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”よりよい表現”が連れてくる暴力について

2021年3月24日、「表現の現場調査団」の調査結果が報告された。これは国内で初めて美術や演劇、映像、文筆業などの表現の現場で横行するハラスメントの実態を調査したものだ。「自分は関係ない」と思う方にも一読をおすすめしたい。加害者として突然訴えられ、社会的地位を失うリスクの度合いを測ることができるだろう……などと書いたなら扇情的に響くだろうか。

しかしながらこの調査の一つの大きな目的は、表現の現場での「ないことになっている」ハラスメントを可視化し、それがそこに実際にあるのだと皆に意識させるというものだ。それは問題解決のスタート地点である。そこには、「これ(ある行為)がハラスメントになる」と思っていなかった加害者側がその問題行為に自ら気づくことも当然含まれてくる。

もちろん、ハラスメントと思われることが日常にある方にもぜひ読んでみてほしい。この調査報告はこの有志団体にとって活動の最初期にあるもので、まだ問題解決の筋道にまでは踏み込んでいないが、それでもこの報告を読むことで自分の身に起こっていることが何なのか認識することはできるだろう。私はかつてパワーハラスメントを受けたとき、それが何なのか認識できなかった。だから被害は拡大した。もし知ってさえいれば、逃げるなり訴えるなり、いろいろな手段が取れたのに、といま振り返って思う。

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そう、私自身、この問題にはずっと関心を寄せてきた。それはむかし自分がパワハラにあって死にかけたからだ。17年ほど前のことだ。当時勤めていた美術館の上司がパワハラ主だった。周囲にはオープンにしてきたことだが、誰でもアクセス可能な場所に書いたことはない。今回の調査で「ハラスメントが確かに存在する」とみんなが認識することそのものに、ハラスメント発生を防ぐ効果があるということを改めて気づかされ、自分の体験を共有することもまた、誰かの役に立つのではないかと思い始めた。

自分の体験を書くことに逡巡はあった。パワハラ主を慕い、尊敬する人々は私のほうに非を認めたがるだろうし(彼の社会的地位は私より高い)、それは言葉にされることがなかったとしてもどこかにくすぶり続けるだろう。もちろん私も完全無欠ではないので、そういった非難の一部にはある程度正当性もあるはずだ。そういったことを引き受ける覚悟が自分にあるのかどうかを私は自分に問い続けていた。またパワハラ主の置かれた当時の状況を鑑みると「大変だっただろうな」と同情できる部分もあり、また育ててもらったと思うところもある。いまは故人となった彼を結果的に貶めるようなことを書くのは倫理的に問題があるのではないかとも思う。

それでもなお、あの時の苦しみと、今もそういう状況に置かれている人がいることを思うと、体験をシェアすることはサバイバーとしての自分の義務のように感じられた。そして、恩があったら怒ってはいけないのか?と自分に問うた。人間の複雑さをどう理解し、受け止めるかに関わるこの問に答えるのは、簡単ではない。けれど、私の今の答えは、ハラスメント被害者はまず怒るべきだということだった。世に同じことが繰り返されないために。

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噂話のように消費されるのは本意ではないので、本当に必要とする人だけに届くように、具体的な体験については(ごく少額の)有料とすることにした。もし収益があればハラスメント問題に取り組む団体に寄付する。
(注)これはパワハラについての記述であり、セクハラやその他のハラスメントについては触れていない。またサバイバーはフラッシュバックに注意。

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