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寛容のパラドックス

お花見どころか不要な外出も禁止されていた2020年春。あるプロジェクトについて画面越しに同僚と話し合っていた。2年後を見据えたあるサービスに関する提案の議論。論点は、その時期のユーザー価値観をどう予想するか?ということ。具体的に言えば、「With コロナ」か「After コロナ」かどちらなんだろう? というものだった。

With コロナとは、「新型コロナウイルスとの共存・共生」という意味で使われ感染拡大が長期化し、今後も繰り返し流行する前提の状態。After コロナは、新型コロナウイルスが終息したコロナ後の世界という意味。2020年の春は、世の中が底知れぬ暗闇の入り口に立っていて、Afterの世界なんて夢のまた夢。「そんな世界なんて来るわけないだろ!」と声を荒げるメンバーもいたくらいだ。結局、完全な終息はありえないから、未来のユーザー価値観を「With コロナ」前提で考えることになった。

あれから3年が経ち、今週の3月13日から新型コロナ対策のガイドラインが改定され「マスクの着用は、個人の判断に委ねることを基本とする」と政府から発信があった。医療機関の受診や混雑時の電車バスなど、着用が推奨される場面はあるが実質的なマスク解禁。当日、電車に乗って出社したが花粉症の季節の影響か、マスクをつけている人がほとんどだった。逆にマスクをつけている人を小馬鹿にする発言がSNSで増えている、という記事を読んだ。

コロナになって変化した価値観はたくさんあるけど、「寛容」の在り方もその一つだと思う。自粛や規制の中でストレスが溜まる生活。その中で高まる国際情勢への不安。はけ口のないストレスが、ある標的を見つけ正義に満ちた不寛容に姿を変える場面を何度も目にした。とくにSNSで目立った。SNSは楽しい場所から怖い街に変わってしまった印象がある。ぼくの周りでも多くの人がSNSから離れていってしまった。コロナが来なければ、どうなっていたのだろう? いまとは違う景色ではなかったのかと、つい考えてしまう。

2020年春にぼくらが考えていた、コロナが変える人々の価値観。その中で、「不寛容な社会」も予想されていた。ただそれは、規制下の一時的なもので感染低下と共に下火になると思っていた。でも、現実はそうではないと感じている。毎日の感染者数は減ったけど、不寛容なムードは残っている。

コロナの状況がwithのまま続くのか、afterと呼べるほどに終息するのかは分からない。けれど、現実世界もインターネットの中でも、せめて寛容さについてはコロナ前の状況に戻って欲しい。

寛容のパラドックス

「寛容のパラドックス」という考え方がある。哲学者であるカール・ポパーが1945年に発表したものだ。

もし社会が無制限に寛容であるならば、その社会は最終的には不寛容な人々によって寛容性が奪われるか、寛容性は破壊される

出典:カール・ポパー 『開かれた社会とその敵』

簡単にいえば、「寛容な社会を維持するためには、社会は不寛容に不寛容であらねばならない」ということだ。一見正論にみえるこの考えにも反論する人はいて、あらためて寛容であることの難しさを考えてしまう。

随分前なので、どこで読んだか忘れてしまったが「寛容は性格ではない」という主旨の印象深いコラムがあった。「寛容な人」という表現があるように、寛容はその人が持って生まれた性格であるかのように誤解されがちだ。でも、実際はその人が置かれる環境の影響が大きくて、だれでも不寛容になる可能性があること。自分が不寛容になっていると感じたら、その対象から距離をとって休息することが一番だ、という内容だったと思う。

実はnoteの中で、コロナという言葉を使ったのは今回が初めてだ。記事トップに出てくる注意書きが嫌で、「禍」という表現で代用していた。Twitterのミュートワードにも「コロナ」と入れて、情報過多にならないよう距離を置いていた時期がある。規制の中で過ごした数年間。心のどこかにコロナを憎む気持ちもあった。その気持ちに寛容になる準備ができたのかもしれない。

マスクを外し公園で遊びまわる子供たちを、マスクをつけた年配のご夫婦がベンチから見守っている。そんな寛容さが戻った世界が続いて欲しいし、いつか「After コロナ」と呼べるときが来て欲しいと思う。



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