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生きるって、誰かとつながること?成功って見つけてもらうこと?

 どうも、この世の全てのイレギュラーを生きるふたです。ユニークな9歳長男、2歳次男を育てています。


 本日は夫婦の些細な会話から出た、「成功って結局何なんだろうね?」という話をしていきたいと思います。


消えていくもの


 いつだったか私がある大学教授のYouTubeを見ていると夫がこんなことを言いました。

「ねぇ、この人たちが亡くなってさ、その時に凄い世紀の発見をしていてそれを論文にもメモにもどこにも残していなかったとしたらさ、それってどうなるのかな?消えてしまうんだよね?」

「消えるんじゃない?すっごく遠くの星が、その輝きを誰にも知られることなくいつか超新星爆発してしまうことと変わりないんじゃない?誰も気づかないものは他の誰かにしてみれば、ないのと同じなんだよ。
 命だって同じでしょ?
 アマゾンの奥地で今日知らない民族の知らない子どもが亡くなったとしても、日本にいてその子の存在さえ知らなければ何とも思わないよね。
 死者1名と聞いても亡くなったんだなとしか思わないけど、それが知人の名でアナウンスされたら鳥肌が立つし、家族の名前だったら卒倒する。それくらい誰かが存在を知っているかどうかで、この世に存在するかどうかって大きく変わるじゃん?
 だから誰も知らない事実は、消えていくんじゃない?だからきっと、本来は存在していた事実を無視した中に、目で見た現実はあるんだろうね。」

「あのさ、何言ってるのか全然よくわかんないけどさ、それってもったいないよね凄く。また人類がその発見をしようとするとさ、何百年とかかるかもしれないんだよ。」

「そうだね。アインシュタインだってダビンチだって、もっといろいろ考えてたかもしれないし、名のないどこかの誰かがノートや日記の端くれに、ものすごい発見を書いていたかもしれない。適切な場と繋がらないと、結局はどんな素晴らしい発見もほとんど無駄の儘消えてしまってるんじゃない?」

「死ぬまでにすべて書き残せたらいいのにね。」

「でも結局は何を伝えたかより、どう受け取ったかで判断されてしまうから、自分から出たものが自分から出たままであるのは難しい気はする。」

「まぁ、さっぱりふたが何言ってるか、わからないんだけどさぁ。」

見つけられないもの


 そんな、かみ合っているようないないような夫婦の会話をした後、ふと思ったのでした。
 私は自閉症スぺクトラム症を持っています。外部との出入力の接続ツールの機能が極端に弱かったり強かったりするわけです。その度合いは人によりさまざまで、私の場合はこうして文字にすることで表出することが叶っていますが、文字や言葉という外部との接続ツールを持たない人自閉症スペクトラム症の方の中にはたくさんいます。

相互さんが育てられた花



 その内面がどんなに豊かで、素晴らしくても、彼らの中にどんな素晴らしい花が咲いていようとも、誰も知らない世界的な発見を彼らがしていたとしても、人にそれを伝える手段を持たなかったり、その必要性に全く関心がないから外からは一切、見えないだけなのかもしれないなとたまにそんなことを考えます。

朽ち行く花の生への執着は呼吸のよう

 私は、あるがままを好みます。九相図のように、花が枯れていく変わりゆく様を美しいと感じ、朽ちたものすらそこに生きた歴史を感じ、美しいと感じます。    
  自然に営みの中にいくら太刀打ちしようとも、抗えず、その中に自分の姿を重ね、生の喜びを感じるのかもしれません。
 多くの人はこうなる前に捨ててしまうことでしょう。枝葉が方々に伸び行けば刈り、まっすぐに伸びるように導くことでしょう。


朽ちたものの美しさは格別

見つけてもらう必要性をもたないもの

 たとえばIQ300と言われるノイマンやIQ205と言われるダビンチと同等の能力を持った人がそこに紛れていたとしても、IQテストを受けることや表出することになんの興味も関心も示さなければ、IQは測定不能やきわめて低い値となるのではないでしょうか?

 使える言葉がある、繋がる必要性を自分の中に持っているということは、人と繋がり見つけてもらえる可能性を大いに秘めています。伝えることができるということは、誰かに発見してもらえる可能性があるということです。

 地震で倒壊した家屋の下敷きになって、救助が真上に来ている時、「助けて」と声をあげたり、音を出したりして自分の位置を示せた方が断然見つけてもらえる確率は上がります。

それと同じことなのではないでしょうか?

 生きる上で誰かに見つけてもらうことは、幅と可能性を自らに与えることと同等なのかもしれません。

庭の草木の下で咲いていた花


 ですが同時に、誰からも見つけられない花が美しくないわけでは決してないのです。
  人類への貢献や富や名誉を成功とするか、個人の人生の中での学びや研鑽を成功とするか、何が正解かなんて、今生きている私たちには、誰にもわかりません。それは花束と一輪の花の美しさを、競うようなものなのかもしれません。

 人は本当は、何をシェアし、何を内に秘めるのか。その選択さえ実は制御できてなどいないのかもしれません。

 あなたにとって人と繋がること、見つけてもらうことはどんなことですか?成功とは、なんですか?豊かさとはなんですか?

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