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『意志と表象としての世界』四巻 まとめ その2

 さて以上で、どうしても途中で挿入しなければならなかった二つの分析を終わった。一つは意志そのものの自由ならびにその現象の必然性に関する分析であり、二つ目は意志の本質を映しだしている世界のなかにおける意志の運命に関する分析であった。

 意志は自らの本質を映しだしているこのような世界を認識したうえで、己を肯定したり否定したりしなければならない。二つの分析を終わった以上、今度はこの肯定ならび否定といった問題そのものを一段と明瞭にきわ立て叙述し、肯定ならび否定の内的意義が何であるかを見ていきたいと考える。

生きんとする意志の肯定ならび否定(六〇節〜六十七節)

 意志の肯定とは、いかなる認識によっても妨げられることのない不断の意欲というものを指し、すでに人間の身体にしてからが意志の客体性であるから、時間のなかで展開される意欲が、いわば身体というものの言いかえであり、意欲は身体の各部分の意義を明らかにすることであって、意志を別の仕方で証明したものである。それゆえにわれわれは、意志の肯定という代わりに身体の肯定といってもかまわない。

 身体を身体自身の諸力で維持するのは、意志の肯定の低い程度にあたるのであって、自発的に身体がこの低い程度にとどまっているとすれば、われわれはこの身体の死滅とともに、身体の中に現象していた意志もまた消滅してしまったのだと考えてよいかもしれない。しかし性欲の満足だけをみてもすでに己自身の生存の肯定を超越していくものだし、性欲は個体の死を超越して、無規定の時間の中へ生を肯定していく。

 性行為のうちに、生きんとする意志のこのうえなく決定的な肯定がまじりけなく表わされていることを、欲望の自覚と激しさとがわれわれに教えてくれる。

 そうして時間と因果系列のなかに、すなわち自然のなかに、行為の結果として新しい生命が出現する。生まれた子供は母胎に対しては、現象のうえからは異なっているが、イデアのうえからいえば、子供は母胎と同一である。

 生殖とは、生む母胎の方からいえば、生きんとする意志の決定的な肯定の表現であり、生まれた側の子供の方からいえば、自然界のあらゆる原因と同じように、かくかくのときに、かくかくの場所に意志が現象するという機会因にすぎない。

 自分の身体を超越していくこのような肯定、なんらかの新しい身体を提出するにいたるこのような肯定とともに、苦悩も、死も、生命の現象の一環としてあらためて一緒に肯定されるのであり、そのとき認識能力による解脱の可能性が無効とみなされ、ここに生殖の営みに関する羞恥心の深い理由が存するのである。

 キリスト教の教義的に言えば、人間はみなアダムの堕罪(これは明らかに性欲の満足ということにすぎない)に与っているのであり、このアダムの堕罪によって、人間は苦悩と死という罪に値するというのである。各個体は一方において生命の肯定を代表しているアダムと同一であるから、そのかぎりでは原罪、すなわち苦悩と死とに宰領されているが、他方において、各個体は生きんとする意志の否定を代表している救世主と同一であるから、そのかぎりでは救世主の自己犠牲に与っていて、救世主の功績によって罪と苦悩の中から、すなわちこの世から救われ、助け出されていると、かのイデアの認識が教えているのである。

 性欲が生きんとする意志のもっとも決定的な肯定であることは、これが動物ならびに自然状態にいる人間にとって、生の究極の目的であり、最高の目標であることによって裏書きされている。彼が最初に努力するのは自己保存であるが、それへの心配をすませてしまうと、次の努力は端的にいって種族の繁殖である。人間は単なる自然状態の存在であるかぎり、努力できるのはせいぜいそれくらいのことであろう。生きんとする意志としての自然にとって、大切なのはただ種族の保存だけであり、個体など自然にとってみればものの数にもはいらないだろう。

 生殖器は身体のいずれの外的器官にくらべ、はるかに多く意志の支配のみを受けていて、認識にはまったく支配されていない器官である。意志は生殖器においては認識から独立して現れてくるため、身体のこれらの部分では、認識を欠いた自然界におけると同じように、意志は盲目的に作用している。

 生殖とは、単に一つの個体が新しい個体に移っていく再生産にほかならず、生殖器が意志の本来的な焦点であるのは、生殖器が脳の対極をなすからである。脳は認識の代表であり、認識というのは意志の世界とはもうひとつ別の側面、つまり表象としての世界である(ようするにショーペンハウエルは、身体の中で生殖器=意志、脳=表象としての世界の代表とみなしている)

 ところで、生きんとする意志の肯定が身体の肯定であるというのは、身体が自分の力を用いて身体を維持するということに現れており、この肯定と直に結びついているのは性欲の満足であり、生殖器が身体の一部である以上、性欲の満足はまた生きんとする意志の肯定の一部であると言える。

 したがってこの性欲の満足を断念すること、自発的に断念することは、それだけ生きんとする意志の否定であり、性欲の満足を断念するのは、鎮静剤として作用する認識が生じたことに基づく、生きんとする意志の自発的な自己放棄といってもいい。なぜなら生殖器というかたちで身体が客観化してみせているのは繁殖への意志なのであるが、性欲を断念するとなると、この繁殖がいっこうに意志されないということになってしまうからである。それゆえそのような断念は、生きんとする意志の否定でもあるし廃棄でもあるから、困難で悲痛な自己克服になるのである。が、この点については後でさらに述べよう(六十八節前半)

 死ということは太陽が没するのに似ているといえよう。没する太陽が夜の闇に呑み込まれてゆくのはほんの見掛けだけのことで、実際に太陽はそれ自身がいっさいの光源であるから、間断なく燃え、常時上昇し、下降しているのである。始めとか終わりとかいうことは、時間(個体という現象が表象するための形式)を媒介として、個体にのみ関わることでしかない。時間の外にあるのはひとえに意志、すなわちカントの物自体であり、それの適切な客体性が、プラトンのイデアに当たるのである。自殺してもなんの救いにもならないのはこのためである。人は誰でも心の奥底で欲している通りのものであらねばならず、また自分が現にある通りのことを欲していくほかはない。

 幸福とは苦痛が取り去られた状態にすぎない。先にわれわれは、生の全体にとって本質的なのは苦悩であり、生と苦悩とは切っても切れない関係にあることを見ておいた。

 純粋な愛(アガペー)とは同情である。この点でわれわれはためらうことなく、カントに対しまっこうから反対することになる。カントによればあらゆる真実の善とあらゆる徳とは抽象的な反省の中から、しかも義務と定言命法の概念を通じて出現してくるものなのであり、彼はそういうもののみを善とし、徳として認めようというのであって、同情を感じるなどというのは人間の心の弱さを示すものであると宣言している。

 わたしはカントにまっこうから反対してるこう言おう。単なる概念などは、本当の徳にとっては本当の芸術にとってと同じように不毛である。あらゆる純粋な愛は同情なのであって、同情にあらざるいかなる愛も自己愛(エロス)なのだ。

 泣くことは、笑うことと並んで、人間の本性のきわ立った特性の一つである。われわれが他人の苦しみや、人が死んだ場合に泣くというのは、われわれが想像力で苦しんでいる他人の立場に身を置いたり、故人の運命に身を寄せたりしながら、全人類の苦しみや運命を、したがってなによりもまずわれわれ自身の運命を見てとっていて、要するにそういう遠い回り道を経て、結局はつねにもう一度われわれ自身のために泣くというわけなのだ。

 してみると彼の心を主としてとらえているのは、有限性の所有に帰している人類全体の運命に対する同情なのであり、この人類の運命の中に、彼はなによりもまず彼自身の運命を見てとっているのだ。泣くことはしたがって自分自身に対する同情なのであり、あるいは自分の出発点へと連れもどされた同情であるという風に言ってもよいかと思う。

 愛は解脱に通じ、生きんとする意志の全面的放棄に通じている。禁欲的な生活方針をとったパスカルは、たえず病弱であり、召使が十分にいたにもかかわらず、彼はもはやいかなる奉仕をも受けようとはしなかった。インド人の中には王侯でさえ、富裕であるにもかかわらず、この富を家族を扶養するのに使うだけで、自分では自らの手で種を蒔いて刈り入れたもの以外にはなにひとつ食べないという格律を厳密に守っている人々が少なくないという。

 こうした人々の行いをわれわれが明らかにしようとつとめるなら、個人が富裕で強大であるのは、相続した財産に匹敵するだけの分量の奉仕を人間社会の全体におこなうことができるはずだからであり、また彼のその富が保証されるのは社会のおかげであるからである。インド人たちのこのような過度の正義は、生きんとする意志の本当の断念、否定、すなわち禁欲なのである。

 ところがこのような例とは反対に、相続した財産のおかげで自分ではなにもせずに完全な無為をきめこみ、他の人々の力で生活するというのは、たとえ実定法からすれば正当であるに違いないとしても、道徳的には不正とみなされてよい。

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