〈宇宙塵〉202号に寄せた野田昌宏さんの追悼文(2009年5月)

〈宇宙塵〉202号(2009年5月刊)は、アーサー・C・クラーク(08年3月)、今日泊亜蘭(5月)、野田昌宏(6月)3氏の追悼号でした。たぶんこの記事が、ぼくの初めての〈宇宙塵〉への寄稿でした。このあと、柴野さんの追悼特集への寄稿と、最終号の追悼座談会への参加があります。思ってもみなかった、伝説の〈宇宙塵〉との関わりとなりました。

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《キャプテン・フューチャー全集》のこと

 忘れもしない、2003年7月19日。Tコン2003会場の、ホテルニュー塩原。
 大会初日の夕刻、開会前に大ホールで行われた来場者紹介で野田さんは挨拶に立ち、いつものように場内の爆笑をさらった。それに続く開会式も終わり、あの伝説的な立食式の大夕食会が始まるまでの、わずかの時間。
 大ホール前の狭いラウンジで、なぜかそのときだけ野田さんはぽつんとひとりソファに腰掛けていた。少し前に病気をされたと聞いていた。見慣れたダブルのスーツ姿だったが、ひどくダブついて、とても小さくなったように思われた。僕は野田さんの隣に腰をおろした。「野田さん、やっぱり《キャプテン・フューチャー》出し直しましょうよ」
 創元SF文庫ではその数年前からスペース・オペラの再刊を始めており、《合本版・火星シリーズ》《完全新訳版レンズマン》では、大成功とまでは言わないが相応の成績をあげていた。となると、次に来るのは《キャプテン・フューチャー》しかないだろう。
 早川書房での《キャプテン・フューチャー》の再刊は、10年近く前に5冊で途絶していた。もしもう一度やるなら全作品を発表順でと、ずっと思っていた。それしか成立させる道はなかった。だがそれまでの再刊が創元自身のコンテンツだったのと違い、これは早川からの移籍である。すごいな。そんなの大丈夫だろうか。
「まだ需要があるかねえ?」と野田さんは答えてくれたのだったろうか。僕の申し出に呆れていたのか、それとも照れていたのか。でも野田さん自身が大会終了の翌日、直接交渉してくださり、早川には移籍を即決してもらえたのだった。
 その年の暮れのSFクリスマスでパネル企画に招かれた僕は、野田さんを前にした席上で「驚け」とばかりに《全集》の再刊を告知した。会場のみんなはもう全員が知っていて、誰も驚かない。つまらなかった。
 イラストレーターの鶴田謙二さんがシリーズのファンであることは密かに聞き及んでいた。鶴田さんであれば申し分ない。まったく新しいフューチャーメンを描いてもらおう。遅筆とはいえ極めて実直な方だ。絵の出来には万全の信頼がおける。そう。遅筆とはいえ。
 完結までの道のりは平らかではなかった。鶴田さんの遅筆ばかりではない。なにしろ野田さん自身、20年以上に亘って訳したシリーズだ。用語も用字も乱れに乱れていた。巻数順に訳していない故の間違いも、そしてそれなりに誤訳もあった。修正については一任していただいたが、それはそれで大変だった。外部編集を頼んだ河野[こうの]佐知と二人、頭を悩ませたものだ。
 解説陣については全巻、最高の布陣でのぞめたのではないかと自負している。望外にもアニメ版の脚本を担当された辻真先さんや、早川書房での担当者であり野田さんの盟友ともいえる森優さんにも解説をいただくことが叶った。
 05年のハマコン2では、野田さんに鶴田さんとの対談をお願いした。お二人は初の対面だった。参加者から、野田さんのオリジナル長編『風前の灯[ともしび]! 冥王星ドーム都市』も、と要望されたのはそのときのことだ。最後は鶴田さんが背中を押してくれた。「『風前の灯!』出しましょうよ。僕たくさんイラスト描きますから」これがまた罠だった。
 その、遅れに遅れた『風前の灯!』の発売を待つばかりだった6月6日。正午すぎ、逝去の知らせを高橋良平さんからいただいた。おかげんがよくなさそうなのは弟さんとの連絡で察していたが、やはり立ちつくしてしまった。間に合ったと言っていいのか、間に合わなかったと言うべきなのか。オビだけ「追悼」の文字を入れたものに差し替えた。
 去る8月、野田さんに星雲賞特別賞が贈られたDAICON7で、僕は追悼企画「人生はSFだ」のお手伝いをさせていただいた。高千穂遙さんと加藤直之さんを迎えたパネル司会の準備のために、野田さんの経歴を年譜にしてみた。
 それは一個人の経歴というよりも、ひとつの日本のSF史だった。
 著作活動は言うに及ばない。エッセイで何度も語られた、最初の〈科学創作クラブ〉例会での柴野さんとの出会い、星新一さんの語る「万華鏡」に感動したこと、神保町の古本屋での伊藤典夫さんとの遭遇、そしてメビウス地下鉄事件――どれをとっても「SFファンなら誰もが知っている基礎教養」である。これはすごいことだと思う。まさに、人生がSF。宇宙開発評論まで含めてSFだ。
 ご本人に伝えたことはなかったが、僕は小学生の頃から野田さんのファンだった。年譜を前にして思う。野田さんの人生の最晩年に、僕自身ははたして間に合ったのだろうか。少しでもご恩返しが出来ただろうか。でも、そう考えるのはとても不遜だ。もし僕に恩返しする先があるとすれば、それは後進に対してに他ならない。

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