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震災から12年、息子が語ってくれたこと


震災から12年経ったある日、突然長男があの日おじいちゃんが夢の中で語ったことを教えてくれた。息子がこの話ができるようになるまでこんなにもかかるとは私も想像できなかった。

震災当時、私たち家族は元旦那、元旦那の両親、祖母、私と息子ふたりの7人で暮らしていた。いわゆる大家族だ。当日うちにいたのは私と長男、義父と義祖母の4人。義母は義父の薬をもらいに病院へ、元旦那は仕事先、次男は中学校にいた。海から3キロは離れていた自宅は2メートル近くの津波に襲われた。私と長男、義祖母はかろうじて難を逃れたが、たったひとり義父だけが波に飲まれ亡くなった。

ここからは息子目線で義父のことはおじいちゃん、義祖母のことはぴいちゃん(方言でひいおばあちゃん)と書かせてもらおうと思う。

自宅は昔話によく出てくるような農家の茅葺き屋根のおうちを屋根だけ瓦に取り替えた平屋で、津波がきても逃げる場所がなかった。私と息子はたまたま盛り土をして建てられた離れにいたおかげで助かった。いつも面倒だと思っていた母屋とのわずか二段の段差が命を救ってくれるとは思わなかった。当時寝たきりだったぴいちゃんは床ずれ防止用のエアーマットが浮いたことにより助かった。嘘みたいなほんとの話だ。ものすごく怖かったと後に話していたらしい。

当時飼っていた2匹の猫を避難させるのに必死で私は押し寄せた津波をほとんど見ていない。息子によると波は海からと正反対にあった川からの二方向から押し寄せ、自宅の畑のあたりで激しくぶつかり合い渦を巻いていたそうだ。幸い窓ガラスは割れなかったものの水の勢いは凄まじく、あらゆる隙間そして床や壁をぶち抜いて部屋はあっという間に浸水した。私と息子、猫2匹はぷかぷか浮かぶ二段ベッドの上段で一夜を過ごした。もう少し水の量が多かったら息子も私も助からなかったかもしれない。

震災の翌日になり津波の水はすっかり引いた。なのにおじいちゃんは息子のところにやって来なかった。これはかなりの異常事態だった。初孫だった息子のことをおじいちゃんは溺愛しており、田んぼの魚取りや山での虫取りなどいろいろな場所へ連れて行ってもらった。寝坊して学校に遅刻しそうになった時は私に隠れて車で送って行くほどだった。甘やかすにも程がある。
宮城県は昔から地震が多かったが、揺れている最中に息子が心配で走って来たこともあった。(その時の震度はまさかの6弱)そんなおじいちゃんが息子の安否を確認しに来ない。私たち2人は口にせずとも最悪の結果を想像せずにはいられなかった。

結局、おじいちゃんの遺体が発見されたのは震災から一週間以上経ってからの事だった。遺体は自宅の瓦礫の下にあった。まさか誰も自宅内とは思わず外を探し回った結果でもあった。

その時の息子の反応を今でも覚えている。「あ、そうなんだ」というあっさりとした表情。私の違和感に気づいたのか「わかってた。夢で見たから」とだけ言った。でもそれ以上詳しい内容は聞けなかった。車を流され移動手段を失った上、自宅の片付け、市役所への手続きなどやることは山積みで、住む場所も食料もなく生きることに必死だった私たちはそれどころではなかった。そして何より息子が夢の内容を話したくない様子が見て取れた。話したくなったらきっと息子の方から話してくれる、そう思った。 

震災から数年経ち、美輪明宏さんがテレビ番組の中でドクロのついた洋服やアクセサリーなどを身につけるのはあまり良いことではないと話していたことが話題になった。息子がつぶやいた。「そういえばこれと同じことをおじいちゃんが言ってた」夢なのに辻褄が合わないおかしな部分が全くなく、普通に生きている人と話している感じだったことも教えてくれた。でもそこで唐突に話は終わった。核心に触れてない感はあったがまだ話す時期ではなかったのだと思った。

さらに時は過ぎ震災から12年経った今年。
お墓参りに向かう車の中で息子があの時おじいちゃんが話してくれた一番大事なことをことを教えてくれた。
「おじいちゃんが死んだのはお前たちのせいではない。だから気にすることはない」
実は津波が来る直前、おじいちゃんは私達と一緒にいた。「危ないからうちに入ってろよ」と一言言い残して歩き去る後ろ姿を今でも覚えている。どうしてあの時一緒に離れにいようと声をかけなかったのか。息子と私は悔やんだ。おばあちゃんの「私がうちにいたらおじいちゃんを死なせなかったのに」という一言にも深く傷つけられた。おじいちゃんはそのことを予想していたのだろう。だから一番愛していた息子の夢に現れてたくさんのことを伝えてくれたのだろう。息子たちは今でもおじいちゃんに見守られていると私は信じている。



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