牛御前と丑御前について

◎◎この報告記事は2016/7/25(月)にブログに記載されたものです◎◎

http://syouraian.blog134.fc2.com/blog-entry-89.html

 実に久し振りな更新ですが、今回は「牛御前」について。
 知っている人は知っていると思いますが、スマホゲーム『Fate/GrandOrder』に牛御前かもしれないキャラクターが出てきた……という流れから、改めて本格的に牛御前について調べてみよう、という成り行きからの調査報告です。

・牛御前の概要

 まず、牛御前とは何か。村上健司『妖怪事典』をまずは参考にしてみましょう。


 牛御前
 『吾妻鏡』『新編武蔵風土記稿』『十方庵遊歴雑記』などに見える怪異。 『吾妻鏡』には次のようにある。建長三年(一二五一)三月六日、墨田川の対岸の武蔵国浅草(台東区)に、牛のような妖怪が不意に出現して浅草寺に走り込んだ。ちょうど食堂に集まっていた僧侶五〇人ほどのうち、毒気をあびて七人が即死、二四人が昏倒して病の床に伏せたという。また『新編武蔵風土記稿』には、その牛の妖怪が浅草の対岸にある牛御前社に飛びこんで、社壇に現在の社宝の牛玉を落としていったとある。牛御前社は現在墨田区で最も古い神社とされる牛島神社のことで、素戔鳴尊を主神としている。素戔鳴尊は牛頭天王とよばれ、疫病除けの神として知られるが、その反面、荒々しい性格の祟り神と恐れられた。おそらくは浅草寺を襲った牛の妖怪は素戔鳴尊の化身であり、浅草寺襲撃事件の背景には宗教的な対立があるようである。(『日本未確認生物事典』笹間良彦『山島民譚集』柳田国男)
(原文ママ)


 次に、Wikipediaの『牛鬼』の牛御前に言及している項目も参考にしてみましょう。
 ちなみにこの牛御前の項目は、2016年7月7日の段階で修正がなされております(詳しくは後述)ので、ここではそれ以前、長くこの項目に記述されたであろう内容を示しておきます。


古典
 民間伝承上の牛鬼は西日本に伝わっているが、古典においては東京の浅草周辺に牛鬼に類する妖怪が現れたという記述が多い。
 鎌倉時代の『吾妻鏡』などに、以下の伝説がある。建長3年(1251年)、浅草寺に牛のような妖怪が現れ、食堂にいた僧侶たち24人が悪気を受けて病に侵され、7人が死亡したという。『新編武蔵風土記稿』でもこの『吾妻鏡』を引用し、隅田川から牛鬼のような妖怪が現れ、浅草の対岸にある牛島神社に飛び込み、「牛玉」という玉を残したと述べられている。この牛玉は神社の社宝となり、牛鬼は神として祀られ、同社では狛犬ならぬ狛牛一対が飾られている。また「撫で牛」の像があり、自身の悪い部位を撫でると病気が治るとされている。この牛鬼を、牛頭天王の異名と牛鬼のように荒々しい性格を持つスサノオの化身とする説もあり、妖怪研究家・村上健司は、牛御前が寺を襲ったことには宗教的な対立が背景にあるとしている。
 室町時代には、浄瑠璃で語られた『牛御前伝説』が知られる。平安時代の豪族・源満仲のもとに産まれた娘は、牛の角と鬼の顔を持つために殺害されかけるが、女官が救い出して山中で密かに育て、牛御前と呼ばれるようになる。満仲は息子で妖怪退治の勇者・源頼光に始末を命じる。牛御前は関東に転戦し徹底抗戦、隅田川に身を投げ体長30メートルの牛鬼に変身して頼光軍を滅ぼしたという。
 また、古浄瑠璃『牛御前の本地』では、源頼光の母が、北野天神が胎内に宿るという夢をみたのち、三年三月と云う長い妊娠期間を経て、丑の年丑の日丑の刻に誕生した、鬼神のごとき姿をした女児が、牛御前になったと語られている。
(参考文献:村上健司『妖怪事典』笹間良彦『図説・日本未確認生物事典』山口敏太郎・天野ミチヒロ 『決定版! 本当にいる日本・世界の「未知生物」案内』)
(日本語版Wikipedia「牛鬼」の過去ページ(2016年5月17日修正段階)を参考 https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%89%9B%E9%AC%BC&oldid=59760910)


 これらの情報が、一般的に知られている牛御前という妖怪の情報だと思います。


・古典の紐解き

 では、牛御前についての主な文献であろう『吾妻鏡』の記述と『新編武蔵風土記稿』を見てみましょう。


『吾妻鏡』建長三年
 三月大六日、丙戌(寅)、武蔵国浅草寺、如牛者忽然出現、奔走于寺、于時寺僧五十口計食堂之間集会也、見件之恠異、廿四人立所受病痾、起居進退不成、居風云々、七人即座死云々

建長三年三月六日丙戌(寅)
 武蔵の国浅草寺に、牛の如き者が忽然と出現し、寺に奔走した。その時、寺の僧五十人ばかりが食堂の間に集会していた。件の恠異を見て、二十四人が立ち所に病痾を受け、起きる事も出来なくなった。居風だという。七人が即座に死亡したという。
(原文は国書刊行会『吾妻鏡 吉川本 第三』(上記の項は吉川本ではなく北條本で補われている)、訳はこぐろうの手による)


 次に『新編武蔵風土記稿』から、必要部分を抜粋して見てみましょう。


『新編武蔵風土記稿 巻之二十一 葛飾郡之二』
 本所及牛嶋の鎮守なり、(中略)本地大日は慈覚大師の作縁起あり信しかたきこと多し、其略に、貞観二年慈覚大師当国弘通の時行暮て傍の草庵に入しに、位冠せし老翁あり云、国土悩乱あらはれ首に牛頭を戴き悪魔降伏の形相を現し国家を守護せんとす。故に我形を写して汝に与へん我ために一宇を造立せよとて去れり。これ当社の神体にて老翁は神素盞嗚尊の権化なり。牛頭を戴て守護し賜はんとの誓にまかせて牛御前と号し、弟子良本を留めてこの像を守らしめ、本地大日の像を作り釈迦の石佛を彫刻してこれを留め、大師は登山せり。(中略)又建長年中浅草川より牛鬼の如き異形のもの飛出し、嶼中を走せめくり当社に飛入忽然として行方を知らず。時に社壇に一つの玉を落せり。今社宝牛玉是なりと記したれど、旧きことなれば造ならさること多し。(後略)
(参考文献:雄山閣『大日本地誌体系 第2』 こぐろうが一部の旧漢字を常用漢字に修正)


 以上の二資料を確認すると、『吾妻鏡』の怪異は「牛御前」と呼ばれていたわけではないということ、牛御前社(現在の牛嶋神社)の由来が素戔鳴尊(牛頭天王)にあり、『吾妻鏡』の記録と同じ建長年間に「牛鬼の如き異形」が現れたこと(直接関係しているという言及はない)がわかります。
 これらが同じ「牛御前という妖怪」の項目内で紹介されるようになったのはいつ頃か、という点は後述することにします。

 次に、Wikipediaで言及されていた浄瑠璃の「牛御前伝説」「牛御前の本地」について。
 これは正しくは『丑御前の御本地』という題名の古浄瑠璃で、元禄・宝永年間に作られたものと推測されています(若月保治『古浄瑠璃の研究』4巻より)。
 以下にその内容を紹介しますが、六段に渡る長い内容ですので、段ごとにあらすじを記す形でご了承ください。


『丑御前の御本地』
初段
 六十二代・村上天皇の御世、清和天皇の五代目の子孫・多田満仲という者がいた。その子らいこう(源頼光の事。以下頼光)は文武両道の者で、讒言によって流浪の身となっていたが、その疑いも晴れ、信濃国かわらけ山の鬼神を生け捕り、仲光・綱・金時・さだみつ・すゑ竹(藤原仲光・渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部季武)など多くの兵が仕えるなど、勢いを増していた。
 その頼光の「御しやてい(親を同じくする実の弟)」にうし御前(以下丑御前)という者がいた。これはその母が夢の中で北野天神(北野天満宮。祭神は菅原道真)が胎内に入る様を見た後、三年三ヶ月かけて、天慶四年辛丑、三月二十五日丑の日丑の刻に産んだ子である。それゆえに丑御前と名付けられた。
 丑御前は出生の時から歯が生え揃い、髪は四方に黒く伸び、両目は朝日のように輝き、鬼神の如き有り様だったので、父満仲はすぐに殺すべしと考え、仲光に命じた。しかし、母の丑御前を愛する思いは非常に強く、丑御前を大和国金峯山に隠し、荒須崎という大力の女官に密かに育てさせた。
 丑御前が十五歳になる頃には、背が高く、色は白く、力は限りなく強くなり、怒って睨めば、空を飛ぶもの地を這うもの皆揃って竦み上がるほどであり、走れば韋駄天の如くであり、我儘に暮らしていた。
 その後見は育ての親・女官荒須崎かつま、その夫・荒尾の庄司高正、この二人の嫡子・日の熊宗とらである。日の熊は十八歳、親子三人揃って大力無二のくせ者であり、人を人とも思わず、丑御前によく仕え、敬っていた。
 ある雨の日、丑御前は荒須崎に
「私は何故、こうしてお前たちの手によって育てられ、その育ての親たるお前たちが家臣として私を敬うのか。私の実の父母は何者なのか。もしや武士として軍におり、殺されて家を失ったのではないか。それならば、私は父の仇の首を取り、それでもって弔いとしたいのだ」
と問うた。荒須崎は
「よくぞ問うて下さいました。貴方の父君は日本に肩を並べるものなきほどの武士ですが、貴方の誕生の時にお怒りになられたので、母君がこの須崎に預けられたのです」
と答えた。

二段
 その後、丑御前が日の熊を連れて金峯山に参詣に行った時、蘇我稲目の末孫・さか原の大臣とその家来たちに行き当たった。丑御前は堪えなき若者ゆえ、家来たちを投げ飛ばし
「我こそは清和天皇五代目の子孫、多田満仲の次男・丑御前である。馬上の無礼者、我が身をよく見よ」
と、馬の手綱を引き千切った。家来たちは総出で打ちかかったが、丑御前と日の熊は太刀を抜き、これを散々に切り散らした。そこへ荒須崎が乱入し、大臣が乗った馬を掴んで投げ付け、大手を広げて散々に打ち散らした。彼らの勢いに肝をつぶした大臣一行は、館に向かって逃げ帰った。
 逃げ帰ったさか原の大臣は恥辱を受けた事を非常に悔い、この出来事を内裏に奏聞した。帝は満仲の子は頼光唯一人と思っていたので驚き怪しみ、急いで満仲を呼び寄せた。満仲が参内したので、これこのようなことがあったので、すぐに丑御前を東国の果てに流すべしと命じた。
 命を受け宿所に帰った満仲は、すぐさま家来たちを呼び集めたが、ここで仲光が
「最早隠すこともできませぬ」
と、丑御前についての全てを白状した。満仲は非常に怒り
「仲光は忠孝の者にあらず、我が命令を成さずに悪事を成し、我が家の危機を招くなど、七代までの勘当である」
と言ったので、仲光はすごすごと満仲の前から去った。仲光は
「かつて美女御前の命を我が子の命と代え、今回は丑御前の身を我が身と代え、これらは臣下の望む所」
と髪を切って行方も知らず出て行ったので、皆驚いて止めることも出来なかった。
 満仲は
「丑御前を謀って東国の果て、下総へと流すべし」
と考え、綱を使いにだして荒須崎を呼び寄せた。満仲と家臣たちは評定を開き、思案を巡らせていたが、その中で金時一人が沙汰を聞き入れず
「丑御前の成した事、流石は清和の六代目。あのさか原の大臣は公家の中でも無礼者で、この金時が手を下し首をねじ切ってやろうと思っていた」
と言った、満仲は
「金時よ、禁裏における出来事はお前とは関わりのない事、宣旨に背くことになれば、頂いた位や家をも失い、身を果たすことになる。荒事も事と次第によるのである」
と答えた。金時は
「満仲様は仁義礼智信とても深き方ゆえ、公家のさか原の讒言によって父子共に難を受けておられるのに、それでも神や仏のごとく帝を敬われる。この件によって遺恨を残すのであれば、内裏も帝も何あらん、一条二条近衛関白どもなど片端から踏み潰して東国に押し込め、満仲様が天下のあるじとなられればよい」
と言ったので、綱は
「天子をそのように成せば、世の中は闇の如くなり、満仲様は朝敵の名を受け長き記録にもそのように御名が残ることになる。今回はとにかく宣旨のままに、丑御前をひとまず東国へお移しするのだ」
と答えた。しかし金時は
「このまま丑御前を謀って流人の身とすれば、その名は朝敵として長く記録に残ることになる。この金時はそのような詮議は聞きたくもないし見たくもない」
と言って耳を塞ぎ口を閉じ黙ってしまった。
 荒須崎は障子を隔ててこの由を聞いていたが、満仲の前に現れて
「いかなる理由で私をここに呼び寄せたのでしょうか」
と問うた。満仲は
「荒須崎とはお前のことか、あの丑御前は悪事を成したので、詫びさせねばならない」
と答えたら、荒須崎はからからと笑い
「あの若君は一体誰の御子だというのです、丑御前は貴方の御子でございましょう。金峯山の出来事は相手の無礼が始まりで、若君は尊い身分のお方でありながら日陰者として編笠を深く被られていたのです。それ故に、相手に礼儀を成せ、さもなくば即座に無礼討ちとなさんとしたのです。それをこの深きお咎め、東国の果てに流人とされるは情けない。いつかは国の主になられる御方と願っていましたが、このような難儀にあうとは。この上は東国であろうと高麗契丹であろうと若君の住まわれる所こそ若君の都、この辛き父親の仕打ち、腹立たしく口惜しい」
と、袂を顔に押し当ててさめざめと泣いた。綱と貞光は言葉を添え
「荒須崎よ、若君は今はひとまず東国にお移しして、その後時節を待って帰洛させればよい。今回は満仲様の言う通りにして、都を下りたまえ」
と諌めた。荒須崎は眼を怒らせ
「この上は例え赦免があろうとも、この国には戻るまい、知りもしない東国こそ、若君やこの荒須崎の果て所である。やがて方々が我らを討ちに来られた時こそ、積もる恨みを申し上げよう」
と答え、満仲をはったと睨み
「思えば無念、腹立たしい」
と歯噛みすれば、その様は夜叉の荒ぶるが如くであり、座敷を蹴立てて帰っていった。
 (「美女御前」とは満仲のもう一人の子。「美女」と名が付くが男子である。非常に素行が悪かったので寺に預けたが、修行することもなく遊び三昧乱暴三昧だったので、怒った満仲が仲光に殺すように命じた。仲光は主君の子を殺すことが出来ず、身代わりとして我が子の首を切って差し出し、密かに美女御前を逃がした。謡曲『仲光』などの物語で知られている。)

三段
 その後、荒須崎は涙ながらに家に帰り、夫の庄司に次第を伝えた。正平(高正?)は
「是非もなし、この期に及んでは、我ら夫婦で命をかけて東国の軍兵たちと語らって、東国三十三カ国を味方につけ、東の御所とするしかない。まずは都を静かに下るべし」
と夫婦で内嘆しつつ丑御前の前に出て行った。牛御前が
「荒須崎よ、急な呼び出しで何があったか」
と問うと、荒須崎は
「満仲様は若君のお住まいを東にお移しせよとの事で、吉日を選んでここを出ることとなりました」
と答えた。丑御前は謀りとは思わず
「それはめでたい、吉相である。吉日を待たずとも、すぐに下るべきだ。さあ早く早く」
と言ったので、荒須崎は涙を堪えかねた。
 丑御前と荒須崎の一家は船に乗って東国へと向かった。東国の地へ到着し、牛御前が振り返ると、都を出る時は多くの船とそれに乗る下人がいたのに、東国に着いたかと思うとわずか一艘を残して他は全て帰って行ってしまった。丑御前は日の熊に
「弓と矢を出せ」
と命じたが、渡された靭(矢筒)の中に矢は一本も入っていない。どうしたことかと歯噛みしても甲斐はなく、これは無念と大いに乱れ
「公家も内裏も片端から踏み殺し、恨みの程を知らせてやる」
と大いに悔やんだ。
 丑御前一行はやがて武蔵に差し掛かり、三田の城、霞が関、江戸などを過ぎて見れば、烏森に小さな宮がある。これは何かと里の人に問うと、
「これこそ稲荷大明神、田原藤太(俵藤太、藤原秀郷)が建立されたものです。彼が平将門を討とうと起請して、本望を遂げたという霊験あらたかな大明神ですので、どうぞお祈りください」
と答えた。丑御前はこれを聞いて
「将門を討たれたもうた大明神とは、神慮あらたかである。私は東国に下り、平将門にはあらねども、豊嶋の内裏とかしずこう。どうか必ず私を守り給え、もし神慮を違えれば、宮も社壇も微塵に打ち砕き、元の野原へと変えてやろう。神力があるならば、ここで見せ給え」
と、大木に手をかけると、不思議な事に宮の内から白狐が二匹現れて、尾を振って戯れ始めた。丑御前は笑って
「私の住むべき所まで付き添いたまえ」
と言い、豊嶋の郡、角田川の渡しの船に乗って、入間川の向かいにある森に来た。下総の住人がやって来て、ここを厳しく守った。
 (「烏森の宮」とは現在の烏森神社か。藤原秀郷が平将門討伐を祈願した所、白狐が現れて白羽の矢を与えたという。これによって勝利した秀郷は、夢に現れた白狐に従い、神鳥の群がる地に稲荷神社を建立した。これが烏森神社の始まりであるという。)

四段
 その後、下総の住人である大田原判官が早打ちで内裏に奏する事によると、満仲の次男(原文では一男となっている。誤記?)丑御前が自らを豊嶋の帝と号し、関八州を味方につけて謀反の企てをしているとのことであった。帝は大いに驚き、満仲を召し出し、五万の兵を添えるので、すぐさま丑御前を誅伐せよと命じられた。満仲は
「早速奴の首を刎ね、御心慮を安らかにしましょう」
と承り、息子頼光を大将とし、四天王と総勢七万の兵を添えて東に向けて出陣させた。牛御前もまた兵を各所からかき集め、都に向けて攻め上った。こうして頼光の軍勢は武蔵国の三田の城、丑御前の軍勢は鈴の森(鈴ヶ森か)に陣を敷き、戦が始まった。
 (戦の描写は詳細を省く)

五段
 霞が関での戦において、貞光は荒尾の庄司を討ち取った。これを見た嫡子・日の熊は父の仇と貞光を血眼になって追いかけた。綱は貞光を助けようとするが、夫を討たれた荒須崎もやって来て大木をねじ切り、母子合わせて敵兵を散々に打ち散らした。さしもの綱、季武、貞光も敵わずと退却し、頼光の御供をして武蔵から引いた。関東の兵も勝鬨をあげ、豊嶋の郡に引き上げた。
 その頃、金時はこの戦に参加せず、山伏の姿になって江戸の城に忍んでいたが、霞が関で綱らが敗走したと聞き、このまま戦で丑御前が死ぬのは残念だと思い、頼光の元に戻って
「私は丑御前とは酒宴の相手をするほどの仲の良さゆえ、これより相手の陣へと入り込み、家臣二人の首を取り、丑御前を生け捕りにしましょう」
と言い、葛西にある丑御前の御所へと向かった。

六段
 さて金時は連れてきた軍勢を隠し、山伏の姿となって入っていった。その時既に酒宴が始まっており、丑御前の軍兵は鎧を脱いで歌い奏でていた。金時は堂々と中に入っていき、丑御前と対面し、事の次第を話して聞かせた。丑御前は
「お前の気持ちは嬉しいが、事ここに至っては、戦にて決着をつけ、討つか討たれるかだけである。それはともあれ、都よりこの方、酒の絶えたる金時に酒を盛りたまえ」
と日の熊に命じ、日の熊は大きな器に酒を注いで持ってきた。金時は使命を忘れて大いに喜び、これを一息に飲み干した。丑御前は笑って
「酒を好む金時はまさに東(あづま)なる荒きえびすである。さあ肴を用意せよ」
と命じれば、美しい女房たちが現れて、東踊りを始めた。
 女房たちは歌いながら二三回舞い踊ったかとみれば、その姿は野干(狐と同義)の姿へと変わり、たちまち消え失せた。さしもの金時も興が冷め、使命を思い出したので御暇しようとしたが、丑御前は日の熊に金時を討ち取れと命じ、戦いが始まった。すると控えていた残る四天王と軍勢が鬨の声を上げて攻めかかったので、丑御前の軍勢は散り散りになり、日の熊も金時に討ち取られた。
遂に残ったのは丑御前と荒須崎だけであったが、丑御前は水に分け入って十丈もの大きさの牛となり、都の軍に向けて入間川の水を吹きかけ、溺れさせた。荒須崎は屈強な敵兵を七、八人引っ掴んで浅草川に沈み、その一念雷(いかづち)と成って、都に向かって飛び去った。頼光らはこれをみて前代未聞の有り様と思い、都に向かって逃げ上っていった。
 丑御前の一念は天に通じ、長雨を止ませず民の憂いとなった。荒須崎夫妻は須崎の明神(須崎明神は、現在の神田明神の事か?)とされ、今の世でも八月八日に神事をなすという。また、入間川にも時々牛の姿となった丑御前が現れるという。
 (角田川(墨田川)・浅草川・入間川の名称は時代とともに変遷があり、書かれている川が実際のどの川なのかは精査しなければならないだろう)
 (参考文献:『古浄瑠璃正本集 第10巻』)


 以上が『丑御前の御本地』のあらましです。
 北野天神(菅原道真)によって丑の日に生まれた鬼子が人外の如き者達と徒党を組んで暴れ回り、平将門に倣って新皇を号し帝の軍と戦うという、敵役の要素をこれでもかとふんだんに盛り込んだ丑御前と、都の武士でありながら「あずまえびす」の豪快さと金太郎を思わせる子供っぽさを感じさせる坂田金時が印象的に描写されており、人々が慣れ親しんだ幾つもの物語の要素によって構成された、荒事も涙を誘う情景もある浄瑠璃であったことが伺えます。
 また、丑御前が变化した舞台を『吾妻鏡』の「牛の如き者」が現れた場所や牛御前社(牛嶋神社)の場所と近い場所にした点から、この浄瑠璃の作者がそれらの伝説を参考にした可能性も考えられるかと思います。
 ちなみに『古浄瑠璃の研究』によると、『丑御前の御本地』は「古靭文庫」という文庫に読本として所蔵されていたそうです。
 「古靭文庫」は大阪の義太夫節の太夫・豊竹古靱太夫という人物の蔵書籍群だったのですが、第二次大戦の大阪空襲の折、その全てが焼失してしまったとのことです。


・丑御前は男か女か

 『丑御前の御本地』を読めばわかりますが、多田満仲(源満仲)の次男であり源頼光の弟・丑御前は明確に男子です。
 しかし、これまで丑御前は娘、女子であるとの認識が広まっていました。
 恐らくその原因は、先ほど示したWikipediaの記述と思われます。現在は修正されているものの、それ以前の「浄瑠璃における牛御前」の記述は大きく間違っていたと言わざるを得ません。
 その部分の参考文献は『決定版!本当にいる日本・世界の「未知生物」案内』と指定されていました。


「牛の顔を持って生まれた娘の悲劇 牛御前」
 建長3年(1251年)3月6日、浅草に牛のような怪物が出た。この怪物は、浅草寺に乱入して毒をまき散らし、僧7人を即死、24人を昏倒させる惨事を巻き起こしたという。この牛の怪物はすぐに退治されたが、その際対岸に玉を落としていった。それが現在、向島の牛島神社(牛御前神社)に祭られているのだ。
 よく考えてみると、仏教側(浅草寺)と神道側(牛島神社)の宗教的な対立をこのような怪物談にした可能性が高いが、室町時代の浄瑠璃で「丑御前伝説」は盛んに語られていた。その内容は、次のようなものである。
 平安時代の武士・源満仲の元に牛の角と鬼の顔を持つ娘が生まれ、驚いた満仲は殺害を命じたが、娘を憐れに思った女官は娘を救い出し、山中で密かに育て、娘は牛御前となった。牛御前の生存を知った満仲は怒り、息子の源頼光に牛御前の始末を命じる。この仕打ちに牛御前は激怒し、関東に逃げのび徹底抗戦を続けた。乱戦の末、牛御前は隅田川に身を投げることによって身の丈十丈(約30m)の牛鬼へと返信し頼光軍を全滅させた。
 恐ろしい怪物がただ暴れただけでなく、このような物語もあるのだ。現在、牛島神社には「撫で牛」という像があり、自分の体の悪い部分に当たる箇所を撫でると治ると言われて人々に親しまれている。


 以上が『決定版!本当にいる日本・世界の「未知生物」案内』の記述です。
 ちなみにこの本は2007年6月に出版された本であり、2005年8月出版の『本当にいる日本の「未知生物」案内』と、2007年12月に出版された『最新版!本当にいる日本の「未知生物」案内』でシリーズ構成されており、「牛御前」の記述に関しては三冊ともに同じ内容でした。
 この本の筆者が何らかの別の文献を参考にした可能性は今後も文献を調査しなければなりませんが、少なくとも原本である『丑御前の御本地』を読んで書いたとは思えない内容となっています(あるいは、読んだけれどもわざと内容を編集して書いたか)。
 『丑御前の御本地』について言及している本として私が把握しているものでは、若月保治『古浄瑠璃の研究』(1943年)や荒俣宏『本朝幻想文学縁起』(1985年)がありますが、いずれも少なくとも丑御前を娘とはしていませんでした。

 『吾妻鏡』の「牛の如き者」と牛嶋神社の社宝・牛玉の由来を「牛御前」と称して一緒に紹介する内容としては、水木しげるの描いた「牛御前」の解説文があります。


牛御前
 牛御前とは明治時代までの牛島神社のよび名で、東京都墨田区内でもっとも古い神社といわれる。
 昔、墨田川より牛鬼のごとき異形のものが現れ、村中を走りまわって牛御前に飛び入り、現在社宝として伝わる牛玉を落としていったという。神社の祭神である素戔鳴尊は牛頭天王ともよばれ、その正確は牛鬼のごとく荒々しいものだが、先の異形の牛はその化身であったらしい。
 さらに『吾妻鏡』という古書には、牛鬼そのものとして記された記録がある。それによると建長3年(1251)3月6日、墨田川の対岸の浅草に、牛のような妖怪が不意に出現し、浅草寺に走りこんで僧侶50人ほどのうち、7人が即死、24人が病の床に伏せたと記されている。
 牛御前との関係は記されていないが、この妖怪は牛御前の荒魂(祟りあるいは災厄をもたらす神霊の面)なのだろう。
京都市東山区祇園町に鎮座する八坂神社も、牛頭天王を祭神とし、疫病除けの神と信仰されるが、一方では素戔鳴尊の荒魂として、祟る神と恐れられた。
(ソフトガレージ『妖鬼化(むじゃら) 第一巻』(1998年12月)


 「牛御前」は『妖怪・神様に出会える異界(ところ)』(2007年8月)にも収録されており、解説文は『妖鬼化』のそれよりも加筆修正されていたものの、大筋は同じ内容でした。
 これら複数の紹介文が入り混じり、Wikipediaで紹介されたことで、錯綜した「牛御前」の情報が世に出回ったと考えられます。


・補足:『Fate/GrandOrder』の丑御前(源頼光)について

 今回牛御前をしっかり調べるきっかけになった『FGO』の丑御前(源頼光)については、以下のような設定がされているそうです。

・源満仲の子・源頼光は天神様(牛頭天王)の力を受けた子供(娘)として生まれ、その力ゆえに鬼子として寺に預けられた。
・しかし満仲は子の才能を惜しみ、新しく生まれた息子として家に戻した。(つまり頼光と丑御前は実際は同一人物であり、両方とも生まれからして女子だった)
・頼光の異形としての側面を内側に封印することで丑御前を『退治』したことにし、以降頼光は四天王を率いて都を守り続け、源氏の棟梁となった。
・作品世界における伝説としては、丑御前は頼光と兄弟であり、丑御前は兄とされた。

 丑御前だけでなく頼光も女性とされておりますが、設定やストーリーを見るに(またイベントの終章のタイトルに『丑御前の御本地』と付けている点も)しっかりと資料を追って設定を練られていることがわかると思います。
 一応の補足として、ここに記しておきます。


 以上でここまで調べた「牛御前(丑御前)」の調査報告となります。
 しかし、これだけではまだ十分な調査内容とはいえないと考えております。
 特に、近代における伝説としての「牛御前」の解説の流れや、古浄瑠璃『丑御前の御本地』を紹介した資料が他にどれだけあるか、などはまだまだ調べる必要がありますので、もしも「こういった資料がある」というのをご存じの方がいらっしゃれば、是非教えていただきたいと思っております。
 今回は『丑御前の御本地』が実際どんなものであるのか調べられた点が個人的に満足した点であり、その内容を是非紹介したいと思い、今回この長い記事を作成した次第です。
 ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


参考文献一覧
若月保治『古浄瑠璃の研究』1943年
蘆田伊人編『大日本地誌体系 第2』1957年
国書刊行会編『吾妻鏡 吉川本 第3』1968年
横山重ほか編『古浄瑠璃正本集 第10』1982年
荒俣宏『本朝幻想文学縁起』1985年
水木しげる『妖鬼化(むじゃら) 第1』1998年12月
村上健司『妖怪事典』2000年4月
山口敏太郎監修『本当にいる日本の「未知生物」案内』2005年8月
山口敏太郎、天野ミチヒロ『決定版!本当にいる日本・世界の「未知生物」案内』2007年6月
水木しげる『妖怪・神様に出会える異界(ところ)』2007年8月
山口敏太郎監修『最新版!本当にいる日本の「未知生物」案内』2007年12月

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