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追悼:アディバ・ノール

僕が初めて紙媒体に寄稿した文章は狩撫麻礼の追悼文で、立て続けにヤスミン・アフマドの追悼文を依頼された。「もう、居なくなってしまった人」について何か書けとオーダーが入るのは、誤解を恐れずに言えばそれほど悪い気分ではない。少なくとも「そいつについて書いたら、そいつが死ぬ」なんて死神よりも随分気楽だ。何より死人に口なしである。

今日、アディバ・ノールの訃報を聞いた。彼女はマレーシアでは有名な歌手で、ヤスミン・アフマドの映画の常連でもあった。彼女の、すべてを包み込むような圧倒的な包容力と、時折見せる「マジになった時のマツコ・デラックス」の如き鋭い眼光は、ヤスミン作品の画を引き締めるとともに、適切な量の母性を添加していた。アディバ・ノールを知らない人でも、そのキュートさと聡明さは、たった一つのカットを観れば理解できるだろう。

ヤスミンが手掛けた『細い目』の冒頭には、こんなやり取りがある。ビーチベッドに横になる母の傍らで、少年が詩を朗読するシーンだ。

「この詩、すごく良いわね。作者は誰? 大陸の中国人?」

母は息子に尋ね、彼が答える。

「インドの人さ。誰かが翻訳したんだ」

「インドの人なの。不思議ね。文化も言葉も違うのに、心のうちが伝わってくる」

アディバが登場するシーンではないが、アディバの存在はまさにこの通りで、文化も言葉も異なる、マレーシアの知らないオバちゃんが結構な恰幅で画面を占領している。だが、カメラが捉えた彼女の動きは、マイクが捉えた彼女の声は、紛れもなく「心のうち」を伝える。

そういえば、ヤスミン・アフマドの追悼文には以下のようなことを書いた。

ヤスミン・アフマドは、自身が捉えた世界をありのままに映し出すかのごとく、瞬きをするようにカットを割っていく。その視線の先には、喜びがあり、悩みがあり、快楽があり、苦痛がある、つまり普通の人が、ただ生きている。

そこには肯定も否定もない。しかし「神の視点」のような傍観ではない。彼女の角膜と世界の間には、恥ずかしげもなく書くならば「愛情」というコンタクトレンズが挟まれている。「母の視点」とも表現できそうなそれは、国も文化も何もかもを越えて「ああ、懐かしいな」と、胸が痛くなるほどの郷愁を感じさせる。

対象をフラットに捉えること、怒りを抑制すること、赦すこと、そして、愛情をもって世界を見渡すこと。その優しき「母の視点」は、彼女が遺した最大の作品なのかもしれない。

以上はヤスミン・アフマドの視点について書かれているが、彼女が観測する視点を受け継ぎ、その眼差しを映画内の登場人物に向けていたのは、アディバ・ノールにほかならない。

追悼文の最後には、以下の文章を記した。

残念ながら、ヤスミン・アフマドはもう居ない。だが、彼女が遺した最大の作品には、世界の見方を変えるほかにも、もうひとつの効能がある。彼女の観た世界がスクリーンに投影され、我々が「母の視点」を借りるとき、ヤスミン一人分のスペースが空いてしまった世界の寂しさを、少しだけ埋めることができる。

この言葉を、今日に限って借りるならば、残念ながら、アディバ・ノールはもう居ない。だが、彼女が演じた作品には、世界の見方を変えるほかにも、もうひとつの効能がある。彼女が映画内で観測している世界がスクリーンに投影され、我々が学校の先生やお手伝いさんの視点を借りるとき、アディバ一人分の、ちょっぴり広めのスペースが空いてしまった世界の寂しさを、少しだけ埋めることができる。

ありがとう。アディバ・ノール。貴女はヤスミンと同じく、僕の異文化に対する偏見を取り除いてくれた恩人です。

冥福は祈りません。あれだけ映画に福をもたらしたのですから、祈らなくとも冥土で福に恵まれないわけがない。もし「向こう」があるならば、ヤスミンと映画を撮り、美しい歌をたくさん歌って欲しい。僕はもう少しこちらに居て、飲み屋で横になった人に貴女の作品を勧めることにします。


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