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幸せの音

────エッセイ

7月のある日、日曜日の朝。長男の唇があなごさんになっていた。サザエさんを知らない人(いるのかな?)の為に補足しておくと、あなごさんは厚ぼったい唇が特徴のアニメのキャラクターだ。ちなみに、あなごさんは27歳という設定を知ったときに電車の中でリアルに「えっ!」と声を出してしまったのは懐かしい思い出。

長男曰く、土曜日のお昼ご飯に唇を噛んでしまったらしい。そして多分だけど、そこから何かの菌が入ってしまい腫れてしまったのかもと。たしかに、通常にあらずの唇を見れば頷くしかない。

お昼になると、長男の唇はあなごさんを超えた。朝のうちは半笑いだったぼくらも、さすがにこれはマズイと思って日曜診療の皮膚科を探す。運よくさほど待ち時間もなく診察していただき、処方箋をもらい家路についた。

口角が上がるときが一番痛いらしい。日曜の晩ご飯、口を最小限に開けて食べる長男に妻と二人でニヤリとする。ここぞとばかりに二人とも、長男を笑わそうと必死に語りかける。たいして面白くもない話でも、笑っちゃいけないときに聞くと可笑しいもので。長男の口元が緩んでは痛い!と顔をしかめる様子を妻とニヤニヤ ── ではないな、ニンマリと眺めていた。

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翌、月曜日。長男の唇はリトルあなごさんほどに腫れはひいていた。話すのは億劫らしいが、学校には行けるレベル。今日は寡黙な人となり、教室の隅でひっそりとクラスの様子を見るのも悪くないのかも。

夕方帰ってきた長男の顔は、パッと目にはいつもと変わらぬ感じ。ただ、治りかけの症状なのか唇の皮がめくれて痛々しい。その日、妻は友だちと約束があるからと夕方家を出ていった。

夏至を過ぎると日が落ちるのが早いなぁと独りごとを言いながら、妻が下ごしらえしてくれた鳥の唐揚げをジュっと揚げる。香ばしい香りがキッチンに充満した。もう一つのコンロで油揚げをフライパンで炙る。中火でこんがりじっくりと。油揚げは長男の大好物なんだ。

ごはんだよーっ、と子供部屋にいる長男と次男に声をかけ、湯気がたつ唐揚げをテーブルに置く。妻がいないテーブルで、妻の味を三人で頬張るのは、なんともオツなものだ。

次男が早々にご飯を済ませ、ごちそうさまの言葉と同時にリビングのソファでマンガを読みだした。その日は、大好きな作品の新刊発売日。マンガを読む横顔は真剣そのもの。その横顔を肴に、ぼくはお酒をビールから日本酒に変えた。

長男は、ぼくの横で黙々と唐揚げをさばいている。口を大きく開けられないから、一口大に調理バサミで切り分けて食べる。

次男は黙ってマンガを読む。
長男は黙々と唐揚げをさばく。
ぼくは静かに日本酒を口に運ぶ。

いつもは聞こえない、壁掛け時計の秒針が進む音さえ聴こえる。ちくわ(犬)の囁くようなあくびが、波紋となって日本酒を揺らすような静けさ。

音のない食卓

あぁ幸せだな、と思った。なんだろう。付き合ってしばらく経った恋人たちが、沈黙に充実を感じる感覚に似てるのかもしれない。会話が途切れても全然気にならないね、なんて言い合ってお互いの好意を確かめるような。音のない幸せが、月曜日の夜に漂っていた。



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