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息子の卒業式

2011年3月、長男は高校2年生、次男は中学生2年生だった。長男の高校は校舎が津波で使えなくなり、内陸の高校を間借りして授業を行うことになった。本当は電車通学させたかったが、当時は金銭的な問題もあり(簡単に言えば貧乏だった)頑張って自転車で通ってもらった。今調べてみたらほぼ片道10km、毎日となるとなかなかの距離だ。ちなみに自転車もカナダからいただいた。あの時は世界中に助けてもらったと本当にありがたく思う。

間借りした校舎での三者面談、息子の担任はちょっとだけ怒っていた。息子にではない、間借りしている学校の生徒と保護者たちに。「どうして天気が悪いわけでもないのに車で送ってくるんでしょう?」三世代同居も珍しくない地方都市、祖父も祖母も普通に免許を持っているため、車での送り迎えは珍しくなかった。野球部の顧問をしているまだ20代の熱血先生はそれが許せなかったらしい。

息子の担任はそれは熱い先生だった。生徒同士がしつこくからかいあっていると、いじめに繋がらないようにきちんと注意してくれた。校舎が避難所になった時には被災者のサポートにも尽力してくれたそうだ。そんな真面目で熱血な先生に3年間担任してもらえると聞いてものすごく安心したのを覚えている。

間借りしていた学校から元の校舎に戻り、息子が3年生に進級した夏の日、不吉なニュースが飛び込んできた。担任の先生が倒れたというのだ。野球部の試合後呂律が回らなくなり、救急搬送されたのだった。症状は思ったより深刻で、右側に麻痺が残るかもしれないということ、それに追い打ちをかけるように息子たちを落胆させたのは、卒業式前に職場に復帰するのは無理らしいという知らせだった。

息子のクラスでは震災で同級生が一人亡くなっている。家族を亡くした人、家をなくした人、電柱に登ったり、流れてきた船に飛び乗ったりして、かなりギリギリの状態で助かった子も大勢いた。高校生は子供のように無邪気に泣くこともできなかった。震災当時の尿検査でほぼ全員が引っかかったという話を聞いてストレスの怖さを思い知った。全員が大きなストレスやトラウマを抱えていた。

そんな矢先に担任が倒れた。クラスは荒れたらしい。ちょっとしたことで揉めたり、普段は温厚なクラスメイトが言葉を荒げることもあったと息子から聞いた。それでも副担任が頑張ってくれたこともあり、全員が進学、就職と進路が決定、無事に卒業式の日を迎えることができた。

肌寒い卒業式の日、取材のテレビカメラも回る中、卒業式が始まった。みんなの目の前には杖をついているものの羽織袴姿の先生がニッコリ笑って立っていた。生徒たちは先生が来ることを知らされていなかった。なんとしても卒業式には出席したいと必死でリハビリを頑張ってくれたのだ。まさかのサプライズ。先生は既に泣いていた。それを見て保護者も(もちろん私も)泣いた。式が終わって教室に戻ると黒板にたどたどしい文字で生徒たちへのメッセージが書かれていた。先生が麻痺した右手の代わりに左手で一生懸命書いてくれたものだった。その頃にはクラスのほとんどが泣いていた。「先生!俺めちゃくちゃ心配かけてごめんなさい!」「先生!ごめんなさい!」ほぼ大人の体格の高校生が小さな子供のように泣きじゃくりながら先生に謝っていた。それを見て親たちもまたもらい泣きした。

帰り道息子と話した。「この話、テレビ局に見つからなくて良かった。もしかしたらあるクラスの2年間の記録なんてドキュメンタリー作られちゃったもしれないね」だからこれは誰も知らないこのクラスだけの秘密の話なのです。


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