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DJ SODAさんの性被害で引っかかるある表現

DJ SODAさんが性被害を公表

 韓国人のDJ SODAさんがライブの中で観客から性被害を受けたと公表しています。

あまりにも大きな衝撃を受けて未だに怖くて手が震えています··· その時、とても驚いて怖かったですが、
一方で私を見て泣いて喜んでくれて好きと伝えてくれる素敵なファンの方々もいて、一旦最後までやりきろうと最大限平気なふりを頑張りました。
今はホテルに戻ってきましたが、 未だにとても怖です

@dj_soda

 この事件について、責められるべき者はDJ SODAさんの胸などを触ったとされる男女と、ライブを行うアーティストを守ることができなかった企画会社でしょう。この事件に関連して、「だから日本人は」という日本人Disに勤しむ左翼や、DJ SODAさんの衣装が煽情的であると責任を転嫁する自称保守の主張は聴くに値しません。前者の主張は、三名の男女の行為をもって日本人全体にレッテル貼りをするまさに差別やヘイトスピーチの構図そのものですし、後者の主張は、埼玉県の公園で行われていた水着撮影会における主張と矛盾する上に、様々な表現を「ふしだら」などとして燃やして女性の社会進出の機会を潰してきた自称フェミニストと何ら変わらないものであると言えます。ただ、このような事件をもたらした要因として私はある表現が多少なりとも影響しているのではないかとも感じています。

セックス・ワーカーに対する「買う」、「買われた」という表現

 落語で「男の三道楽」として「飲む、打つ、買う」と紹介されることがあります。「飲む」は酒を飲む、「打つ」は博打を打つ、「買う」は女郎を買うというもので、落語では道楽が過ぎて身を滅ぼす者が面白おかしく表現されています。問題はこの「買う」という表現です。私は、「買う」という表現について用いるべき範囲を限定すべきであると考えています。なぜならば、セックスワーカーは性的なサービスを提供して客はそのサービスを受けるに過ぎず、キャバレーなどホステスが席につく飲食店では疑似恋愛に基づくサービスを提供して客はそのサービスを受けるに過ぎないからです。
 もちろん、歴史的な表現であるために落語などでその時代の情景を描くために必要な場合があることは確かでそのような表現について批判することは適切ではありませんが、「買う」、「買われた」という表現は、セックス・ワーカーを「買った」から何をしてもいいなどという意識を招きやすいものでもあります。それが行き着く先は、DJ SODAさんのようなセクシーな魅力で売り出している者に対する「その衣装や男に媚びる姿勢が問題だ」などという意識です。あろうことか一般社団法人Colabo代表の仁藤夢乃さんも「私たちは『買われた』展」などと広く訴えかける活動をなさっています。北原みのりさんが利用したと告白した売り専ボーイは「買われた」わけではないのかと思わなくもありませんが、人身売買などがあったわけでもないにもかかわらず、仁藤夢乃さんが「売春している」と「認定」した女性の労働者に対し、「買われた」などとおっしゃるのはいかがなものかと思います。