倉山満さんのトンデモ皇室論

故・渡部昇一さんに連なる無策を礼讃するスタイル

 週刊SPA!6月29日号に憲政史研究家を名乗る倉山満さんの「倉山満の言論ストロングスタイル」が掲載されています。このコラムでは、最初に

 なぜか皇室は続いてきたのか。
 偶々(たまたま)である。
 この場合の「偶々」とは、軽い意味ではない。「これさえやっておけば絶対に大丈夫」などという方法は無い。

と、皇室を守ることが非常に難しいと述べながらこう結論付けます。

皇室が途絶えそうな危機は何度もあったが、このたびに皇室を守ろうとする人々が現れて、タマタマ、その人々の意思が勝っただけなのだ。

 この倉山満さんの主張を読んで思い出すのが、故・渡部昇一上智大学名誉教授が皇室の危機にはその時代の人々が知恵を絞って救ってきたから今から慌てることはないとする呑気な主張です。発言当時、渡部昇一名誉教授はご高齢で天皇の皇位継承候補者が一人もいないかもしれない未来を見ることがないからこそ、そのような呑気な主張をなさっているのかと思っていましたが、皇嗣殿下より若く現行皇室典範のままで推移して悠仁親王殿下一人だけが皇室にいる未来を見るかもしれない倉山満さんは楽観主義なのでしょうか。それとも天皇や皇室に何の思いも持っていないのでしょうか。その倉山満さんの見るかもしれない皇室の未来は、悠仁親王殿下の配偶者となられる方が現れなければ皇位断絶、配偶者となられる方が現れたとしても男子が誕生しなければ皇位断絶という想像を絶するプレッシャーの中での悠仁親王殿下と配偶者となられる方が生きる地獄のような皇族生活が待っていることが予想されるにもかかわらず、何を呑気なことをおっしゃっているのかと眩暈がします。

天皇陛下と皇嗣殿下の対立を妄想する倉山満さん

 倉山満さんは引き続きこう述べます。

いわゆる「女系天皇」論は、後継者が愛子様しかいなかった時代の「そうでもしなければ」の議論であり、終わった話だ。悠仁親王殿下がおわす以上、論じることは有害だ。今「女系天皇」を言う論者は、秋篠宮家から皇位を取り上げたいのか。壬申の乱や源平合戦、両統迭立や南北朝の動乱のように皇位をめぐる争いを招来したいのか?

 倉本満さんの文章で不思議なのは特定の皇族に対して「殿下」という尊称を用い、別の皇族に「様」とより軽易な尊称を用いていることです。これは、倉山満さんが特定の皇族に対する敬意を持ち合わせていないことを示しているということではないでしょうか。
 マスコミなどで皇族に親しみやすいという意図で「さま」という軽易な敬称を用いることはありますが、その場合には「さま」と平仮名で表記することが通例となっています。これは、昭和20年頃から始まり、開かれた皇室を目指していた昭和天皇と宮内庁の意向によるものとされていますが、皇族の敬称の統一した表現すらできず、批判対象となっている愛子内親王殿下に対しては敬称すら間違っているということが、倉山満さんの皇室に対する知識と敬意の無さを露呈させていると感じるのは私だけでしょうか。
 そして、この程度の表現のブレすら編集することができない週刊SPA!の編集部は、まともに仕事しているのでしょうか。それとも倉山満さんが愛子内親王殿下に対してはちゃんとした敬語を用いてはならない、仮にこれを編集するなら原稿料の増額を要求するなどとかつて週刊SPA!の巻頭コラムを執筆していたどこかの著述家のようなことでも言い出したのでしょうか。
 そして、倉山満さんが皇位継承を巡る上皇陛下や皇嗣殿下のお言葉をまったく理解していないこともわかります。上皇陛下は、在位時に「皇室のあり方については、皇太子(天皇陛下)と秋篠宮(皇嗣殿下)に意見を聞いてほしい」とおっしゃり、皇嗣殿下は上皇陛下のお言葉を継ぐ形で「皇族の数が少ないことは経済的によいことだと思う」とおっしゃいました。そして、皇嗣殿下は帝王学を学んでいないことを常々おっしゃっていました。これは、皇嗣殿下自身だけでなく、上皇陛下、天皇陛下に至るまで旧宮家の血を男系男子でひく民間人を皇族にして皇位継承候補者としてはならないことについて見解の一致が見られることを示しているのではないでしょうか。
 そのようなお言葉をちゃんと受け止めずに大御心に背くとしか考えられない発言を繰り返す倉山満さんの言動を見るにつれ、倉山満さんは天皇や皇族に対する敬意などを持ち合わせていないのではないかという疑念はますます強くなります。

倉山満さんの「旧皇族」定義に腰が抜ける

 その倉山満さんは「旧皇族」についてこう述べます。

そもそもGHQに力ずくで皇籍を剥奪された元皇族の子孫で、本来ならば皇族として生まれるはずだった方々を旧皇族と呼ぶ

 戦後に民間人となった11の宮家については、大正9年に設けられた「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」により、いずれ臣籍降下して華族となるべき方々で、本来であれば皇族として生まれることはありません。このような準則が設けられた背景には単に皇族が多くなったことのみが理由ではなく、皇族の不行跡が目立っていたことも理由でした。
 そのような「旧皇族」に対して、倉山満さんはこう述べます。

 繰り返すが、旧皇族の方々は、本来であれば皇族としてお生まれになるはずだった方々だ。まずその方々に皇籍を取得していただく。そして、その方々のお子様たち、まだこの世に生まれておられない方々に、生まれた時から皇族としての自覚を持ち、悠仁親王殿下をお支えしていただく。
 50年後に何かを始めるのでは遅すぎるので、今からお備えすべきなのだ。

 これを読んで倉山満さんが正気なのかどうか疑問に思う人は少なくないと思います。なぜならば、倉山満さんが「旧皇族」と崇め奉っている方々の意思をまったく考えていないからです。そして、倉山満さんはそのように受け取られることを薄々感じているのか、「旧皇族」であるはずの竹田恒泰さんに「皇族になるべきだ」などと諫言することもなく、皇族になる意思がないと述べた竹田恒泰さんを厳しく批判することもありません。

「旧皇族」の皇籍取得が法の下の平等に反するとする見解に対する支離滅裂な倉山満さんの主張

 倉山満さんは、有識者会議での宍戸常寿東京大学教授や大石眞京都大学名誉教授の発言についても批判しています。

 ところで、有識者会議で少数派だった憲法学者の宍戸常寿東京大学教授と大石眞京都大学名誉教授は、「旧皇族の男系男子孫の皇籍取得」は憲法14条が定める法の下の平等に反し差別に当たると述べた。本気で言っているのだろうか。
 現在の日本国憲法の教科書には必ず「人権の例外」が記されている。すなわち、天皇・皇族、未成年、外国人、法人である。天皇・皇族は日本国の法では、国民ではない。国民と違い戸籍はなく、皇統譜があるのみだ。知らぬはずなかろう。

 有識者会議においてその宍戸常寿東京大学教授は次のように述べています。

 ②の皇統に属する男系男子を現在の皇族と別に新たに皇族とすることについても、内親王・女王との婚姻を通じた皇族との身分関係の設定によらず、一般国民である男系男子を皇族とする制度を設けるということは、問8で述べた門地による差別として憲法上の疑義があると考えている。

 これに対して倉山満さんはこう反論しています。

 ところで、女性の民間人は結婚により国民から皇族になっている。宍戸氏と大石氏は、これも憲法違反と言うのか。美智子太后陛下、雅子皇后陛下、紀子東宮妃殿下を違憲の存在とでもいう気か。

 ここで一気に力が抜けました。週刊SPA!の編集部には、倉山満さんに批判する相手の主張をちゃんと読んで反論しろ、そうでなければ掲載しないと忠告する者はいなかったのでしょうか。このコラムの「知性のリング」というサブタイトルや倉山満さんの「憲政史研究家」という肩書も含めてもはや嘲笑の対象となっていると実感したコラムでした。