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ちょっとの失敗も「この世の終わり」を味わう気分になる

「またやっちゃった」
オオカミの遠吠えより長いのではないかと思うくらいの大きなため息が出る。
「~ございました」と送るメール文を「~ござりました」として送ってしまった。
そういうときに限ってプチ炎上しているクライアント。

「いやいや、わたしがこんなミスするわけないじゃん」
そう思ってメール文をみるけれど、しっかり「~ござりました」だ。

「確認をなぜしなかったのよ」
「なんでいっつも私ってこうなの」

やり場のない怒りがふつふつとお腹から湧き出る。

「あんなに何度も見直したのに何でこんなミスするんかな」
「たぶん「こいつなめてるな」って思われるんじゃないかな」
「こんな小さなミスくらいで再送するのもあれだしな、どうしよう」

脳内に響き渡る不安の声。
長い人生でみればほんの小さなこと。
明日になればきっと忘れていることなんだけど、胸がキュッとなってこの世の終わりを味わう気分になる。

そんなときに得意な現実逃避の手段「縄文妄想」をする。

「うわ、どんぐりやと思ってたけど、違う木の実入れてもうた」
「昨日飲みすぎて、狩りに寝坊してしまった」
「手が滑って土器を割ってしまった」

縄文人もこんな感じで失敗をしていたと思う。

ただわたしたちと感情の処理の仕方が違うのではないかと予想する。

縄文時代の考え方として言われているのがアニミズム。
「動物、植物、道具にも命があると考えられ、それらが役割を終えたときは感謝して、その魂をあのように送るための儀式をした」
と言われている。

点ではなく、線でものごとをみていることがうかがえる。
と、いうことは失敗も失敗として捉えず、人生における大切な役割としてみなしていたのではないか。

だから、もしかすると

「うわ、どんぐりやと思ってたけど、違う木の実入れてもうた。でも、違う木の実のほうがおいしいかもしれないよね」
「昨日飲みすぎて、狩りに寝坊してしまった。身体を大切にする日があってもいいよね」
「手が滑って土器を割ってしまった。これもなかなかいい形やん」

失敗の先を考えていたかもしれない。

妄想を一通り終えた後、
少し落ち着いたわたしは「~ござりました」という文をみた。

「~ございました」と送るメール文を「~ござりました」として送ってしまった。とりあえず仕事に手を抜かず、いつかクライアントと一緒に笑い合おう。
クスッと笑ったら、少し気持ちが晴れやかになった。


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