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怪談と小泉八雲と神戸と新聞の父

夏になると、テレビなどで怪談の番組を目にすることが増えますよね。私、ぶらっくまは怖い話が苦手なので、じっくり見ることはありませんが先日、「怪談」にゆかりのある場所を訪ねました。

といっても、心霊スポットではありません。

明治期に来日して日本国籍を取得し、日本の怪談話を英語でまとめた「怪談」などを著した作家ラフカディオ・ハーン、日本名・小泉くも(1850ー1904年)の旧居跡です。兵庫県中央労働センター(神戸市中央区下山手通6)の前庭に、記念碑(上の写真)が立っています。

古き日本の面影を愛し、日本文化を海外に発信したことで知られる八雲。その存在や著作をご存じの方も、八雲といえば、日本で最初に暮らした島根県松江市の印象が強いと思いますが(松江には、八雲のひ孫に当たる方が館長を務める「小泉八雲記念館」もあります)、松江在住よりも長い約2年間、神戸に住んでいたんです。

その関係で神戸新聞にも過去、八雲に関するさまざまな記事が掲載されています。八雲について分かりやすく書いた神戸新聞の「子ども新聞 週刊まなびー」の記事があるので紹介します。

神戸に住んでいた小泉八雲 日本のこわい話を本に

兵庫県中央労働センター内には小泉八雲の関連資料や著書などが並ぶ

 ラフカディオ・ハーンって知ってる? またの名を小泉八雲。1890(明治23)年に日本へやって来た外国人なんだけど、のちに、みんなも知ってる「怪談」を本としてまとめたんだ。神戸に住んでいたこともあるそうで、マナちゃんとナビくんが八雲ゆかりの場所を訪ねたよ。

 まなびー記者 ギリシャ生まれの八雲は記者として日本にやって来た。島根県で英語の先生になり、地元名士の娘だった小泉セツさんと結婚。その後、熊本、神戸、東京と移り住んだ。神戸には2年ほど住んで、英字の新聞「神戸クロニクル」で日本のことをたくさん外国人に紹介した。日本の国籍も神戸でとったんだ。兵庫県中央労働センター(地図②)は、八雲が住んでいた家があった場所だよ。

小泉八雲ゆかりの場所。①②③あたりに住居が、④には神戸クロニクル社があった

 ナビくん 記念碑があるよ。神戸では2番目に住んだところなんだって。
 まなびー記者 館内には八雲の本や手紙のコピー、写真などが展示されている。
 マナちゃん 写真の着物姿の女性はセツさん?
 まなびー記者 そう。セツさんは日本の昔話やこわい話をたくさん知っていて、八雲に聞かせてあげたんだ。
 ナビくん それを八雲がまとめた本が「怪談」だね。「耳なしほういち」や「雪女」、のっぺらぼうの「むじな」はぼくも知ってるよ。
 マナちゃん こわい話でどきどきするけど、八雲の本を読んでみたくなった。

2016年7月10日付朝刊記事より抜粋

神戸在住時の八雲は、英字紙「神戸クロニクル」の論説記者として筆を振るう一方、代表作「心」などを出版しました。神戸時代の八雲に関する、こんな記事もありました。

神戸在住時、右目も失明の恐れ 八雲の視力救った医師特定

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)

 「怪談」などで知られる明治期の作家小泉八雲(ラフカディオ・ハーン、1850~1904年)の肖像写真は大半が右向きの横顔。事故で失明した左目を人に見せるのを嫌がったからだという。残る右目も神戸在住時に過労で失明しかけたが、医師の指示で回復したとされる。この眼科医のフルネームや国籍、生年月日を神戸の郷土史家がほぼ特定した。「神戸時代のハーンの暮らしを解明するきっかけになれば」と話す。

 新たな発見をしたのは、旧居留地など神戸の国際関係史を研究する、芦屋大元教授の男性(77)。
 八雲は16歳の時に遊具が当たり左目を失明したが、来神後まもなく右目も悪化し、失明の危機を迎えた。男性によると、日本語の文献には、眼科医の指示で自室を暗くし、目に湿布をして安静にしていたところ回復した―と書いてあるという。医師の名前は記されていなかった。
 そこで男性は邦訳が出ていない別の研究書の英語原文を読み、医師の姓「PAPELLIER」(英語読みでパペリエル)を確認。さらに、ドイツ船の船医だった、ニュルンベルグの新聞に寄稿した―などの記述から、ドイツ人ではないかと推理した。
 同時代の神戸在住外国人の名鑑、神戸市立外国人墓地(同市北区)の名簿や墓碑と照合し、この医師が妻と同墓地に眠るドイツ国籍のエドワード・パペリエル氏だとほぼ特定した。当時の神戸にドイツ人は180人程度しかおらず、珍しい姓で医師であることから、同一人物でほぼ間違いないという。
 八雲のひ孫である、小泉八雲記念館(松江市)の小泉凡館長は「八雲は五感を研ぎ澄ませて隻眼をフォローし、異文化を観察していた。右目の視力の確保は命がけだった。このドイツ人医師はまさに『命の恩人』で、その名が分かり、幸せだ」とコメントしている。

2020年1月8日付朝刊記事より抜粋(当時の記述の一部を匿名にしています)

上の記事に出てくるドイツ人医師のように、八雲が滞在した頃の神戸には既に多くの外国人が住んでいました。1868(慶応3)年の開港直後は200人ほどだった外国人の数も、港と居留地の発展とともに急増し、明治20年代には2千人前後に達していたといわれます。祖国を離れて暮らす外国人たちの間でも、さまざまな人間模様が繰り広げられていたのでしょう。

八雲は日本が西欧の模倣に走ることを嫌い、開港地の空気になじめなかったともされますが、没後100年の節目だった2004年の紙面に、八雲と、もう一人の外国人に関するこんな記事を見つけました。

ハーンとモラエス 日本を愛した2人の足跡と「心の出会い」

ヴェンセスラウ・デ・モラエス

 日本を愛し、日本に骨をうずめた外国人作家、モラエスとハーン。ともに神戸で一時期を過ごした2人の展覧会が、モラエス永眠の地・徳島の県立文学書道館で開かれている。2004年はモラエス生誕150年、ハーン没後100年の節目の年。2人の「心の出会い」に、光を当てている。 

 ヴェンセスラウ・デ・モラエス(1854―1929年)が神戸でポルトガル領事職を務めたのは1899年から。一方、ラフカディオ・ハーン=小泉八雲(1850―1904年)は「神戸クロニクル」の記者として滞在した神戸を1896年に離れている。2人には直接の交流はなかったとされるが、ある事件をめぐる2人の手紙が、京都の寺に残されていた。
 1891年、来日中のロシア皇太子が警備の巡査に切りつけられる「大津事件」が起こった。世論が紛糾する中、謝罪を表明するために民間の一女性が自害。その行為に打たれたハーンは神戸時代に短編を発表し、さらに彼女が葬られた京都・末慶寺を訪ねる紀行文を著している。
 それから十余年後、モラエスもまた同寺を訪れ、住職あてのハーンの手紙を“発見”。随想をポルトガルの雑誌に書き送るとともに、既に亡きハーンへのオマージュとして、手紙を日本の英字紙に紹介している。
 2人は、日本人の精神や生活を支えるものに、深い関心を寄せていた。「戦災で焼失したモラエス旧蔵書にはハーンの全集もあったといい、ハーンに対する傾倒がうかがえる」と同館。モラエスが署名したハーンの著書や、ハーンの死去を知らせる手紙など同寺が所蔵する珍しい資料のほか、主要な著作や遺品、写真などで2人の生涯をたどっている。

2004年5月29日付朝刊記事より抜粋

モラエスは、日本では八雲ほどには知られていないかもしれませんが、八雲と同様に日本人女性を妻とし、「大日本」「日本精神」「徳島の盆踊り」「おヨネとコハル」などの著作で知られます。神戸の近代史を語る上で欠かせない人物の一人であり、八雲と並ぶ、偉大な日本紹介者ともいえるでしょう。

旧外国人居留地に接する神戸市中央区の東遊園地には、モラエスの胸像もあります(上の写真)。モラエスは初代領事として約15年間を神戸で過ごしました。神戸・三宮の生田神社で結婚式を挙げたというエピソードもあります。

モラエスは愛する妻を病で亡くすと職を辞し、彼女の故郷の徳島に移住します。亡き妻の姪に当たる女性と暮らし始めましたが、彼女にも先立たれ、孤独な晩年を過ごしたと伝わります。その2人の女性が、著作にもある「おヨネとコハル」です。1929(昭和4)年、酒に酔って土間から転落して亡くなったモラエスは、古き日本とともに心中したような印象を与えます。

最後に、記事の最初にご紹介した八雲の記念碑のそばにある、別の碑の話を。

「本邦民間新聞創始者ジヨセフヒコ氏居址」とあります。現在の兵庫県播磨町出身で、日本の「新聞の父」といわれるジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵、1837―97年)の居宅跡の記念碑です。1875(明治8)年に神戸にやってきて製茶貿易などを手がけ、東京に移る1888(明治21)年まで、ここに住んだとされます。

碑(写真左端)は現在、マンション入り口付近の公開空き地にひっそりと立っています。写真右端の茶色い建物が、小泉八雲の居宅跡である兵庫県中央労働センター。本当にすぐそばです。ヒコは八雲がやってくる6年ほど前に神戸を離れていますが、なんだか歴史の不思議なあやを感じますね。

ジョセフ・ヒコをご存じない方もおられるでしょう。兵庫では、郷土が生んだ偉人としても知られているんです。

播磨町出身のジョセフ・ヒコ マンホールにデザイン JR土山駅前

 播磨町出身で「新聞の父」と呼ばれるジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵、1837~97年)をデザインした下水道マンホールがこのほど、JR土山駅南口のバス停付近に設置された=上写真。
 ヒコは、13歳の時に乗った船が漂流。米国船に救助され、約9年間、サンフランシスコなどで過ごした。帰国後の1864年、「海外の実情を伝えたい」という思いから、日本初の民間邦字新聞「海外新聞」を横浜で発行した。
 マンホールは、ヒコの業績について知ってもらおうと町上下水道グループが設置。デザインは、ヒコのイラストコンテストで入賞した同町の女性(45)が手掛けた。「しんぶんの父」の文字とともに、ヒコが新聞を持っているかわいらしいイラストが描かれている。
 同グループは「町内外の人に見てもらい、ヒコに注目してほしい」と話す。ふたをカード化した「マンホールカード」も発行する。

2019年2月2日付朝刊記事より抜粋(当時の記述の一部を匿名にしています)

〈ぶらっくま〉
1999年入社、神戸出身。
みなさんは怪談は好きですか? 私は記事に書いたように苦手な方なのですが、今では「怪談家」として知られる稲川淳二さんが二十数年前、怪談ライブを企画した時に取材したことがあります。大阪の喫茶店でお話を聞いたのですが、話が盛り上がるうち、あの口調で次々と怪談を披露され、気がつくと周囲に他のお客さんも椅子を寄せて一緒に聞き入ったことがありました。怪談にまつわる楽しい思い出です。