悩み相談の役割、作法について考えてみた

時々書きたいことが浮かんでも、まとまった時間が取れなかったりして、結局筆を取らないことが増えた。
仕事じゃないといえど、そんなだらだらした状態が半年近く続いている。

過去のnoteを見返すと、当時の自分には時間があった。
何より、「書きたい」という衝動に近いものに満たされていたんだ、ということがわかる。
ある意味、無職の特権だったのかもしれない…が。

このnoteではかなりあけすけに自分のことを書いてきた。
たしか、文章そのものを書き始めたのは2年ほど前だったはず。

何度も書いていることだけれど、たしか2018年の7月に僕は「うつ病(正確にはうつ状態)」と診断が下された。

三行でまとめろ、と言われれば、この間の生活は
・うつになり
・無職になり
・立ち直った(または、その途上)
ということになる。

ロングショットで見ればシンプルな話にできるが、細かく見ていけば様々な症状・できごとに翻弄されてきた。
うつ病に限らず、何かの障害、病気、問題に向き合うことになった人は、日常の些細な状況の浮き沈みに苦しみ、悩むことになるだろう。
後で振り返ると、「そういえば、こんなことあったね」くらいの認識にしかならないけれど、渦中にいる中、いわば「火に焼かれている」間はそうもいかない。
未来もわからず、現在の苦しみが永遠に続くかもしれない、そんな恐怖や悲しみと直面することになるのは、心身問わず問題を抱えたことのある人ならわかるはずだ。
溺れるものはなんとやら。

つまり、「火に焼かれた」経験を持つ人は、どのようにそれらの問題に向き合い、かわし、ごまかし、解決していったかというノウハウを集めなくてはいけない。
あくまで僕の仮説だが、ロングショットは初めからあるわけじゃなくて、日々の細かい対応を経た上での結果なのだ。
そして難しいのは、それらの「細かい対応」の是非は、その人の性格や交友関係、体調や経済状況など、ほぼ無限の組み合わせの中から採点されることになる。

要は
「どんな悩みもその人それぞれのグッドな回答があるから、あんまり人のやり方は参考にならない」
ということが前提になる、と思う。

たとえば、服を着るにしても、既製服ではなくプレタポルテが必要になるのに近い。

もがいて、なやんで、苦しんで、フルスクラッチの解決法をつかまなくちゃいけない。

じゃあ、世の中の悩み相談、その解決を伝える様々なコンテンツ(僕のnoteも含む)はどんな意義があるのだろうか。

思うに、世の悩み相談の類は

①「同じように悩んでいる人はいるよ」ということを伝え

②「あなたにフィットはしないけど、もしかしたらこういう方向性が有効かもしれない」

という役割に行き着くのかもしれない。

①はわかりやすい。
自分以外にも同じ境遇の人がいれば、それだけで安心できるのが人の本能、じゃないだろうか。
キツい部活やブラック企業、存外人が耐えられるのも、その状況を共有できる仲間がいるからだろう。
「同じ釜の飯」理論で、他の誰かも焼かれているなら、自分ももう少し焼かれていようと思えるようになる。


②は少し長くなりそうだ。
人が他人に絶対になり得ないように、その人の解決策は、その人に有効だったとしても他人にとっては(言葉を選ばないなら)ただのゴミに近いことがある。
そんなことを言うと、学問や研究を全否定するかもしれないが、これは悲しきかな、紛れもない事実だ。
ただし、その人の経験から出される「解」というのは、前提として尊重されるべきで、「ひとつの正解」であったことを認識する必要がある。
つまり、「正しいかはわからないけれど、絶対に間違っていることではない」という程度に扱うべきだと僕は思っている。

変な例えだけど、寒がっている人に渡すのがダウンジャケットじゃなくて、袖のないベストだったらちゃんちゃらおかしい、くらいの話だ。
(相手がタレントのYOUなら話は別だけど)

これが服だから「そんなわけないじゃーん」と思うかもしれない。
だけど、これが病気、家族、お金とか、「難しい」問題になるとこんなレベルの話がわりと本気で散見されるから怖いと思う。
ここで僕のかけられた言葉を書くのは、それこそグチになってしまうからやめておくけど、僕の言いたいことはこの格言に集約されている。

「暑さにどう対処すべきかを、
 コンゴ人に教えたがる
 エスキモーは必ずいるものだ」

この話を受けて、悩み相談は受け手と語り手、それぞれが意識すべきことが出てくる。

受け手は、この解決法は必ず自分の状況を救うものではないこと、それ以外の方法があるということ。
つまりは、「話半分に聞く」くらいがちょうどいいのだと思う。
それがたとえ、親、上司、医者なんかであっても。

語り手も同じく、自分の解決法が絶対ではない、あくまで参考値であることをゆめゆめ忘れないことが必要になる。
「聞いてくれてありがとう。でも、これ以外の方法もちゃんと検討してね。」くらいの気持ちがお互い気持ちいい。
(ただし、もちろんわかっているけれど、相手に生命・身体・財産等に逼迫した危機があるのなら、もっと強権的におこなうべきではある)

加えて、内容については、真面目に考え抜き、調べられたもの、または自分の経験したこと以外は軽はずみに話さない方がいい。
病気の人に、伝聞した民間療法まがいの方法を伝える…なんてもってのほかだ。
(僕も「酒飲めば治るよ!」とか言われたけど、マジでアホかと思った…あ、ごめん、言っちゃった。)

とにかく、「相手の状況に真摯に耳を傾け、真剣に考えたこと以外は伝えない」ということを徹底すべきなのだと思う。


まあ、noteなんてチラシ裏の落書きの延長みたいなものなので(失礼、ただ、運営ならびに読者の方には本気で感謝してます)、そこまで肩肘張らなくても、と言われそうだが、僕も物書きの端くれではあるので、書くからにはちゃんとしたものを届けたい。
変わらず、ちょっと不謹慎な表現もあるけど、事実や、真面目に考えたことをベースに文章を書いていきたい。

ああもう読んでくれただけで嬉しいです。 最後まで見てくださってありがとうございました!