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THE HIGH BEATSの歴史(4)

フル活動の65年

世に、ベンチャーズ、シャドウズ、ビートルズや、ブルージーンズ、ブルーコメッツ、シャープホークスなどが知られ始め、そのおかげもあってハイビーツという名前は知られなくとも、エレキグループとしてのアルバイトは充分にありました。
留学生会館でのパーティーは、後輩を連れて行って波の音を出す手伝いをしてもらいました。
暑い盛りの屋上ビヤガーデンでの演奏では、途中で大ジョッキを差し出すお客さんがいて、それは私がありがたく一気飲みをさせていただきました。当時から酒飲みでした。

8月8日に気仙沼稲門会(早大の県人会)主催のダンスパーティーに呼ばれて、ホンダサンの故郷である気仙沼へ遠征をしました。マネージャーのホンダサンの尽力であったと思います。

そして海近くの旧家であるホンダサンのでかい実家に全員泊めてもらいました。
実はこのパーティーのことはぜんぜん覚えていません。
朝食に出たカツオの刺身がものすごくうまかったことは覚えているのに……。

翌9日、ホンダサンの提案で、向かい側にある大島へ楽器を持って行って、ビーチでやろうということになりました。
ホンダサンの同級生も手伝ってくれて楽器やアンプを船に積み込み、初めての海外演奏(?)になりました。

小田ノ浜の海の家にお願いして電源を借り、店の前での演奏も許可してもらいました。

気仙沼の砂浜で水着姿で演奏

不安定な砂浜にパイプ椅子を並べてアンプを乗せ、みんな水着一枚の裸でプンプンビンビンと音を合わせていると、たちまち人が集まってきました。
私たちも砂浜で裸でというスタイルは初めてのことでした。
音が全然反射せずに向こうのほうへ抜けていくのも、気持ちがいいような頼りないようなものでしたが、やはり気持ちのいいほうが勝っていたでしょうか。
もちろん目の前におわんを置いて、訴えるような目で小銭を催促することもなく、勝手にやっていただけなので人も大勢集まってくれました。
海の家も結構繁盛していたので電気代ぐらいは返せたかな。

演奏後はみんな童心に戻ってワァワァキャアキャアと遠浅の海で遊び、砂浜で休息し、夕方の便で気仙沼に帰りました。澄んだ海やきれいな砂浜は今でもちゃんと残っているのか、ちょっと気になります。

そして秋。その年の早稲田祭は11月中旬に始まりました。
リーダーのポンが持ち前の粘り強さを発揮して担当者に食い下がった結果、三つの催しに出ることができました。
ひとつは同好会の発表の場として共通教室での演奏会、もうひとつは大隈講堂でアントニオ古賀さんの前座として数曲の演奏。
そして嬉しかったのは23日夜のフィナーレで、校庭の大隈銅像前で行われるダンスパーティーでした。

同好会の発表演奏は始まる時間が遅かったので、椅子で寝ている人が多かったのですが、いきなり大音量で飛び上がらせて、無理やり起こして聞かせました。ずっと行動を共にしていた後輩のCyuuも、他校生ではありましたが1曲リードを弾いてもらいました。

アントニオ古賀さんの前座では、サーフィンやゴーゴーなどアップテンポのものを用意し、幕が上がり始めると同時に演奏を開始して、後は成り行きでと大まかなものでした。
アントニオ古賀さんはさすがプロです。幕の上げ下げのタイミングと速さなどをこと細かく指示していました。
11月23日最終日の夜、フィナーレの演奏は中庭に面した校舎の入り口のひさしの上でせよ、ということでした。
ドラムセットを置き、みんなが乗ってようやく立てるほどのスペースです。上がってみると結構高く感じます。もちろん手すりなんかありません。
お互いに「落ちるなよ」と言いながら自分の位置を確保しなければなりませんでした。
準備をしている間に校庭中央のデッカイかがり火に火がつけられ、周りを囲んだ人たちからどよめくような歓声が上がりました。そのどよめきの大きさにそのとき初めて校庭を埋め尽くした人の多さがわかりました。
1時間の演奏時間はあっという間に終わりました。
ここに当時のサンデー毎日の記事があります。

「サンデー毎日」1965年12月12日号より
"呼びものの学生エレキ・バンド「ハイ・ビーツ」が 共通教室の屋上に姿を現わした時
夜の野外ダンス・パーティーの興奮は頂点に達したようだ。"


「ハイ・ビーツ」として唯一メディアに名前が出たものです。自分でも40年ぶり(2010年当時)に見ました。よく残していたものだと思います。

12月、何ケ所かのクリスマスパーティーに呼ばれ、その年が暮れました。

(5)に続く