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加藤智大死刑確定囚の死刑執行について思うこと

加藤智大死刑確定囚の死刑が執行

 令和4年7月26日、秋葉原無差別殺人事件の加藤智大死刑確定囚の死刑が執行されました。事件発生が平成20年、死刑確定が平成27年で、平成28年に再審請求をなしているということで少し執行が早いのではないかと感じましたが、加藤智大死刑確定囚より後に死刑が確定してすでに執行された死刑確定囚がいることからも執行順序を大きく飛び越えてなされた執行でもなさそうです。

自らの死を前提とした意識の変化による事件への反省はあったのか

 私は、刑罰法規の目的の中で罪を犯した者の反省と更生を最も重視しています。死刑を宣告された者は、犯した罪が重いだけでなく、裁判所によって更生が困難であると判断された者ですが、そのような者であったとしても「そう長くない後に必ず来る自らの死」というどうしても自分の人生を振り返らざるを得ない事実を突きつけられ自らの罪に相対することにより更生する可能性があるわけです。そして、死刑をなくすことは、犯罪者の更生の可能性を一つ奪っているものだと私は思うのです。

死刑反対論者による的外れな批判〜死刑だけが取り返しのつかない刑罰なのか〜

 加藤智大死刑確定囚の死刑執行に伴い、また、死刑廃止論者の的外れな批判がなされています。その一つが神原元弁護士などが述べている冤罪であれば取り返しがつかないので死刑を廃止すべきだとする論です。

私は強固な死刑廃止論者ですが、その根拠は、刑事判決に誤判はつきものであり、冤罪で人を死刑にしてしまったら取り返しがつかないからです。冤罪の人を死刑にしてしまう危険性の指摘に対し、死刑存置論者がまともに回答している例を過去に一つも知りません。
「人の命は地球より重いから死刑は廃止すべき」というのは、あまり正確でないと思いますよ。なぜなら、その犯人は、地球より重い人の命を奪っているのだから。
そうではなくて、冤罪で人の命を奪うリスクがあるから、死刑は廃止すべきなんです。
死刑廃止理由は、その一点に絞るべきです。

 一見まともそうに見える死刑廃止理由ではありますが、冤罪や誤判で取り返しがつかない刑は死刑だけですかと私は反論します。
 平成30年のフジテレビ系4月開始ドラマに「モンテ・クリスト伯 華麗なる復讐」というドラマがあります。このドラマは「モンテ・クリスト伯」の改作ですが、主人公のディーン・フジオカ演ずる柴門暖は、無実の罪で異国に15年投獄され、ようやく脱獄することができたものの、婚約者であった目黒すみれは後輩であった南条幸男の妻となっており、勤めていた守尾漁業は倒産し、母親の柴門恵は孤独死し、自宅の土地建物先輩であった神楽清に奪われてしまっていました。シンガポールで財をなした柴門暖は、これらが仲間たちの裏切りによるものと知り復讐の鬼となるというものです。
 このようなドラマでなくても、仮に、神原元弁護士自身が長期の懲役刑を受けることとなれば二度と見ることができないお二人のお子さんが成長していく姿を見ることはかなわないものとなりますし、仮に、短期の懲役刑であったとしてもご高齢の親族と二度と会うことができなくなってしまうかもしれません。
 刑事判決に誤判がつきものであるという認識の神原元弁護士は、一人の人間の人生を完全に壊してしまう懲役刑などの時間刑が取り返しがつかないとは思わないのでしょうか。そして、私は、神原元弁護士が刑事判決に誤判はつきものであり、冤罪で人を懲役刑にしてしまったら取り返しがつかないとして強固な時間刑廃止論を唱えた主張を聞いたことがありません。

死刑廃止論の根拠として「冤罪で、人を殺してしまう危険」をあげると、「冤罪の危険は他の刑事罰でも同じ」という反論が返ってくる。
愚かな。何度でも言うが、「冤罪で人を殺してしまう危険性」がある刑事罰は死刑だけだ。
終身刑だろうが何だろうが、人を殺さないので、その危険性はない。

 神原元弁護士の死刑の「冤罪で、人を殺してしまう危険」を「自由刑の冤罪で、人の時間を奪ってしまう危険」より軽く見る認識にはまったく同意できません。連合赤軍事件で無期懲役の判決が確定し、現在は千葉刑務所に収監されている吉野雅邦服役囚は、24歳から74歳の現在に至るまで留置場、拘置所、刑務所で過ごし、仮出所することができたとしても結婚して子供を授かることもできないし、自立して生活するための技術を身につけているわけでもなく、塀の中から聞こえてくる吉野雅邦服役囚の言葉によると、塀の外に出たいという気力すら萎えてきているとも聞きます。吉野雅邦服役囚が冤罪であるとは思いませんが、人の時間を奪うことは時として生命を奪うことより残酷であることもあるわけです。このような懲役刑の服役囚の状況を察することもできない神原元弁護士は、刑事を扱う弁護士でありながらあまりにも刑事政策に無関心であるという批判を甘受しなければならないのではないでしょうか。
 そもそも、神の視座で事件を見ることができない人間である以上、冤罪は常に付きまとうもので、罪を犯すことによって失われるものが取り返しがつかないものあるからこそ、罪を犯した者の取り返しのつかない生命や時間で償う死刑や自由刑が冤罪で刑に処したら取り返しがつかないからといって刑そのものをなくすなら刑罰の全廃しか対応策がないわけです。慎重に審理して冤罪がないように努めるしか我々人間がなすべきことはありませんし、死刑も含めて冤罪があるから刑罰をなくすというのは無意味でしかないと思います。

死刑廃止論者による的外れの批判~「国家による殺人」のどこが悪いのか~

 神原元弁護士の「冤罪で死刑にすると取り返しがつかないから廃止すべきだ」という幼稚な死刑廃止論より論考すべき論点が多いと思われる批判は、死刑は「国家による殺人」であるとい批判です。作家の辺見庸さんは次のように述べています。

「国家による殺人」という点で、ミャンマーの死刑執行と日本のそれは本質的に変わるところがない。

 死刑廃止論を論ずるうえで、辺見庸さんの主張は、

「殺人」を刑罰法規で最も重い罪として規制する国家が、その「殺人」を行うと示しがつかないのではないか。

というものとしてなされます。
 ただ、ここで考えておかなければならないのは、国家は何のために作られたものかということです。ドラマ「鎌倉殿の13人」で曽我兄弟から父親の仇討をしたいと相談された烏帽子親の北条時政が仇討を大いに勧めるシーンがありますが、これは国家が成立していない鎌倉時代であったからこそそのようなシーンがあったわけで、近代国家であればその仇討の権利は剥奪され、父親の仇である工藤祐経の罪を法に基づいて審理し、罪の構成要件を満たしているなら有罪判決を宣告し、その刑罰規定に応じた刑で処することとなったわけで、ひょっとしたら死刑が宣告されることもあるかもしれません。なぜ、このような仇討の権利が個人から剥奪されているかといえば、個人の固有の権利でもある復讐行為や自救行為が数多くなされれば国家の秩序が乱れるからです。だからこそ日本の刑法においても正当防衛や応急避難などの要件に該当した場合のみに刑罰を科さないことや刑を減刑する取扱いがなされているのです。つまり、国家は個人から復讐行為や自救行為をする権利を剥奪して法に基づいて代行する暴力装置の側面があるため、国家が人を殺すことがあるのは当たり前のことなのです。