見出し画像

運の研究(6133字)

座右の銘は今となっては「晴耕雨読」であるが、三十路あたりまでは「人生凡て運で乗りきる」であった。晴耕雨読に舵を切ったのは、それまでの座右の銘に恥ずかしさを憶えたのと、海外にて起業や異文化交流を重ねていくうちに運氣なるものの触れ方を識ったからになる。とはいえ、やはり或る種の恥ずかしさがやってくるので、途中からは秘伝として伏せておくことにする。

まずは君をこの記事へと運んでくれたご縁に感謝申しあげる。ありがとう。

Point1、【総合運】前髪はつかまない

人の総合運は大概、身と名を視ればわかる。

その証拠に、素顔や本名を伏せた中國をはじめとした歴代の皇帝は少なくない。名は姓名學入門に草したから、本記事は身から運氣をあげる方法を共有していく。

運が強き者の特徴として、これまで「前髪しかないというチャンスの神をつかむ」といった話をよく耳にしてきたが、個人的にこの話は真っ赤な嘘であると視ている。どこをどうつかもうとしているのかわからぬが、私が神であったなら、大切な前髪を人間につかまれたら、迷うことなく地獄に堕とす。

そもそも運を「つかむ」といった発想からして、貧弱な運の持ち主の臭いがしてたまらない。身が硬直してしまっている。

おそらく運氣に対しては、花を愛でるかのように指先で華奢に触れておくのが最低限のマナーであろう。要は力というか氣をぬいて、自然体に接することが肝要なのだ。指の皮一枚あけておくことである。

ずっと願望成就しなかったが、ふと氣を抜いた瞬間、願いが叶ったというのは珍しくない。

なぜ、早くぽけ~っとできなかったのだろうかと、私などは感じてしまう。

閑話休題。チャンスの神様への触れ方は指先であればあるほど、儚くてよい。云うなれば、ブラジルで用いられている単語Cafunéに近い。

髪にやさしく触れながら、愛を語らうといった訳しにくいポルトガル語のひとつになる。

この辺の扱い方は棋士でいらした米長先生のご著書がわかりやすいかもしれない。幸運の女神に好かれなければ始まらぬと彼は人の生を視る。

そう、チャンスの神様はおそらく女神なのだ。

間違っても前髪をつかむなどをしてはいけない。

幸運の女神も同様、つかもうと意氣込めば意氣込むほど逃げていってしまう。必要なのは意氣ではなくて、幸運の女神をひとめ惚れさせるような色氣であろう。

さて、私見つづきで恐縮だが、運氣のある者には身体的特徴がある。

上虚下実といって、どっしりとした下半身にリラックスした上半身がゆらゆらしているといった姿がよい。これは経験上、日本人にしか当てはまらないけれども、日本語で草しているから勘弁願いたい。

人の肉には伸筋と屈筋が対になってある。例えば、二の腕は伸筋で腕を伸ばすのに対し、力こぶは屈筋で腕を曲げるときに用いる。特筆すべきは伸筋のほうで、こちらはリラックスすればするほどよく機能するといった特徴がある。

つまり、力を抜ききったならば、人は伸びるようになっているのである。

無論、脱力しきった二の腕であったなら、男性数人で腕を曲げにきたところで、腕は曲がらない。この抜け感がある人間は等しく運がよろしい。

たくわん漬けの方が有名になった沢庵和尚もこう書き残している。

伸は神なり。

脱力して伸びておくことは文字通り神なのだ。女神を惚れさせるのであれば、まずはあなたも力を抜ききって、神の情態になっておく必要がある。身に余白がなければ、運が入る余地はない。

伸筋を優位にしておく。

これが絶対運氣の玄関である。

屈筋優位の者は常に力み、結局は力の抜きどころを探す人生を歩むが、伸筋優位の者はリラックスが常で、長い人生における力の入れどころをそこはかとなく眺めている。

Point2、【仕事運】「はい」という返事

仕事運を磨きたいならば、「ついてる」よりも「はい」を稽古した方がよい。或る機会がきた際に、間髪入れずに「はい」と返事ができるようにである。

間髪を入れてしまうと、たちまち思考がたちあがってきて、損得勘定に陥る。そんなことでは幸運の女神はふりむきもしない。酸いも甘いも「はい」というひと言で飲み干す氣概こそ、強運への第一歩であろう。

この姿勢を禅語では喫茶去という。

ここから先は

4,426字 / 4画像
この記事のみ ¥ 1,500

いつも心温まるサポートをまことにありがとうございます。 頂戴しましたサポートは、農福連携ならびに読書文化の普及に使わせていただいています。