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真っ赤なゴルフの話

手がかかる子ほど可愛いなんてよく聞く話だけど、車も同じでやたら故障した車の思い出は今でも鮮明だ。当時は散々だった出来事も遠くなってしまえば笑える思い出話になったりするものなのだ。

我が家では30年ほど前、たった一度だけ外車を所有したことがある。持ち主は母親だった。母は44歳の時に運転免許を取得した。かなり遅いほうだと思う。当時、我が家には父親のリベルタビラ(それにしてもマイナー車だ)一台しかなかった。父は昔から頑固でしかも出不精だった。行ったことのない場所に行く、高速道路を走るのが大嫌い。便利な三陸自動車道ができたのに「俺は下道を行く!」と豪語し、どんなに時間がかかっても一般道を走っていた。母の中にもフラストレーションが溜まっていたのだろう。私が高校在学中に免許を取ったのをきっかけに自分も自動車学校に通うことを決意した。仕事をしながらの自動車学校通いは大変だったけど、あまり時間数をオーバーすることなく卒業したのはすごいなとちょっとだけ思った。免許センターでの筆記試験は一度落ちちゃったけどそれくらいは仕方ないだろう。

車は母の昔からの友人に探してもらった。長年ディーラーに勤めていた経験があり、当時は損害保険の代理店をしていた人だ。そんなこんなで我が家にやってきたのは中古の真っ赤なゴルフだった。「この型、人気があるんだよ」と紹介されたのはおそらく二代目ゴルフだったと思われる。(当時の写真がないのでググって調べた)見た目は確かに可愛くて合格だったけど、この車、実は初心者にはなかなか厳しい車だったのだ。

車が到着した日、初めて運転する母に付き合って助手席に乗り込んだ。ウインカーを動かそうとしたらなぜかワイパーが動いた。右ハンドルなのにレバー類がなぜか左ハンドル仕様のままだった。おまけにパワステがついていない。実は我が家の車庫入れは家の前の道路が狭いせいで、かなりのハードモード。ブロック塀の門柱があるせいで入り口が狭くなっていて難易度をさらに無駄に高めていた。そこで当然何度も切り返しをする。母の顔に汗が滲んだ。翌日母は「なんだか腕が痛い」と言って起きてきた。ハンドルが重いせいで筋肉痛になったのだった。そんな事ってあるんだと驚いたのを今でもよく覚えている。

母はバス通勤をやめて晴れてマイカー通勤を始めた。当時バスの最終は19時(!)だったので帰りの時間を気にせず、しかも途中で買い物もできるのは本当にありがたかった。勤め先は街中で車を止める場所がなかったので、知り合いのガソリンスタンドの駐車場を借りた。この人の人脈の広さはちょっと侮れない。今まで父親頼みで自分で移動できなかった不満が爆発するように母は活動的になった。片道1時間ほどかかる実家にも自由に行ける、祖父母に用足しを頼まれてもすぐに応えることができるのは素敵なことだった。その頃、母と2人で温泉に一泊旅行もした。(当然のように父はついてこない)オーバーヒートで通りすがりの修理工場に駆け込む等のトラブルはあったものの、逆についているレバー類にも重いハンドルにも慣れた母は水を得た魚のように生き生きと好きな場所へ出かけるようになった。

でもそんな蜜月も長くは続かなかった。エンジンがかかりにくくなったのが最初の兆候だった。とりあえず数分経てばかかるので変だなと思いつつ乗り続けていた。ところがその数分が少しづつ伸びていき、ついには30分になった。考えてもみて欲しい。出かけた先で車に乗り込み、「またね」とわざわざ見送ってもらってエンジンをかけたらプスン。「ごめん、30分待たないとエンジンかからないからもう一杯お茶もらってもいい?」と引き返す時の小っ恥ずかしさを。これはちょっとあんまりだなと考え始めた頃、事件が起きた。

母が帰宅途中、変型五叉路の大きな交差点に差し掛かったところでエンジン音がどんどんか細くなっていき、とうとう止まってしまったというのだ。惰性でなんとか道路の端まで寄せることはできたものの、その後エンジンがかかることはなかった。それが決定打となってゴルフは我が家から去っていってしまった。

車がないと不便なので、母は性懲りも無く同じ人に車を探してもらうことにした。今度は国産車がいいとお願いして紹介された車はなぜか古い117クーペ。母に相談された私は即座に断ることを勧めた。母には不釣り合いな車種だし、もう古い車で苦労するのは懲り懲りだと思ったからだ。結局次に乗ったのは無難な中古のサニーだった。




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