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哲学書の構成

 昨年後半は、ほとんどカントを読みふけっていて、建築術的な手法で書かれた三批判書の間を、いったりきたりしていた。

 建築術とは、学的な体系を構成する技術であり、我々の認識を理性の支配下で体系化する仕事である。

 カントは、先験的原理論理(岩波文庫上・中巻)において建築材料を見積もり、先験的方法論(岩波文庫下巻)で、この材料を用いてどんな建築物ができるのかを決定し、残った問題を『実践理性批判』と『判断力批判』で解決した。

 このような書きかたを、哲学書の構成として100点だとすると、ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』は、せいぜい30点だろう。

 私は読みながら話がズレまくる書きかたに、途中で何度もあきれていた。

 しかし、なんとか粘り強く読み終えたあと(閑暇なので)身動きできないほど感動し、固まってしまった。

 第四部の強烈なネジの巻きかたが、精神の深い部分に突き刺さるようで、痛かった。

 それからしばらく置き、これから二回目の読みをはじめるため、序文を読んだのだが、さっそく読み落としに気がついた。

 ショーペンハウアーは、この本を「二度読め」と言っている。なぜならこの本は「有機体」なのだから。

 有機体とは何か? 有機体とは、諸々の細胞が関連をもちつつ連帯し、統一された全体であり、有機体内の諸々の細胞は、有機体全体を動かすと同時に、その全体から生命力を受け取っている。

 つまり『意志と表象としての世界』における七十一の各節は、細胞であり、この本は諸々の細胞から成る一個の有機体だったのだ!

 あぁそれなら俺は、きっと色々な読み落としをしているにちがいないぞ!

 哲学書の文体は、何も建築述的だけとは限らない。ショーペンハウアーは、序文でこのように書いていた。

 この本によってわたしが伝えようとしているのはたった一つの思想である。だが、そのたった一つの思想を伝えるのに、わたしはこの本全体よりも短い路は、どんなに苦心しても見つからなかった。
 思想の「体系」は、いかなる場合にも、建築物のような関連をそなえていなければならない。すなわち、つねに甲の部分が乙の部分を支えながら乙の部分はその甲の部分を支えず、最終的にはなにものにも支えられない礎石が全部を支えて、頂上は支えらあるだけでなにものをも支えないという関連でなくてはならない。
 しかしこれに反し「たった一つの思想」は、建築物のような関連をもつものではなく、有機的な関連をもたねばならないのである。すなわち、どの部分も全体によって保持されるのと同じくらいにどの部分も全体を保持していて、どの部分が最初だということもなければどの部分が最後だということもなく、いかなる部分を通じても思想の全体は一段と明瞭になるのであり、もっとも小さな部分ですら、あらかじめ全体がすでに理解されていなければ完全には理解されえないといった、そういう有機的な関連でなければならないわけなのだ。
 しかしながら本にはいかんせん最新の一行と最後の一行があるから、その限りでいえば、本の内容がたとえどんなに有機体に似ているにせよ、つねに本はどこまでいっても有機体とは似ても似つかぬものであろう。したがって形式と素材とがここで矛盾をきたしてくるのである。それだから、本書の中で提示した思想を深く会得するためには、この本を二回読むよりほかに手立てがないことは明らかである。本書を一回目読むときには大いに忍耐を要するが、二回目に読めば多くのことが、あるいはすべてのことがまるで違った光のなかで見えるようになるであろう。

 つまりショーペンハウアーは、二回目を逆さまに読めと要求している。

 なるほど、真の読書は二回目からはじまるというのは、私のアポステリオリからしてもあきらかなことであり、よい本のアプリオリな形式でもあるようだ。

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