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◯◯形成手術を受け19年後の今の思い

以前、トランス男性当事者達のポストで「◯◯形成しても本物に見えないし、クオリティ低いよね」などの言葉を見るたびに訳もわからず怒り落ち込んでいた時があった。

その時は落ち込んだが確かに納得もしていた。見た目は本物とは違うのにお金もたくさんかかった。人によっては感染症起こしたり、尿道狭窄が起こり尿が出なくなったり、あげればキリがない程リスクがある事を思えば「受けない」選択をする人もいるだろう。僕が形成手術を受ける当時、周りのトランス男性友人達に言われた言葉を思い出した。

「つけてもさ、エッチもできなければ全く偽モンやろ?何百万もかける意味ないやろ。笑」

バカにした様な笑いと、のちにこの言葉の裏側を知った時に、当たり前なんだが同じ当事者でも全く違うんだと知った。

これは20年経った今でも同じような言葉をトランス男性のポストでみる。久しぶりに戻ったネットの世界にはあの時と変わらない雰囲気を感じた。ただ、僕が中年になり大人になったからか、鈍くなったからか、あの時程の衝撃はない。

しかし、そう俯瞰して見ている一方で形成手術のネガティブ投稿を見るたびにやっぱりモヤモヤを抱いていたんだが、先日、急に腑に落ちたから書いておく事にした。

新しいコンプレックスー」で書いたように、僕はすでにこの体で生きていて、当時言われた事以上の経験ができていた。なのにそのネガティブ投稿を見て落ち込んでいたのは、僕がすがる思いで受けた手術やその状態を損得の中で酷評していたからだ。

僕は◯◯形成手術は、指や耳などの欠損を修復する手術と同じだと思っている。欠損している部分を補うために僕はエピテーゼじゃなく再建手術を選んだ。そう思って受けたし、実際担当してくれた教授は再建手術を得意とした。
だから、排尿さえできれば成功で、感覚が戻った時は先生と喜び、セックスができた時は奇跡だと思った。

その奇跡の日々がいつのまにか僕の日常になっていて、同じ属性だと思っていたトランス男性のポストに怒りを感じたのは、酷評を受けている事そのものは、もう、とっくに僕の体だったから腹がたったんだと。

損得勘定で酷評されているその体で過ごしてきた僕やその思いを嘲笑われた様に感じたんだと、わかった。


ただ、SNSで上記の様に発信される言葉が悪いわけじゃない。これは受け手側の僕の問題だ。



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