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孤立した存在が愛を育てる

 はじめに本の帯文から紹介します。

 読む者の人生経験が深まるにつれて、この本は真価を発揮すると思う。

 谷川俊太郎のメッセージです。本を読み終えたあと僕は、詩人の達見に対して、ふかく同意せずにはいられませんでした。僕がこの本を読んだのは三度目で、初読から18年、二読目から5年ほど経っていました。まさにこの本の真価がようやく感じられる所に自分自身が来たということなのかもしれません。

 さて、この本というは、エーリッヒ・フロム著『愛するということ』(鈴木晶訳)です。世界的ロングセラーとなっていますし、旧訳の『愛するという技術』でこの本の存在を知っている方も多いのではないでしょうか。
 エーリッヒ・フロムはフランクフルトの精神分析家です。フロムの研究は、フロイト理論にマルクスやヴェーバーを接合した「新フロイト派」ともいわれています。『愛するということ』でもフロイトへの鋭い指摘がされていますが、たとえば《私がフロイト理論を批判するのは、彼が性を過大評価したからではなく、性をじゅうぶんに理解しなかったからである》と述べるところなどに僕は胸がすく思いでした。
 
 聖書におけるアダムとイブの物語。この物語で描かれている罪悪感とは何でしょうか。よくいわれるのは、アダムとイブが「自分たちが裸であることを知り、恥じた」からであるという説明です。しかし、フロムは”そうではない”とここで説きます。
 アダムとイブの物語をフロムはこう分析します。「人間が孤立した存在であることを知りつつ、愛によって結ばれることがない――ここから恥が生まれるのである。罪と不安もここから生まれる」と。フロムは「人間の孤立」がどの時代どの社会でも共通の課題と考えるのです。

 ところで僕が「孤立」を自覚したのは、意外にも、当時一歳ぐらいの娘と遊んでいたときでした。公園で娘を楽しく遊ばせていると、そのときなぜか「こうして遊んでいることを娘は将来憶えてないのだろうな」とおもったのです。ふとさびしくなりそうな孤立感がやってきました。
 しかし、逆にこうもおもったのです。「自分も幼い頃にこうして遊んでもらったことがあるのではないか」と。果たして、実際に遊んでもらっていたかどうかはわかりません。けれども、自分には「憶えてない」ことが沢山あるのだという事実にそこではたと気がつきました。生きる記憶は顕在にのぼらなくとも、潜在としてかならずのこっているのではないか。
 そう思ったとき、僕はじんわりとしたものを感じたのです。じんわりとしたものは言葉にはできません。しかしながら、言葉にできない領域へ舟を漕いでいくこと。それが「愛する」という営みになるのではないかと思ったりもするのです。

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