見出し画像

『意志と表象としての世界』第一巻1〜7節 まとめ

表象

 「世界はわたしの表現である」これは、生きて、認識をいとなむものすべてに関して当てはまるひとつの真理である。ところがこの真理を、反省的に、ならびに抽象的に真理として意識することのできるのはもっぱら人間だけである。人間がこれをほんとうに意識するとして、そのときに人間には、哲学的思慮が芽生えはじめているのである。

 上記の形式は、時間や空間や因果性という形式よりもはるかに普遍的な形式を言い表している。時間、空間、因果性などの諸形式は、表象のなかの特殊な一部門にすぎない。

 これに反し、表象のすべての部門に共通する形式は、主観と客観の分裂である。

 ひとつ確実な真理を述べよう。認識に対して存在するところのいっさい(すなわち全世界)は、主観との関係における客観にすぎない。それは眺める者あっての眺められた世界であり、一言でいえば、表象にすぎないという真理である。

 いやしくもこの世界に属しているものはことごとく主観による以上のような制約を背負わされていて、世界に属するすべてのものは主観に対して存在するにすぎない。世界は表象である。われわれは本書の一巻で、世界が表象であるという範囲に限り、世界を見ていくことにしたい。


主観と客観

 主観は世界の担い手であり、すべての客観(現象)を成り立たせている普遍的な前提条件である。

 自分の身体にしてからがすでに客観である。だからわれわれは自分の身体をすらもこの見地からは表象と名づける。

 身体は認識の形式である時間と空間のうちにおかれている。ところが主観、これは認識する者であり、けっして認識されないものである。すると主観は時間や空間という形式のうちにはない。むしろ主観は、いつも時間や空間といった形式の前提となっているのである。

 表象としての世界には、半分ずつを構成している二つの面があり、その一つは客観で、その形式は時間と空間である。しかしもうひとつの半面である主観は、時間と空間のうちにはない。主客の両面は、直に境界を接しており、客観の始まるところは主観の終わるところである。


カント批判

 カント哲学をほんとうに受け止めた人々の精神にひき起こす影響は、盲人が内障眼の手術を受けたのにも比すべきものであり、わたしの目的は手術の成功した人々に内障眼用の眼鏡をもたせてあげようとすることにある。(序文)

 とかなんとか言っておきながら、ショーペンハウエル、カント哲学をモノにした患者の再手術を試みる。

 カント批判その1『直観は感性のアプリオリな形式ではなく、悟性の能力である。』

 あらゆる直観は単に感覚的ではなく知的である。直観は結果から原因を悟性的に純粋に認識することであり、したがって因果律を前提とする。あらゆる直観(経験)は、その最初にしてかつ全体的な可能性から考えて、因果律の認識に依存しているのであり、因果律の認識が経験に依存しているのではない。純粋悟性がなければ直観は成り立たず、身体の受けた変化についてもただぼんやりした植物的な意識が残るだけである。

 ※つまりショーペンハウエルは、悟性を直観の能力(なにかをぱっと見て悟るような能力)と考えており(カントにとってそれは感性)概念を用いる能力を理性(カントにとってそれは悟性)だと考える。ショーペンハウエルにとって、認識されたものを概念に固定させるのが理性の役割であり、これはカントと決定的に異なる認識論であり、すると次のような認識が成り立つのではないか。

 悟性や感性は、人間以外のどんな動物にも、アプリオリに備わっている。


因果律

 直観を仲だちしているのは因果性の認識だが、客観と主観との間に因果関係が成り立つという誤解をしないよう注意していただきたい。

 原因と結果との関係は、つねに客観同士の間でのみ成り立つのであり、時間と空間の中で直観された世界は、純然たる因果性であるところの表象であり、これが時間と空間の中で直観された世界の経験的な実在性である。

 客観界は虚偽でも仮象でもない。それは存在しているありのままのものとして、つまり表象として現れるのである。


悟性の能力

 因果律は、語性のみに由来し、直観的な世界は悟性を通じてのみ成立する。

 つまり
 直観→悟性→表象

 このように悟性が、客観の因果律を把握するときの鋭利さは、自然科学に応用(明察、透徹、聡明)されるばかりではなく、実際生活にも応用されていて、これが怜悧さとよばれるのである。怜悧さは、意志のために奉仕する悟性をもっぱらさしている。

 ※怜悧について

 われわれは、例えば犬、象、猿、狐などに、すぐれた怜悧さを見ることができる。ビュフォンの『博物誌』による描写は、われわれはこれらのすぐれて怜悧な動物たちを手がかりにして、悟性がなんら理性の助けなしに、つまり概念による抽象的な認識の助けなしに、どれだけ多くのことをなし得るかを細かに測定することができる(つまりショーペンハウエルは動物にも悟性があると言っている)

 動物にも因果関係の認識が普遍的な悟性の形式としてアプリオリに内在していることは、犬の赤ん坊でさえ、机から飛び下りるようなことをあえてしないという例を観察してみても明らかである。

 しかし人間にあっては悟性と理性がいつも相互に助け合っているため、動物と同じことを似たような仕方で認識することはできないのである。

 悟性の欠如は愚鈍であり、理性の欠如は痴愚であり、判断力の欠如は愚かさであり、記憶の欠如は狂気である。

 理性により正しく認識されたものは真理(対立概念は誤謬)悟性により正しく認識されたものは実在(対立概念は仮象)である。

 理性は、あとから人間にだけつけ加えられた認識能力であり、理性がなし得るのは知ることである。直観するのは悟性のみの働きであり、理性の影響は受けない。

 余談がだ、ショーペンハウエルの理性という語の使用は、なんだかずいぶんすっきりしている。
 現代人が「あの人は理性的な人だ」となんとなく理性という言葉を使用する時、その言葉はもはやカントからは程遠いのだが、ショーペンハウエルあたりは現代的である。
 これがベルクソンやフロイトになると、動物と人間の区分けは、悟性や理性という言葉でなく、よりシンプルな形で、本能と知性の対立となる。そう言えば、ショーペンハウエルもよく知性という言葉を使うが、あれは悟性的(ショーペンハウエルの使用する悟性)直観のことらしい。とにかくショーペンハウエルの認識論は、カントからずいぶん簡潔になった。


唯物論批判

 これまで考察してきたことの全体にわたって、われわれは客観からも主観からも出発しないで、表象から出発した。表象は主客の両方を含み、両方を前提としている。主客の分裂が、表象の最初の、もっとも普遍的な、もっとも本質的な形式である。われわれが本書においてこれまで考察したのは、第一にこの形式そのものであり、第二にこの形式に従属しているその他の諸形式は、すなわち時間、空間、および因果性であり、これらの諸形式は、客観にのみ属している。

 ところで、客観から出発するところの諸体系は、つねに直観世界とその秩序とを問題としてきた。客観的な手続きがもっとも一貫して広範囲に及び押しすすめられるのは唯物論であり、唯物論は物質を(および時間と空間を)それ自体で存立しているものと見なし、因果律を単独に存立している事物の秩序と思いこみ、主観への関係や、われわれの悟性を無視してしまう。

 唯物論者というものは、馬に乗って水中を泳ぎながら、馬の脚をもって馬をもち上げ、前の方にかぶさってくる自分の弁髪を引っぱって、自分の身体をもち上げようとするかのほら男爵ミュンヒハウゼンによく似ている。

 唯物論のばかばかしい点は、客観的なものから出発しながら、客観的なものを説明のよりどころにしていることにある。

 あらゆる客観的なものは、主観の認識形式を前提としており、したがってすべて客観的なものは、主観を取り去って考えれば、消えてしまうものである。唯物論とはそれゆえに、われわれに直接的に与えられているものを、わざわざ間接的に与えられているものから説明しようとする試みである。

 唯物論者は、すべての客観的ならものを、物質的なもの(延長を有し、作用するもの)に還元し、説明してしまえればもうそれ以上はなにも望まず満足してしまうのだが、このような物質的なものは、単に相対的に存在するものにすぎない。

 なぜなら、物質的なものは、脳の機構と工程とを一度はくぐり抜けているからであり、つまり時間、空間、因果性といった形式へ一度は入りこみ、この形式の力を借りて、物質的なものははじめて空間のなかで広がりをもち、時間のなかで動くものとして示されるようになるのである。

 このようにして、間接的に与えられたものから出発して、唯物論はいまや直接的に与えられたものたる表象を説明しようというのであり、しまいには意志の世界をも説明しようとしているが、むしろ、物質的なものの根本の諸力は、実をいえばこの意志の世界から説明されなければならないのである。


理性

 人間だけがそなえている表象の部門が材料としているのは概念であり、その主観の側における相関物は理性である。

 カント批判その2『 物自体は世界に発現する?』

 カントによれば、時間、空間、因果性は物自体に属しているのではなしに、現象に属しているにすぎず、時間、空間、因果性は現象の形式である。

 これをわたしの言葉でいいかえれば、客観世界、つまり表象としての世界は、世界の唯一の側面ではなしに、単に一つの、いわば外的な側面にほかならなず、世界はもうひとつ完全に別の側面をもち、その内奥の本質、その核心、物自体であるところのもう一つ別の側面をそなえており、この物自体を、われわれは本書の二巻において考察するが、それを物自体の客観化のなかでもっとも直接的な客観化のひそなみにならって、意志と名づけることになる。

 われわれは意識が最初の事実としてうけいれる表象を出発点とし、表象のいちばん初めの本質的な根本形式は主観と客観とへの分裂であるが、この意志の世界は、根源的で、本質的で、同時に解決しがたい対立(主客の対立)を背負わされてはいない。


その他

 極めて広い射程範囲、ベルクソン(とくに創造的進化)との類似点、動物と人間、生物、物理、数学、感情、笑い、古典文献学(ギリシャ語)、ヴィトゲンシュタイン(論考)との類似点、この人もしかして、隠れ分析哲学の開祖じゃない? が、はっきり言って記述が体系化されていないため、話が飛び散り、読むのけっこうつらい…表象についての考察は、第一巻1~7節まで約八十頁でだいたい出揃い、あとの百ニ十頁は、フィヒテ、シェリングの悪口、その他色々な考察、思弁や悪口や悪口についやされている(第一巻ではまだヘーゲルへの悪口は抑えているが、これから炸裂しそうな気配が濃厚に漂う…)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?