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トランスセクシャルじゃなくても多分、生き方は変わらなかった

僕の人生はトランスセクシャルを切り離して考えることはできないが、これでも年相応に夢を抱いた事もあった。

僕はイラストを描くのが好きだ。油絵やアクリル画もしていた。何度か賞を獲る事もあり、それらによって一層好きになった。将来はデザイン関係に就きたいとも思っていた。


高校2年の夏、ちょっと英語が得意な僕はホームステイの縁があった。多額の費用もかかるが、親から僕の勉強になればと行かせてもらった。そのかわり進学は諦めて。と、言われていた。

しかし、勝手に申し込んだデザイン学校のオープンキャンパスに行き、Macの魅力と雑誌に憧れを抱き、どうしても行きたくて親に頼み込んだ。夜間でいい、デザインを学びたい。心の中で「オナベの店がある所の近くだし」と、なんて名案なんだ!と。

高校3年の夏、部活が終わりすぐにバイトを始めた。高校はアルバイト禁止だったが、バレなければ大丈夫という緩めの校則だった。
そのバイト代を基本のデッサンを学びたくて絵画教室の月謝にあてた。週2回、芸大受験を目指す方と同じ時間帯で受けた。楽しくて、益々デザインの道を希望する。

根気負けした両親は夜学ならとデザイン学校への進学を許してくれた。進学が決まると一人暮らしも始まる、オナベの店にも行ける、益々やる気になり、バイトを掛け持ちし、希望溢れる未来を想像すると何もかも楽しくなった。

将来、雑誌の編集に携わりたいと思っていた。メンズノンノやsmartを見てそんなオシャレな雑誌を作りたい、その傍らイラストレーターで有名になりたいと憧れていた。

夢のまた夢の世界。

目的のためー」の最中に入学した。夜学は社会人が多く、大人のクラスメイトのおかげであっという間に居心地の良い学生生活を手に入れた。

同時にオナベの方々に教えてもらった「性同一性障害」の言葉を頼りに本を読みあさった。そこには「性転換手術(性別適合手術)」の事が書かれてあり、海外で受けてきた体験が載っていた。全身で「これだ」と思った。

お金がいる。

授業以外の時間はバイトに使った。日中は現場仕事、授業が終わってからは中洲のはずれにある深夜のマンガ喫茶で働いた。睡眠時間は2時間程度。若さで乗り切っていた。

GID=水商売だった時代、それはしたくなかった。僕は飲み屋で務まる性格じゃないと身をもってわかったから。そして、実力はさておきデザイン関係に身を置きたい気持ちはまだあった。GIDのせいにして諦めるのは感覚的に違うと思っていた。

1999年、GID関連の個人ホームページを始めた。たくさんの方と知り合った。そこには社会人もたくさんいて、様々な職業の方がいた。水商売じゃなくても生きていける事を知る。

2000年、初めて個人事業主となった。ホームページで使うイラストを手がけた。専門学校卒業後、秋頃までしていたが、忙しさと運動不足で心を壊した。Macの前で永遠と受注したイラストを作る。夢と現実の乖離を知る。

睡眠障害と診断されて寝れない日々が続いた。頭痛と吐き気がおさまった頃、これじゃお金も貯まらないし、全く生活できないと、イラストの仕事を休職し、勤めに出る事にした。

僕は勤めに出ながら、最後に大きなイラストの仕事をして、デザインで生きることを辞めた。

絵を描く事は僕のベースだった。
その後、治療が終わるまで絵を描くことはなかった。

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