮をかぶせると、どこからどこまでが人間なのかがわからなくなる。人間のすごさをCGがすっぽりと包んでしまっているのだ。これは本当に残念だと思った。
 だけどCG技術の進化のためには、必要な残念さなのかもしれないとも思う。人体の神秘を生で感じたいと思うなら舞台を見に行くべきであり、映画は映画として「こういうものだ」と受け入れるのがお作法だとも思う。
 だけど舞台では間近で見られないからこそ、映画で見たかったダンサーたちの鍛え上げられた肉体と超人的な身のこなし。
 だけど確かに「CG技術の次のステージへの第一歩」みたいなのが見えたような気がするので、実験的で意欲的な作品としてこの姿勢は称賛していきたいと思う。

【文句なしに楽しい猫たちのナンバー】

 さてそんなCGの毛皮をかぶった猫たちだけれど、先述のジェニエニドッツ以外にもたくさんの猫がいる。
 CATSとは彼らの生きざまダンスを見て「この猫好きだな」という気持ちになった瞬間に好きになれる映画だ。
 ウィキを見れば猫の紹介はいくらでもしてあるので、ここであえて私が猫の紹介をすることは控えよう。けど猫好きならば「分かる~~!」と全力で同意するような曲ばかりだ。

 ラムタムタガーは気まぐれで、狭いところが好きなのに閉じ込められると大騒ぎするし、今帰ってきたのに次の瞬間にはもう出かけたがるという、猫の気まぐれさを凝縮したような歌を歌う。
 マンゴジェリーとランペルティーザはイタズラし放題の泥棒カップルで、何かが壊れたり消えたりしたら子供たちは「マンゴジェリーかランペルティーザのせいだよ!」と叫ぶ。
 ミストフェリーズは「玄関で声が聞こえたのに屋根にいる」というような猫の不思議さを「マジカル(手品師・あるいは魔術師)猫として歌っている。
 スキンブルシャンクスは鉄道に乗っている猫で、「車掌たちは叫ぶ、スキンブルがいないんじゃ出発できないよ!」と自慢げに歌っている。あたかも自分が鉄道のすべてを取り仕切っているように。

 舞台で見ても「すごい!」と思ったダンスが、色彩ゆたかなCG背景でこれでもかというほどデコレーションされて、最高のエンターテイメントに仕上がっている。猫たちは家や鉄道や路地裏を駆けまわり、あらゆるものを壊したりひっくり返したりしながらお構いなしだ。
 舞台ではできないスケールのダンスがここにはある。
「人間技じゃない……」と思うようなタップダンスが、舞台では実現しえない至近距離で見られたり、場所の制限ゆえに限界のある場面の変化も映画ならば自由自在だ。
 だから私は胸をはって何度でもいう「この映画は劇場で見る価値がある」と。

 ここまでが私の「絶賛の側面」だ。
 この先は「私CATS大好きなんだけど、見ても大丈夫なの?」という人に向けて書く。

【舞台版が好きなほど憎悪が募る映画】

 この映画は難しい。

「舞台のCATSを見たことがない? じゃあこの映画が好きになるかは博打になるね(難色)
「CATSが大好き!? じゃあこの映画を好きになれるかは博打になるね(真顔)

 まじでこういう映画だ。
 万人受けはしない。
 かといってCATSが好きなら無条件に好きになれるわけでもない。
 まず私にとって一番大きな地雷をお伝えしよう。

 猫たちに人間らしさが付与してある。

 これが意外ととんでもないダメージを叩きだした。
 顕著なのがジェニエニドッツのラムタムタガーに対する発言で、「あの高い声、去勢でもしてるんじゃないの?」と悪態をつく。
 私は衝撃を受けた。
 ジェリクルキャッツが他の猫の生きざまにケチをつけた!?
 自由奔放で何者にも屈しない孤高な猫たちのはずなのに、他の猫を貶めるな発言を!?

 猫たちは「グリザベラ」というおちぶれた娼婦猫を嫌っている設定がある。グリザベラは舞踏会で歌を披露することも許されない。舞踏会に近づくと猫たちに追い散らされるというシーンが舞台版でもある。
 グリザベラはジェリクルキャッツですらない。
 だけどジェリクルキャッツ同士では、むしろお互いを尊重しているように見えていた。
 彼らは「あいつすごいな! でも俺はもっとすごいぜ!」というようなポジティブなエネルギーの塊で、他のジェリクルキャッツを貶めるような嫌な人間らしさとは無縁だと思い込っていた。

 さらに「再生される猫が一匹だけ、オールドデュトロノミーによってえらばれる」という設定。これが嫌な方向に解釈されていた。
 猫たちがオールドデュトロノミーに「自分を選んでくれ」とばかりに媚びるような描写が散見された。
 たぶんほとんどの読者は私が何を言ってるかわからないと思う。「選ばれるために舞踏会してるんだから、選ぶ権利がある人に媚びるのは普通じゃない?」と私も思う。
 だけどジェリクルキャッツにはそういうことをしてほしくなかった。歌とダンスでもって表現した歪まない「自分」という存在だけでアピールしてほしかった。本当に鼻にかすめる程度のニュアンスなのだけれども。

 あと悪猫マキャビティの出番がかなり増えている。これは別にいい。
 マキャビティが「選んでもらうため」に他の猫の拉致にせいを出すのもいい。マキャビティは悪い猫だから別に何をやってもいい。
 ただあまりにもダサい。キラキラ輝く最高のエンターテイメントに落とし込まれた汚点と言ってもいい。長さが足りなかったからとりあえずつけたとしか思えない。

 先にも述べたように、舞台版でもマキャビティはオールドデュトロノミーの拉致騒動を引き起こす。ぶっちゃけこれに理由はない。マキャビティの悪事には基本的に理由がない。そういう猫だった。
 オールドデュトロノミーがさらわれ、それをミストフェリーズが魔術の力で取り戻す。それはミストフェリーズの見せ場の演出であって、マキャビティ悪事の発露ではなかった。
 それを膨らませてシナリオをつけ足したことを批判はしない。
 けどシナリオを足したならそのシナリオはきちんと消化してほしかった。この映画では「見せ場のない解決」をやった。
 ネタバレを恐れないとは言ったけれど、ここの映画オリジナルの筋書きを説明するのはひかえたい。ただ「なんとなく起こした事件をなんとなく解決した」これがマジで理解できない。私の映画鑑賞中の躁鬱の一番の鬱ポイントは間違いなくこのシーンだ。

 劇場猫のガスを、イアン・マッケラン(ガンダルフの人)が演じているのだけれど、もしガスという猫が好きならこの映画はかなりの覚悟がいるし、あるいは苦痛を強いられることになるかもしれない。

 落ちぶれたものだな劇場猫!
 劇団四季の舞台版ではガスが若かりし日に演じた海賊グロールタイガーの雄々しいダンスが披露されるのだけれど、映画ではそれがない。ないならないでそれでいい。
 ただ「ガスではない猫」がグロールタイガーを名乗る。しかもカッコイイ演出ではない。三下の猫が三十秒くらい歌うだけ。しかも他の猫に馬鹿にもされる。そしてガスはグロールタイガーではない役を「当たり役」として割り振られる。あんまりだ

 私は雄々しいガスのトラ男が見たかったのに!!(慟哭)

 グロールタイガーを他の猫に取られた関係で、ガスは完全にヨボヨボのジジイ猫になり果てた。この劇場猫はほぼ手品師キャットミストフェリーズの引き立て役として使われている。
 先述の「たされた拉致シナリオ」はあるいはガスの救済のために作られたシーンだったのかもしれない。それにしてはあまりにもお粗末だったけれど。まるで「高級料理店のステーキなしになったけど、スープの中に肉団子があるからいいよね」と言われてる気分だ。

 今日三回目を見てきたのでちょとガスについて加筆するけれど、イアン・マッケランの落ちぶれ猫ぶりはとてもよい。イアン・マッケランはおじいちゃんだしだし「歌手」「ダンサー」「俳優」のどれに分類する人かと言えば絶対に「俳優」と言える人だ。そもそもが舞台俳優だというし、激しいダンスをしない劇場猫にイアン・マッケランを起用したのはベストオブベストといえよう。イアン・マッケランはセリフを読むように歌う。実にミュージカルと言う感じだし、疲れは立てたジジイ感が出すぎで「この人本当に苦しがってない? 演技中に倒れない?」って不安になるくらいリアリティがある。
 だからこそ憎い悔し口惜しい。別にイアン・マッケラン御大に「急に若返って踊れ」って言ってるわけじゃない。
 あの小悪党にグロールタイガーの名前を与え、ガスと対峙させるなら、「じゃあそこにいる猫たち持ち時間三秒ずつでぱぱっと解決してラストカットはガスで」みたいな扱いをしてほしくはなかった。
ここまでが加筆部分。

 あとここまで一切触れてこなかったけど、太っちょ紳士のグルメ猫がいる。これが「毛玉を吐く」のだ。毛玉を吐いて攻撃までしてのける。これがめっちゃ不快。この監督ちょいちょいこういう狂気挟んでくる。
 
 ミストフェリーズ!!!
 そしてミストフェリーズ!!!

 舞台のミストフェリーズはスマートで賢くて自信に満ち溢れた尊敬を集める魔術師猫だ。
 映画ではうだつの上がらない気弱ではかなげに笑う少年のような猫として描かれている。
 映画のほぼ最初から最後まで出ずっぱりで、主人公的な立場を与えられているヴィクトリアという子猫に恋心のようなものを見せ、なにくれとなく世話を焼く。
 
 このミストフェリーズにもノーとはいうまい。
 映画は映画。
 舞台は舞台。

 だけど私は期待していた。
 ミストフェリーズというキャラはCATSという作品において、大変に重要な存在といえる。
 なぜか?
 とてつもない見せ場が存在するからだ。
 ミストフェリーズはたった一人舞台の中央に立ち、観客全員の注目を集める中、32回も片足で回転し続ける(フェッテというらしい)という、このシーンなしに舞台のCATSを語るのは難しいと言えるほどの見せ場がある。
「転んだら終わりだ」というプレッシャーの中でミストフェリーズがこの回転をやりきったとき、魔術は成功し、オールドデュトロノミーは救出される。
 CGという魔術が使えない舞台において、ミストフェリーズが確かに私たちに魔術をかける瞬間。それがミストフェリーズの32回転だった。
 難しい技であるのは言うまでもない。私が観賞した次の回では、ミストフェリーズがこの回転中に大転倒したという話も聞いた。

 だから私は期待していたのだ。
 その大回転に見合うだけの魔術を、この気弱なミストフェリーズが見せてくれるはずだと。
 どんなダンスを見せてくれるんだろうかと。

 けれどミストフェリーズは踊らなかった。
 いや踊ってるんだけど。たしかにずっと踊ってるんだけど。
 でもマジック帽子からスプーンを出したり、花をばらまいたり、ワイヤーでつられて飛んだりするのが「見せ場」であって、あっと驚くような技巧的な魔術はそこに存在しなかった。
 気弱なミストフェリーズがみんなの応援によって魔術を成功させてやったー!というシナリオ的なカタルシスはあったけれど、私の見たいミストフェリーズではなかった。

 圧倒的なミストフェリーズ解釈違い!

 映画CATSは「カッコイイミストフェリーズが見たい!」という人の心を間違いなくバラバラに引き裂く。
 でも「舞台のミストフェリーズの十年前の子猫時代」と言われれば納得できるかもしれない。まだ踊れないんだよこのミストフェリーズは。まだ魔術師キャットじゃなくて手品師キャットなんだよ。でも私は魔術師のあっと驚く魔術が見たかった……。

 ミストフェリーズに対する落胆がここまで大きかった理由には、その直前に見せた車掌猫スキンブルシャンクスのナンバーが抜群によかったことが揚げられる。
 スキンブルシャンクスの出番は少なかったけれど、彼が躍り出した瞬間に私のなかで映画CATSの評価が百段階上がった。それくらい素晴らしかった。
「たかがタップダンスじゃん」という人もいるかもしれない。
 でも素人の私が見てもすべての技術が抜きんでていた。
 信じられないほど長い脚での大胆な回転に目にもとまらぬタップダンス。この瞬間に私は、ミストフェリーズのダンスに過剰な期待をかけすぎた。

 ところでこの映画は公開の数時間まえギリギリまで調整をしていたという。これが「公開のギリギリまで少しでも完成度を上げようとした」のか「全然まにあってなかった」のかは私にはわからない。
 ただ、かの有名な娼婦猫の歌う「メモリー」から先、急に画面が寂しくなったのは間違いない。
 最後にオールドデュトロノミーが第四の壁を越えて人間への語り掛けを歌う。そもそもこの作品の原作は「猫と仲良くなる方法」みたいなタイトルだったらしく、そういった内容をオールドデュトロノミーが歌う。
 ずっとバストアップで。
 だれも踊らない。
 これが演出だとしても、さすがにしりすぼみだと思わざるを得なかった。スタッフロールももうちょっと工夫できたんでないの。

こういう人におすすめ

ド派手に踊り狂う猫たちが見られればシナリオは重視しない人。
マンゴジェリーとランペルティーザが好きな人。
スキンブルシャンクスが好きな人。
マッチョなラムタムタガーもありかな?って人。
いやもう細かいことはどうでもいいから一流のキャストが猫になって歌って踊るのが見たいんだよ!!って人。

何度でもいう。
この映画には見る価値のある歌とダンスが詰まっている。
だけど巷で出回る悪評はどれもこれも「嘘」じゃない。

解釈。
ただあまりにも人によって解釈が分かれる映画なのだ。
劇場の大スクリーンで、最高の音響で、今こそ見に行くべき映画だと思う。
あなたが自分の中に潜む解釈に気づくために。

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 全然関係ないけど、私の著作が2022年くらいにアニメ化されるっぽいことが決定されたので、映画レビューが面白かったらコミカライズだけでも買ってくれるととてもうれしい。
http://lanove.kodansha.co.jp/official/reimeiki/

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