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『意志と表象としての世界』四巻 まとめ その1

 わたしがここでもっぱら目的とするところは、生きんとする意志の肯定と否定という双方の概念を説明し、これを理性によって明晰に認識することでしかあり得ず、どちらか一方をとるよう指図をしたり、人に勧めたりすることではけっしてない。

 意志そのものは端的にいって自由で、まったく自分ひとりで自分を規定していくものであり、このような意志にとってはなにひとつ法則は存在しないからである。

 ところでわれわれは前記の議論に立ち入る前に、ここでいう自由、ならびに自由と必然との関係について論究し、これを正確に規定しておかなければなるまい。さらにはまた、生の肯定ならび否定ということがわれわれの当面の問題だが、この生が何であるかに関しても、意志とその客観とに関係する一般的な考察をはたしておかねばなるまい。こうしたことをすべてすませておけば、われわれがもくろんでいる行動様式の倫理的な意義をそのもっとも内的な本質の上から認識するという仕事もたやすいものになるであろう。

自由と必然(五十五~五十九節)

 意志そのものは、物自体であり、いっさいの現象の実質であり、自由である。これに反し現象は、根拠の原理に例外なく支配されている。

 物自体としての意志は自由であるが、この自由という概念は、がんらいネガティブな概念であり、ただ単に必然性を否定しているということだけが、自由の概念の内容をなしているのにすぎない。

 自然の現象の総体はまったく必然的であるが、他方からみれば、この同じ世界は、あらゆる現象にわたって意志の客体性であるといえ、人間も自然のほかの部分と同じように、意志の客体性である。

 自然の中のいかなる事物も、特定の影響に対して特定の反応をし、自らの性格を形づくっていく性質を有しているが、人間もこれと同じように性格というものをそなえていて、人間の様々な行為は、その性格に基づき時々の動機によって必然的に引き起こされるものなのである。

 この行動様式のうちに人間の経験的性格があらわになるのであるが、さらにまた経験的性格のうちに彼の叡智的性格(カントに由来する)意志それ自体があらわになるのであって、人間とはこの場合の意志によって決定された現象にほかならないのである。

 叡智的性格とは、一定の個人のうちに一定の程度で現象する物自体としての意志を指すが、経験的性格はこれに対しこの場合の現象そのものの(時間的にいえば行動様式となって現れ、空間的にいえば体格となって現れる)ことを指すのである。

 一本の木と同じように、人間のあらゆる行為もその叡智的性格がたえずくりかえされて、形においていくぶん変化(葉、茎、枝、幹)しながらも現れたものであり、これらの行為の総計から出てくる帰納が、その人の経験的性格をなしているのである。

 カントによる叡智的性格と経験的性格とは?

 こうして、人間においては意志が完全な自覚に達し、全世界に反映している意志自身の本質をありありと認識する段階に達することができるようになるのであり、われわれが第三巻で見たように、この程度の認識が本当に存在するなら、そこに芸術が成立するといえるであろう。

 自由というものは、普通は物自体のみが有するものであって、けっして現象にはみられないものなのではあるが、右のような結果、こうした場合にのみ、現象のうちにも自由は姿を現すのである。

 人間が他のあらゆる意志現象と異なるのは、自由(根拠の原理から独立していること)は、物自体としての意志にのみふさわしいことで、自由は現象とは矛盾するものであるが、人間の場合には現象の中に自由が出現することもたぶんあり得るであろう(だがそのとき自由は現象の自己矛盾として現れるであろう)

 人間が他のあらゆる存在から区別されるのはこの点によってであり、このことがどのように解されるべきかは、本巻の以下に述べるすべてによってはじめて明らかになり得るのであって、われわれはさしあたりそこまでは触れずにおかなければならない。

 ところで個別的な行為の自由、すなわち「無差別の自由な意志決定」に関する論争は、そもそも、意志は時間の中にあるのかないのかという問題をめぐりおこなわれている論争であり、カントの教説からいっても、わたしの叙述からしても、意志が物自体で、時間の外にあり、すなわち意志が根拠の原理の形式の外にあるという必然からすると、個人は同じ状態に置かれればつねに同じ仕方で行動せざるを得ないことになるであろうし、またどのような悪行といえども、実行しないわけにはいかず、カントの言うように、経験的性格と動機だけが完全に与えられていさえすれば、人間の態度は将来にわたり、日蝕や月蝕と同じように、算出することさえできるものとなるであろう。

 「無差別の自由な意志決定」が成り立つという主張は、人間の本質が認識するのみならず抽象的に思考する存在とさえいえる霊魂にある、という考えと密接に関連しているが、わたしの見解の全体からすれば、こうした考え方はことごとく真実の事態を転倒したものだと思っている。

 わたしの見解では、認識はあとから意志につけ加わったにすぎないものであり、意志の現象にその道具として帰属しているものが認識である。

 それゆえに人間のあるがままの相は、意志の性格が根本にあり、これに認識がつけ加わるにつれて、人間はだんだん経験を重ねていくうちに、自分が何であるかをやがて知っていき、すなわち自分の性格をわきまえるようになってくるであろう。

 アリストテレスは次のように言っている「性格(エートス)という語はその呼び名を習慣(エトス)から得ているのである。なぜなら倫理(エーテイケー)はその名称を、習慣づけられていることから得ているからである」

 ※ここまでを要約すると、ようするに人間の経験的性格(現象)は、叡智的性格(意志)の展開したものであり、よく子育てしていると気がつくように、性格とは、すでに子供のときから認められる素質が発展したものであり、つまり人間の意志は生まれた時からすでに定められているのであり、その後死ぬまで本質的には変わることがないということである。

 意志を変えるなどは不可能なことであり、良心の痛みとは、人が同じ意志を一貫してもちつづけているという確実性に基づいており、意志が意志としての自分を認識することは苦痛である。われわれは後に、良心の痛みの意味について、さらに詳しく論を立てるつもりである(六十五節後半部)

 動物と人間との認識の違いは、行動にも苦痛にも大きな相違いを出す。怪我をした子供が、痛いことでは泣かなかったのに、可哀そうねと人に言われてみて痛さという思念をよびさまされ、それではじめて泣き出したというのはよくあることである。

 動物はつねに直観的表象によって動機づけられているのにすぎないが、人間はこの種の動機づけを全面的に排除しようとつとめ、抽象的表象によって己が規定されることを求めるため、享楽と苦痛の双方の結果するところをとくと考えてみるのである。

 例えば、なにかを諦めるということは、どんなことでもものすごくつらい。諦めは実在的な現在のなかにあるのではなしに、未来にわたる無数の欠如を内にふくむという抽象的な思念であり、これがわれわれに苦悩をもたらす当のものなのである。

 さらに、動物はほとんど種族としての性格しかもっていないが、人間は確然とした個体としての性格をもっていて、人間の個体としての性格の出現は、抽象的概念を介してのみ可能な複数の動機の間の選択ということが条件となっている。結局人間にあっては、本人にとっても他人にとっても性格を表わす有効なしるしは、ひとえに決断であり、単なる願望ではない。決断は行為に踏み切ってはじめて確実となるのであって、願望は動物の行為と同じように、種族としての性格だけを表現するものであって、個体としての性格を表現するものではない。

 ひとえに行為のみが、人間の行動の叡智的な格律の表現となるものである。ひとえに行為のみが、人間の内奥にある意欲の結果である。

 こうして認識が明晰さに達し、意識が向上するにしたがって、苦悶も増し、人間にいたとて最高度に達するのである。

 あらゆる意欲の基盤は、欠乏であり、不足であり、苦痛である。人間はすでにその根本から、本性上苦痛の手に引き渡されているものなのである。

 もしその反対に、意欲したいと思う対象が人間に欠けているなら、今度は恐ろしい空虚と退屈とが人間を襲うことになるだろう。すなわち自分の本質と存在そのものが、今度は耐え難い重荷となってくるのである。

 人間の人生は、だからまるで振子のように、苦悩と退屈の間を往ったり来たりして揺れている。じつをいえば苦悩と退屈の双方は、この人生を究極的に構成している二部分であり、もし人間があらゆる苦悩や苦悶を地獄に追い払ってしまったら、その後で天国のために残っているものは退屈だけでしかないという事実によってきっぱり言い表されるに違いない。

 人々の生活というのは生存のためのたえざる闘争にすぎないが、しかし最後に彼らがこの闘争に敗北してしまうということも確かなことなのだ。人間が自分の生存を長もちさせたいというのは、生への愛着というより、むしろ死への恐怖のせいではないだろうか。

 われわれは死をめざして舵を取っているのだといっていい。死こそ苦難にみちた航海の最後の目標地なのである。ところがいったん生存が確保されてしまうと、彼はこの先どうしたらよいか分からなくなってしまう。そのため彼を動かす第二のものが、今度は生存の重荷から逃れ出して、それをもう感じないようにしようという新しい努力「時間をつぶす」ということ、すなわち退屈から逃れようと努力することになるのである。

 つまりわれわれにいま分かってきているのは次のようなことだ。困窮も心労もなく安全に守られているほとんどすべての人々は、いっさいの重荷を払いのけるに至ったかと思うと、今度はたちまち自分自身が重荷として感じられてくるということであり、それで彼はこれまで人生をできるだけ長く維持しようと全力を傾けてきたはずなのに、今度はほかならぬその人生をけずり取るように、一時間一時間を浪費的に過ごすようになってくるということである。

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