見出し画像

『意志と表象としての世界』序文が面白かったので、まとめてみた。

第一序文(当時30歳)

 これからわたしの著作を読む読者に、わたしは3つの欲求をする。

 その1、二回読め。

 その2、その前に序論(五年前に『根拠の原理の四つの根について』というタイトルで出版された本)を読め。

 その3、二千年このかた哲学において出現した最も重要な出版物、すなわちカントの主著を読め。

 カント哲学をほんとうに受け止めた人々の精神にひき起こす影響は、盲人が内障眼の手術を受けたのにも比すべきものであり、わたしの目的は手術の成功した人々に内障眼用の眼鏡をもたせてあげようとすることにある。

 だから、まずは手術を受けろ。

 あとついでに、プラトンとウパニシャッド哲学に触れているとなおよろし。

 さてさて、読書の大多数はきっともう我慢できずに怒り出し、次のように言うのではないかと思う。

 だいたい一冊の本を公衆に提供するのに、欲求だの条件だのをつけて、お前はどうしてそんな思い上がったことができるのか?

 しかも印刷機のおかげで無数の定期雑誌や日刊紙において独特な思想がもろびとの共有財産となっているこのような時代に、お前はどうしてそんなことが言えるのか?

 こういう非難にわたしはいささかも抗弁する必要を認めないが、読者は前にあげた欲求を満たさずに本書を読むことは(時間を無駄にしないためにも)お止めになった方がよろしい。

 本書はこうした読者のお歯に合うはずがなく、どちらかといえば常に「少数の人びとのもの」でしかないであろう。

 この序文は読者をはねつけているが、どうにかして序文まで読んだ読者は現金を出して書物を買ったのであるから、この損害はどうしてくれるのかと尋ねるであろう。

 そこでわたしの最後の遁げ場は、本というものは直接に読まないでも、いろいろな仕方で利用できるものだということを読書に今注意さしてあげることである。

 それは、奇麗な装幀の本であれば書庫の中できっと立派にみえることだろうし、あるいは学のある女友達の化粧台なり茶卓なりの上に本を置くこともできる。

 あるいは最後に、否! これこそが確実に最良の方法なのでわたしはとくにお勧めするが、読者はじつに本を批評することもできるのである。

第二序文(当時56歳)

 わたしがこの作品を書いたのは人類のためであって、一時の妄想に熱中する軽率な連中のためではない。

 わたしはこれまで誤ったもの、劣悪なもの、ついには肯理であり、無意味であるもの(全てヘーゲル哲学のことを言っているようです)が一般に驚嘆され尊敬されているのを見て思うことがある。

 すなわち、哲学がカントによって威信を回復したあとで、哲学はやがて上は国家の目的、下は個人の目的といった道具とならざるを得なかったのだ。

 こうした運動の裏に隠れている原動力は、理想的な目的はではなく現実的な目的であり、すなわち彼らの眼中にあるのは個人的な利害であり、職務上の利害であり、教会の利害であり、国家の利害であり、要するに物質的な利害にほかならない。

 政府が哲学を国家目的の手段にするかと思えば、ひるがえって学者の方では哲学教授の職を生計を支える職業とみなし、われらがちに哲学教授の地位を得ようと殺到する。

 彼らは真理でもなく、明瞭さでもなく、プラトンでもなく、アリストテレスでもなく、他から命ぜられ奉仕する諸目的こそが導きの星となり、これがただちに真なるものの基準となる。

 こんな風にして哲学はもう久しい期間一般に、一方では公けの目的のために、他方では私的な目的のために、手段として使われざるを得なかったのではあるが、わたしはそんなことには妨げられず、もう三十年以上も前からわたしの思想の歩みを追っかけてきた。

 以上の事情にしたがい、わたしの著作はじつに明瞭に誠実さと公明さの刻印をその額に帯びており、もうこれだけでカント以後の三人の有名な詭弁家達(フィヒテ、シェリング、ヘーゲルのことを言っているようです)の著作とは歴然と異なっている。

 以上のような精神でわたしは仕事に携わってきたが、かくする間に偽りものの駄法螺(フィヒテとシェリングを言ってるようです)や空自慢(ヘーゲルを言っているようです)が最高の尊敬を受けるのを目にし、わたしはもう同時代人の人々から賛同を得ることを諦めてしまった。

 さて、それはそうとして、わたしはすでに第一版の序文において、わたしの哲学がカントから出発し、それに関する徹底的な知識を前提としていることを言明しておいたが、ここでもそれを繰り返しておきたい。

 なぜならカントの教説は、それを理解した人の頭脳の中に精神的に生まれ変わったとみなされていいほどの大きい抜本的な変化を引き起こすからであり、その結果わたしが本書で与えるはずの積極的な問題の解明を受け入れやすいものにするであろう。

 これに反し、カント哲学をいまだ自分のものにしていない人は、たとえほかに何をやったにせよ、いわば自然的な子供のように無邪気な状態にとどまっているのであり、そういうわけだから、こういう立場にとどまっている人とカント哲学を自分のものにした人との関係は、未成年と成年との関係にも似ている。

 以上のような真理は理性批判が世に出て三十年間はけっして逆説的な意見ではなかったはずだが、近頃これが逆説に聞こえるというのは、哲学を行う資格のない月並みな頭脳の駄法螺吹き詭弁家たちの哲学談義によって、若い世代の時間が空費されてしまったことによる。

 さらにこうした駄法螺教育を受けた若い世代が自分でも哲学などを試みているうちに、外皮だけ金ピカに飾った虚栄と思い上がった傲慢が顔をのぞかせるようになるのであるが、しかし他人の叙述からカントの哲学を知ることができると思いこんでいるような人は、救いようのない謬見にとらわれているといってよい。

 こういう次第だから、カントの教えをカント自身の著作とは別のどこかに探そうとしても、それは無駄というものである。

 それだから哲学を勉強したくてたまらない人は、哲学の不滅の教師を、その教師の著作それ自体というもの静かな聖殿の中に探したずねなければならない。

 それなのにまったく呆れることだが、読者階層はじつにきっぱりと、他人の手による解説に好んで手を出したがるのである。

 さてさて、ここで哲学教授諸君に対してもう一言述べておきたい。

 わたしの哲学が世に登場するやいなや、彼ら教授諸君はわたしの哲学が彼ら自身の努力していることとはまったく異質で、危険であり、俗な言い方をすれば、彼らの商売には適さないことを見抜いた!

 そのとき彼らは適切で目先のきく機転の早さで採るべき正しい方策をただちに見つけ出し、方策を実行するに当たり完全に一致協力した。

 その方策と言うのは、御存じのとおり、わたしを完全に無視することであり、無視することによって隠すことであった。

 彼らは妻子ともども哲学に頼っているが、わたしの哲学は、それによって暮らしを立てうるようにまったくできてないので、給料のいい講壇哲学にとって欠かすことのできない必要付属品、すなわち思弁神学がまるっきり欠けているのである。

 こんな風に、哲学教授は理性の作り話をあみ出し、最初読者に信じこませておけば、それから後は、いっさいの経験の彼岸にある領域というカントがわれわれの認識に対して永久に立入りを禁じた領域の中ヘまで、いわば四頭立ての馬車でずかずか乗り入れて行くことができるのである。

 ※私見。ドイツ観念論なるものが何なのかは分からないが、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルは主にカントの二元論(主に自然と自由)を批判しながら(主に判断力批判下巻を克服し)一元論的形而上学の復活を目指しているのではないかと思う。がしかし、彼らの思弁はスピノザとカントのまわりをうろついているようにしか思えない。一体何がしたかったのだろうか? 私にはまったく理解することができなかった…

 わたしの哲学と大学の哲学という二種の哲学は根本から異質のものであり、それゆえにわたしには妥協というものがなく、自らの北極星としてもっぱらただ真理だけに向け一直線に舵をとっている。

 それだからいちど(わたしの著作で)真剣さを味わった者にとっては、もう二度と冗談は口に合わないことであろう。


第三版序文(当時73歳)

 本書の第一版の公刊はわたしが三十歳になったばかりであったというのに、七十三歳の今日まで生き永らえてわたしはやっと第三版にめぐり会えたという始末である。

 しかし、わたしは生涯の終わりになってわたしの影響が始まり出したのを見て満足している。

 この影響が古来の常例どおりに、始まるのが遅かったときにはそれにつり合う分だけ永くつづくということであればよいと希望している…

 序文おわり


 最後に、これらの序文を読んだうえで『読書について』から引用したい。

 読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。自分で思索する仕事をやめて読書に移る時、ほっとした気持ちになるのも、そのためである。だが読書にいそしむかぎり、じつは我々の頭は他人の思想の運動場にすぎない。(中略)紙に書かれた思想は一般に、砂に残った歩行者の足跡以上のものではないのである。歩行者のたどった道は見える。だが歩行者がその途上で何を見たのかを知るには、自分の目を用いなければならない。

 その後

 『意志と表象としての世界』序文と第一部の認識論を読んだ私は、本をそっと書庫の中にしまった。

 奇麗な赤い装幀の本は、一際立派に輝いて見えた。

 私には、この本もまた思弁的理性の無駄撃ちにしか思えなかった。

 ショーペンハウエルの形而上学(実践哲学)を知るには、『自殺について』を読めば十分だと思う。

 哲学者の役割は「生起すべきもの」を示すことである、というカントの意志を19世紀に受け継ぐ者は、じつはキルケゴールだったのではないかという目星はもうついている。

 が、その前に先ずはニーチェを読み返そうと思いつつ、年寄りには中々億劫で、昨晩また純粋理性批判を開いてしまった。

 今年もカント中毒はつづく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?