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『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』アンケートハガキを出したのは、生まれてはじめてだよ/他

前田将多さんの『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』(旅と思索社)を読んだ。

素晴らしい本である。どれくらい素晴らしいかと言えば、面倒くさがりの私が生まれてはじめてアンケートハガキを書いたくらいだと言えばわかるだろうか。うん、わからないと思う。なので、以下に補足する。

世の中、知らないことばかりである。

知らないことばかりの割には、人はつい知っているフリをしたり、知っているつもりになってしまう。

たとえば、私はずっと「(現在の)バリ島のケチャ」とは湿度高めのジャングルで奏で踊られる秘密の部族伝承みたいなものだと、知っているつもりだったのだが、実は1930年代にドイツ人によって創られたものだったことを最近知り、脱力した。てっきり神聖な儀式だと思っていたのに、まったくありがたくない。

このように、世の中は知らないこと/知ってるつもりになっていることだらけなのである。

カウボーイについてもそうだった。

牧場の広大さ、牛の売買方法、機械の種類、その動かし方、馬の扱い方、ロデオ、自然の厳しさ、専門用語、カントリーソング、そもそもカウボーイとは何者なのか……。

映画や本、音楽などで知った気になっていた私は、実は何も知らなかったのだ。そして、知る前と知ってしまった後では、世界は大きく変わる。今、私の耳にはジョニー・キャッシュやハンク・ウィリアムズが以前よりまったく違った聴こえ方をしている。

あくまで個人的にだけれども、ナナオサカキの詩を読んだとき、カルロス・カスタネダのドンファンシリーズを読んだときと似た感想を抱いた。自分でも、まさかここに繋がるとは思っていなかった。

牽強付会と言えばそれまでだけども、ガッチリ接続しちゃったんだからしょうがないじゃないか。と、頭の中のえなりかずきが唸る。

ナナオサカキは世界中を歩いて、地球と会話し、詩を書き続け、歩き続けて亡くなった。カルロス・カスタネダはヤキ・インディアンのナワールと出会い、世界(地球)と会話する術を身に着け、最期は意識の深淵に飛び込み行方不明になった。彼の著書では「歩く」行為は重要なこととして描かれる。

カウボーイも同様で、地球を、大地を歩き、自然と格闘し、牛と格闘し、機械とも格闘する。そして、格闘しながら対話もする。

それは時に残酷ながらもきっと幸福な営みなのだろう。日々アスファルトの上を歩いている私にはわからない。実際にやった人にしか決してわからない感覚なのだ。かなり羨ましくて、ちょっと悔しい。

ひとりの男が、遠くの国の広大な大地に降り立ち、失敗を繰り返す度に立ち上がり、いろんなことを知っていく。経験から語られる言葉は、大きくて、力強く、そしてとても優しい。

これが読まずにいられるか、涙せずにいられるか。

『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』は、とてつもない記録と、記憶の物語である。

肉が食いたくなったので/富士そばのテイクアウトパッケージが変わっていた。

カウボーイについての本を読んだからか、どうにも肉が食べたくなり学芸大学にある某トラットリアにステーキを食べに行った。そこの火入れは基本的には最小限であり、なおかつ店主のスキルも申し分ない。つまり、ベストな状態で焼き上げられた美味い肉が提供されるのだが、残念ながら私は良く焼く派である。そして、今日だけは更に良く焼いて欲しいと注文をつける。

ついでに、

「いやね、今日カウボーイの本読んだんですけど、それもね、今のカウボーイなんですよ」

と営業をかけてみた。

「カウボーイって、今でもいるの?」

本当に皆言うんだなと、思わず笑ってしまった。

「で、アメリカの牛のセリってどうやるかっていうと、もうびっくりしちゃったんですけど、まず……」

「え? マジで? それって、俺も観れるのかなあ」

店主は興味津々である。おそらく、後に買ったと思う。

ところで、最近の焼いた肉を供する飲食店は焼かなすぎ/熟成させすぎではないだろうか。極論を言えば、私はしっかりと焼かれた肉をステーキ宮のソースをかけて食いたいのだ。しかも、ステーキ宮ではない場所で。

店主のプライドが許すギリギリまで肉に火を入れてもらう。店に対してこう書くのは大変申し訳ないのだがパサッとした肉を大きめに切り、口に放り込む。このパサツキ感、しばらく忘れていた。

話は変わるが、富士そばへの執念は以前より減った。今は愛情というより、サウダージである。それが良いことか悪いことかはわからない。だが、胃腸には確実に良い。

先日、富士そば 代官山店のカレーカツ丼を持ち帰りしたところ、容器が変更されていた。以前のセパレートタイプから、一体型になっていた。

見た目は完全に後者が勝利しているが、バランスを考えると意外とセパレートは正解だったかもしれない。

まあ、富士そばは中の人にかなりの裁量があるので、一概に「変更された」とは言えない。セパレートタイプ使いと一体型タイプ使い、それぞれの使い手がシフトを組んでいるだけかもしれない。当日、たまたまその器しかなかったのかもしれない。2人が同じシフトに入ってしまった場合、一体どうなってしまうのだろうか。セパレートなのか、一体型なのか、それとも第三形態が登場するのだろうか。想像もつかない。

世の中、知らないことばかりである。



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